博士が示した黄金の扉

@tsuboy

第1話

木の重い扉を開くと、空気を振るわせる「ぶううっ」という音が聞こえてくる。博士の家では、いつも機械が休まずに動いている。廊下を歩いた奥にキッチンがあり、自動扉をくぐり、その先のコンクリートの部屋が研究室だ。

博士はコーヒーの入ったマグカップを僕の前に置いて「よくきたね」と迎えてくれる。

「取り組んでいる研究が面白い形に仕上がってきてね、君の協力を願えないかと思うのだよ。」

「博士の研究というのは、どのようなものでしょうか?」

「うむ・・・。」

博士は自分のマグカップを手に、後ろを向いた。白金色の金属箱を操作して、しばらくすると音楽が流れ始めた。ワーグナーの「ワルキューレの騎行」が上質の音響空間に響き、博士の前髪がスピーカーからの風にふわりと舞った。


 博士は遠くを見つめた目でこう切り出した。

「君は、シンクロニシティーなるものを御存知だろうか?意味合いとしては『同期同調する』ということになる。」

「ユングが提唱した偶発的な心理現象のことでしょうか?」

博士は肩を動かさず、コンクリート壁の先を見つめていた。

「偶発的・・・実に心をかき乱す言葉だ。」

博士はマグカップのコーヒーをゆっくりと口に運ぶ、僕も机の上のコーヒーを同じように口に運んだ。ビーカーとアルコールランプで沸かしたわりに、味はしっかりとしていた。

「この世界にあるものは、すべて偶発的という言葉で説明することもできる。ひとつの現象がさらなる現象に連鎖し、そして出来上がっている。それらが、一つの意思のもとに総括されているようにも思われる。君は、そうした『意識』と同調した経験を持っているかね?」

「自らの内にある別の声、ということでしょうか?」

「そうだ」

「良心の声としてなら、聞いた事があるように思います。」

博士はこちらを向いて、机の上にマグカップを置いた。

「それは良心の声とは限らんのだよ。ある種の客観性を帯びた声に過ぎん。実は、君にその『客観性の声』となる経験をしてもらいたいのだ。」博士の声は、辺りの音を縫うように僕の耳に届いていた。

ワーグナーの楽曲が、モチーフの旋律を高らかに歌い上げる。

「黄金のドアをくぐり、『意識』の世界に足を踏み出したまえぇぇぇ!!」

博士の声が特殊な音響効果の施された研究室に鋭く響き渡った。博士の差し出す手の先に、光り輝く黄金色の扉が煙の中から姿を現わせた。僕は、耳鳴りに似た重い振動が足から全身に響くのを感じていた。


 黄金のドアをくぐるのは、意識である。つまり、その扉を開くのは無意識。人が無意識に一番近い状態とは、睡眠であり、僕は博士が用意した睡眠薬を服用してまどろみの海に沈んでいた。

「潜るだけではいかんぞ。それでは、単なる昼寝になってしまうからな。」

博士が隣で僕に語りかけてくれる。僕の無意識を正しく黄金のドアへと導いてくれる為だ。研究室の音楽は、ビートルズの「ディア・プルーデンス」に変わっていた。

「思いのまま、深く潜るといい」

目を閉じて降りてゆく深海の水は重く、水あめのように身体にまとわりながら、さらりと身を清めてくれる。

「意識に絡み付いているものを解きほぐしていくといい。心を縛るものを一つずつ置いていくのだ。」

ほろりと身体からこぼれる思いに別れをつげる。ついさっきまで覚えていたことなのに、一度離れた思いは意識に触れることができなくなる。あんなに大事なことだと思っていたのに、それは記憶にも浮かばない。

「気にしなくてもよい。君はそうしたものをいつでも取り戻すことができる。それらの思いは海を漂うだけで失うわけでは無いのだからな。」

意識を縛っていたものは、深い海の中で己の命に目覚めた魚のように泳いでゆく。それらは、きっと僕が意識の中でずっと縛り付けてきたもの一つ一つだ。「さようなら」と僕は笑顔で遠くなる思い出に別れを告げる。

「気持ちを重ねてはいかんぞ。旅をするには、心を軽くしなくてはならん。」

そうした思い出のなかには、きっとあの人のこともあるのだろう。横顔を思い出そうとして、彼女の表情が霞んで白い渦の中に消えていった。意識が軽くなり、そうした罪の意識からも解放される。

「君の想う相手は、君が思うほど、君の事を覚えてはおらんよ。気に掛けることは無い。それはあたりまえのことじゃて、風が吹いて木の葉が揺れるようなことと同じ、ほんのあたりまえのことなんじゃ。」

さびしいという気持ちが生まれたが、それは骨の透けた魚のように、僕の肌に触れて遠くへと泳いでいった。

 自分が何も持たない風のような存在に思えたとき、僕の意識は深遠の砂にふわりと触れた。頬から始まった砂地に着くような感覚は、ゆっくりと全身に拡がった。

「どうやら底に着いたようじゃの、しばらくそのままにしていたまえ。」

計器のモニターを見ながら僕にかけた博士の声は、どこか的が外れて聞こえてきた。


 

僕は光に溢れた砂漠の上で横たわっていた。感覚と呼ばれるものはすべて剥ぎ取られ、抜け殻のような自分が存在としてその場に転がっていた。身体に力を入れ、膝をついて起き上がる。光が強くさしている方角を見極め、砂地に足を踏み出す。強い光は、白く色を失ったようにそれ自体が発光をしている。白い光に包まれた身体は、細胞から分解されるように輪郭を失っていった。その先へと踏み出す足が光に分解され、意識も分断された。

 散り散りになった意識の破片は、時の交錯する過去の風景を眺めていた。吹き溜まりに集まった過去の風景は脈絡の無いフラッシュバックのような映像であった。そこには新しく生まれる命があれば、死に逝く魂の陽炎もあった。それらの命は糸のように互いに集まって束なり、それから粉々になって森の木々へと降り注いでいた。雨の日に限って起こるそうした風景は、雲の間から陽の光が差し込むときにきらきらと空が輝いてみえた。僕は長い間、そうやって森の一部になって空を見上げていた。

 

 時間のほとんどは意識を引き伸ばした折に過ぎ去り、森は髪が伸びたり抜け落ちたりするように縮んでは大きくなった。ふと気がついたリスの親子に意識を移すと、時間はブレーキをかけたように留まって彼らの生活を映し出した。生まれたときから素敵な尻尾を持っていた子リスは、ふわふわの毛で自分の首の後ろを撫でるのが癖だった。初めてデートに誘われたときも、内緒で木の実をたくさん埋めてある木の根元に連れていかれたときも、彼女はふわふわの尻尾をせわしなく振っていた。

 

 暗くなってからの森は、静かに私のことを見つめていた。夕食も終わり、焚き火を消して寝る準備を始めるころだったが、もう少し火が燃えるのを見ていたくなった。

 熱せられて、煙のような湯気を上げた木々が炎を衣のように纏い、ちりちりと音を上げて辺りを浮かび上がらせる。ゆらゆらと揺れる炎を見つめていると、考えていたことがほんやりと形を失っていく。青や緑の模様が炎のなかで生まれては消えていた。まるで虎の瞳のようだと、私は思った。森の奥の闇を見つめ、目に焼きついた瞳をそこに想像した。虎よ、虎よ、二つの燃える瞳が私を見つめている。

 恐怖という冷たい感覚は一度覚えると、身体の内側をぬめるように這い回った。それから逃れたく駆け出したい気持ちを抑えている。もし、本当にそうしたとしたら・・・獣は闇から飛び出して私を頭から飲み込むのだろう。

 森の巨大な闇を生き物のように感じ、私は焚き火の炎と闇とを交互に見つめて夜を過ごした。気がつけば、いつの間にか眠りに就いており、森の闇はそんな私に毛布でも被せるように、いつの間にか、朝の光が私を包み込んでいた。


 喉から心臓が飛び出しそうなほど、僕は走っている。緑の風景のなかを怯えるように、時折後ろを振り向いて、僕が小脇に抱えているのはぼろぼろになったキャンパス地の鞄だ。足に枯れた木々が絡みついて体勢を崩されたが、僕は鞄を両手で抱えながらバランスを整えてまた走りだす。

 なぜ、僕は走っているのだ?そう思いながら、視界にある風景を見つめる。視線のコントロールはできない。余裕さえあれば、僕は後ろを振り向き、何かをしきりに確認しようとしている。その風景は、木々に囲まれた森だ。熱帯雨林の森である。

 喉がからからに乾き、息がからんでうまく呼吸ができない。そのような状況でまだ走ろうとしているのが信じられなかった。もう止まれ、と言い聞かせてみる。呼吸がうまくできないんだ。止まるんだ、と言い聞かせてみる。それでも僕は後ろを振り向き、鞄を抱きかかえ、止ろうとしない。全身に『と・ま・れ!!』と念じると、僕は目の前にあった木の後ろに滑り込んで、止まった。

 ひー、ひー、と喉に穴が空いているような音が漏れる。僕は、その音を必死に抑えようとしている。上を向いて喉をできる限り開き、口を閉じて音を消しながら鼻で呼吸をしようとしていた。目を強く閉じ、全身で呼吸が落ち着くように念じていた。神経が張り詰め、自分の感覚が5メートル四方まで伸びているように感じていた。

そして、僕はゆっくりと目を開けた。照りつける日の光が、遠い木の上で木の葉に粉々に散らされており、僕はどこかで同じ景色を見たような気になっていた。それから、誰かが地面を踏み締める音が聞こえた。

緊張は一瞬にして冷たい恐怖に変わった。身体の芯から凍りつくように冷気が全身に走り、小刻みに身体が震え始めた。額からさらさらとした汗が流れ始め、僕はジャングルの熱気を感じていた。

今度は、小声でやり取りをする人の声が聞こえた。何を話しているのかまでは聞こえない。思っていたよりもずっと遠く、10メートルほど離れた所だろうか。声の高い男ともう一人の男が、短いやりとりを繰り返していた。僕は、自分の身体の震えが徐々に激しくなるのがわかった。視界にちかちかと赤や緑の光が瞬き始め、全く呼吸ができていないのがわかった。そうした感覚が徐々に強くなり、そして、すとんと何かが落ちたように、全ての感覚が自分のものになった。

僕は、森と一つになった感覚を抱いていた。視線は上を向いて、光が散り舞っている様子を見つめていたが、意識は後頭部から遠く離れた森全体を見下ろしていた。男たちは自動小銃を抱えて草木を踏み分けていた。僕には、その様子が手に取るようにわかった。男たちが見ているもの、触れているもの、嗅覚や聴覚で捉えているものまで、自分の身体のように理解することができた。

男たちは、僕の身体があるほんのすぐ側にまで来ていた。黒光りする銃身で草をかきわけて踏み出した足は、僕の身体を掠るほどすぐ近くを踏み締めた。僕は、男たちの視界のなかに入っていた。それでも、男たちに僕の姿は理解されなかった。僕は、景色の一部になっていたのだ。

僕はとてもおかしく思えてきた。笑っていたと思う。放心したように木にもたれたまま、口元がにやけて、目を細めていたと思う。男たちは、何かに気付いたように周辺を見渡し、それでも森にふわりとした風が吹いただけで、何も見付けられはしない。男たちは恐怖を覚え始めていたのだと思う。

自分が見つめているはずの風景に見つめられているという思い。そうした幼少期に感じていたはずの感覚を思い出し、恐怖を覚え始めていたのだと思う。男たちは手ぶりで短いやりとりを交わすと、僕のすぐ側を通り過ぎて来た道を引き返していった。

それからずいぶんと時間が経った頃、僕は眠りから覚めたように我に返り、立ち上がって近くの村まで歩いていった。

浅黒い肌のおさげの少女が僕を迎えてくれ、僕は「Doctor, here? Brought medicine. Doctor, here?」と聞いていた。



博士は、目を輝かせながら僕を覗きこんでいた。

「どうじゃった?」

新しく淹れたコーヒーを差し出して、博士は身体を起こすように僕に促した。

「はやく教えておくれよ。意識と同調した感じは、どうじゃった?」

「夢を・・・見ていたようです。」

自分の声が自分じゃないような気がまだしていた。

「森を走っておりました。」

「森を?走っておったのだね?」

博士はそう言うと計器の記録用紙をすばやく手に取り、目を走らせた。

「この辺りの波がそうなのかもしれんな・・・。走るのを唐突に止めはしなかったか?」

「はい。あまりにしんどくて・・」

そう答えてから、自分に感覚があったのかが解らなくなった。

「博士、今のは何だったのでしょう?」

「何だったとは、どういう質問かね?」

唐突に、自分の何かが汚されたような気を抱いていた。

「夢のなかにいるような経験でした。それが率直な感想です。でも・・・僕が経験したものは夢とは何が違うのでしょうか?」

「うむ。」

博士は背筋を伸ばして腕を組んだ。

「根本的には夢を見るのと同じということになるだろうね。違いは、それが人工的に作り出したものかどうかということぐらいじゃ。」

僕はマグカップのコーヒーを飲みながら「なるほど」と思った。

「しかし、夢とは根本的に違うこともある。例えば、君は今の体験を夢にしては『リアルな夢だった』とは感じておらんかね?夢にしては覚えていることも多く、詳細を話すことができる。そう感じてはおらんかね?」

言われてみると「夢」とは明確に違う部分も意識することができた。

「ポイントは、それが人工的に触発されたものということだよ。」

「人工的に作られたということは、それを再現することができるということですか?」

博士は、子供のように顔を輝かせてこう言った。

「まさに命題だよ!『同じ体験を再現することができるか?』『その体験を別の意識でも共有することができるか?』『そうした意識が、体験そのものに影響を及ぼすことができるのか?』興味深い課題は尽きん!」

僕は、何かが自分と違うところで、自分の思っていなかった方向に歯車が噛み合うような感覚を抱いていた。

「ちょ、ちょっと待ってください。」

そう僕は言った。

「博士、申し訳ないのですが・・・今日は、これで失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」

そう僕は言った。

「いいですよ。」

博士は、あっさりと言った。

「いつもと違う体験をして、肉体・精神的にも非常な疲れを覚えていてもおかしくはない。これから帰って身体を休めるといい。今日のことは、また後の機会に詳しく聞かせてもらえればいい。」

博士はそう言うとコンピューターに向き合ってデータの解析を始めた。

「そのコーヒーはどうだね、うまいじゃろ?ハワイのコナという豆を混ぜたのだよ。」

確かに、嫌みのない酸味だった。コーヒーに酸味など要らないと思っていた。


 家に帰ると、思っていた以上に自分が疲れていたのがわかった。テレビの前のソファーに座りこみ、しばらくは何もする気になれなかった。座っていた隣に読みかけの新聞が畳んであった。僕はとくに何も考えずにそれを手に取り、読んでいなかった部分に目を通した。朝刊の「今日のひと」という欄だった。

 紹介されていたのは、どこかの慈善団体で活動をしている人の話だった。「コソボで医療物資を隣村まで届けたときは生きた心地がしなかったですよ。」と、その人は話していた。「山賊が出ると言われる山を越えましてね・・・案の定、行く途中でばったりと出くわしたんですよ。」

「どうされたのですか?」とインタビュアーが聞いていた。

「逃げましたよ。思いっきり走って逃げました。男たちがパンパンと僕の後ろから銃を撃ってきましてね。」

「それから、どうされたのですか?」

「森のなかで隠れました。大きな木の後ろに隠れて、じっと祈っていました。『見つからないでくれ』って。」

「どのようなお気持ちだったんですか?」

「それが不思議と落ち着いていたんですね。なぜか『自分は大丈夫だ』って思えていました。自分が自分じゃないような不思議な感覚でした。」

 僕は記事をそこまで読むと、写真に目を移した。面長にひげ面の男性で、とても澄んだ優しい目をしていた。


色んなことが一度に押し寄せ、僕に考えられるのを待っているような気持になった。でも僕はそれらのことをまったく気にしなかった。「ふーん。そうなんだ」と当り前のことのように感じていた。

 

僕は、新聞を元あった通りに畳んで横に置いた。キッチンに行き、冷蔵庫からフィルターで濾した水を取り出してコップに注いだ。


今日あったことを順番に思い返し、それらのことを漠然と考えてみた。とくに、何も思い浮かばなかった。


「次は、いつ博士のところに行こうか?」と・・・僕は考えていた。

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