第3話 夜桜の下で食い違う想い


 報せを受けて二日後、テレントとメルは改めて翼を放った。

 急ぎであったため用意できたものは隼ではなく鳩の同種で、彼らの手持ちで用意できたのは鳩の中でも最速の部類のものだ。隼よりは劣るものの、それでも通常のものが要する日数より二日ほどは短くなると考えられた。

 二人は翼を放ったその足で、院のある町を発った。報せで乞われた通りに、明卯あけうの家へ一時帰宅するためだ。

 町は酉暮の中心地より少し北東寄りの郊外にあるため、とても交通の便が悪い。酉暮の中心地まで下りながら経由し、更に南下して隣街に入る。そこは国の中心を流れる午馬河ごうまがわを横断して東の都・明卯とを結ぶ公営の定期便が出る港街があるため、そこに向かう必要があるのだ。

 午馬を横断する船の出る港は大小様々その街の南北に設けられているが、国直轄の港と船が出るのはこの街だけである。

 町から酉暮の中心地までは馬車でおおよそ三日かかった。

 季節は桜が見頃を迎え、気候が穏やかで暖かになってくるせいか夜が更けても街明かりはいつまでも消えず、通りは人々で溢れている。色とりどりの灯篭の下を練り歩きながら露店と花を巡る賑やか声が、どこからともなく漂ってきた甘い花か菓子の香りに乗って風通しに開けた窓から流れてくる。

 その甘い風を頬に受けながら、テレントとメルは窓枠に腰かけて眼下を眺めていた。二人は今、酉暮の繁華街の一角にある古い宿の二階の一室にいる。

 花見の季節であったために、手頃で条件のいい宿はすでに客でいっぱいで、数件回って見つけ出した宿だった。宿代がとにかく安い事だけが取り柄なようで、とりあえずの掃除はされているようだが、それだけではとても草臥れた感じは拭いきれないようだった。


「なんか買ってくるか?」


 ぼんやりと通りを眺めている横顔にメルが話しかけたが、相手はこちらを見ることもなく弱く首を振っただけだった。虚ろな眼には煌めく灯篭の明かりが映ってはいたが、瞳がそれを見つめているようには思えない。

 院の宿舎を出てから数日、テレントは終始こんな調子だ。何かを考えているような、遠くを見るような頼りない表情を見せることが多く、口数もいつもより少ない。何より、食欲が通常とは比べ物にならないほど減退している点がメルは気に掛っている。

 物心つく前から傍らに互いがいた仲であるからこそ彼の異変には敏感で、それを支え補うのが自分の役割であったからだ。

 報せを飛ばしてこられたとはいえ、黄来禽への火難の詳細も判らないことや家や家族への影響を想うと、同じ屋敷の中に同じように家族が住まうメルも胸が潰れそうな思いがしていた。

 少々の火難であれば鳩を飛ばす程度だったかもしれない。しかし、飛んできたのは薄墨の翼。報せを受け取った当時は、「大事なのかどうかは目で見てから決めろ」などとテレントを叱咤したものの、いざそれを確認すべく旅立って、日を追うにつれ、難事の事態が不明瞭なままである不安は色味を増していった。

 あれきり、テレントは動揺をしているような素振りを見せてはいないものの、その分奥底に押し殺している感情があるのではないかと、メルは推察しているのだった。

 推察はしつつも、彼は夕餉を促す以外の言葉を発しようとはしなかったし、思わなかった。余計な手出しをして更に相手を苦しめてしまうことだってあり得るのだ、特に、こういった事態の時ほど。だからこそ、二人はぼんやりと賑やかな通りを見降ろしているのだ。

 ただ一つ言えるのは、二人はお互いの沈黙と存在を苦と感じていないことだった。黙したまま傍らにいるだけで、言明し難いやわらかな安心感もある。それこそが、二人が寄り添い生きて来た仲の証しなのであろう。


「人、多いね、今日は」

「花が盛りだからなぁ……もう寝るか?」

「……あぁ、あのさぁ」

「うん?」

「お茶、飲みたい。今頃なら、雨前茶うぜんちゃが振舞われてるだろうから」


 干支国では、花見の盛りを迎える清明の頃から、田起こしの始まる穀雨の間まで、花見の名所ではたいてい雨前茶と呼ばれるものが花見客達に振舞われる。茶は薄い琥珀色をしていてほのかに甘くあたたかい。御猪口に一杯ほどの量なのだが、口にするとその年は無病息災であるという謂われがある。

 そのため、春になると人々はこの茶を求めることを花見の口実にして宵の街を出歩いているのだ。

 久方ぶりに見せた自発的な要求に、メルの表情が思わずほころぶ。夜の街を出歩く言葉を口にしたということは、その延長上に遅い夕餉を欲しているかもしれない可能性が見え隠れしているからだ。

 「じゃあ、ちょっと出るか」と、応え、二人は窓枠から立ち上がり、鎧戸を閉めた。古い木戸越しに聞こえる通りの声に導かれるように、二人は部屋を後にした。



 雨前茶は、桜花などの様々な花や樹木が植えられているような庭園を管理している家の者が中心となって、花見客に庭を開放しつつ振舞うことが一般的だ。大体がその土地で名の知れた豪商や国政に代々関わっているような名士の家か、それか、寺院などだ。

 干支国の寺院には、たいていの場合祠一つあり、中は天帝の使いである麒麟きりんの姿を描いた掛け軸や、地域によっては木像などが祀られている。

 麒麟は慈悲の化身とされる神獣で、生命の樹である黄来禽の原木の護り人であると云われている。

 子を授かりたい夫婦を始め、様々な願いや悩みを持ったものがその祭壇のもとに跪き、祈りを捧げる姿が後を絶たない。恐らくそれは麒麟が姿を拝めることのできる、人々に身近な神であるからだと考えられる。

 言い伝えによると、黄来禽の原木はこの国のとある地域に存在するとされているが、どのように手に入るのか、どんな場所にあるのかなど、その子細はあまり知られていない。

 寺院の入口で祭壇用の線香を買い求め、メルとテレントは連れ立って門をくぐり奥へと進む。あたたかな春の宵で花も盛りのせいか、境内は参拝の人々で溢れている。

 この国で言う線香とは、大人の手首から肘にかけて程の長さのある赤紫色の竹籤のような棒のおおよそ半分ほどを、黄銅色のざらりとした表面で硬い土のような物が覆っている、一見すると花火のような代物だ。その先に祭壇前の朱塗りの木造りの台に立てられた蝋燭の火を点すと、ふわりと薄灰の煙が漂い出した。ほのかに甘い匂いが部屋のあちらこちらから香り、それに寄り添うように人々の祈りの声が続く。

 線香を供えた後は、麒麟の祭壇の前に敷かれた小さな茣蓙の上に跪いて合掌し、そして地に伏せるように頭をつける。それから胸中(もしくは口中)で自身の名と居住地などを述べ、それから願い事を唱える。訪れた人々の全てがこれを行うのだから、境内が混み合うのも無理はない。

 中でも、テレントは熱心に手を合わせ、地に額を擦りつけるようにしていた。メルが参拝の粗方を済ませて顔をあげてからも、暫くはそうしていた。


「えらい、熱心だったな」


 混み合っていた寺院の外れで、どうにか貰うことのできた雨前茶の入った茶器を手に、メルがテレントに呟く。ざわめく境内から少し離れているせいか、メルの声は宵闇にくっきりと浮かんだ。

 二人の目前には、樹としての盛りを過ぎた桜の老木が、ひっそりといくつかの花を咲かせていた。枝垂れた枝の先に開く花は薄紅色の八重で、ひそやかながらも静かな美しさを放っている。

 小さな茶器の茶を、煽るようにして飲み干したテレントは、メルの言葉に弱く笑って答える。


「まぁね……折角だから」

「そうだな……で、どうする?」

「どうするって?」

「なんか食うんじゃないのか?」

「そうだねぇ……揚げ餅かな。肉が入ってるのがいい」


 境内から抜ける門の出入り口で使用した茶器を寺の者に渡し、二人は浮かれる通りを行く。

 寺院のある通りを一本抜ければ、露店がひしめく通りに行き当たる。一歩踏み込めば、先程テレントが望んだ揚げ餅の香ばしい匂いが漂い、更に奥からは甘い焦がし砂糖をたっぷりと蒸し立ての麺麭めんぽうにかけた菓子の並ぶ店が続く。

 色とりどりの灯篭の下に並ぶ湯気を立てる食べ物と、それを買い求める人々の姿は、この世の幸福の象徴のように思える。灯りの下ではみな平等にしあわせで、暗い影など微塵も感じさせない。譬え、それぞれの胸の奥に計り知れない悲しみの闇を抱えていたとしても。



 院の部屋を出てから、気落ちしていてろくに食事を摂って来なかった反動か、テレントは覗きこむ店の先々で必ずと言っていいほど何かしらの食べ物を買い、口にする。

 普段より格段に食欲が落ちた事をひどく気に掛け心配していたメルは、その名残を欠片も見せないテレントの姿を腹立たしく思いつつも、ひとまずの復調ぶりに胸を撫でおろす。


「……おまえなぁ、食うのは良いけどさぁ……」

「なに? いる?」

「……いい。ここんとこ食ってなかったんだからさ、反動でそんな食うと腹壊すぞ?」

「へーきだよ。俺、腹だけは丈夫なの知ってるでしょ?」


 子どものように灯りの下で笑いながら、串焼きの肉の脂に口の傍を汚した顔が言う。無邪気で無垢で、ただただ望まれるままに敷かれた路を進み続けて来た彼の顔が、あまりに昔のままであることが、メルの胸を突く。

 その表情を無防備に見せることができるのも、恐らくもうこの辺りまでであることを、彼は知っているからだ。

 テレントの家もまた、この時期になると桜の咲き綻ぶ自慢の庭を開放し、雨前茶を訪れた人々に振舞っていた。

 彼らの家にもまた古く大きな黄来禽の樹があったのだ。甘い香りのする黄来禽の花びらと薄紅のやわらかな八重咲きの桜花の花びらが、時折吹くあたたかな春の夜風に舞う様は宵闇に咲く幻夢のようであった。

しかし彼らにとっての花見とは、家の主である祖父や父親達の傍らに姿勢を正して並んで座っているようなものばかりだ。

楽師を呼んで演奏をさせ、土地の名士を招いて宴会を催すこともしばしばで、その間ずっとテレントは主賓達からの硬い言葉で包まれた挨拶を受け続け、メルはそのすぐ傍らに控えていた。

 目の前に並べられた馳走はどれも華やかではあったが、ただ粗相のないように振舞うことが精一杯で口にするような余裕などない。だからと言って空腹を覚える余裕もなく、ただただ散りゆく花を見つめている他のない、それが彼らの花見であった。


「あのさ、」

「うん?」

「俺、もしかしたら……もう、院に戻れないんじゃないかって気がする」

「……は? どういうことだよ?」

「だってさ、家はきっと今頃、あんなふうに茶を振舞ってることもできないだろうし、ましてや、いつものように宴会なんてしてる場合じゃないだろうなって思うんだよ。なにせ、黄来禽に何かあったんだから。そうなったらさ、俺を院に通わせてる余裕なんてないと思うんだ、俺に帰って来いって言うぐらいだし。少しでも、火難での修繕とかに充てた方がいいだろうからな。だから――」

「……って言うより、おまえは、そうなればいいって思ってんじゃねぇのか? 中途半端な学を身につけたって何にもならないとか言って、院に戻らないとか言って、それならば武官になるとか――」


 宿に向かう道すがら口を開いてきたテレントの言葉に、メルは思わずそう返した。いつもの口癖が始まったと思ったからだ。

 院での講義についていけないとか、出された課題が難題で解く気がしないとか、そういった時に必ずと言っていいほど自分を院へ送り込んだ家の方針を疑問視する言葉を零した。自分じゃなくて、もっと優秀なやつ――例えばすぐ下の弟にやらせればいいのに、と。

 そのたびにメルが、そんな考えが浮かぶのは自分の目の前にある面倒な事柄から逃げたくなっていたり、弱気になっていたりするからだと懇々と説いて聞かせる。

 勿論それは、メルの本心からの言葉ではない。家督を護るために育てられてきた存在を逃さないために寄り添わされてきた存在である自分の役目だと自任した上での言葉だ。

 懇々と説かれるたびにテレントは仏頂面になり、更に子どものような言葉を並べ立てて言い訳を続けるのだが、たいていはそのすべてを言い終わらないうちにメルに再び説き伏せられてしまう。そして、渋々と目の前の難題に向き合わされるのだ。

 しかし、テレントはいつになく強い厳しい口調で、呆れたように溜息をつきながら言葉を紡いでいたメルを睨みつけながら言葉を返してきた。彼の言葉を遮るように、毅然とした態度で。


「俺はただ、大事で家がどうなってしまってるのかが想像つかないから、そう言うことだってありうるって話をしただけだよ」

「…………」

「……俺の望みじゃない。俺は確かにすぐ愚痴を言うけれど、そういうことじゃない」

「……そうか。」

「それに、決めるのは俺じゃない、父上だ」

「……そうだな。そうだったな……」


 形相の険しさにメルは言葉を失くし、テレントの言葉にただ頷く他なかった。テレントは踵を返し、足早に歩き始める。多くの人々が往きかっている中を突き進んでいく姿を、メルは佇んで見送る。

 彼から薄らと漂う怒りの感情と気迫に、メルは自分の言葉の愚かさを悔いたが、遅かった。テレントが自分の望みを高らかに叫ぶことを、本能的に封じられながら育まれてきた事を今更に思い出したからだ。

 幼き日の真っすぐでささやかな望みすら一笑に伏されてしまった、痛々しいほど家督に従順な背中を見つめながら、その後を追う。

 口の中に残る雨前茶のほのかな甘みが消えていくのを感じながら、未だ眠る気配すらない花宵の街の中を二人は黙々と歩き続けた。



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