第12話 紫の眼の彼は再会の意味を思案する

 あの旅が終わってから、まだ一年しか経っていないのか――手許の昼餉ひるげ代りに配給された、麦の混じった握り飯を頬張りながら、彼は考えた。

 遠い出来事のようでいて、つい数日前のように鮮明の脳裏に浮かぶ光景は、時折彼に思い出し笑いをさせる。

 賑やかで騒々しく、それぞれが向いた方向もばらばらであれば、その背や肩に背負い圧し掛かるものもまたすべて違っていた。共通することは、それらがすべて己の身を削りながら耐え忍んでいく他術がないということだった。

 ただそれぞれ己の前に敷かれた路を黙々と歩いている、そんな者達が巡り合わせにより集い、旅をした。生涯この後にも先にも巡り合わぬであろう奇妙な仲間だった。勿論、そこには彼自身も含まれているのだが。

 こっそりと取り出した銀貨の詰まった袋を再び懐に収めながら、彼はそれを先刻彼の前に差し出してきた三人連れの男達のことを思い返す。

 三人の姿を見た時、彼はハッと息を呑んだ。その姿に見覚えがあったからだ。

 憶えのある彼らは、一年前、奇妙な巡り合わせで出会った仲間内の者たちだった。

 懐かしいという感情を抱くにはまだ新しく生々しい記憶にひっそりと笑みを彼は零す。これはただの偶然の巡り合わせによるものなのだろうか……自分の方へ歩み寄ってくる三人を眺めながら彼は考えていた。

 しかし、彼らが目前の椅子に腰を下ろして手形を差し出してきた瞬間、偶然が必然ではないかとちらりと思ったのだ。そして同時に、何故自分がこの街を訪れ、臨時とは言えこの役所での仕事に就くことになった理由も。

 彼らの名を呼んで驚かそうかと逡巡しゅんじゅんしている間に、すっと三枚の手形が机上に差し出され並べられた。


「許可証を、三人分」

「それと、丙辰での通行証もひとつな」


 三人連れの内、口を開いたのはその内の二人で、三人の中の一人が黒手であった。通行証が必要なのは黒手の男だ。彼の前に黒手の密航を見逃すための銀貨の詰まった袋が差し出されたのだ。

 黒い手形を載せた小袋を眼にした時、彼は三人が自分のことに気付いていないことに気付いた。それから、もうひとつあるべき影がそこになかったことにも。

 ざわりと覚えた違和感と差し出された金に、彼は名乗る機を逸してしまった。起きた出来事と巡り合わせに理解力が追い付く間がなかったのだ。

 しかし己の状況把握よりもまず、職務として彼らが行おうとしている行為を見逃すべきか否かを判断することが彼にとっては先決であり、職務であった。


「――どういうつもりですかねぇ、この袋は……金ですべてが解決できるなどと思っているのですか?」


 勿論、それはあくまで形式上のことで、受け取る受け取らないに関わらず、役人はまず異口同音にこの言葉を口にしなくてはならない。受け取らない場合はそのまま武官を呼びつけ眼の前の者達を拘留してもらうだけだ。

 金を受け取る場合、我々は差し出された金に尾を振って飛びついているわけではない、人としてのやむを得ない、汲むべき事情を了承したうえでの判断でそれを受けるのだ、と言う、役人としての建前を見せるためにそう述べるに過ぎない。

 吐いた言葉が無意味な建前とは言え、街の玄関口を護る関署としての意義を失うことになるからだ。述べた処で金は受け取るし、申請者が語る話など殆どがでっちあげであることなど火を見るよりも明らかな現実ではあったのだが、この手筈を踏まずして金を受け取ることはどんな役人も良しとはしないのが暗黙の了解であった。恐らく、塵のような、役人としての理性とも言うべき言葉なのだろうけれども。

 彼の言葉に三人連れの表情が凍りついた。

 優位に事を運ぼうと半ば横柄な態度で臨んでいた形勢が突如変化し、それまで饒舌に言葉を並べ、不敵に笑みを浮かべてすらいた男が口を噤んだ。口中で次ぐ言葉を慎重に選んでいる様子が手に取るように窺える。

 黒手の男は三人の中でも最も身を固くして、対峙している彼と面と向かい合うことすら拒むように俯いていた。

 しかし、三人の内誰も、差し出した手形と金を取り下げるようなことはなかった。

 買収が強行されるのだ。拘留も覚悟の上での密航の申請を行う場合、役人の態度如何に関わらず机上の物が下げられない限り、申請は強行される。勿論、武官が呼ばれなければの話ではあるのだが。

 彼は小さく溜息をつき、凍りついた表情のままの三つの顔を見渡しながら微かに笑んだ。


「そんな恐い顔をしないで下さいよ、一年振りじゃないですか。」

「……えっ?」


 ひっそりと、それでいて妙に親しげに掛けられた言葉に三人は顔をあげた。

 関署に勤めているような者に見知った者などいるはずもない……そう言いたげな、怪訝そうな表情がじっと彼を見据える。記憶を懸命に辿っている様子がありありと窺える。

 そしてやがて、三人の中のひとりの、褐色の肌に丸い輪郭の男がハッと息をのむような表情をし、やがて破顔して彼の名を呼んだ。


「ザング! なにしてんだよー」

「え……あ、ホントだ……」

「んだよー、吃驚びっくりすんじゃねぇかよぉ……ああ、もう、肝が冷えた! 久しぶりだなぁ、まさかこんなとこで遇うとはなぁ」

「それはこちらの言い分ですよ。まったく、何事かと思いましたよ、メルの口の聞き方は」

「そうだよなぁ、俺も思ってたんだよー。なのに、メルってばおまえらは黙っとけとか言うし……」

「おまえだと言わなくていい事まで言うだろ、絶対」

「でも、本当にザングが相手でよかったよね。違うヤツに同じこと言われてたら、俺もう逃げてるよ」

「ま、フリトの言う通りかもな。知ったヤツが相手なら話が早いだろうしな」


対峙していた相手がかつての気安い相手だと知った途端に、三人の態度と表情は軟化した。先程までの極度の緊張を強いられるような応対への不平を口々に述べる彼らに、「すみませんね、一応こちらも仕事なんで」と、彼は苦笑する。

互いが息災にしていたかを簡単な言葉のやり取りで確認しながら、ザングは、机上に置かれたままでいた袋と黒い手形に手を掛ける。

ほんの一瞬、問うように三人の方を見やったが、彼に受け取れと促すように寄越してきた眼差しを取引の合図とみなし、そのまま成立させた。手早く受け取った袋と木片をザングは服の袂に押し込める。

それから机の引き出しの中から子供の掌大の更の木片を取り出して朱塗りの印を捺し、さらに丙辰以北の街の通行を許可する証書を作成する。その出来あがっていく証書を見ながら三人は一層安堵の表情を浮かべ溜息を吐く。


「悪いね、面倒なことさせて」

「構いませんよ。いつものことですから」

「いつものこと、ねぇ……政(まつりごと)の一助を担う身としては堂々と言えることじゃないよな。収賄は籍の剥奪はくだつ禁錮きんこ五年ぐらいじゃなかったかな?」

「おや、よくご存じですね、テレント」

「まぁね……いやでもそういうの叩き込まれてたのが俺の日常もん」

「嫌がっていた割に、ちゃんと勉学に励んでいるじゃないですか」

「……ん、まぁ、な」


 「今日はまたお揃いで里帰りですか?」と、ザングが手際よく手続きを済ませた手形を彼らの許へ――その内に金を積まれて偽造されたものも含ませながら――差し戻しながら口にした時、三人の表情が複雑に淀み、すぐに曖昧に何かを濁すように弱く微笑む。

 その表情が、先程彼が三人に名乗る機会を奪った妙な違和感を思い起こさせた。一年前同じ旅路を歩んでいた仲間にはもう一人同じ年頃の、蒲公英の花のように鮮やかな金色の髪の青年がいた筈だからだ。あの旅の中心人物であったとも言える彼は、黒手であるフリトと共に郷に戻ったはずだ。

 なのに、いま、その彼の姿がない。誰よりもフリトのことを気に掛けていたのに……しかしそれだけが三人の淀んだ表情に結びつくとは思えなかった。

 まったくの無関係とも言えない気もしていたが、問いただすにはあまりに時間がなかった。彼らの後ろには大勢の申請者が列を成していて、あまり長く一所に留まっていると、あからさまな買収行為として眼をつけられてしまう恐れがあるからだ。そうなれば折角発行されたばかりの手形や通行証が水の泡となって消えてしまうだろう。


「……まぁ、そんなとこ、かな」

「そうですか。では、お気をつけて」

「うん……ありがとう、ザング」

「悪かったな、手間取らせて」

「いいえ……あの、」

「うん?」

「――いえ、お元気で。」

「おまえもな、ザング」


 検められた手形を銘々の手中に収め、三人はザングの前の席を立ち去って行った。

 三人が去った後、待ち構えていたように大きな荷物を抱えた行商風の男が一人座り、一人分の手形を差し出してきた。今回は手形の下に幾らかの金銭が忍びこまされているようなことはなさそうだ。

 ザングは何事もなかったかのように事務的な言葉を並べ、慣れた手つきで手形に書かれた戸籍のある街の名やそこに書かれた持ち主の名などを確認する。

 それが済めばあらかじめ膨大な枚数署名された関署の署長の朱印の捺された許可証を発行し、手形と共に手渡すだけだ。

 ただそれだけの内に出来あがる一枚の紙切れにすべてを賭ける者が少なくない――日々、単純でありながら気の遠くなるような作業の繰り返しとそこに挟む込まれる人模様に、ザングは常々呆然とする思いだった。

 河を渡ったところで、待っているものが光り輝く希望に満ちた将来とは限らない。命辛々、身を削る思いをしながら溜めこんだ身銭で黒手の手形を覆し、許可証をどうにか手に入れた処で、すべてが報われる補償などない。

 東の都の地を踏めたとしても、その先に明確な道筋がなければ、打ち捨ててきた地での暮らしとの差はない。寧ろ悪化の一途をたどることも少なくはない。期待や希望にばかり目を向けるあまりに足元を掬われ、藻屑のように異郷の地で果てる者も多いのが現実だ。

 それでも、渡った先に何らかの頼る伝手があれば、その現実も覆すことも出来ようが、しかし……今しがた彼が黒手を取り下げ、新たに手形を与えた者は、「村殺し」と呼ばれた赤眼なのだ。

 先程の疲れ果てた姿を見る限り、どうにも、彼がかつて軽微な罪で追いかけていた頃よりもあの紅い眼の彼の状況は芳しくはないようだった。そしてそれが、あの三人と向き合った際に感じた違和感に繋がっているとも直感したのだ。


「――やはり、必然、ってことでしょうかね……」


 必然であると考える先程の短い再会の裏に込められている真意を逡巡したところで、それはただの憶測に過ぎず、もう明日の船へ乗りこむことを決めた彼らを、新しい土地へ向かうことを決めたフリトを止める権利など彼にはなかった。

 それでも尚思い巡らせ、我が身に降りかかる憂鬱の種を掘り返すようなことをしてしまうのは、彼ら四人の関係が単なるかつての同志に留まるものではないからだろうか。

 しかしその理由もまた単純に言葉に出来るものではない。できるのであれば、恐らく彼の懐から聞こえる微かな金属音が、呟いた言葉に含まれたほのかな辛酸を浮き彫りにすることはないだろうから。

 ぼんやりと物思いにふけっている耳に、昼の八つ半の鐘の音が聞こえる。そろそろ関署が午後の申請受け付けの開始することを告げているのだ。

 明日は半月に一度の割合で出港する東へ向かう最も大きな船の出る日だ。これから閉所までの間はいよいよ関署は乗船許可証を求める人で、一層混み合うであろう。かけ込みの申請に乗じて黒手を滑り込ませてくる者も多いだろう。

 せめて申請者同士の混乱による喧騒が乱闘にならないようにせねば……妙に遣り切れない想いの塊を胸の奥に感じながら、ザングは持ち場へと戻るべく立ち上がる。

 見上げた空は四方を高い壁に囲まれた関署の壁に切り取られたようにぽっかりと青く、まるであの旅の終わりに見上げたもののようだった。



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