第16話 悲劇に翻弄される契り

 出掛けに降っていた霧のような細かな雨は、紺碧の城門を通る頃にはすっかりあがって、ゆるやかに立ち上る陽炎が近づく季節を知らせている。

 頬撫でる風にもまたしっとりとした湿り気を帯びており、長く締め切っていた車内の空気を一掃していく。開け放った籠の窓から覗く景色が洗われたように鮮やかな色をしていることも、狭い空間に籠っていた空気ごと気分を浄化してくれているように思えた。

 赤みを帯びたはがね色の髪を結いあげ、銀の髪飾りをさしている年若い女が、向かい側に座る灰鼠色の髪の女に訊ねる。


「雨は、止んだようね」


 灰鼠の女は若い女の言葉に、倣うように手許から顔をあげ、開け放たれた籠の窓から外を覗く。


「ええ、昼餉を終えた頃には殆ど降っておりませんでしたから」

「そう……まだ、かかるのかしら?」

「そうですねぇ……もう幾ばくもないかと思いますけれど」

「ああ、それにしても蒸し暑いったらないわね。雨なんか降ったから余計にむしむしするわ!」


 上質の紗織のくんの裾を指で摘まんだかと思うと、若い女はばさばさと裙を仰ぐ様に上下に捲りあげたり下ろしたりしてちらちらと女の白い脚が覗き、灰鼠の女はその仕草を慌てて窘める。


「ミ、ミイワ様! なんてことを!」

「だって、暑いんだもの」

「そういう問題ではありません! 年頃の娘が、はしたないですよ!」

「あら、いいじゃない。ここはあたしとノーアしかいないのよ?」


 くすくすとおかしそうに明るく笑うミイワに対し、ノーアは、「折角のお召物に皺が寄ってします!」と、きつめの口調で返す。

 しかし、ミイワは一向に解することはない様子で、「構わないわよ。どうせ、あの方はそんなこと気にするような方ではないもの」と、更に微笑む。ノーアはそれを見、呆れたように溜息をつく。


「ですから、そういう問題では……」

「それに、きっともう二度とお会いすることもないもの。裙の皺の一つや二つ、どうってことないわよ」

「……ミイワ様」

「あら、どうしてノーアがそんな顔するの? だって、仕方ないことだもの」

「ですが……」

「仕方ないの。そういうものなのよ、物事のさだめとか流れとかってものは」


 ミイワの言葉にノーアの表情が曇る。明るく言い放たれるほどに言葉が含む意味の重たさや深刻さを彼女は知っているからだ。当人が一番辛い筈のことなのは重々に承知しているのに、逆に慰められるような言葉をもらってしまうことにノーアは申し訳なさを覚え複雑な表情を滲ませる。


「縁がなかった、それだけのことよ」

「…………」

「あたしもあの方も、まだまだ若くてこれからなのよ? きっとお互いにもっといい縁が待っているってことよ」


「そうでしょう?」くすりと悪戯っぽく笑ってみせるミイワに、ノーアは曖昧に微笑んで返す他ない。そして二人はそれきり暫くの間、窓の外を流れて行く雨上がりの午後の景色を眺めていた。

あと数刻もしない内に、二人を乗せた馬車は瑠璃るり色の立派な屋根をいた屋敷に辿り着く予定だ。

 雨上がりの、決して良いとは言い難い道を、轟音を立てながら激しい揺れに翻弄されて進む馬車の中で、ミイワは久方ぶりに眼にする東南の地域の風景をぼんやりと眺める。

 眼に映る景色は、これまでと眺めるものと大差はないが、眺めている彼女の於かれている状況はいつもよりも複雑なものであった。

 彼女を乗せた馬車が向かう先は、彼女と兼ねてから婚儀の契りを結んでいた相手方の家だ。明卯では名の知れた伝統ある剣術家の家で、その後継ぎとなる男との契りだ。

 歳の頃は四つ程相手が年上で、今は西の院へ留学していて、剣術の腕は国内で右に出る者はいない、子どものようにとても朗らかに笑う人物である。

 契り自体は、物心つくかつかぬかの頃、東の港町・丙辰へいしんで貿易商を商う両親が勝手に結んだもで、成人を迎える前後から、正月や節句などの行事の時にお互いの家へ年に数回行き来をするようになり、その頃になってようやく相手の顔を知ったと言う次第だ。


「……ねぇ、ノーア」

「はい」

「今回の事、あの緑の眼の杏林はどう思ってるのかしらね」

「ああ、あの、テレント様にお仕えの、ですか?」

「そ、テレント様とあたしが契りを結ぶのに大いに反対していたあの方よ」


 くすくすとおかしそうに笑いながらミイワが頷くと、ノーアはまた困ったように曖昧に笑う。

 テレントとミイワの婚儀の契りは親同士が互いの家のために勝手に取り決めたものではあったが、ただひとりそれに納得がいかないとばかりに異を唱えていた者がいた。それが、テレントに仕えている杏林で治癒系の精霊であるメルだ。

 メルは、二人の婚儀の契りの話が持ち上がった時――この時テレントは十四歳、ミイワは十歳を迎える頃であったと記憶している――大いに反対をしたのだと、契りを結んでから数年がたった頃、こっそりとテレントから聞かされた事があった。


「何がどうして、“俺が認める女じゃねぇと賛成なんてしないからな!“って言って聞かなくってさぁ……参ったよ、拗ねて拗ねて、数日、口を聞いてくれなかったんだから」

「まぁ。じゃあ、あたしはお眼鏡にかなったってことかしら?」

「そうだろうよ。現にいまこうして二人きりで歩かせてくれてるからな」

「ふふふ……では、メル様のお気が変わらない内に、お部屋に戻りましょうか」

「そうだな。また拗ねて口を聞いてくれなくなったら困るからな」


そう笑いながら、中庭の東屋でテレントは言っていたのは夏至の頃で、日照りの続く夏だった。

ようやく雨が降った夕方、涼みに二人きりで庭を歩いていた際、庭に生る熟した無花果をテレントに捥いでもらい、こっそりと二人で食べたことを思い出した。「この樹のは早生りで、いつもメルと食べてたんだ」と、言って手渡された実の甘さを、ミイワは今でも憶えている。

 翌年の春、テレントは東の院の受験に失敗し、西へと留学する。それきり、二人は今回まで顔を合わせることはなかった。

 遠方の街に留学してしまうとなかなか帰省することは難しい。しかもそれが最高学府の院となれば尚更のことだ。

 加えてテレントは筆不精でなかなか文を寄越すことがなく、もともと親同士が決めたものという形作られた関係があったせいか、顔を合わせなくなると彼女のテレントへの想いは輪郭を曖昧にしていった。

 そしてそれは、やがて花盛りである彼女の心を徒に遊ばせ、より一層テレントへの想いを曖昧にぼやかしていったのだ。

 親同士が決めた勝手な将来の伴侶なのだから、どんな路を通って行こうとも行きつく先は同じ。それなら一途に頑なに待ち続けるのは口惜しいではないだろうか――そう、考えたのだ。

 胸の隅に追いやられた将来の伴侶への想いに後ろめたさを感じつつも、彼女は溢れる花の色香を楽しんだ。そして時折届くテレントからの素っ気ないとも思える文を愛おしく思ってもいた。

 しかし、甘美な後ろめたさは思いもかけぬ形で終局に追いやられることとなる。


「――テレント様の家の黄来禽が……燃えた?」

「はい……それも、放火で」


 報せを受けて真っ先に浮かんだのは、己の歩んだ路のことだった。ひたすらに頑なにテレントの留学が終えるまで待ち続けることを選ばず、自身の色香を惜しむことなく楽しむ路を選んだこと、そしてそれに後ろめたさを感じつつも踏みとどまることをしなかったことを、真っ先に悔いたのだ。

 自分が路を違わなければ、こんなことには――点と点でしかない出来事を結びつけてしまったことにより、彼女は悔恨と悲しみでその場に泣き崩れた。

 周囲の者はよもや彼女がそのようなことで涙を流しているとは思いもせず、婚約者の家に降りかかった災難に悲しむ心やさしき娘だと思ったであろう。彼女の家族を始め、親族や従者のすべてが掛けてくる言葉はどれもあたたかでやさしく、それらがより一層彼女を罪悪の意識に追い込み、苦しめることとなる。

 だがそれも、相手側からの婚約の取り消しの申し出により終わりを告げる。

 理由は一つ、黄来禽の消失によるもので、代々守りぬいてきた樹を火難から護れなかった事の重大さと、なによりもミイワを後嗣であるテレントの妻として迎えたところでその次の後嗣を望む事が限りなく不可能になってしまったからだ。

 ミイワの家も、テレントの家ほどではないが街に名の通る程の名家であり、その子女である。婚儀を申し込んでくる家はなにもテレントの家だけではない。それを考えれば、互いの将来のためにもこの契りはなかったものにすることが相当であると考えるに至る。

 だけど――ミイワは賑わいを見せてきた景色の中に見慣れた瑠璃色の屋根を捜しながら、胸の中で呟く。


(――だけど、あたしたちの契りを失くしたところで、黄来禽を失くしてしまった街に樹が戻るわけじゃないのに)


 一つの家が後嗣を失ったところで街の子の種が戻るわけではない。樹は失ってしまえばそれまでで、新たにそこに芽吹くことはないことをこの国の者は誰もが知っている。

 だからこそ、火を放つなどした者は、いかなる理由があろうと厳罰に処されて相当となる。結果的に、その樹を抱く集落の未来を奪った事となるのだから。

 だが、奪われた未来が再び人々の手に戻るかどうかは、誰にも判らない。彼女が思う通り、二人の契りを破棄したところで何かが変わるわけではない。

 燃えてしまったその中のひとつに自分たちのものがあったのかもしれない……そう思いながら、ミイワは近付いてくる大きな屋敷の影に眼を細める。沈みゆく陽が雨上がりで濡れる屋根瓦に照りつけて煌めいて眩いからだ。


「ミイワ様、そろそろお屋敷に着きますよ。お支度を」

「ええ、そうね……」


 開け放っていた窓が閉められて、皺の寄っていた裙の裾が丁寧にノーアの手によって整えられ、長い時間揺られて乱れた髪もまた、丁寧に梳かれ結い直されていく。甘い花のような香りがほのかに車内に漂う。

 今宵、ミイワは婚約を解消するにあたっての挨拶をしにテレントに逢う。文書の交換だけでいいのに……そう、ミイワは内心思ってはいたのだが、そのためにわざわざ留学先からテレントを呼び戻したのだとも聞いているので、出向かないわけにはいかない。

 ミイワの住む家も同じ明卯にあるとはいえ、そう易々と行き来できる程の処にない事も挙げられるのだが、テレントに逢ってしまえば、彼女の中に鬱積した悔恨と悲しみとが複雑に絡んだ感情が溢れてしまいそうな気がしてならなかった。

 随分と彼と言葉を交わしていないということに気付いたミイワは、揺れが収まってきた車内で小さく溜息をつく。久方ぶりに逢うかと思えば別れの話とは……と。



 やがて馬車が完全に止まり、再び窓が開いてノーアがそれに応じる。暫くの後に施錠の外される音がして、籠の戸が開かれた。


「ミイワ様、どうぞ」


 先に車外に出たノーアに促されてミイワは立ち上がり、ゆっくりと外へ足を踏み出す。

 地に足を突こうとしたのと同時にそっと手を取られ、その方向を見やると、従者の男ではなく、久方ぶりに見舞う婚約者の姿だった。


「……テレント様」

「よっ。久しぶりだな、ミイワ。昨夜おまえんとこの鳩が着いてな。ちょうどよく出迎えられてよかった」


 少年のように破顔して名を呼ぶテレントに、ミイワは思わず顔を綻ばせる。胸の中に渦巻いた一頃の悔恨と悲しみも忘れて。

 手を繋いだまま、二人は従者の案内に沿って屋敷の門をくぐる。

 黒に限りなく近い紺碧色の重い木戸がゆっくりと押し開かれていき、やがて目前に白磁色の砂利と漆黒の石畳を敷いた敷地が広がる。

 左右に続く回廊の柱には赤々と燃える松明たいまつが焚かれ、従者や弟子達が遠く近く二人を見やり拝礼していた。いつもと変わらない、この家の歓迎の風景だ。


「さ、こっちだ」

「……はい」


 テレントに手を引かれるがままミイワは歩む。しゃりしゃりと足下で微かに響く砂利の微かな音だけが、今宵ミイワらが寝屋とする建物へと続く。

 薄甘い色の南の夏の夕暮れが見上げた空に広がっている。まるでそれはあの中庭で無花果を二人並んで頬張った時に見上げたものと似ていた。

 しかしこの先に待ち受けているものは、ゆったりと甘い果実ではない――手を繋いだまま無言で歩き続けるテレントの背を見つめながら、ミイワはただ歩き続けた。



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