第10話 碧眼の彼の旅立ち


「坊っちゃん、あと、村を一つ通れば夕坤せきこんの入口が見えてきますよ」

「そう。思ったより早かったなぁ」


 荷台に積み上げられた木箱に寄りかかりながらグドが言うと、「えぇ、そりゃあ、クロが坊っちゃんのお気持ちを察してくれたからですよ。いつもよりずっと足が速かった」と、馬車を牽く、クロと呼ばれた黒馬の手綱を操る老爺が笑う。灰を被ったような白髪交じりの金髪を後ろで一つに結び、同じ色の口髭を蓄えた口元は穏やかに緩む。


「そう?」

「こいつは坊っちゃんが一等好いとるようです。やっぱり、赤ん坊の頃から面倒看てるからでしょうねぇ」

「でもそれは、カツ爺や厩の皆も同じだろ?」


 クロはグドの愛馬で、生まれてからずっと世話をしてやっている。村の中で最も速く賢い馬で、村で採れる黒曜石のような鉱物・蒼黒石そうこくせきに似た色の身体とたてがみを撫でてやるといつも干し草の香りがする。

 グドとは兄弟のように育ってきたせいか、確かに昔から何かしら通じるところがあるような気はしていた。

 ちなみに一年前の春、彼を村から一番近い街まで送り届けた時もクロがその馬車を牽いた。そしてその手綱を操ったのもまた、この老爺であった。

 カツ爺と呼ばれるこの老爺は、グドの祖父・リュウエンが長に就く前から厩番として家に仕えているらしく、屋敷の中のことは全て把握しているという。

 だからと言って屋敷中の従僕侍女を取り纏めるような統率力を発揮するようなことはなく、ただひっそりと静かに遠巻きに全てを見守っているような存在だ。

 グドを幼い頃の呼称である「坊っちゃん」と呼ぶ者は彼だけで、昔から当人さえ気付くか否かという程に微かに心が曇ると、それを晴らさせるために厩に誘い、そして気が済むまで彼とクロをはじめとする馬たちの世話をさせたり、馬に乗せ村の周りを駈けまわらせたりするような人物であった。


「ただ傍にいればいいというものではないんですわ。坊っちゃんは、他の者と心根が違うんでしょう、きっと。飼葉をやるにしても、坊っちゃんは丁寧にふわふわにしてやるでしょう。身体に触れる時なんかも、何とも言えないいい眼をしてらっしゃる。そういう所じゃないですかねぇ、こいつが坊っちゃんを一等好きなのは。黒馬は賢いと昔から言われとりますからね、解るんですよ」


「べつに、特別扱いした覚えはないよ」グドはカツ爺の言葉に小さく笑い、寄りかかっていた木箱から、手綱を操る彼の隣に移動して腰を下ろした。荷台よりも風がよく当たるせいか、そこに顔を出すと少し冷たい風が頬を撫でていく。


「あたしにはむつかしいことはよくわかりませんがね、坊っちゃんの中にある心根は、周りの者を、人間でも動物であっても、心開かせるやさしさとかあったかさがあるんじゃあないですかねぇ」


 それはいくらなんでも買いかぶりすぎだろう、と、グドは声をあげて笑う。

 幼い頃から無条件に自分の味方になってくれる彼の言葉は、時として過剰な期待にも思われたが、同じ期待でも、村人たちから寄せられるそれと、彼からのものとは僅かばかりに違うように感じられた。

 だからなのか、グドはカツ爺の言葉に腹を立てることも、気負うこともなく受け止めることができるのだ。自分をありのままに見据えていると感じられる言葉だけを、カツ爺が口にしているのだと信じていたからだ。

 そう遠くない将来、己に課せられるであろう役割を抗うことも逃れることも得ず受け入れ、その重圧に潰されることのない心身の逞しさは、若い彼の肩に載る重責が、彼の奥底にある芯の強さややさしさに繋がっているのではとカツ爺は考えているのだが、グドは知らない。

 グドの父親は、彼が学舎の中等科に通い始めて間もなく、夕坤の近隣の村で客死している。

 貧しく涸地である村のために、次代の長となることを自負して村の将来のために方々に奔走した末に病を得、そのまま帰らぬ人となってしまったのだと言われており、報せを受けた妻であるイチナが夫の許へ駆けつける間もなかった。

 急逝した父親に代わり、長子長兄であるグドに次代の長になる役割が回ってきたのは当然の流れであったが、そうするにはまだ彼は当時幼く、寄り合いの世話人の間から渋る声が少なからず上がってもいた。

 結果的にはグドに現職である祖父の次に長となる権利が付与され、村の民の幾百の命と、財を担う責務を負わされることとなった。

 成人を迎えられるぎりぎりの年齢を迎えてすぐにグドは成人の儀を終え、名実ともに祖父・リュウエンの惣領となり、本来希望していた学舎の高等科への進学を諦め、惣領となってからは日々リュウエンに付き従い、政の手ほどきを今も受けている。

 若い理想と厳しい現実を目の当たりにさせられる日々が、グドを鍛え上げ磨きあげているのであろう。

 幼い頃からグドを見護り続けてきたカツ爺には、歳を追うごとに深みを増していく心根の色を映し出す彼の青い眼を見るたびにそう思うのだという。


「だからこそ、こうやって、あの彼を捜しに出なすったわけでしょう?」

「そういうのとは、ちょっと違う気がするけどな」

「ほう? と、言いますと?」


 カツ爺の言葉に、グドは口を閉ざし、暫し考えるような表情をして黙り込む。

 馬車は荒い砂利道から、徐々に整備されたなだらかな道へと進み、景色も切り開かれた山間のものから田畑が拓かれたものへ、そして合間に民家が点在するようになってきていた。芽吹き始めた畑の鮮やかな緑色が目にやさしく映える。

 青くやわらかな風がグドの頬を撫で、僅かにそれに眼を細めてグドは口を開いた。


「うーん……なんて言うんだろ。そりゃ俺は、あいつを、フリトを村に連れて帰ったのは、あいつに行くところがないからだった。でも、あいつのことをちゃんと考えるなら、あいつが今までどれだけのことをされてきたのかをもっと、真正面から知るべきだったんじゃないかって思うんだ。行くところがなくて可哀想だから、連れて来たって言うんじゃ……捨てられてた動物を拾って帰ったのと同じだ。そうじゃないだろ、あいつは、俺らと同じヒトなんだから」

「譬え、過去に村を一つ焼いてしまった大罪を背負っているとしても?」

「あいつは、それへの仇は取ったよ、ちゃんと。本当に、命を懸けて……そんで、本当に命を落とした」

「――そして、そこに坊っちゃんが魂を分け与えなすったんでしょう?」

「……うん、そういうこと。なんだ、知ってたんだ。」

「立ち聞きするつもりなどなかったんですがねぇ……ちょっと裏でこいつらの朝飯の藁をほぐしてたら……」


 苦笑しながら、「申し訳ありませんね、つい、聞こえてしまったもので」と、カツ爺に詫びられ、グドもまたちいさく笑ってほんの僅かに痛みと苦みに耐えるような表情を見せる。本当にほんの一瞬、僅かに変化した表情で、手綱に気を取られていたカツ爺が気付くことはなかった。

 グドは、数日前に家人らと交わした言葉を思い起こしていた。とても穏やかならぬ雰囲気であったのは当事者であった自分でもわかっていたのだから、外で偶然にせよ、立ち聞きしてしまったカツ爺にもその会話の中に漂う空気の重たさを感じていたであろう、と、グドは考える。



「――いま、なんと言ったの?」


 母イチナの青ざめた顔がじっと自分を見据え、感情が高ぶって震える声で呟く。

 フリトが姿を消した日の晩、グドは祖父と母親にひとつの決意を告げた。決意を裏付けた事実もまた同時につげ、イチナの言葉はその話を聞き終えての第一声であった。

 イチナの言葉にグドは軽く唇を噛んで眼を伏せるも、悪いことをした覚えなどまるでなかった。むしろ、正しい行いをしたのだと思っていた、人として当然のことを。

 しかしそれを、すべての人間が受け入れてくれることとは限らないことまでは、考えが至っていなかったこともまた事実だ。

 グドはあの旅で目の前で命を落としたフリトに、蘇生の術で自らの魂を分け与えた事を二人に話したのだ。自らの命と引き換えに強大な魔獣――しかもそれはフリトの背負う罪の諸悪の根源とも言える獣――を退治し、自分達が救われたことも。

 蘇る術があり、そのために必要とあれば命を分け与えることにイチナが異を唱えているわけではないことは、グドにも解ってはいた。

 ただ、この状況が、彼の話す事実を非常に受け入れ難いものであることが大きいのだ。イチナの言わんとすることを思うと、グドは眼を伏せる他なかった。


「よりにもよって……。ああ……あなたはなんてことを……」

「でも、俺には、あのまま彼を見捨てることなんて――」

「……ええ、そうでしょうとも……彼がいなければ、あなたが探しだした闇の月を手に入れることはおろか、旅路を共にしていた方々諸共生きて帰れた保証もないということもね。わかってはいます……ただ……あなたは、そうすることが何を意味するのかわかっていたの?」


 己の魂を分け与え、絶えた命数を蘇らせるという、特殊な術を施すということは、神である天帝になり変って命を造り出したということになる。

 それ故、必ずや蘇りの大きな代償を払わなければならない。あの術を施したメルのように、蘇生の術を自在に扱える治癒系の精霊の血を引く者達は、救いうる命を救い続けることでそれが帳消しとなっているのだと云われている。

 ただ、術を扱えない他の者が魂を分け与えた場合、つまり、グドのような者の場合、魂を分け与えた相手を己の分身のように大切にしなくてはならないと言われている。

 これは天より課される責務であるとも言われており、それ故に彼は姿を消したフリトを捜しに出たいとイチナらに申し出たのだった。

勿論グドもイチナも蘇生の術を施して魂を分け与えた事によって生じる責務について知らなかったわけでもないし、グドがそれを課されていることやその経緯を非難するつもりもなかった。

しかし何故、魂を分け与えたのがよりにもよって村殺しの赤眼の彼であって、そして、娘に重傷を負わせた者であるのか、その現実に向き合うことがイチナはできずにいるようだった。感情の整理のつかぬままに告げられた事実に、どう向き合い、どう対処すればよいのかが彼女にはまったくわからなかったからだ。

 重たくのしかかる沈黙に、両者はじっと口を噤んだままだった。闇が覆う空間にやわらかく灯る行燈の明かりが、弱く揺れる。

 行方の知れなくなったグドの魂の欠片を持つ肉体を蔑にしておくことは、少なからず何らかの代償を払わなくてはならない。

 それがいつになるのか、一年後なのか、十年後なのか……苦しみや痛みを伴うのかもわからない。ただ、いつか必ず払わなくてはならないのだ、その魂と肉体を以って、天帝になり変って命を造り出し、蔑にしたことへの償いを。

 天帝になり変るなど、譬えその術を持った者であっても、許されることではない。ましてやそれを蔑に扱うなど言語道断である。

 途絶えた命を救ったとはいえ、命を新たに作り出したこと、そしてそれを護ることができなかったというのは大罪に当たると考えられているからだ。

 溜息すらつけない重苦しい沈黙を破ったのは、二人のやり取りをじっと傍らで聞いていたリュウエンだった。


「――グドや。おまえは、おまえがどんな事をし、それによりどんな償いをすべきか、課されたのか、ちゃんと解っておるのだろう?」

「……大ジジ様」

「ならば、そのためになすべきことに向けて動き出すがよい。ただし――譬え償ったとしても、誰しもにそれ自体が許され、受け入れられることとは限らないということは、心得ておくように」

「……はい、大ジジ様」

「良い返事だ。――イチナ」

「……はい」

「おまえが案ずるほどに、この子も、この子が連れて来たあの紅い眼の彼も、何もわからない子供でも愚か者でもない。自ら選んだ路を、踏み外させることなく進ませるのが、儂らの務めだ。そうではないか?」


 月の光の弱い、暗い闇の濃い夜だった。行燈が作る影のせいなのか、グドにはイチナが随分と疲れて見えた。そして、改めて自分がしてきた事の重大さに愕然とするのだった。

 しかし、絶えた命を自らの魂を以って蘇らせるという、聖域の術に加担した事実を悔いるような思いがないことに変わりはなかった。

 その強い信念とも言える思いの根底にあるのは、やはり、紅い瞳の彼への想いだ。未だ想いに名づけることすら許されぬ状況ゆえ、彼はまだ本能にも似た感情に突き動かされるままになっているだけにすぎないのだが。

 そうして、再びグドは旅に出ることになった。先の旅よりもはるかに自分の意志を貫いての旅立ちに、同じぐらいの不安が重く圧し掛かる。

 息が詰まりそうなほど重たいそれに何度胸が潰れるような思いがしたか知れない。今も尚それは続いており、息苦しさを覚えるような気がグドはしていた。

 けれども、踏み出した歩みを退くようなつもりなどさらさらない。



「坊っちゃん、そこで眠ったら風邪ひきますよ。奥に入りなさいな。毛織りの布があった筈なんで、それに包まってお眠りなったらどうです」


 馬車の揺れと昼下がりの陽射しの心地よさに、グドはいつの間にかつい先日の出来事の夢を見るような転寝をしていたようだ。カツ爺に呼ばれてハッと我に返り、慌てて首を振る。

 それから少しだけ考えるような顔をして、「――ねぇ、カツ爺。俺がしようとしていることは、善いことなんだろうか?」と、真っすぐに目の前に開ける道を見つめながら呟く。見つめる碧眼は遠く、目前に開ける道はるか遠い何かを見つめているようだ。


「坊っちゃんがされようと思ってること、ですか?」

「うん……。俺はね、カツ爺。あいつが……フリトが、どうしても俺の生きてく上で傍にいて欲しいんだ。べつに、あいつに俺が魂を分けてやったとか、そういうのは関係なしに。だって、フリトは生きてきた殆ど、自分を否定され続けてきたんだから、生まれ変わったなら、そういうの、もう、なしになって欲しいな、って……生きてるのを喜んで欲しいなって、そう思って、そんな気持ちが先走って、村に連れてきたり、出て行って、どこに行ったのかもわかんないのを追っかけることって……そんで、出来たらまた逢って、今度こそ、ずっと俺の傍にいて欲しいって、そうするのって……善いことなんだろうか? それでも、俺は、心根がやさしいって言える? フリトを結局傷つけられても護れなかったし、妙なことが起こっちゃってアズナは手を失くしたし、それでカカ様を悲しませてしまったことには、変わりないのに」

「そうですなぁ……アズ嬢ちゃんも、奥様もお可哀そうなことになってしまったのは事実でしょうなぁ……でも、あくまでそれは起こってしまったことではないですかねぇ。全部が、坊っちゃんやあの方のせいとは限らんでしょう。それに、坊っちゃんがご自分で選ばれた路でしょう? あたしは、坊っちゃんのように想った相手を持ったこともないし、魂を分け与えたような相手がいるわけでもないんで……よくわからんですが……坊っちゃんが、ご自分の心根と向き合って決めたことであることには間違いないのだから、坊っちゃんには、善いことではないんですかねぇ……。だってそうでしょう、皆の善いことが同じであれば、寄り合いでもめて怒鳴り合うことだってないんですからねぇ」


 大きく笑いながら言うカツ爺に釣られるように、グドもまた声をあげて笑う。確かにそうであれば、村の統治の方針を話し合う寄り合いで世話人同士がいがみ合いながら怒鳴り合うことなどないであろう。それぞれが己の中にある、村にとっての善いことを執り行うとするからこそ怒鳴り合ってしまうのだ。そうでなければ世の中はもっと単純で簡素で面白みに欠けるものであろう、と、思ったからだ。

 ひとしきり笑い合った後、ぽつりと沈黙が訪れる。不意に口を噤んだカツ爺をグドが窺うと、これまでよりほんの僅かに寂しげな表情をしていた。


「坊っちゃん、必ず、必ず……フリト様と二人でお戻りになるんですよ。あたしには難しいことはわからないんですがね、お二人が揃っていらっしゃる方がしあわせだろうということぐらいは、わかりますよ」

「カツ爺……」

「アズ嬢ちゃんも、きっとそうお思いですよ……そう、伝えてもらえませんかね、フリト様に」

「うん……わかった、約束する」

「きっとですよ」


 やがて二人の眼前に、赤茶の煉瓦れんが造りの門が見えて来た。そこは夕坤に隣接する村で、これを通り抜けた向うに、夕坤の街がある。

 グド達の村を去ったフリトが夕坤にいるとは限らないのは百も承知だ。

 それでもこうして馬車に乗り込んで向かっているのには、やはり言葉にするよりもはるかに本能に近い感情が、グドを突き動かしているからだろう。その原動力となっているものがなんであるのか、今は確かめる術も余力もない。恐らく、その時機でもないのであろう――グドは、傍らに置かれた愛用の黒い鋼の矢の収められた矢筒と、三日月のように大きな弓を眺めながら考えていた。

 永くなってきた陽を浴びながら馬車は進み、賑わいを見せ始めた通りをひた走っていった。



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