生命の実のなる樹と彼らの未来を巡る旅の物語

伊藤あまね。

第1話 彼の許に届いた火急の翼


 干支国かんしこくの西の都・酉暮とりぐれの郊外に開かれた広大なひとつの敷地の中に、東西の都に一校ずつ建立されている国の最高学府の院がある。

 各地の高等科の学舎の中でも優秀な成績を修めた者だけが集うと言われているその一角の学生寮の一室で、ひとりの青年が文机の前に座り唸っていた。

 褐色の良く引にやけた肌の彼は、ひと山五~六冊ずつの本を積み重ねた山々の狭間にいて、それを城壁のように隔てた背後にまたもう一人同じ年頃の緑の眼の男が胡坐をかいて座っている。


「んぁー……ねぇ、頼むよぉ、メルぅ……代筆してくれよー」

「駄目だ。俺とおまえの筆跡じゃあまりに違いすぎるっつーの。だいたい、今回代筆してやったところでどうなんだよ? 卒業する時の口頭試問で、もし今解いてる問題が出たとしたら、テレントは何にも答えらんねぇだろ?」

「うぅ……そうだけど……」

「解ってるなら、自分でしろ。それがおまえのためだ」

「じゃあ、これメルに解いてもらって、口頭試問もメルに行ってもらう……」

「っだぁほ!」

「いってぇ!! なんで殴んだよ! これ以上アホになったらどうすだよ!」

「なりようがねぇよ。いいから解け、口より先に手を動かせ」

「……はぁい」


 ひとつ甘えたことを言えば、三つの正論を突っ返されてしまう。メルに叩かれた後頭部をさすりながら、渋々とテレントはまた広げた書面に神経を戻す。

 東の都・明卯あけうより留学という形で国の最高学府に籍を置いてはいるものの、彼は正直勉学あまり好きではないようだ。

 何せテレントの特技は剣術で、それで身を立てていきたいと思ってはいるのに許されない環境下にあるのが彼にこうして不満を零させるのだ。

 そしてそんな彼を叱り飛ばすメルは、彼に付き従う治癒系の精霊の血をひくお抱えの杏林(医者)で、こうしてなだめつつも彼をあるべき方向へと軌道修正していく役割を担う。

 人並みに読み書き計算、多少の物事を知っていれさえいれば生きていくのに不自由はないという考えと、生来の机の前に大人しく座れない性質もあってか、テレントは現状が窮屈で仕方ないようだ。

 それでもこうして、好きでも得意でもない行政学の蔵書を何冊も広げて机の前で唸っているのは、彼の置かれている立場がそうせざるを得ないものだからだ。


「つったってさー、どーせ俺は役人じゃなくて道場を引き継ぐだけだからこんなのいみねーんじゃねぇの?」


 自分の頭を叩いた相手に聞えよがしに愚痴を零しながら、テレントは課された課題論文の参考文献を捲る。

 勿論、その相手であるメルはいちいちそれに取り合わない。山積みされた蔵書の背後に、光採りの窓を背にして仁王立ちし、彼を見張っていた。いいからさっさと手を動かせ、そう、無言で圧すように見つめながら。



 干支国の最高学府である院を卒業することは、国の政に関わる役人の中でも最高位の職に就くことが約束されている。勿論その約束を得る為にはそれなりの優秀な成績を卒業試験で納めなくてはならない。

 役人の種類は大きく、「幹部官」「文官」「判官」「武官」の四種に分類されており、合格者の大半は幹部官の職に就く。中央都市の施政に携わり、ゆくゆくは国政に打って出る者も少なくはない。

 そもそも、院に通うためには高等科までの学舎を優秀な成績で卒業し、卒業する学舎の学長から推薦書を貰った上で試験に臨み、そして合格を勝ち取らなくてはならない。

 つまり、机に座ることが性に合わないと思われるテレントであっても、一応、地元の学舎ではそれなりの成績を修めてきたということだ。

 それに、いくら成績が優秀であっても、入学する際に要する学費を工面できなくては意味がなく、入ってからも学業に要する蔵書諸々の経費は計り知れないのだが、院に入るまでの経済的問題も、テレントの場合は難もなくこなしている。試験のために優秀な家庭教師をつけてもらえる上に、入学後も様々な生活費などの援助を受けられる、そういった恵まれた環境に彼は置かれているのだ。

 譬えそれが、彼の意思を全くくむことなく推し進められているものだとしても。

 テレントが意思に関係なく国の最高学府に半ば無理やり入れられている最大の理由は、彼が明卯でも屈指の名門の武術家の後継ぎだからだ。

 何代にも亘って受け継がれてきた血統はその誇りに満ちたもので、彼はそれを繫いでいく一部にすぎない。その誇りを汚さないための知識や教養などを身につけさせられるために、彼はここにいるのだ。

 実際、官吏資格者を希望しなくとも、テレントのように家の事情で院に進学を希望する者も少なくはない。特に、地方出身の、集落の長の子息が多いと言われている。

 どうせ官吏資格者になるような勉強をさせられるなら、いっそ、武官になりたい――剣術ではこの国において右に出る者はいないと自負している(実際その通りである可能性は高い)テレントは、初等科に籍を置いていた十二歳のある晩に、将来的には院への進学をするよう父に命じられ、その時に彼はそう答えた。官吏試験を受けつつも、結果として得意の剣で文字通り食べていけるのであれば、それでもいいではないか、と。それが自分の家に伝わる剣術を存分に生かせる路ではないかと考えたからだ。

 しかし、政を司る幹文官などを目指す者たちが集う院にまで進んでおきながら、彼らに顎で使われるような武官にわざわざなろうと言う発想が信じられない、と、父を始め、親族たちに冷笑されてしまった。


「おまえは人に使われるのではなく、人を使うための術を学ばなくてはならないんだぞ?」

「何故ですか?」

「何故も何も、おまえはこの家の後嗣こうしだ。それ以上に理由はなかろう」


と、彼の考えは一蹴され、それきり、テレントは何も言い返す機会も与えられなかった。

テレントは少し首を不思議そうに傾げただけで、それ以降武官になりたいという言葉を口にすることもなかった。これ以上何かを意見しても無駄だと思わせたのかもしれないが、それはメルにもわからない。

そして数年後、テレントは言われるがまま初等科から中等科、高等科へと順当に進路を進め、最高学府へ入るための試験を受け、現在に至っている。

メルはそんなテレントの姿を、少なからず不憫だと思ってもいたが、彼もまたそれに意見するほどの気概を持つことが許されていなかったのだ。



 院に籍を置くようになってからのテレントの口癖のようになってしまっている愚痴を聞き流しながら、メルが物思いに耽っていると、ふと、背後の明かり採りの窓の方から翼の羽ばたく音がした。

 報せの鳩の翼の羽ばたきよりも力強いそれに、暫し机に向かっていたテレントも振り返っていた。二人が見やった視線の先には、明かり採り窓の枠いっぱいになるほどの大きさの大柄な鳥が停まっていた。

 薄墨の翼と頬の髭のような模様からそれがはやぶさであることに二人が気づくと同時に、それがここにいる理由に妙な違和感を覚えた。

 通常、報せを飛ばす際には鳩を用いるのだが、報せの内容によっては飛ばす鳥を変えることもある。薄墨の翼の隼はその中でも最も速い翼を持つ鳥であることから、運ばれてきた報せが急を要するものであることが推測されるからだ。

 そしてそれを飛ばすほどの火急な報せとは、たいてい、良くないものであることが多い。

 メルが窓枠に停まるそれをそっと捕えてみると、その足には銀製の小さな筒が結わえてあり、筒には見覚えのある剣と桐の紋が彫られていた。

 筒の印を眼にした途端、いつの間にかメルの傍らにまで寄っていたテレントが、ひったくるように筒を取り、中を開けた。小さく折りたたまれた便箋が転がり落ち、それもまたテレントが開いていくのももどかしそうに慌てる手中で解いていく。


黄来禽こうらいきんに大事あり。至急、戻られし。」


 よく知る雄々しい筆跡でただそれだけが綴られた紙面を前にテレントの顔面が色を失っていく。報せの紙を握りしめたままその場にへたり込んでしまってはいたが、気を失うまでには至らなかったようだ。

 ただそれは紙一重のようで、いまにも爪先立つ意識の糸は切れてしまいそうだった。

 テレントの隣で同じく手紙を読んでいたメルが慌ててテレントの肩に手を置き、擦るようにして無言のうちに気遣う。テレントは普段、喜怒哀楽が豊か過ぎるほどはっきりしてはいるものの、滅多なことでこのように顔の色を失うほどに動揺することがないので、文面の内容よりもそちらの方がまずメルにとっては気がかりになってしまっていた。


「大丈夫か?」

「……あぁ……それより、帰らないと……黄来禽が……」

「……そうだな」

「でも、大事って、まさか……」

「まぁ、落ちつけよ。もし本当に親方様にも何か遭ったんだったら、ウチの隼を飛ばすことはできねぇだろ。これを飛ばせたし、そんで、自ら……かどうかはわからねぇけど、とにかく、文を書くようなことだって出来たんだ。黄来禽に大事は確かにあったんだろうけど、慌てふためくのは文面の事実を眼にしてからでも遅くねぇだろ」


 鳩に比べて非常に高価である隼を、役所の公務用以外に所有する者は極僅かだ。その高価である翼で、しかも自らの紋の入った書簡を送って寄越してくるということは、大事があったとはいえ、そうするだけの余力はあるということになる。降りかかった大事に報せの翼が呑まれなかったということだ。

 しかし、それは彼らを安堵させるほどの効力は持たないのは言うまでもない。こちらに迎えを寄越すほどに現場に余裕がないのではないかとも推測されるからだ。

 己の言葉にテレントを落ち着かせるだけの力がないことを、メルは百も承知していたが、それ以外に言葉が浮かばなかった。

 何にしても、出来る限り早くここを発ち、明卯の家に向かうべきであることだけは確かだ。


「俺、先生達に事情話してくる。んで、また暫く休学するかもって」

「あぁ、そうしろ。その間に荷造りしといてやるから」

「ありがと」

「……テレント」

「ん?」

「しっかり、しろよ。おまえは、あの家の後嗣なんだから」


 メルの言葉に、部屋を出ていきかけていたテレントが力なく笑って頷いた。解りきったことを言うなと言いたいのか、それとも、心許ない胸中を見透かされたようで伐悪く思っているのか、すぐに部屋を出ていってしまったために真意を窺い知ることは出来なかった。


 テレントが部屋を出て言った途端、メルは大きく溜息を吐いた。

 それから、捕えてから腕に停まらせていた隼に、ここまで火急の報せを運んできたことの労い、食料品を備蓄している棚に置かれている壺を取り出した乾燥肉の欠片をそのくちばしの中に放り込む。隼は放り込まれた肉片を美味そうに音を立てて齧っていた。

 それからそっと鳥を腕から降ろして窓枠に停まらせ、そっとその翼を撫でた。撫でられた鳥は心地よさそうに小さく唸った。


「――親父たちは、無事か?」


 訊ねたところで答えがあるわけではないが、思わずそうしてしまいたくなるほどに彼もまた心許なかったのだ。テレントの実家であるその家は、彼にとってもそうであり、彼の両親をはじめとする一族が住まわっているからだ。

 厳格が服を着て歩いているようなものだと、テレントと二人で子どもの頃こっそりと揶揄していたほど、己にも家族にも、殊に後継ぎであるテレントに厳しい父親からの火急な報せは、事態の大きさを物語っていることも思わせた。

 事実を眼にするまで慌てふためく必要はないとテレントに言った言葉は、実のところ、自分に向けたものだったのかもしれない……報せを受けた旨と、すぐにでもここを発つ旨を綴った書簡を再び薄墨の翼に託し、飛び立っていく姿を眺めながら、彼はぼんやりと考えていた。

 胸中で渦巻く不安に苛まれながらも、メルは窓辺から離れ、慌ただしく帰省のための旅支度を始めた。



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