第3夜_良カラヌ者
ヒグラシが何かを詠うように鳴いている。
夜之介はまだ青く光に溶けそうなもみじの葉を、木にもたれて見上げていた。
その枝の上には、もみじ婆さんと呼ばれるもみじの木の精霊が優しく夜之助を見つめて話を聞いていた。
このもみじ婆さんのことは先日紐解が教えてくれた。
「この近くに、もみじのばあさんがいてな。毎年真っ赤で豪儀な葉をつけるのさ。この時期も青々とした葉がきれいでな。夜之介にもぜひ会ってみてほしい」
そう言って連れてきてくれたのだ。
紐解もいままでたくさんの話を聞いてもらってきたそうで、お話好きなもみじ婆さんは夜之助にもいつでも相談や世間話をしに来てくれと言ってくれた。
その言葉に甘えて、野草摘みの帰りに一人、こうして悩みを話に来たのである。
「僕はさ、紐解きの事を恨んだりしてるわけじゃないんだ。ただ、まだ頭の整理が出来ていないというか。紐解のあんな悲しそうな顔を見たのがはじめてだったから、なんだか気まずくなっちゃって。あれからその話はしてないんだ」
生ぬるい風が優しく草木を揺らして音を立てた。
「なんかね、僕がまだ本当に小さい頃、この山の川で溺れて、それを紐解が助けてくれたんだって。でも紐解だけでは力不足だったみたいで、この山の加護を僕に受けさせた。それで僕は助かったんだけど、僕が加護を受けて助かった事を皆知らなかったんだ。だから、僕はそのまま地元へ帰った。この前ね、若菜様の加護を受けた者が、この山から出たら他の山神様に狙われるって話を聞いたんだ。それが原因で僕は小さい頃から見えない何かに襲われ続けていたらしいんだ」
静かに聞いていたもみじ婆さんがふと空を見上げた。
「それは山音姫の事ね。若菜様もそれで胸を痛めておられるのよ。原因は一人の男神。風ノ宮様という風神さんがおられるのだけど、山音姫はその風神さんに恋をしたの。けれども、風神さんはたまたま通りかかったこの山で若菜様に一目惚れをしてしまった。嫉妬深い山音姫は自分の配下のモノを使って若菜様に嫌味を続けているのよ。若菜様が守れるのは若菜様の山の領域まで。その領域から少しでも出たものを狙ってるようだわ。夜の坊みたいなヒトの子やケモノの子には、縄張りはあっても山の領域なんてあまり気にしてないものだから、多くの者がその手にかかってしまったのよ」
「やっぱり僕はもうこの山から一生出られないのかな」
「出ない方が安全ね。夜の坊はこの山は嫌いかい?」
「そんなことないよ。この山のことは好き。でも、一生出られないって考えると苦しく感じちゃうんだ」
「ならそう考えるのをやめなさい。この山をどう遊び尽くしてやろうかって事を考えるの。木登りでも木の実集めでも、なんでもいいわ。わくわくしてこない?」
夜之助は想像をしてみた。
「うん、楽しそう」
「そこに大切な友達がいたらどんなだと思う?」
「いつまでも遊んでいられそう」
「ふふ、そうね。秋になったらあたしの娘や孫達が舞を踊るのよ。あたしはもう歳だから、葉を落とすことしかできないけれど。とても素敵だからそれも楽しみにしてて。さ、そろそろ帰る時間よ」
もみじの婆さんは優しくそう告げた。
「ありがとう。紐解ともちゃんと話してみるよ」
夜之介は来る前に摘んだウワバミ草やツユクサを入れたザルを手に取ると立ち上がり、もみじ婆さんに別れを告げた。
帰り際に振り返ると、枝をいっぱいに広げたその姿は本当にきれいで勇気がもらえた。
日暮れの空気が立ち込める山道を下っていると、背後から草を分けて踏みしめる音が聞こえてきた。
その音に振り返ると、道の脇の草むらから一人の老婆が現れた。
「おお、よかったよかった。間におうた。お前さんが手ぬぐいを落としたでの?届けようと後を追ってたのじゃ。ほれ」
腰の曲がった老婆は、確かに夜之助の手ぬぐいを手にしていた。
いつの間に落としていたのだろうか。
「わざわざありがとうございます」
夜之助が頭を下げて受け取ると、老婆は後ろ手に持っていたザルを押し付けてきた。
「これも持って行きんさい。採れたてのキノコだよ。この山でしか採れない美味しいキノコさ。よかったらお食べ」
夜之助は驚いて老婆とキノコを交互に見る。
見たことのないキノコだった。
「キノコは毒の見方がわからないから、僕は採らないんだ。だから、いらない」
夜之助は一歩後ずさる。
「ちゃんとあたしが見分けて採ってるさね。本当に美味しいんだ。食べてごらん」
「ありがたいけど、おばあちゃん食べて。早く帰らなくちゃ。さよなら、手ぬぐいありがとう」
夜之助は踵を返し、帰ろうと早足で歩き出した。
「ばばが採った物は食べられんか。信じられんか。親切をしても、誰もばばを信じてくれぬ。ばばは美味しいキノコを食べて欲しいだけなのに」
背後から聞こえる老婆の悲しい声が、夜之助の足を重くさせた。振り返ると、寂しそうな老婆と目があった。
「もらってくれぬのか?」
夜之助は少し考えた。
この老婆を傷付けてまで、受け取らない理由もない。帰って祖父や紐解に食べられるものか確認すれば済むことだ。
「わかった。ありがたくもらうね」
「そうかい、そうかい。本当に美味しいキノコなんじゃ。ぜひとも食べとくれ」
老婆はとても嬉しそうな表情を見せた。
家に着くとさっそく祖父に先程の話を聞かせた。祖父も考え込むように、キノコを見つめる。
「確かにこれはこの山でしか採れない珍味のキノコだ。だがなぁ、こんなキノコをそこまでして人に譲るのも奇妙なものだ。ちょっと紐解にも聞いてごらん。聞くまで食べたりしちゃダメだからね」
祖父の言葉に頷いて、夜之助は紐解を探した。探してみたものの、家にも店にも紐解の姿はなかった。大概この時間には顔を見せるのだが、夜之助との距離を気遣っているのだろうか。仕方なく祖父と夕餉の準備に取り掛かることにした。
夕餉を食べ終え、片付けまで済ませた頃に縁側から紐解が姿を現した。
「いやはや、だいぶ夜風が涼しくなったなぁ。今日もちびっと月見酒でも」
「紐解、聞きたいことがあって、見て欲しいものがあるんだ」
夜之助が前のめりに話しかけてきたことに驚き、紐解は目をぱちくりさせた。
夜之助が前のめりになるほど紐解を待っていたのには理由があった。
はじめは危ないから食べないと決めていたキノコなのだが、時間が経つうちにとても食べてみたい欲が湧いてきていたのだ。
しかし、紐解に聞いてみなくては食べるのは危ない。しかし、どうしても食べてみたい。
そんな思いでずっと我慢していたのである。
紐解はにかっと笑って夜之助の用件を聞いた。事の次第を話し、問題のキノコを見せる。すると、紐解はすぐに答えをだした。
「うむ、残念ながらこれは食べられないぞ」
「そんなぁ」
夜之助は肩を落とした。
「夜之助が会ったのは、きのこ婆だな。このキノコは元々は食べられるものだ。だが、少し妖気がかけられておる。食べたら痺れて動けなくなるぞ。きっと今夜にでもお前に迎えに来るつもりだろう」
「僕を迎えに? どうして?」
「そりゃ決まってるだろう。お前を食べにさ」
紐解はなんでもないように笑っているが、夜之助は顔を青くさせた。
「安心しろ。オイラがいるんだから食わせるわけないだろう。ひとまず、このキノコは妖気が飛ばないように厚い布でもかけておこう」
その言葉にほっと胸をなで下ろした。
「手ぬぐいを拾ってくれたってのも、キノコ婆の手口さ。そうやって人を安心させて、獲物を仕留めるのさ。キノコを食べたくなってきたのも、キノコ婆の妖気のせいだ」
紐解は夜之助に向き合うと真面目な顔で手を取った。
「夜之助、妖怪は良い奴ばかりじゃない。人に悪さをする奴はたくさんいる。気を付けるんだぞ」
そう言って手を離して腰を下ろすと、持ってきたお猪口に自ら酒を注いだ。
「まぁ、そういうオイラも奴らのことをどうこう言える立場じゃないんだがな」
寂しい笑いを浮べてぐいっとお酒を飲む。
夜之助は気持ちを伝えるなら今しかないと思った。
「そんな事ないよ。紐解は優しいよ。人間思いのとっても優しい妖怪だよ」
紐解は少し驚いた顔をしてから戸惑った。
「だって実際オイラはお前を傷つけた」
「そんな事ない。僕は紐解に助けられたんだ。昔も今も。僕には大事な存在だよ」
「でも、オイラが原因で夜之助は友達や家族と離れ離れに」
「それでも、紐解は優しい妖怪だよ。そうやって僕を気にかけてくれるんだから。……あの時すぐに、ありがとうって言えなくてごめん。気まずくなっちゃって、上手く話せなくてごめん。僕は紐解を恨んでなんかないし、怒ってなんかないよ。むしろ大好きだよ」
紐解の真ん丸い目に涙が溢れる。
「夜之助、お前、お前ってやつは」
こぼれそうになる気持ちを抑えていたところで、風呂上がりの祖父が部屋に顔をだした。
「おう、来てたのかい」
「藍蔵さま、藍蔵さま。夜之助が」
すぐさま祖父の元へ走りより、迎えられた手に飛び乗ると紐解はえぐえぐと泣き出した。
いつも元気な紐解ばかりを見ていた夜之助は戸惑って、おろおろすることしかできなかった。
しかし、状況を理解していた祖父は優しく微笑んで紐解を撫でた。
「なんだい、よかったじゃないか。長年の悩みから解放されて」
さぁさ、お月さん登ったからには
酔いどれ 踊れ 妖怪音頭
あ~よいよい
今宵も 酔いどれ
どろろん どろろん
「ねぇ、二人ともちょっと飲み過ぎじゃない?」
泣いてすっきりしたのか、紐解はいつもより上機嫌だ。祝い酒なのか、月見酒なのか祖父と紐解はいつも以上に顔を赤くしている。
夜之助が縁側に出て空を見上げると月は橙色に熟して見えた。
冷たく頬を撫でる風に不気味さを感じる。
「これからキノコ婆が来るとか言ってたのに」
夜之助が心配をぽそりと呟くと、何やらひっそりとした声がこちらに近付いて来ていることに気が付いた。
ドキドキ今時あの子は毒に
ドクドク毒され三途の川へ
かわいや かわいや 愛しの坊や
夜之助は全身を強ばらせた。
庭の低い柵の向こう側に黒い影が見える。
その影はゆっくり庭へ入ってくると、足音を立てずにこちらに近付いてきた。
夜之助は恐怖に身動きが取れず、ただその姿を見つめていた。紐解を呼ぼうとも声が出ない。
月の光と逆光で老婆の顔がよく見えないが、夕方に会った老婆だと言うことは判断できた。
「おやおや、お出迎えとは驚いた」
夜之助を見上げたその顔はニタリと笑った。
その瞬間、閉まっていた方の障子が弾ける音を立てて勢いよく開いた。
「きのこ婆っ、よくもオイラの友達を食べようとしてくれたなあ。オイラは許さないぞ」
酔っ払った紐解が眠そうな目をしながら、キノコ婆を睨みつけた。
「くどくどうるさい小鬼だこと」
「ちなみにオイラは小鬼じゃないぞ。角がないからな。いや、そうじゃない」
キノコ婆は紐解の言葉を聞く様子もなく、家の中の人物を見ると驚いた顔をした。
「なんだい、藍蔵様の子ならわたしも手を引くよ。わたしだって恩を仇で返すようなことはしないからね」
ふんっと鼻を鳴らして、キノコ婆は前髪を整える。
祖父は立ち上がる様子も見せず、盃をかかげて挨拶をした。
「やぁ、また会ったね。君の仕業だったのかい」
ひとまず身の安全を確認した夜之助は、そっと祖父に寄り添って座った。
「恩って?」
「まあ、ちょいとあってな。いや、しかしヒトの子を襲うのはいけないよ。もちろん、誰の子供であってもね」
「……ほんの出来心ですわ」
「もうこんな事は出来心でもしちゃいけないよ」
髪を整えていたキノコ婆の手が止まり、視線を地面に落とした。
そして諦めのようなため息をつく。
「こんな年寄りの相手なんて誰もしちゃぁくれないからね。これでも寂しいのさ。でも、
藍蔵さまから言われちゃねぇ。あたしゃもう帰るよ。宴を邪魔したね」
キノコ婆は踵を返す。
その間に冷たい風が通り過ぎてゆく。
「寂しくなったら、また此処へおいで。お酒や団子、よかったら食べに来ておくれ」
藍蔵はキノコ婆の背中に声をかけたが、立ち止まったキノコ婆は振り返らなかった。
「でぇっ、藍蔵さまったら、またそんなことを」
紐解は驚いた声をあげる。
「お前だって寂しくて居着いた身だろ?」
うぐ、と声を詰まらせた紐解は咳払いをする。
「まぁ、暇な時くらいはオイラが話し相手になってやってもいいぞ。でも、あれだ。夜之助には必要以上に近付くなよ」
「あいにく小鬼の世話になる暇は持ち合わせてないよ」
少しだけ振り返って答えたキノコ婆はまたゆっくりと来た道を引き返して行った。
最後に小さく笑ったその表情はなんだかとても嬉しそうに見えた。
待ち宵月見酒 鬼倉みのり @mino_031
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