第5話 赤い実よりも滴るほど赤い悲劇が起こってしまった昼下がり


「あまり遠くまで行かないようにね。決してフリトから離れないように、いい?」

「へいきよ、カカ様。あの森、アズ、何度も行ったことあるもん」

「そうだけど……慣れているからって油断は禁物なのよ、アズナ」

「どうして? フリトがいるもん、大丈夫よ」


 グド、サチナ、アズナの母であるイチナは、兄妹の中で最も幼いアズナに繰り返し森へ向かう際の注意事項を言い聞かせながら、蓬の葉の詰まった袋を先に結わえた紐の輪をかけた。森へ入る慣習としてこの辺りの地域では虫よけと魔除けを兼ねて蓬の葉を乾燥させ、小さな麻の袋に入れて持たせるのだ。

 田んぼの作業がひと段落したある午後、アズナはフリトと二人で村を下った処にある森に覆盆子ふうべんしという実を摘み行くことにしていた。

 人里に近い森の入口などに多く自生するその実は、完熟すると黄みを帯びた朱色になる。生でも食せるが、砂糖と煮詰めて麺麭につけて食べることも多い。特にアズナのような幼い子どもはその味を好み、春になると実を摘みに森に入る子どもが多くいる。

 ただその分、事故に巻き込まれてしまうことも少なくはない。実を摘むのに夢中になって森の奥に入り込んでしまって行方知れずになってしまう者や、草や低木の枝の茂る処に踏み込み、足場の悪さが判らずに突然現れた崖下へ転落してしまう者など、挙げればきりがない。

 また、子どもだけで森へ入ると木々のうろや陰に身を潜めている魔獣につけ狙われて襲われることも考えられるし、実際そんな不幸が起こることもあった。だから、イチナはアズナの付き添いをフリトに任せたのだ。

 いつもならこういった役割はウーマかグドか、せめてすぐ上の姉であるサチナが受け持つのだが、今日に限って家で村の施政に関わる話し合いが行われ、それに後継ぎであるグドは顔を出しているため付き添ってやれない。

 いつもアズナと行動を殆ど共にしているサチナも学舎での講義のために留守で、ウーマはその彼女を隣村にある学舎まで送り届け、講義が終わるまで待機していなくてはならないために同じく今は留守だ。

 そういった経緯からアズナの子守をフリトが任され、その一環としてこれから麓の森へ向かうことになったのだ。

 アズナはイチナからのお小言にも聞こえる言葉をアズナは真剣に耳を貸している様子はない。兄姉達と出掛けるのとは違う様子に、とてもはしゃいでいるからだ。


「悪いわね、誰も手が空いてなくって……この娘と不慣れな場所にだなんて」

「いえ……これぐらいでよければ、いつでもお申しつけください」

「そう? でも、少しでも手に負えなかったりしたら戻ってくるのよ、すぐにでも。無理はしないでね」

「はい。大丈夫です、アズナはいい子ですから、ね?」

「うん!」

「そうかしら? 結構足が速いのよ、あの。見失わないように気をつけてね」


 鳩麦を煮出して作った茶を入れた竹の水筒と、麺麭の入った布袋を手渡しながらイチナがくすりと笑って言うと、フリトもまたそれを受け取りながら笑う。ほのかにまだぬくもりを帯びている袋の中身のように、向けられた言葉も笑みもやさしく思えた。

 そんな笑みを向けられ受け取るたびに、あの日厨房で囁かれていた自分への雑言の傷みが浮き彫りになる。

 とりたてて酷いものではなかったし、むしろ、あれぐらいのものなど雑言の内にも入らないとさえ彼は思っている。

 しかし、あれ以来あの日厨房にいた女達は屋敷の手伝いに姿を見せなくなり、ウーマは何かと理由をつけて彼と顔を合わせしないようにしているように思える。

 あの出来事を知っているのはサチナだけの筈で、彼はそれを決して他言しないように強く言い聞かせていた。これ以上グドに余計な負担をかけたくなかったからだ。

 当事者達をあれきり殆ど見かけないのはただの偶然なのか。それとも、やはりサチナがグドやイチナ達に報告し、それなりの処分を下したのか。真相は何もわからなかったし、確かめるすべもない。

 それでも、このままやわらかなぬくもりややさしさに寄り掛かっていていいものなのか……そもそも、本当に自分はこの村に居ていいのか、不安と疑念が入り混じった感情の疼きが日に日に強くなっていくのを、感じずにはいられなかった。



 イチナに見送られ、二人は村のある丘をゆっくりと下っていく。傾斜に合わせるように段々に整えられた田園には薫風に波打つ若草色の地面が広がる。胸一杯にその風を吸いこむと、たちまちに身体の中が瑞々しく潤っていくような感覚を覚えた。

 村の入口にあたる大きな岩を積み重ねただけで造った支柱を両脇に建てただけの簡素な門を通り抜けると、人家はぱたりと途絶え、入れ替わるように木々の密度が増していく。

 小石や砂利の多かった足許は進むほどに枯れた色の芝のような背の低い草に徐々に覆われ始め、やがてアズナの膝下辺りまでの高さのある草の茂る場所に入り込む。見上げればまだ頭上を覆うほど枝葉を伸ばした木々は少なく、初夏の木洩れ日が煌めきながら二人の上に降り注いでいた。

 今日は先日サチナとこっそり二人きりで来た時に見つけたという、秘密の場所にフリトを案内してくれるらしい。


「フリト、疲れた? ちょっと休む?」

「いや、平気だよ」

「もうちょっとだよ。がんばって」


 その道は獣道とも言え、殆ど拓けておらずとても歩き辛い。野道や山道に不慣れであると思われているフリトを、幼い彼女なりに気遣う様子に彼は小さく苦笑した。

 我が身よりも周囲を気遣うのはこの兄妹に通じる性質なのだろうか、フリトは自分の少し前を行く小さな背中を見つめながら考える。

 彼女の兄も、幼い姉も、必ず最初に口にするのは自分よりも他人の様子を尋ねる言葉だ。様子が好ければやわらかく微笑み、思わしくなければ我が身のように案ずる。

 利害に関わらず無意識にそんな振る舞いをする彼らであるからこそ、自分のような者を家に置くことを厭わないのだろうか……青い匂いのする足許に眼を落しながらフリトはその思考に行きつく。しかしまだ彼が求める答えに辿り着いたとは言えないようだ。

 足許の草は相変わらず深く、自分の足先も見えないほどであったが、特にその奥に魔獣の気配を感じることはなかった。

 それでも脇を見れば大人でもひと抱えあるような大きな幹を持つ樹がいくつもたち並んでおり、その奥にはぽっかりと空いたうろがいくつもあった。

 ツタが樹と樹の間を繋ぐように絡まり合い、更にその上に枝葉が茂って影を落とし、遠い視界を遮る。村からいくらとかからない距離にあっても、これなら確かに無防備な子供だけで森に入らせるわけにはいかない――フリトは跳ねるように進んで行く小さな背中を見守りつつ、辺りをそっと見渡して思った。

 魔獣は子どもの放つ特有の気配にとても敏感で、そして彼らのやわらかな身体をほふることを好む。しかも、手を伸ばせば簡単に手に入る上に、美味な生き物がどうすれば手に入るのかも知っている。無心になって隙だらけになった背後に忍び寄り、もしくは足許からそっと手を伸ばし、悲鳴もあげる間も与えずに一息に食らいつくのだ。



 背後に広がっていた人里の気配を完全に感じなくなった頃、足許が緩くぬかるんできた。先程微かに聞こえていた水音は進むほどに徐々にはっきりとしていき、やがて小さな沢に行きあたった。

 幾つもの苔生して枯れた跡の残る岩が転がり、涸れながら小さく細く姿を変えてきた水の流れやその形跡が残るその周辺には、確かに紅色の小さな実をたわわに実らせた茂みが広がっていた。

 足許に屈み、茂を除ければその陰から赤い実が僅かに揺れながら姿を現す。アズナは慣れた手つきでその一つ一つを丁寧に摘み取り手提げの籠に始める。

 元々干ばつの地に自生していたものが原種であるためか、水の涸れた地であるのに、しっかりと根を生やし実をつける。その生命力の強さにフリトは驚かされていた。


「すごい、ホントにいっぱいある」

「ね、すごいでしょう? サチ姉ぇと、アズしか知らないの。あんちゃも、カカ様も知らないんだよ。内緒なの」

「内緒? なんで俺に教えてくれたの?」

「あのねぇ、サチ姉ぇがいいって言ったの」

「サチナが?」

「んぅ。サチ姉ぇ、フリトにおいしいの食べてもらいたいんだって。――ねぇねぇ、フリト、」

「ん?」

「フリト、よその人に意地悪されたって、ほんとぉ?」

「えっ……」

「あのね、意地悪されたからね、サチ姉ぇ、フリトにここ教えてあげよって言ってたの。なんで? なんで意地悪されたの?」


 曇りのない無垢な眼差しが真っすぐにフリトを見上げて問う言葉に、彼は返す言葉が見つからない。

 どういった経緯で彼女らがあの出来事の話を共有するに至ったのかは知る由もない。

 恐らく、サチナはアズナにフリトの紅い瞳の話を詳しくはしていないのだろう。したところで、まだ彼女がきちんと理解できると思わなかったのかもしれない。

 ただ、あの出来事を知ったことが、まっさらな心の中に小さな疑問符の種を撒き、芽吹かせ、彼女たちなりに考えた彼への慰めの実が、この場所の共有だったのだろうか。

 真実の全てを話して聞かせることはとても簡単なことだ。しかし、そこから派生する感情の変化までを想像することは難しい。まだ何も知らない心に更なる複雑な種を撒いてしまうことは、彼には躊躇ためらわれた。

 だから少しだけ言葉を濁し、フリトは無理やりに微笑んで答える。「なんでかなぁ……俺の眼、紅いからかもね」、と。


「なんでぇ? なんで紅いと、意地悪されるの?」

「んー……血の色みたいって思うんじゃないのか、な……気持ち悪い、とか」

「血ぃ? アズ、思わないよ! だってね、だって、サチ姉ぇがね、覆盆子ふうべんしの良いやつの色だって言ってたもん、いい色なんだよって、言ってたもん。だから、大好きって言ってたもん」

「……そうなの?」

「うん! アズも、フリトの眼の色、大好き!」

「じゃあ、今日持って帰ってあげようか、ここ教えてくれたお礼に、サチナに」

「うん!」


 フリトの提案にアズナは顔を明るく輝かせるように微笑んで頷き、奥の茂みの方に実を採りに行くと行って立ち上がり、フリトの方に眼を向け、眼差しで奥に広がる光景を指した。

 見やった方向には今いる場所以上に多くの赤い実が生っている。

 そこにはほんのり薄暗くて影を落とすほどに大きな岩があった。

 フリトはそれが気に掛り、ふと、不穏な気配を感じた。正体は判らなかったが、あまりこちらに近づいきて欲しくもこちらから近づきたくもないものだ。


「あっち、行ってい?」

「うーん……」

「ねぇ、すぐ戻ってくるから、ね?」

「すぐだよ? すぐ戻ってくるんだよ? いい?」

「だぁいじょーぶ、すぐ戻ってくるから!」


 まるでフリトの方が年少の者のような口調に、フリトは苦笑いをしながらうなずく。その様子に満足したのか、アズナはにこりと微笑んでひとり歩き始めた。

 アズナは奥に広がる新たな覆盆子の茂みを目指し、既に摘み取った実を入れた籠を小さな腕に抱えながら一歩、また一歩と進んで行く。がさがさと葉が揺れこすれ合う音が辺りに響く。

 ごつごつとした大きさの様々な岩の転がる足場でもあることから、枝葉を掴みながらアズナは慎重に奥へ、例の岩の方へと近づいて行った。


「もうそこらへんにしときなよ、アズナ」

「大丈夫ぅ」


 自分から少しずつ離れていく彼女を眼で追っていたその時、アズナが向かうそのすぐ間近の岩影の辺りから不穏で邪悪な気配をフリトは感じた。闇に通じた者だけが嗅ぎとることのできる、魔獣の吐く生臭い息や血を求め渇いた身体の臭いが瞬時に彼の嗅覚を射すように刺激されたからだ。

 平穏を常とするような日々を送り続けて来たせいで鈍っていた感覚が、慌てて眼を醒ます。次に何をどうすべきなのか、身体がようやく反応する。


「アズナ、戻れ!」


 攻撃に備え、無意識のうちに掌に刃のように鋭い風を作り出して操ることのできる術の文言を口中でなぞる。

 吠えるように声をあげ、同時に地を蹴って茂みの上に佇む彼女の許に駆け寄ろうとしたが、影の動きの方が、フリトの伸ばした腕よりも僅かに速かった。それは彼がいた位置のせいなのか、鈍くなってしまった警戒心のせいなのかは、誰にも判らないことだ。

 僅かに速かった闇が、フリトの怒声に立ち止まった小さな彼女の身体をあっさりと彼の目の前で喰らいついたことだけは確かだった。

 アズナがいた筈の場所に、籠に集めていたたくさんの赤い実のように、青々と茂る覆盆子の葉の上に紅い飛沫が降り注ぐ。遅れて、その上に同じように紅く染まった藍染の布地に包まれた小さな身体が鈍い音を立てて落ちた。

 落ちた身体はピクリと動くことも悲鳴を上げることもなくじっと横たわったままで、そこから葉と岩肌の上にたちまちに紅い水溜りが広がっていく。振り落とされた勢いで乱れた服地がその顔を覆ってしまったためにその表情を見て取ることは出来ない。

 岩陰から現れた影は狼に似た姿形をしていた。低く唸る濡れた不気味な光沢を帯びた灰鼠色の身体と、大きな三角の耳に長い尻尾、歪んだ弧を描く口元には鋭い牙が並び、そのどれもが鮮血に染まっている。紅い雫が滴り、噛み合わされたそこに咥えられているのは、つい先頃まで赤い実を摘み取り、ここに辿り着くまでフリトと繋ぎ合っていた小さな幼い手のひらなのか。

 少し離れた足許に転がったまま動かぬ身体と、紅く染まった深緑の景色、滴り落ちる雫、低く響く獣の唸り声……フリトの中に硬く眠らせていた筈の惨劇の記憶の欠片が、彼の喉元を駈け上がる。

 声にならぬ叫びが薄暗い森の中に響き渡り、対峙していた獣は身構え臨戦態勢に入る。

 だが、彼を威嚇するよう頭を低く垂れ睨みつける銀色の双眼に叫び声をあげた彼の姿を映し出すよりも速く、獣はその息の根を断ち切られていた。

 新たに紅い飛沫が茂みに舞い散り、大人の頭ほどの塊が続けて転がり落ちた。獣が地を蹴ってフリトにまで襲いかかる前に、彼が闇の魔術による刃を放ってそのくびを斬りおとしたのだ。

 斬りおとされた頸は転がり落ちて尚微かに痙攣けいれんしてはいたものの、やがてそれも治まりただの肉の塊と化していった。同時に、それを携えていた肉体も崩れ、だらだらと濁った血糊を零すだけとなった。


「……アズ……アズナ! アズナぁぁ!」


 全てが鎮まった途端、フリトは弾かれたように目の前に横たわるアズナの名を呼びながら駆け寄る。

 しかし、気が触れたように繰り返し叫ぶ名に、返る声も微笑みもなかった。

 抱きあげた紅く染まった身体は痛みと手首を失った衝撃で細かく震えている。急激に失った血液と共に体温も奪われているのだろう。生温かでぬるぬるとした感触と吹き荒れる風のように不気味な音を立てる呼吸がフリトの冷静さをも奪っていく。

 これ以上の失血は命に関わると判断したフリトは、咄嗟に自分の顔を覆っている黒い布の端を食いちぎるようにして細く裂き、鮮血の滴るアズナの腕をきつく縛る。みるみると腕の色は変色し、腐食した果実のような色に染まっていく。

 一刻も早く帰らなくては、村に……ただそれだけを口の中で繰り返し、焦りと不安ばかりが降り募る胸と紅い身体を抱えたままでフリトは駈け出した。

 駈け出した勢いで顔を覆う布が解けてしまっても直す間もなく走り続けた。解けた布の端がいつのまにかそっと腕の中のアズナの上を覆う。まるで人目から痛々しい傷口を隠すように。


「……っい、たぁ……っが……えぅ……痛い、よぉ」

「もうすぐ着く、もうすぐだよ」

「カ、カ様ぁ……いたぁいぃ……いたいよぉ」

「もうすぐだからね、アズナ!」


 うわ言のように母の名を繰り返す幼い顔が身を裂くような激痛に歪む。涙も出ないほどに激しい痛みに滲むのは脂汗と耳を覆いたくなるほど痛ましい声だ。

 森の切れ目が見え、やがてその入口に差し掛かる。じきに村の入口の石柱の門が見え、晴れ渡る青空の下水田で働く人々の影が見えてくるであろう。

 それまでに彼女が持ち堪えられるのだろうか……徐々に痛みに呻き声と泣き声を入り混ぜたような声を上げ始めた少女の身を案じながら、フリトはひたすらに村を目指した。



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