第5話 雨傘と自転車
20230624ワンライ
お題 背中 石ころ 紅一点
世田谷から望む、初夏の空はこの季節としては珍しく晴天だった。スココーンと抜けるような空気は、霞もなく富士見台からまさしく、富士山が覗けるかのようだった。
シブは下宿の窓から空を見上げ、
『よしよし、今日は一日晴れに違いない』
などと思いつつ、傘を置いて出勤することにした。背広を着て、それから紅茶を淹れて飲んだ。
背広の袖口を摘む。
『次の給料がでたら背広を買わなきゃ』
と、思った。袖も裾も短いし、胸と背中もぱつんぱつんに張っている。
『これ、お辞儀したら裂けたりしないかな』
背広が今まで無事なのはシブがひょろりとしている体型だからだろう。
そろそろ出ようとした時、丁度お向かいのシノさんと鉢合わせた。
「おはようございます。あの、シノさんもお仕事ですか」
「おはようございます。ええ。お互い、今日も一日がんばりましょうね」
シノさんと会話ができて嬉しい。
二人で一階に降りると、大家兼たばこ屋のマル爺に
「いってまいります」
と挨拶をした。
入り口でシノさんと別れ、シブは路面電車のホームに向かった。1銭はらって切符を買って、次の電車を待つ。
やがて来た路面電車に乗り込む。車内はぎゅうぎゅう詰めだ。乗車率150%だ。
そんなくだらない事を考えながらでないと、この苦行から気を逸らす事ができない。
なんだか、タバコの匂いがする。こんな車内でタバコなど吸っている奴がいるのか、いたらとっちめてやる。と、いきりたった。
電車が会社近くのホームに近づくと、シブは車内で押され流されして自分がすっかり真ん中にいることに気がついた。
これはいけない、早く乗降口に行かなければ。
「すみません、おりますおります」
人を掻き分け掻き分け。漸く乗降口まで辿り着き、降りたと同時に電車が出ていった。
危なかった、あの車掌僕が降りるところ見ちゃいなかったのかな、路面電車で轢かれたなんて新聞に載ったら滑稽だぞ。
そんな事を考えながら出社した。ここは世田谷とは違って空気がよくないな、スモッグで遠くが見渡せない。空気が澄んでいる時は丸山町まで見える、ってリン先輩が言ってたような気がするのだけど。
シブはそれはリン先輩のついたちょっとした嘘だろう、と思った。
そうだ、次の給料で背広と自転車を買おうか。自転車があれば路面電車よりもっと楽に出勤できるぞ。
シノさんも誘って、お揃いの、色違いの自転車を買おう。
と、左足のつま先に鋭い痛みがあった。
「痛っ、」
つい口から出てしまう。
なんだろうと思って靴を脱いでみると、小さな小石が転がり出てきた。よく見ると、靴のつま先に穴が空いていた。
「これじゃ、自転車は買えないな」
靴は出来るだけいい靴を買った方がいい、というのは大叔父さんの言葉だ。
サラリーマンは歩き回るのが仕事なのだから、良い靴を履かないと歩いているだけでくたびれてしまい、仕事どころではなくなる、だそうだ。
確かに色々な土地に出張するシブは、歩き疲れて、やれ、仕事だ、と言う時になると疲れてしまい、帰りは居眠りをして駅を過ぎていた、などと言うこともあった。
仕方がない、大叔父さんの言うことに従うか、と殊勝な事を思った。
些かくたびれた感のある4階建のビルディングに入って守衛室の脇を通り抜けようとすると、守衛が朝の挨拶をしながら、
「おや、シブさん、今日は傘を持っていないのかい」
などと聞いてきたので、よく晴れていたから置いてきた、と答えると
「今日は午後から雨が降るよ。だって私の爺さまが言ってたからね、今日は雨が降るって」
「え、それは。本当に雨降るんですか」
「うん、いってたさ、道玄坂から円山町が霞んで見えれば雨だ、ってね」
それは、本当に困ったぞ、とシブは思った。傘を買って帰ろうか、そうすると今日の昼飯を逃すことになるし、などと考えながら廊下を歩いていると、向こうあらミヤ女史がやってきた。
一応開発部の先輩で、一人しかいない女性だ。女性の開発員というのも大分珍しいとは思うんだけども。
「おはよう、シブ。何考え事しているの。それとも単に元気がないだけ?」
取り敢えず正直に話すことにした。
「守衛さんが言うには午後から雨だ、って言うんですけど、僕傘忘れちゃって」
「ふぅん、シブは傘を忘れたので、誰かから借りたいと思っているのね」
「いえそんな」
「いいわ、私の貸したげる。2本あるから気にしなくていいわ」
助かった、とシブは思った。
お題貰って1時間で書く習作 かほん @ino_ponta
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