第7話 幼馴染であり、主従関係にある二人の記憶


 馬車に揺られながら、テレントとメルはそれぞれ物思いにふけっている。

 明卯の南東の温暖な街に生まれ育った二人にとって故郷に似た温暖な風景は、無意識のうちに古い記憶を思い起こさせるのだろう。



 ――青く茂る楠の木立の中を、澄んだ緑色の眼を持つ少年が何かを捜すように周囲を見渡しながら歩いている。その表情は渋く、苛立たしげに金茶色の髪をかき上げながら時折溜息を吐く。

 木洩れ日の成す影絵の濃さから、陽は随分と高い処に上ってしまっているようだ。急がなくては――彼は木立の中を歩む足を速める。


「……ったく、どこ行きやがったんだよ」


 苛立ちと溜息を織り交ぜた呟きが声になって零れる。もう一度髪をかき上げながら足元の影を見降ろした時、ふと、その踏みしめる大地に描かれた影に違和感を覚えた。太い楠の幹とそこから伸びる枝葉の影絵が、そこだけ一際広大に、不自然に丸く描かれていたのだ。

 じっと彼がその影を見つめていると、影のちょうど中心の辺りが僅かに動いていることに気付いた。鳥よりもはるかに大きく、野良の小動物よりも大きなそれは、彼が捜し求めていたものだ。

 彼は、くるりと背後にいるであろうその方に振り返り、逆光になって捉えにくい姿に向かって声をあげる。


「おい、降りてこいよ! そこにいんのはわかってんだからな」


 影はびくりと掛けられた言葉に動きを止め、じっと、彼の声が聞こえていないかのように静止し続けている。息を潜めるようにこちらを窺っているのであろうことが手に取るように伝わることから、その影の正体が人語を解せない獣でない事は確かだ。

 そして、それは明らかに自分に分がないことも理解しているようだ。

 暫くの間、影と彼は睨みあうように対峙していたが、見上げている彼が呆れたように溜息をつき、もう一度口を開く。


「テレント、降りてこいって。親方様、そろそろ帰って来るぞ? 支度しなきゃだろ?」


 先程までの強く苛立ちのままに放った言葉よりずっと穏やかな口調で彼は言い、また溜息をつく。それでも尚影は言葉に応じるような気配はない。


「テレント……降りてこいって、支度手伝ってやっから」

「……腹痛てぇ」

「じゃあ、薬作ってやっから、降りてこ……」

「降りれない」

「は?」

「降りれない、ここから」

「馬鹿かおまえは! 降りれねぇとこまで登るなっつってんだろ、いっつも!」


 高さにして六尺近くある幹と枝々の分かれ目辺りに蹲る影に向かって彼は怒鳴ると、呆れながら浅履きの履物を脱ぎ捨てて目の前の楠の巨木を抱くようにして腕を回す。

 それからにじりにじりと手足を踏ん張りながら木肌の上を進み、幹の数か所を足掛かりにしながら上へ上へと進む。

 楠の葉特有の香りが鼻先に強く振れ始める頃になると、ようやく影の処に辿り着いた。

 自分の要領以上の高さに手を伸ばして怯えているか、せめてここまで彼を呼びつけてしまったことに悪びれるような顔をしているかと思いきや、辿り着いた先にいたのは怯えるどころか腹痛の兆しさえ見せぬけろりとした笑顔だった。

 夏の近づく強い日差しの中、高所まで呼びつけておきながら何一つ悪びれることのない態度に、彼は表情をむっとしかめる。


「テレント、腹は?」

「んー……あぁ、そう言えばもう痛くない」


 彼の言葉に、テレントは悪びれることなくくすくすと笑いながら答える。そして、蹲っていた体勢から太い枝に腰掛けるような格好をし、ここに座れと言うように自分の横に空間を作ってその木肌を叩いた。

 呆れたように溜息をつきつつも、彼は招かれるままに用意された空間に移動しそこに座る。二人分の重さに先の枝葉が微かに揺れる。


「つか、降りれんだろ、ホントは。ほら、行こう、本当にもう時間ねぇんだか……」

「降りれないよ」

「……降りたくない、の間違いじゃなくってか?」


 言葉遣いの揚げ足を取って指摘する彼に、テレントは唇を尖らせて否定の言葉を呟く。「……違うよ」と、言いながら背ける横顔はそれが明らかな嘘であることを示している。昔から彼は嘘を吐くのが下手なのだ。

 傍らに座る彼はそれを既に心得ているのか、「じゃあ、行くぞ」と、特にテレントの様子を気に留めることなく樹を降りる態勢に入ろう身を捩ろうとした。

 だが、テレントは動く様子もない。それどころか降りることを断固として拒むように顔を彼から背けたままだ。その素振りに彼は呆れながらまた溜息をつく。


「……あのなぁ、テレント。もうさっき一番のお弟子さん達が着いて、道場に入ってったんだよ」

「……でも、父上はまだだろ」

「そうだけど、おまえ、道着まだ着てないだろ」

「道着なんてない。全部洗濯してる」

「テレント。あるだろうが。餓鬼みてぇなこと言ってないで、降りよう。手伝ってやるから、な?」

「……負ぶって」

「は? おまえ、俺を殺す気か? んなことしたら俺もおまえも落ちんだろ!」

「負ぶってくれなきゃ降りれない」

「降りない、だろ」

「……やだ」

「テレント。愚図愚図してたら、遅くなって、もっと親方様に怒られるだろ?」

「……じゃあ、メルだけ行けばいいじゃん」

「なんで俺だけなんだよ。おまえの稽古だろ。」

「……腹痛いもん」

「本当に痛てぇなら、稽古終わってから薬作ってやる。今は時間がない、我慢しろ」

「やだ。痛い、降りれない!」

「テレント! いい加減にしろ。」


 赤子のように駄々を捏ねるテレントに、メルはつい声を荒げる。口調の厳しさにびくりとテレントの顔が強張り、今にも泣き出しそうな表情を作って俯く。

 唇は相変わらず尖らせられ今にも泣き出しそうな様子であったが、実際に泣くようなことをテレントはしない。それは稽古に遅れることよりも叱責される事だと骨身に沁みこんでいるからだ。

 剣術の道場を開く家の後嗣であるテレントは幼い頃から泣くことを強く禁じられていた。将来家を継いで、広大な同じ敷地内に住まう家族親族をはじめ、何十人といる弟子や使用人を束ね、指揮していく家長としての意識を養うために特に父親から厳しく教育されていたからだ。

 元々何かにつけて人に甘えてしまう上にすぐに泣く性質であることもあって、父親からテレントへの指導は厳しさの度が尋常ではなく、それ故、隙あらば彼が稽古を抜け出すこともしばしばであった。

 とは言え、彼が屋敷内から外へは抜け出すことはなかった。そうしてしまえるほどの意気地もなく、そうしてしまえるほどに父親からの罰が生半可なものではなかったからだ。

 せいぜい屋敷の中で最も高い樹の上によじ登って身を潜め、腹心のように自分の身の周りを世話するメルに探し出されてしまえるような逃走を図る、その程度だ。

 逃走から連れ戻されたテレントに待っているのは、剣術の上では師匠である父親からの厳しい稽古。

 稽古中は、「実戦で己の身を護るものなど自身の剣の腕しかない」という考えから、防具を着けることは許されていない。

 厚手の道着のみを身につけ、三尺ほどの長さのずしりと重い木刀を振り回すために打ち身傷が絶えない。

 稽古によっては真剣を持たされることもあり、袖を捲ればいつでもテレントの腕は赤や青紫色の痣や切り傷だらけだ。幼い頃から数え切れないほど痣と傷だらけになってきた肌は、硬く黒光りするほど強くなっていた。

 それでも容赦のない父の稽古中に振り落とされる太刀から受ける痛みに慣れることはない。だからテレントは稽古に出ることを嫌がるのだ。

 彼が後嗣であるということで、弟子たちの前では特に父親が自分に厳しく当たることもまたそのひとつなのかもしれない。理解しているつもりでも、降りかかる痛みを思うと憂鬱になってしまうのだ。

 メルはというと、テレントが稽古を着けてもらっている間はじっと道場の隅で正座をして控えている。稽古後、傷だらけで時には疲労で意識が朦朧としていることもある彼を介抱し、治療するためだ。

 そしてそれが治癒系の精霊の血をひく彼にとっての「稽古」であった。自分が将来仕える、主人となる者の真からの腹心となり、優秀な治癒能力を持つ杏林となるための稽古だ。

 自分たちの親の、そのまた親たちも延々と続けてきた習慣を抗い否定することは容易いことではない。ずっしりと重く二人の肩に積年の誇りが圧し掛かる。

 互いの肩に食い込む痛みを知るのは、同じ境遇にあるお互いでしかない。だからこそ、メルはあえてテレントを稽古に送り出すのだ。


「終わったら、覆盆子の甘湯、母さんに淹れてもらえるように頼んどくからさ、な?」

「……んぅ」

「ちょっとだけ、我慢しろよ。また俺が治してやっからさ」

「……肉の入った麺麭がいい」

「は? なんだと?」

「甘湯じゃなくて、肉の入った麺麭がいい、俺」


 今俯いて泣きそうになっていると思っていた口元が呟いた言葉にメルは呆れながらも妙なおかしさを感じてしまい、吹き出してしまう。

 ふっと笑ったメルの気配にテレントもまた顔をあげ、二人して顔を見合せて笑う。歳も同じで生まれ月も近いせいか、二人はまるで双子のように育ってきた。

 ただ同じ境遇にあると言う主従関係の他の者たちよりもずっと親密で、互いを知り尽くしている。顔を見合って笑いながら、逃走の終わりと待ち受ける厳しい稽古への覚悟を決めていた。

 陽に透かされるテレントの焦げ茶色の前髪をそっと撫でつけ、「行くぞ、もう戻って来られるからな」と、メルが言うと、テレントは弱く笑ってうなずく。

 楠の葉の木洩れ日がゆらゆらと初夏の終わりの風に揺らされながら二人に影絵細工を施していた。



 南へと下ってきたことで景色が随分と変わってくる。乙酉おつせいを出て酉暮の中心地に着いた頃は桜が見頃を迎えたばかりだったのに、ここらではもう若葉が茂り始めていた。

 米の詰められた俵の積まれた荷台の隅でぼんやりと景色を眺めているテレントとは対照的に、メルは馬車の持ち主の男と話し込んでいる。街の外れまで米を役所に納めに行くというその男は、気の良さそうな豪快な笑い声を、車輪の轟音の間から響かせていた。

 テレントは元来初対面の者と打解けにくい性分ではない方なのだが、先日の晩、メルにいつになく強い口調で言葉を放った気まずさから、あれ以降、移動の慌ただしさを口実にろくに口を聞いてない。

 旅で疲れているだの、家のことが気がかりで余計な気を回すことができないだの、言い訳だけは山のようにあったが、それすら口にすることが億劫に感じられ、テレントは黙り込んだまま荷台の隅で景色を眺めていた。


「あと一刻もすりゃ、夕坤せきこんの門前に着くってさ」


 いつの間に俵の間をすり抜けてすぐ傍まで来ていたのか、不意にメルの声が耳元で聞こえて、テレントは驚いて振り返る。先程まで目にしていた若葉よりも深い色の緑色の瞳が、ふわりと頬笑みを含んでこちらを見ている。

 沈黙を覆うようにして響く車輪の音が二人の間に漂う。声を一方的に掛け続け会話の糸口を無理やりに見つけ出すには少々不向きな状況だ。

 メルからの視線を交わしてしまったせいで余計に言葉を交わしにくく、テレントは景色を眺めているふりを続ける。

 田畑の広がる長閑な風景が街と街の間を繋ぐように続いた後、徐々に人家が増えていき、やがてしっとりと湿った風が頬を撫で始める。水辺に臨む街特有の匂いと湿度を含む風に二人はそれぞれ眼を細めた。随分と久方ぶりに感じる空気は、淀んでいた胸中を透くように爽やかだ。


「着いたら、宿と飯屋捜そうな」

「……おぉ」


 ようやく交わせた言葉に、安堵の溜息がテレントの口元から漏れたる。どうにか、無言のままで河を渡ることは避けられそうだ、と。

 眼前に見えて来た賑やかな街の向こうには、この国を二分する午馬河がある。更にその向こうには、彼らの帰りを待つ家が。火急を強いられた旅の終わりがすぐそこまで来ている。そしてそれは、二人を待ち受ける新たなる旅の始まりでもあった。



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