第20話 奇跡
(1)
シーヴァは肉屋の前で、鶏肉か羊肉を買うかで頭を悩ませていた。
「いらっしゃい、シーヴァ。今日も可愛いねぇ」
肉屋の主人がニコニコとは言い難い、曖昧な笑顔を作りながら、シーヴァに話しかけてくる。
ここの主人は女好き、しかも若い娘が大好きだとシーヴァは踏んでいる。その証拠に若い娘以外の客には余り笑顔を見せない。何て分かり易いのだろう。
それに比べて、イアンは時々何を考えているのか分からない時がある。あの夜だってそうだ。これまで頑なにシーヴァに触れようとしなかったのに、一体何故??
けれど、シーヴァはあえて追及しなかった。正確に言うと、答えを聞くのが怖かったし、何よりもあの時の確かな幸福感を台無しにしたくなかった。
これは二人だけの一生の秘密。そう結論付けて今に至っていた。
肉屋で買い物を済ませ、今夜の夕食について思案しながら店を出ると、入り口付近にいた三人の若者とぶつかりそうになった。頭を下げれば、若者達も気にしなくてもいい、と手を上げられた。
絡まれずに済んだと胸を撫で下ろし、彼らに背を向けたシーヴァへと若者達がコソコソと何やら話し出す。
「はぁーー、やっぱりシーヴァは可愛いなぁ……。近くで見ると、ますます可愛いのがよく分かるよ」
「口が利けなくてもシーヴァとなら付き合ってみたいよなぁ」
「お前、何言ってんだよ。お前なんかが相手される訳ないだろう??無理無理、やめとけよ。あの棺桶屋の親父が溺愛していて、理由をつけては手放したがらないって話だぜ??」
「だから、あんな美人なのに浮いた噂一つ出てこないのか。あぁ、勿体ねぇ!あの親父も大概だな!!」
「なぁ、もしかしてさぁ、実はあの親父とデキてたりしてな。だって、血の繋がりのない、育ての親なんだろ??俺だったら、義理の娘があんないい女だったら絶対に手出す自信がある」
「うわ、お前、最低だなぁ。そんな自信持つなよー!」
「でも、あながち嘘じゃないかもな。あのおっさんも人の好さそうな顔して、案外かなりの女好きそうだし」
下世話な話題で盛り上がる声は、少し離れた場所にいたシーヴァの耳にもしっかり聞こえていた。
踵を返して、彼らに思いきり反論したい。
自分のことは何を言われても別に良い。聞き流せばいいだけ。
だが、イアンの事を、例え冗談や憶測であっても下劣な話題に出して欲しくない。
何も知らない癖に!
イアンを貶めないで。つまらない言葉で汚さないで。
シーヴァは口が利けない自分を心底呪う。
喋れなくても、イアンやマリオンとは意思の疎通ができる。唇の動きだけで汲み取ってくれる。
でも、見ず知らずの赤の他人には言いたいことの一つもろくに伝えられないなんて。
悔しい。余りに悔しくて、余りに不甲斐なさすぎる。
シーヴァは人目も憚らず、悔し涙をボロボロと零しながら、一人帰路を辿った。
(2)
「イアンさん!!」
離れの作業場で仕事をしていると、帰宅したマリオンが血相を変えて飛び込んできた。
「おぉ、マリオン。早かったなぁ。どうしたんだ、そんなに慌てたりして」
「どうしたじゃないですよ!!大変です!!シーヴァが、シーヴァが……」
マリオンはすっかり混乱していて、言葉がおぼつかない。
「シーヴァが何だよ??とりあえず落ち着け……」
「これが落ち着いてなんかいられませんよ!!とにかく!居間まで来てくださいよ!!」
マリオンは、座り込んで作業をしていたイアンの腕を強く掴むと、無理矢理立たせた。
小柄で華奢な彼にこんな力があるとは、と、面喰いつつ、「何なんだよ??とりあえず、居間に行きゃいいのかぁ??」と呑気な返事を返し、マリオンに引っ張られながら居間へと急ぐ。
シーヴァは椅子に座ってしくしくとすすり泣いていた。
随分前から泣いていたのか、目と鼻先が真っ赤に腫れてしまい、せっかくの美しい顔が酷い有様になっている。
「おい、シーヴァ。一体何があったんだ??」
近くのテーブルに掴まって、シーヴァの目の前でよいしょっとしゃがみ込む。
すっかり泣き膨れしてしまった顔をじっと見つめれば――、シーヴァは泣き顔を見られたくないのか、もしくはイアンの質問に答えたくないのか、おそらくその両方だろう。彼の薄いブルーの双眸から目を逸らす。
「俺にも言えないことなのか??」
シーヴァは答えない。
どうしたもんかと、イアンが眉尻を下げた時だった。
「……ィ、ァ……、ぉ……、」
「!?」
「……ば、ゕ……、……し、ぁぃ……、で……」
「……シーヴァ……、お前……」
マリオンを振り返ると、彼も真剣な面持ちで力強く首肯する。
「声が……、戻ったのか……!!」
感極まったイアンはすくっと立ち上がると、椅子ごとシーヴァを強く抱きしめた。
「……イァ…ン……、く、るし……」
よく耳を澄ませないと聞き逃してしまうくらい、か細く弱々しい掠れ声だが、シーヴァは確かに言葉を発している
「……良かったよ、本当に良かった!!」
今度はイアンが嬉し泣きする番だった。彼につられて、マリオンもコバルトブルーの瞳を潤ませている。
イアンやマリオンに負担を掛けていることを心苦しく思う一方、この二人とは意思の疎通が交わせるから、と、シーヴァは声など戻っても戻らなくてもどちらでもいい、とも、心のどこかで思っていた。
しかし、先程のように大切な者を理不尽に侮辱された場合。反論の一つも返せなかったことで、シーヴァの中で声を取り戻したい気持ちが一気に高まったのだ。
こんな些細な出来事で、七年もの間失っていた声が戻るなんて。シーヴァ自身も俄かに信じられなかった。
「……なゕなぃ……で……」
「……泣いてない……」
「ぅ、そ……、ばっゕり……!」
「……俺が、お前に嘘ついたことあるかよ……」
「ぃま、っぃ……てる」
イアンは鼻先を赤くさせながら、シーヴァの頬を両手でムニッと撮む。
「ぃひゃぃ、……いひゃ……ぃ!!」
「早速、憎まれ口なんか叩くからだ。お仕置き!」
お互いに泣き顔でじゃれ合うイアンとシーヴァの姿を眺めながら、(もう、さっさと二人は結婚でも何でもすればいいのに……)と、マリオンが一人で苦笑いしていたことに二人はまるで気付いていなかった。
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