第21話 生きている限りは
ポツ、ポツポツポツ……、サーサー、ポツポツ……、サー……
雨の滴が、静かに、静かに地へ向かって降り注ぐ。
滴は時折、地上ではなく屋根に当たり、ポトン、ポトン、と、深夜の暗い部屋の中でやけに大きく響く。
イアンは雨音を聞きながら、ベッドに横たわりながらも一向に寝つけないでいた。隣ではシーヴァが穏やかな寝息を立てている。海老のように身体を丸め、全身をシーツに包ませて。その安心しきった寝顔ときたら!実年齢より大人びた、ややきつめの美少女という普段の雰囲気は微塵も感じられない。
(やれやれ……、俺の前だと本当に無防備になるよなぁ……)
眉尻が下がったあどけない顔で眠るシーヴァを見てくすりと微笑む。同時に、彼女が七年もの間失っていた声を取り戻してからここ数週間、自分の中で湧く複雑な感情を持て余してもいた。
シーヴァのことは、出会った時から娘みたい存在だと思っている。
だから、彼女が、自分を肉親ではなく一人の男として愛情を抱き続けていると知りつつも『家族』として接していたし、いずれは誰かの元へ嫁がせるべきとも考えていた。
幸い、シーヴァは器量が良いだけでなく働き者のしっかりした娘に成長した。少女売春婦だった過去や口が利けないことを承知の上で、それでも嫁に欲しいと、周りから引く手数多なくらいだった。
だが、イアンは何かと理由を付けてはシーヴァの結婚話を断り続けている。それどころか、危うく一線を越えそうにもなった。
シーヴァを一人の女性として愛しているのか否か。
正直な所、分からない。
ただ、心の何処かで『シーヴァの事を真に理解し、支えることが出来るのは自分以外には絶対いない』と思っていることも確かだ。その気持ちは、シーヴァが声を取り戻したことでますます強まってきている。
我ながら、余りにも傲慢すぎやしないか。
一体、お前は何様なんだ??
呆れ返る自分と、手放したくない自分が何度目かの攻防を繰り返す。激しく鬩ぎ合う。
「……ん……」
ふと、眠っていたシーヴァが僅かに身じろぎをし、ゆっくりと目を開けた。ハシバミ色の瞳と、薄いブルーの瞳がかち合う。
「……眠れないの??」
まだ完全に目が覚めきっていないせいか、やや舌足らずな口調でシーヴァは尋ねた。
「んーー、ちょっと考え事していてな」
「……ふーん……」
シーヴァはとろんとした目付きでイアンを見つめてくる。
「……じゃあ、私も起きていようかな……」
「……別に、お前は俺に付き合う必要はないぞ??」
「……私が勝手にそうしたいだけ……」
「……あっ、そう……。それじゃ、好きにしろ……」
全く。可愛んだか、可愛くないんだか、相変わらずどちらとも取れない態度を取るヤツだ。
シーヴァの視線から逃げるように背中を向けかけて、「……雨は、きらい、だな……」と、ひどくか細い、それでいて異様に重く感じる独り言が確かに耳に届いた。
聞かなかったことにするべきか。寝返り途中の半端な姿勢で少し考えてみる。
「……なぁ、シーヴァ」
「……何よ??……」
結局、イアンは再びシーヴァと向き合った。
「さっきの独り言は」
皆まで言う前に、シーヴァはさっと顔を強張らせて口を閉ざしてしまった。
先程の声の調子通り、雨が嫌いな理由は重い事情があってのことだろう。そう言えば声を取り戻したきっかけについても、シーヴァは頑なに口を噤み、決して教えてはくれなかった。
「……まぁ、言いたくなきゃ、答えなくてもいいけど……」
苦笑を浮かべるイアンをシーヴァは見つめ続けているだけで、口を開こうとしない。しかし、しばらくするとシーヴァはのろのろと起き上がり、声を震わせて途切れ途切れに話し始めた。
「…………私を……、娼館に売り飛ばした、アパートの家主……、に、…………されたのが、雨の日、だか、ら……」
「…………」
今度はイアンが言葉を失う番だった。
シーツを握るシーヴァの手がぶるぶると激しく震え、何かに耐えるように目を伏せる。
「…………あいつ、人の弱みに付け込んで……、何も知らない私を……!あいつのせいで、私、口が利けなくなったのに……!」
「シーヴァ、もういい。これ以上は……」
「…………あいつが、私を……したのは、一度や二度じゃない…………!!雨が降れば……、雨音で、いろんな、ごまかしがきく……から!」
「シーヴァ……」
「私を娼館に、売ったのは、奥さんに見つかってしまったから……。でも、これであいつの家庭が滅茶苦茶に壊れてしまえばいい、って願った……!!あいつが不幸になりますようにって、何度も願った……!!あいつ、あいつ、だけは、死ぬまで許さない……!!!!」
イアンの制止も耳に入らない程、我を忘れてシーヴァは感情を爆発させている。思えば、シーヴァがこんな風に憎しみや恨みつらみと言った、負の感情を露わにさせることなど今まで一度足りともなかった。
いたたまれなくなったイアンは、ぜぇぜぇと息を乱すシーヴァを抱きしめ、気を落ち着かせようと宥めすかせた。
『シーヴァは、イアンさん以外の人じゃ駄目なんです』
以前、マリオンに言われた言葉が脳裏を掠める。
言われた時は鼻にも引っ掻けなかったというのに、たった今、胸にずしり、のしかかってくる。
シーヴァは気丈な反面、非常に繊細で脆い部分を持っている。
思い上がりも甚だしいが、彼女のこう言った繊細さを受け止めてやることが出来る者は、自分の他には誰もいないような気がする。
イアンの腕の中では、彼に背中を撫でられながら、シーヴァは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「気が済んだか??」
様子を伺いがてら、イアンがシーヴァに声を掛けると、うん、と、か細い返事が返ってきた。
「……でも、もうちょっと、このままがいい……」
イアンの痩せた胸元に鼻先を摺り寄せ、甘えを含んだ声色でシーヴァは身体をよりくっつけてくる。
やれやれ、こういう時だけやけに甘えん坊だ、と内心呆れるが、こんなことで気が落ち着くのなら安いものだ。
「……なぁ、シーヴァ」
返事をする代わりに、シーヴァはイアンの瞳を真っ直ぐ見据える。
「いつまで一緒にいられるか分からんが……、俺が生きている間だけでもお前の傍にいようと思う」
「……………」
シーヴァは怪訝そうな顔をして首を傾げている。
恐らく、言われている言葉の意味に気付いてはいるが、半信半疑でいる、といったところか。イアンはわざと大きく肩で息をつく。
「……つまり、結婚しようか、と言っているんだ……」
まさか四十近くになって、しかも二十も年若く、娘同然に育ててきた少女に求婚するなど誰が想像しただろうか。何を隠そう、自分自身が一番驚愕しているくらいだ。
シーヴァはシパシパと細かく瞬きを繰り返すばかりで一向に返事をしない。
よもや、散々イアンの事が好きだと言っておきながら、『誰が、こんな冴えない男寡のオッサンなんかと結婚するか』と跳ねつける気か。
「……ねぇ、イアン。もしかして、寝惚けているの??」
「……は??……」
「寝言は寝ている時に言いなさいよ。イアンが私と結婚したいなんて、夢を見ているか、イアンが寝惚けているかとしか思えない」
「…………」
どうやらシーヴァは、これは夢だと思い込もうとしている。
確かに、シーヴァが疑うのも無理はないし、そう思われてしまうのもイアンの自業自得だ。だが、それにしたって、この反応はあんまりだろう。
「寝惚けてんのは、お前だろぉ?!」
すかさずイアンはシーヴァの鼻先を指で思い切り撮んでみせる。
「いひゃい!!」
「何が夢オチだって??誰が寝惚けてるって??」
「いひゃひ、いひゃい!!」
鼻先を撮むのは、シーヴァやマリオンを叱る時に行っていた一種のお仕置きである。
「痛いってことは、夢じゃないだろぉ??」
「……!!……」
イアンが鼻先から手を放すと、シーヴァの表情が見る見る内に綻んでいき、はにかんだ笑顔に変化していく。
「……嬉しい。これで、私はイアンの傍にずーっといられるんだもの」
「お前も物好きだよなぁ……」
「イアンには言われたくない」
「あぁ、はいはい。そうでしたね」
「はい、は一回でしょ」
「へぇへ」
(元気になった途端、いつもの強気な小娘に戻りやがって……)
シーヴァを妻に迎えたとしたら、間違いなく主導権を握られるだろうことがありありと目に浮かぶ。まぁ、それも悪くはないか。今から覚悟を決めておくとしよう。遂にイアンは腹を括ることにした。
(了)
オジギソウ 青月クロエ @seigetsu_chloe
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