第8話 紅い眼の彼が残していった傷み
侍女とサチナ退け、痛々しい姿になってしまったアズナをひとりで看ると言って、母・イチナは部屋に籠ってしまったのを、グドは何とか説き伏せてそばに控えていた。
清潔な包帯を巻き終えた手に、そっと口づけるように自らの頬を寄せ、防げたはずの事故ではなかったのかと思い巡らし、悔恨の涙で頬を濡らすイチナの姿に声もかけられない。
あの時強く森に行くことを止めていれば、付き添いをもっと森に慣れた者にしておけば……考え巡らせるほど、矛先はどうしても傍らに見守り役として付けたフリトに向けてしまう。そう、イチナは言う。
「彼は闇の魔術に長けている者だと聞いていたのに……あなたが旅で幾度となく助けられた、とも……」
「そうだよ、カカ様。だからアズナは……」
「死なずに腕を失くしただけで済んだ、というんですか?」
「…………」
身寄りがなく、帰る場所もない彼の身元を、集落の長である自分達が引き取るのも当然の考えのようにも思っていたのも、グドの中にあった想いの一つでもあった。
だがそれはあくまで、何事も起こっていなかったからこその事実であり、現実となって目の前にある光景は、全く掛け離れている。
グドは、心のどこかでこれは起こるべくして起きたのではないかとさえ感じていた。
紅い彼の右眼を見るたびに、それを目にして快く思わない者が口にする率直過ぎる悪罵を耳にするたびに、それを、きつく戒めている自分の姿を客観するたびに、背筋のすぅっと薄ら寒くなるような白々しさを感じていたことも、また、事実だったからだ。
血のように紅い眼は、闇を呼ぶ不吉なもの……そんな噂を耳にしつつも、実際に眼にして覚える感覚と、これまで自分の中に鬱積されていたそれに対する一方的な考えとの隔たりに吹く風の冷たさに眼を背けていたのは、隔たりの狭間に堕ちるものが己になるのではないかと怯えていたからだ。
そして、それは彼自身にではなく、彼の幼い妹の身に起こり、母はフリトへの信頼を失くした。
失ったのが片の掌だけでよかったと言うべきなのか、失わずに済んだかもしれないと言うべきなのか……誰に問うこともできず答えも判らない迷いが、暗く彼の中に影を落としている。
東の空に白金色の陽と、薄墨を溶かしたような藍の闇が入り混じり始めた頃、小さな寝台の上に横たわる身体がぽつりと声をあげた。
傍らでその場に突っ伏して崩れるように転寝をしていたイチナの耳がそれを捉える。ろくに身体を休めることなくつきっきりで娘の容体を気に掛け看ていた身体に届いたか細い声は、夢現の
思わず、聞こえた声を聞き返すように名を呼んでみると、もう一度声が聞こえる。
「……カ、カ……様ぁ?」
薄ぼんやりと向けられた眼差しごと、まだ熱い身体を抱きしめる。
ようやく届いた声に応えるように何度も何度もその名を呼んでいると、また目頭が熱く揺れていく。
安堵と一先ずの喜びに震える腕の中にかき抱かれたぬくもりは、醒めぬ夢の中にいるような顔をして全てを受け止めていた。
ほんのひと時の安堵という区切りが着いた途端、イチナは全身の力が抜けていくのを感じた。
目眩すら覚え立ち上がることもままならない彼女に、声を聞いて慌てて転寝から覚めたグドが駆け寄って支える。
「少し、休んだ方がいいよ、カカ様。アズナも、目を覚ましたことだし。あとは俺とウーマがやっておくから」
やがてそこにアズナが目覚めたのを聞きつけたサチナが顔を見せる。侍女のうちの誰かが報せたのだろう。よほど慌てて来たのか、寝間着姿のままだった。
起きぬけのぼんやりとした夢現から醒めぬ表情の中に、今しがた耳にした報せを目の当たりにした驚きがゆっくりと滲んでいく。
挨拶もそこそこにサチナは寝台の駆け寄り、弱く笑うアズナの姿に、サチナはずっと堪えていたと思われる涙を流しながら頬を寄せた。
そっとその二人を包み込むようにグドが傍らに座り、薄らと汗ばんでいた額を撫でながらグドが微笑むと、アズナもまた弱く笑った。長く明けることのないように思われた夜が途切れ、やわらかな陽が窓から射しこみ始めていた。夜が、明けようとしていた。
朝餉の代わりにと侍女らが用意した甘い味が薄くついた白湯の入った茶碗から、グドが一口ずつ匙で掬ってアズナに飲ませてやる。
ゆっくりほんの少しずつ甘い汁を味わうアズナの姿は、一見何の変わりがないように見えた。いつもより力なく笑い、お喋りが少なく大人しい事を除けば、ただ少しだけ風邪をひいて、それから寝込んでいた熱の引いた朝のようだった。
「アズ、えらいよ、痛いの我慢したんだもんね」そう、白湯の粗方を飲み干して、再び横になったアズナの頭を撫でながらサチナが言うと、アズナは少しだけ得意気に微笑む。
それから、ふと、視線をサチナから外して何か思案するような表情をした。ほんの僅かな間ではあったが、何か言葉を探すような顔にサチナが理由を訊ねる。
アズナは、口をきゅっと尖らせるように噤み、ゆっくりと解きながら言葉を紡ぎ始めた。
「……あのねぇ、サチ姉ぇ…アズ、フリトと、あの場所に行ったの」
「あの場所?」
「覆盆子の、いっぱいあるとこ。サチ姉ぇ、フリトに教えてあげるって言ってたから、アズ……一緒に行ったの」
「覆盆子の……あの、前、見つけた処のこと? あそこに行ったの?」
「んぅ……だって、だってフリト、意地悪されたって言ってたから、だから……だからね……」
「え……じゃあ、アズナがケガしたのってその森なの? なんでそんなこと……」
「ごめぇ……なさぁ……っふぇ……サチねぇ……アズ、フリトに元気なって欲しかったからぁ……」
「ああ、違うの……あたしも、ごめんね……あんなこと、あたしが言わなければ、アズ、こんな目に遭ったりなんか……」
泣きじゃくる幼い妹達の間で交わされる言葉に今回の事の発端を垣間見たグドは、稚拙な過信が招く奇禍の大きさに憤りとも嘆きともとれない感情を胸に覚えた。
二人はどうやら秘密の場所を見つけていて、そこにフリトを連れて行き、そして今回の災難に見舞われたのだろう。
この時季によく見られる事案なだけにグドは自分の不在を改めて悔いた。
それと同時に、彼女らのやり取りの中で気に掛った言葉を掴み、訊ねてみることにした。
「――ねぇ、フリトが意地悪されたって……どういうこと、サチナ」
グドの言葉に、サチナが濡れたままの顔をハッと彼に向ける。強張った表情には、知られてはならなかった筈の事実を思いがけない形で露呈させてしまった気まずさが滲んでいる。
怯えている彼女の様子からも、グドは既にだいたいの事情を察してはいたが、それが真実なのかは判らない。
そのためにあえて強い口調でサチナに問うていたのだが、先程までとは違う色味の涙を浮かべはじめた彼女の様子に、慌ててその頭を撫でて頬笑みを作る。
「ごめん、べつにサチナを責めたり怒ったりしてるつもりじゃないんだ。ただ、何があったのかだけ、教えてくれる?」
「……ごめんなさい」
「いいよ、謝んなくて。ほら、アズナが心配して泣きそうになってる」
繕うように泣き顔を笑みに変え、サチナは不安げに自分を見上げる末妹を見やり、慌てて眼元を拭いながら笑みを作った。
サチナはゆっくりとあの厨房での出来事を、言葉を選びながら話始めた。
普段自分たちの前では何喰わぬ顔で接している大人達が、よく理由も知りもせずに他人を蔑む姿に愕然としたこと、それが暴かれた時に哀れなほどに許しを請うてきたこと、その醜さを。
そしてそれらを全て、「日常だ」と言い放ったフリトの冷たい悲しげな表情を。強く他言を、特にグドにはしてならないときつく言われた時のフリトの眼付と口調の鋭さを、サチナはこれまで見た誰よりも強く感じたと言った。
「……そうか」
話を終えた時、グドとサチナの間に横たわっていたアズナは、うつらうつらと眠っていた。
薄墨色の闇が消え、白金色の陽射しが窓の外いっぱいに満ち始めている。瑞々しい初夏の一日が目覚め始めている。
溜息も出なかった。起こるべくして起きたのではないかという思いが、グドの中にもイチナより強くあった。
しかしその思い以上に、こういった事態を引き起こす前に食い止めることが自分にはできたのではないかと言う悔恨や不甲斐なさを感じてもいた。
あの旅の終わりに交わした約束を、彼を、フリトを護ると言う約束を、自分は結局のところ何も果たせてはいないのではないか。それどころか、更なる傷を負わせているだけではないか、と。
フリトの開き始めていた心が再び固く鎖されてしまった思いが彼の胸を掻き毟り、その痛みに表情が歪む。
蔑みを「日常だ」と、言い放った時のフリトの表情、胸によぎったであろう感情、そして、自分への硬い口止め。
事実を知られることすら拒まれたのは、自分自身を結局のところ信頼していないから……それとも、そうされるほどに心を許されていないからか……悲しみの色をした怒りに限りなく近い感情が、痛む胸に降り注ぐ。
「……んで、言ってくれなかったんだよ」
「ごめんなさい……あんちゃ」
「あぁ、サチナのことじゃないよ……」
「……あのね、フリト、絶対言っちゃだめって言ったの、あんちゃには、絶対って……」
「うん……だから、サチナは約束を守ったんだもんね?」
「だって、フリト、すごく悲しそうな眼をしてたの……なんかね、あんちゃに言っちゃだめって言いながら……すごく、泣きそうな眼をしてたの……あのね、あんちゃ……」
「うん?」
「フリト、あんちゃのこと好きだから、言わないでって言ったんだと思うの……」
「どういうこと?」
「んと……よくわかんないんだけど……フリトは、あんちゃがすごく好きだから――これは、多分だけど――あんちゃに、もう、心配掛けたくないから言わないでって……フリト、言ってたから……だから……」
所詮は子どもの憶測にすぎないのかもしれないのだろうが、今のグドには何よりの真実であればと願いたい言葉でもある。
もしそれが真実であったとするならば、昨日起こった奇禍はあまりに残忍な不運と言っても余りあるものがある。
フリトにとっての日常であるという、蔑みの言葉がこの村でも浴びせられていた事を欠片でも自分が知り得ていたならば、彼も、そして自分の幼い妹の身も護れたのではないか……悔やんでも悔やみきれない思いが次々にグドの胸に去来する。
せめて昨日、イチナの怒りの矛先を向けられている時の盾にでもなっていたならば……フリトが受けた悲しみの傷みはグドの想像を絶していた。
重鎮な沈黙が漂う寝室の外側が、俄かに騒がしくなり、俯いていたグドとサチナははっと顔をあげて見合わせる。
部屋の外から慌ただしくこちらに向かって駈けてくる足音が聞こえ、青ざめた顔のウーマの顔が寝室に飛び込んでくると、二人はその尋常でない様にざわりと胸が冷たく騒ぐのを感じた。
アズナが寝ていることに気付いたウーマは一瞬自分の立てていた音に申し訳なさそうに口を噤んだが、「どうしたの?」と、サチナが震える声で訊ねると、弾かれたように口を開く。
「グド様! サチナ様! 大変です、フリト様が、フリト様が……――お姿がありません! 身の周りの物も一切お部屋にないんです!」
「えっ? どういうこと?」
「わかりません……ただ、今しがたあたしが朝餉をお持ちしようとお部屋に向かったら……蔵の戸が大きく開いてまして……。それで、何か妙だなと思って、ご無礼とは思いながらも無断で中を覗かせていただいたら……その……」
申し訳ございません、そう、ウーマは小さくなっていく言葉の終わりをそれで結び、話し終えると身を置き場がないのか、おろおろとその場で立ち尽くしているだけだった。
うろたえるウーマに、とりあえず下がるようにグドは言い渡したが、その先をどうすればよいのか、全く判らない。ただ目の前が闇のように暗く沈み、四肢が鉛を着けたように微動だにしないほど重たくなって行くのを感じる。身体中の血が凍りついていくような、拭うことも抗うこともできない絶望感が彼を呑みこんでいく。
「……ねぇ、あんちゃ……フリト、どこ行っちゃったの?」
「…………」
「ねぇ、あんちゃ、ねぇ、フリトは……」
「……わかんないよ、俺にだって」
「でも……」
「わかんないんだよ、何にも! あいつには帰る場所なんてないのに! だから、俺は……ここに連れて……でも……」
「……ごめんな、さい」
「サチナ、ごめん……違う…」
不安と苛立ちが悲しみの風に煽られて震え、その矛先を同じような感情を抱くサチナにぶつけてしまったことをグドは直ちに悔い、幾重にも重なった絶望の足枷が容赦なく彼に圧し掛かっていく。這い上がることもできないほど冷たく深い悲しみの淵に沈む心を止める術が判らないまま、沈みゆく我が身をただただ流れに委ねるしかない。
再び泣きだしたサチナの肩を慌てて抱き寄せるが、その肩は悲しい痛みに震えている。痛みを与えてしまったグドは、己の至らなさに更なる悔恨の思いを強めるのだった。
やわらかでやさしい朝餉に出される出汁のいい匂いが厨房の方から漂ってくる。陽が高く上り降り注ぎ、水田に揺れる草色に人々の声が響いていた。もうじき新しい一日が動き出し始めることだろう。
だが、緑の薫る風の吹きぬける景色の中にあの紅い瞳の彼は、どこにもいない。そっと密やかに夜明け前の闇に溶けるようにして姿を消してしまったのだから。
眼に映る光景とは裏腹の心境と現実に、グドはただサチナの嗚咽を受け止めながら佇むしかなかった。
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