第2話 豊かになって花開く生命の生る樹
あたたかな昼下がりの陽だまりの中、丘陵の麓から野の花を手にした少女が二人、駈けあがってくる。
二人は井戸の傍にある門前の石段に座って話し込んでいる二人の若い男たちの姿を認めると、それぞれの名を呼んで大きく手を振り、彼らもまたそれに手を振って応える。
やがて二人の男たちは立ち上がり、井戸に向かって歩いていく。こちらに向かって駈けて来る少女らに喉の渇きを潤す水を用意してやるためだ。
井戸の傍らにはいつの間にか
「あー、やっぱ、うまぃねぇ! ほら、フリトも飲みなよ」
「うん。あ、おかえり、アズナ、サチナ」
「ただいまぁ!」
「ただいまー!」
元気の良い幼い声と共に、それぞれの手に握りしめられていた野の花が差し出された。小さくて黄色い花をそっと受け取ったのは、その花のように鮮やかな黄金色の髪の色をした男だった。
「あぁ、もう、
やがてアズナが、水で満たされたひしゃくを目ざとく見つけ、「ねぇ、アズも、アズも飲むぅ!」と、声をあげた。しかしそれを、先程の彼らのやり取りを見ていたらしいサチナが制す。
「待ちなよ、アズ。あんちゃの次はフリトが飲むんだよ」
「じゃあ、その次ぃ!」
「その次はあたしだもん。アズは最後だよ」
「やぁだ、飲むのぉ」
「順番だってカカ様言ってたでしょ! 歳の順でしょ。」
「やぁだ、飲むぅ!」
「いいよ、俺は後で。はい、アズナ」
最初に水を飲んだ若者から、再び水で満たされたひしゃくを受けたフリトは、苦笑しながらアズナにそれを手渡す。
受け取ったアズナは、幼子特有の癇癪蟲を滲ませていた表情をぱぁっと明るくさせ、ひしゃくを受け取る。
「ありがと!」そう、礼を言うのも早いか、小さなひしゃくに注がれた水を、喉を鳴らしてひと息に飲み干してしまった。満足そうに溜息をつき、空になったひしゃくをフリトに差し出す。
「じゃあ、次はサチナの分」
「えっ、フリトは?」
「俺はまた汲むから大丈夫。サチナは小さい女の子だから、重い釣瓶で汲むの大変でしょ?」
そう、フリトから柄杓を差し出されたサチナは嬉しそうに頷く。新たに注がれた水を、フリトの言葉に甘えてサチナはそっと飲み干し、小さくフリトに礼を述べる。
井戸から汲んだ水をそのまま飲むのはこれで数回目だが、何度飲んでもその芯から冷えた水の冷たさと清らかな味わいに口元が綻んでしまう。
そして同時にこれまでずっと口にしてきたものがどれほど酷い物であったのかを改めて知り、またその恩恵を受けられることの有難味も覚えるのだ。
この村の人々は、かつて日照りが続けば当たり前のように井戸が枯れ、日々の水を得る為に半日掛かりで近隣の集落まで徒歩で向かい、頼み込んで水を分けてもらいながら皆暮らしていた。
頼み込むだけでは分けてもらえないことも少なくなく、そのために家財を差し出して交換してもらったり、それすらない者は、幼子や若い娘を差し出したりすることも決して珍しいことではなかった。
水は飲み干せばそれまでだが、飲み干したからと言って、水と引き換えに人手に渡った家財や家人達が戻るわけではない。それでも、生きていくためには他に手立てがなかった。
このままでは村が消えてしまう――そう思った村の長であるリュウエンが、跡取りでもある孫息子に伝説の秘宝を探しだしてくることを命じたのが約二年前。
秘宝は、手にした者のあらゆる願いを叶え、絶対の富を約束するという謂われのある一顆の黒金剛石。その所在の仔細も不明瞭なそれに、村のすべてを賭け、そして彼に託したのだ。
郷のすべてを託された彼は、文字通り命懸けでそれを探し求め、奇跡的に手にし、再び故郷の地を踏むことができ、いまがある。
「あら、まーたお水ばっかり飲んで! あんまり飲みすぎると、お腹が冷えちまいますよ!」
井戸の周りで冷たく澄んだ水の味にはしゃぐ少女たちに、呆れた風に声をかけてくる者があった。
振り返ると、籠いっぱいのまだ泥のついたままの野菜を抱えた、丸みのある、恰幅のいい中年の女性が笑って立っている。日によく焼けた丸い頬には汗が光り、ざっくりと後ろにまとめ上げられた金髪もまた埃と泥を被って色褪せている。手も腕もまた同じように泥だらけではあったが、彼女はそれを特に気にも留めていない様子だ。
彼女は、少女らの屋敷に住み込みで働く侍女のひとりで、ウーマという。評判の働き者で、ころころと丸い体格に似合わず身が軽く、力も強い。言うことを聞かない家畜の豚をひょいと抱えてしまうことなど朝飯前だという。
「だってウーマぁ、お水、美味しいんだもん」
「そりゃそうでしょうよ、お兄様達が命懸けで獲って来て下すったんですからね。でも、おいしくっても、過ぎれば毒ですよ。ほら、アズナ様も、冷たいのはそれでおしまいになさいな」
「えー……」
「ウーマの言うとおりだよ、アズナ。また明日、汲んであげるから」
「ほら、グド様、フリト様も」
「え、俺らも?」
「あたりまえです。毒になってしまうものは大人も子どもも同じです。さ、今からここは野菜洗いに使うんですから、屋敷の中へお入りくださいな。お茶とお菓子をご用意してありますから」
ウーマの言葉に少女らは元気良く返事をし、勢いよく屋敷を目指して駆けて行く。囀りのように交わし合う彼女らの声に、残されたグドとフリトは顔をほころばせる。
二人が命懸けで――途中、フリトはその命を本当に一度失ってはいるのだが――村に水源を生みだすこととなった秘宝を持ち帰ってから、十月ほどの月日が流れた。
生きて再び会える保証はもちろんのこと、その亡骸すら拝めるかもわからない旅の無事を知った村人の、殊にあの幼い少女たちの喜びようは計り知れない。
おおよそ一年と半年ぶりに自分の姿を確認した瞬間の妹二人の顔を、グドは昨日のことのように憶えている。
小さな村のすべてを託された彼の生還を心から喜ぶ者は家族以外にも多くいたのだが、旅路で夢に見るほどに彼が気に掛けていたのは彼女らであったから、その心中を想うと、穏やかに過ごせる今を言い知れないしあわせに感じるのだった。
「さ、お二人も屋敷にお入りくださいな。もうじき陽が落ちて冷えてきますよ」
「あ、うん。行こうか、フリト」
「うん」
ウーマから中に入るよう促され、洗われた野菜たちが瞬く間に傍らに積み上げられていくのを横目に、二人は井戸のある広場からすぐ近くの、石が積み上げられて造られた門をくぐる。
門をくぐった先には低木の古い果樹が出迎え、その周りには更に背の低い木製の柵がぐるりと縄を渡されて囲まれていて、その枝々には小さな薄桃を帯びた蕾が揺れている。
蕾の他にも、大ぶりな梅の実ほどの大きさの果実をつけたものもある。淡い黄みを帯び、ほのかに甘い香りをさせるこの実の中には、子どもの素となる種が入っているという。
祝言をあげ、夫婦の契りを結んだ者の片方がこの実を食べることで子を授かり、十月十日を経てこの世に生み出されることとなる。
実際、樹は主に村の長とされるような者の家や、寺院などに植えられていることが多い。
勿論人里を離れれば森の中に野生の黄来禽もあり、こうのとりが根元に留まっていることが多いため、野生の物は
この村の長であるグドの家にも昔から黄来禽の樹が植えられているが、ここ数ヶ月ほどの実の付き具合が随分と今までと随分と違うという。
「違うって?」
「んー……なんか、今までずっと見てきてたけど、こんなにたくさん、それも大きなのが生ることってあんまりなかったから」
「そうなんだ」
「生っても風に吹かれたりしたらすぐ落ちたり、小さすぎて熟しきれないまま枯れたりってのが多かったんだ」
黄来禽の実は、完熟して初めて採ることを許される。ただ、出産経験のない者や夫婦の契りを結んでいない者は花や蕾にも触れることも許されない。触れてしまうと、その実を食べても子を授かることは出来ないと言われているからだ。
しかし、いくら許された者以外の手が触れぬように気を配っていても、実が生らなかったり、生ってもすぐに枯れてしまったりすることもある。
理由はよくわかってはいないのだが、黄来禽の植えられている地域の情勢によって左右されると言われている。街の施政が腐敗したり傾いたりしていれば、たちまちに樹は変調をきたす。葉が黄色く染まって落ち、未熟な実が増え、熟し切らずに落ちていく。
新たな生命の誕生を天が拒んでいる――樹の変調は、その地域を蝕(むしば)む負の存在を示すと言われている。そして樹が枯れてしまえば、たちまちに魔獣が街を襲うようになり、街は衰退と荒廃の一途を辿る、とも。
滅びの一途を辿る前に大方の場合は持ち直し、樹の変調も緩やかになってやがては止まり、復調していくのだが、ごく稀に、それもままならず滅んでしまうこともあるのだという。樹が枯れ、死んでしまえば、その地に人は生きていけない。
グドの村は永きに亘り渇きに悩まされ続けて来たことが原因だったのか、渇きがひどくなってきた頃を境に、樹が年を追うごとに小さくなっていっていたという。彼は生れてこの方、自分の両手の指の数以上に実が生っているのを見たことが殆どなかった。
実は生っても総てが育ちきるわけではない。無事に実が育ち、親の体に根付き、十月十日を経るまでの間もまた困難が多い。特にこの村では生命を繋ぐ基となる水が根本的に不足していたのだから。
年々と減り続けていく子どもの数からこの村の将来を憂い、彼は長である祖父からの務めを受けたのだ。
「今年に入ってからはね、なんか違うんだよねぇ……今の段階でもう、俺の歳の数より多い。葉も花も生き生きしてる気がする」
「へぇ……やっぱ、あれだね、立派な井戸ができたからだよね」
「そうかもなぁ」
淡い色の花の影で揺れるささやかな果実を眺めながら、二人は言葉を交わす。ほんの少し前まではこんなに穏やかな気持ちになることもなければ、お互いの存在すら知らなかったのに。
天のご所思によって引き合わされたと信じる彼らの出会いからひとつの季節が廻った今、ようやく自分たちが成し遂げた事の意味を噛み締める。
頬を撫でる冷たい晩冬の夕暮れの風が、心なしかやさしく感じられるのは、そこに芽吹きのぬくもりを感じるからだろうか。それとも、互いを必要とする存在をすぐ触れられるほどの距離に感じているからだろうか。
「あんちゃー、フリトー。お茶、冷めちゃうよぉ」
「あぁ、うん」
「いま、行くよ」
奥の屋敷の入口から、先に中に入っていた妹たちに声を掛けられ、二人は我に返った。そっと互いの顔を見合わせてくすりと笑い、妹たちとあたたかなお茶の待つ部屋の中に入って行く。
冬至の頃よりも幾分か永くなった陽は緩やかに今日も村に一日の終わりを告げる。集落の家々からは夕餉の支度をする煙がいくつも棚引いていた。
一陣の気の早い南風が吹き抜け、その煙を揺らす。新しい季節がそこまで来ていることと、その陰に潜む傷みを入り混ぜて撹拌させながら。
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