第6話 赤い眼の彼が失ったもの、決意したこと

 あおから黄みがかった青色に移り変わる萌黄もえぎ色の上弦の月の光が、明かり採りの窓から音もなく降り注いでいる。深々と降り積もる雪のように静かなそれは、まるで光を避けるようにして陰でうずくまる彼の胸中のようだ。

 闇を正方形に切り抜いたように明るく照らされた寝台の掛布を見つめる眼は、頬は赤く腫れあがっていた。視覚に訴えかけるほどに痛々しい色のそれは、腫れあがってから数時間が経過した今も尚鈍い痛みを伴う。

 痛む頬と口許の辺りをそっと指の腹で撫でるとピリッとした痛みが走る。痛みに思わず身体を強張らせるも、彼はゆるゆると力を抜きながら弱く息を吐いて小さく嗤った。あまりに己が、胸中に今現在抱えている靄のような感情の扱いに戸惑っているのが判ったからだ。

 いつの間に、自分はこんなにも隙だらけの者になってしまったのか。

 己以外の誰も信じず、譬えどんな親切と言う名の傲慢や偽善を押しつけられても、それに屈することを良しとしてこなかったのに。

 居場所を与えられ、あたたかな食べ物を絶えず与えられてきた、たった半年と少しの月日が、彼の中の根底を揺るがして崩してしまったのか。自身でも気付かぬ内に、あまりにも脆く呆気なく、彼を築いてきていたものは覆ってしまった。

 薄らと感じていた不安の影が具現化して目の前に現れたのだろうか……腫れあがった頬をさすりながら冷静に物事を分析しつつも、月明かりの降る窓枠を映す視界はゆるゆると揺れて滲む。

 はたり、と、熱い何かが彼の赤く腫れあがっている頬を伝い落ちていく。それは寝台の上に広がる赤黒い染みの目立つ黒い端切れの上に小さな模様を成しては消えていった。



 覆盆子ふうべんしを採りに入った森で狼のような魔獣の襲撃を受けたアズナは、右肘から先を喰いちぎられた。

 魔獣の気配を察知したフリトが襲撃されてすぐに反撃をし、魔獣の頸を斬りおとしたが、結果として、身を高く振り上げられた衝撃でアズナは右の手首より先を失ってしまった。

 すぐに村へ担ぎこんでから現在も治療を施してはいるものの、食い千切られた幼い掌が再びひらひらと春先の野を舞う蝶々ように指先を遊ばせることは叶いそうにない。

 そして小さな身体には大きすぎる傷によると思われる高熱と激しい痛みが、いまは彼女を苦しめ続けている。泣きじゃくる力もなく、小さな頬を赤く染めながら呻き続けるアズナの傍らには、サチナが寄り添うように指先のある左手を握りしめ、その眼元もまた赤く濡れている。

 アズナの寝かされた寝台のある部屋へは家の者が慌ただしく出入りをし、その様子を門の外から村の者たちが窺う。そして、皆口々に「あんな赤眼なんかに情をかけるから、闇を呼んだんだ」、と、この災難の要因がフリトにあると因縁づける言葉を囁き合っていた。

 その囁き合う輪の中には、あの昼下がりに厨房で雑言を吐いていた女達らしき者の数人の声も含まれていた。



「あなたがついていながら、どうして!! あの子の手を……手を、返して!!」


 半狂乱になって叫ぶイチナの、悲鳴染みた声が頭上から落雷のように激しく降り注ぎ、突き刺さる。

 土間の上に額を擦りつけながら伏せ、ひたすらに、「申し訳ございません、申し訳ございません……!」と、繰り返すしかフリトにはすべがなかった。

 茶卓の上に籠に盛られていた果物や、膝上の読みかけの書籍……あらゆる物を投げつけられても、あらゆる罵声を浴びせられようとも、それを甘んじて受けながらそうするしかなかった。そうしたところで、彼が許されることなど皆無だ。

 茶の入ったままの湯飲みが彼の目前の床で砕け、中身ごと欠片が伏せるフリトの上に降り注ぐ。

 幸い、茶は大した熱を持ってはいなかったため大事には至らなかったが、砕けた欠片の一部が彼の頬と指に当たった。僅かに切れたそこから小さく朱色の血が滲んでいた。

 痛みなど感じることはない。こんなもの傷にも数えられないほど大したものではない。

 それなのに、彼はみるみる赤い雫が頬から伝い落ち始めたそこを見つめながら、込み上げてくる感情を堪えるのに精いっぱいだった。

 必死に唇を噛み、ウーマら侍女達に取り押さえられながら尚も彼を罵り続けるイチナの言葉を浴び、震えながら額を地に擦りつけ続けるしかなかった。


「人殺し! あなたはやっぱり闇の子よ! 闇を呼んだんのよ!」

「奥様、落ち着いてくださいまし! 奥様!」

「アズナ様のお身体に障ります、落ち着いてください!」

「あなたが死んだって許すもんですか! あの子はもう手も、未来も食い千切られてしまったんだから!」


 村に唯一の杏林医師によれば、傷口からくる高熱と痛みは今宵が山場であると告げられていた。

 かつてフリトとグドと旅路を共にしたメルと呼ばれる治癒系の精霊の純血種の能力を持つ彼であれば、きっとこの程度の傷の治療など雑作なく、千切れた掌を蘇らせることもできただろう。

 一度命を失ったフリトを蘇らせることができたほどに有能であった彼を知るフリトは、小さな田舎の杏林の治療の術の未熟さに歯痒い思いがしていた。

 それも無理からぬことで、この村の唯一の手医者は、治癒系の精霊の血など殆どひいていない者だからだ。

 かと言って、自分がそれを上回る治療を施せるわけもなく、譬えできたところで彼はアズナの許に近づくことすら許されないであろう。

 判りきっているからこそ、彼はひとり自室として与えられた蔵の隅の寝台の上でじっとうずくまるしかない。部屋の外を吹き荒れる自分への非難と因縁の嵐が止むか弱まるのをじっと耐え忍ぶ他ないと、経験から知っていたからだ。

 フリトの腕に抱かれたままの紅く染まったアズナの姿を眼にした瞬間のイチナの表情を、名を呼ぶ声を、彼は今もひとりきりの闇の中に浮かべることができる。そして、泣き叫ぶ彼女の傍らで震えながら詫びの言葉を呟いた彼の口元に、烈火のごとく熱い衝撃が走ったことも。

 何度も何度も繰り返し響くイチナの言葉が、同じように何度もフリトの胸の奥に突き刺さっていく。

 イチナの声に屋敷内は騒然となり、広間で開かれていた寄合に顔を出していた村の世話人らを始め多くの人々がイチナとフリトらを取り囲んだ。

 アズナの惨状に悲鳴を上げる者、何事があったのかを問う者……中には真っ先にフリトに因縁の言葉を投げる者すらいた。

 各々が口々に荒い言葉を投げ合う中、フリトはじっと自分を見つめる眼差しを痛いほど感じていた。

 射抜くようなそれに向き合うことに躊躇いを覚えたのは、その鋭さと痛みに胸中が震えていたからだ。

 碧眼の瞳が極限にまで感情を抑え込んだ表情をして、こちらを睨むでもなく、ただ真っすぐに見据えていた。

 瞳に滲む感情が幼い妹を護りきれなかった彼への怒りなのか、惨状に愕然としたものなのか、全く汲み取ることは出来なかった。汲み取れるほどにその眼を見つめていることなどできなかったからだ。

 それきり、フリトはグドともサチナとも顔を合わせていない。

 合わせる間もなくイチナの部屋に呼びつけられ、彼女の怒りの矛先を向けられ、投げつけられるままに受け入れ、そして自室に引きこもっていた。イチナからの仕打ちに見兼ねた長でありグドの祖父であるリュウエンらがフリトにひとまず部屋へ下がるよう言いつけたためだ。

 それでなくとも、彼はどうグドに顔向けすればよいのかが判らなかったし、顔を合わせたところでもう二度と今朝までのような口を聞くことは許されないことは明らかだった。



 思い返すことも、起こってしまった出来事を淡々と思い直すことも、すべて止めてしまえばいい。

 ――いつもなら、今までならそうやってどうにか外を吹き荒れる嵐と決別を無理やりに図って来ていた。

 数日から数週間じっと石のようにしていれば、嵐は向うから去っていって、去るまでの間はただただ深く眠る獣のように耐えるだけだった。

 そうすれば、多少の痛みを残しつつも、再び何事もなかったかのように表へ出ることができたのだ。

 しかし、今回の出来事はどうにも簡単に彼を日常に引き戻してくれそうにはない。投げつけられた言葉はいつまでも胸の奥に突き刺さったままで、更にそこからは絶えず鮮血が流れているような痛みが続いている。まるで、この世の終わりのように悲しみと言う感情がフリトを包みこんでいるのだ。

 これまでどんなにひどい扱いを受けて来ても、罵られても、怒りこそすれ、涙を流すことなどとうに捨て去ったはずだった。涙を見せたところで寄ってくるものにろくなものはなく、更なる仕打ちを受けるきっかけにしかならなかった。

 それなのに、彼の頬を伝う涙は止まることを知らない。噛みしめられていた唇は時折僅かに開き、嗚咽を漏らす。

 自分の右眼に輝く紅玉色を憎むことなく受け入れてくれたぬくもりを傷つけたこと、裏切ったこと、その心を踏み躙ってしまったことを悔やむ感情が身体の奥底から湧くように溢れ、突破口を求め瞳から零れ落ちていった。

 萌黄色の明かりを見上げた紅い瞳は、きらきらと月明かりを浴びて煌めく。


「――無くすことは、慣れてたはずなのになぁ……」


 ひっそりと嗤いながら呟いた言葉が、過去に自分から奪われた全てを指しているのか、今手元にある、ようやく手に入れた筈の居場所を指しているのか、それとも両方なのか……知るのは彼ひとりだ。

 その瞳は暗い色に煌めいて揺れ、また一筋の雫を伝わせる。彼はそれを乱暴に袖口で拭い、大きく息を吐いた。

 蔵の外は相変わらず人が行き来する気配がしていたが、数時間前に比べれば随分とまばらになっている。月がもう少し天に昇れば、それもじきに途絶えてしまうだろう。

 ゆっくりと天上へ向かう月明かりの下、フリトはじっと考えていた。赤くまだ少し晴れた頬を撫でながら、自分に残されたなすべきことを。

 手の中にあるものを失うことには慣れている。一所に留まれないのは人も物も感情も同じであることをフリトは長いながい流浪の日々で体得していた。我が身とそれを動かす魂さえあれば、どこにでも行くことができるということも。

 大切なものはあれば心強いが、その分身動きを封じられてしまう。拠り所のない己の歩みが止まらぬよう、常にそう言い聞かせながら生きて来た自覚が少なくとも彼の中にはあった。

 なのに……止まらないままの涙の理由を想うと、彼はあまりに自分の知らぬ内に自分の中が別人のように変化していることに愕然とするのだ。

 捨て去った筈の感情が眼を覚ましかけ、そして存在を誇示しようと声を上げようとしている。フリトはそれを打ち消すように唇を噛みしめる。

 月が谷の向こうに傾いてしまう真夜中と暁の闇の時間に、彼はひとつの決断を下した。



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