ただ、それだけ
葉月 望未
ただ、それだけ
——……大人だから。
私はいつも、心の中で静かに、自分に言い聞かせる。
「わかった。迎えが必要なら言ってね」
へらり、と笑って、私は目の前の大事な人に向かってそう言った。
「それは悪いから大丈夫だよ、ありがとう」
彼——
テレビからはバラエティー番組の大きな笑い声や高い声が聞こえてくる。一人じゃないのに、ひとりぼっちみたいな気持ちになって、私はさっきまで悠真くんに触れられていた自分の頭に手をのせた。
ゆっくり俯いて、顔を顰める。
仕事が忙しくて、全然会えなくて。今日だって一ヶ月ぶりなのに悠真くんは悪い意味で普通で、(私的にはもっと寂しかったって言ってほしいわけで。)次に会う予定だった日はさっき潰れてしまった。会社の飲み会があるらしい。そのせいで私と悠真くんの次の逢瀬は未定だ。
どうしたらいいか、わからない。
気付けばもう私は二十八歳で、悠真くんは三十歳。今まで同棲や結婚の話はなく、悠真くんが空いている日にこうして私が彼のマンションに泊まりに行くのがいつの間にかお決まりになっていた。
ただ、悠真くんに最近役職がつき、仕事が忙しくなってからは思うように会えていない。
仕事を頑張っている悠真くんを応援したい気持ちはもちろんあるけど、やっぱり寂しい。
……でも仕事だから、それは仕方のないことだから。もういい歳の大人が、仕事の忙しさに不満を持つなんて。だから、私は一生懸命に飲み込む。
「はぁ……。」
ソファーに座ってクッションを抱え、顔をうずめる。
悠真くんは私との未来をどのくらい考えていてくれているんだろう。もしくは、全く考えていない?
スリッパの音がして顔を上げると、部屋着のスウェットを首に通して整えている悠真くんがいた。
「
「あ、うん、先に食べちゃった。悠真くん、外で済ませてくるのかと思って。でも、明日のご飯にと思って作った分があるから、食べる?」
ハッとしてパタパタと冷蔵庫に向かうと。
「大丈夫、外で食べてきた。柚はどうしたかと思って。食べたならよかった」
後ろから悠真くんの声が聞こえてきて、冷蔵庫を開けようとしていた手を下ろす。
「何か作ってくれたの?」
背中に熱を感じて顔を上げようとすると、悠真くんが冷蔵庫に手を伸ばして開けた。
ふわりと香る悠真くんの匂いに心が解きほぐされていく。
「少しだけ。豆腐ハンバーグ。明日、よかったら食べてね」
「美味しそう。ありがとう、柚」
「ううん……悠真くん?」
「……柚、ごめん、最近忙しくて」
後ろからゆっくり抱きしめられる。その熱になんだか鼻の奥がつんとなった。
……ああ、と思う。
私は、思っていた以上に我慢しているのかもしれない。
こうして触れてもらえれば、不安なんて吹き飛ぶと思っていたのに。
上手くいかないな、どうしてだろう。私がこんなふうに暗い方に考えちゃうせいかな。
不安、なこと。それが明確に胸の中に黒く現れ、私は悠真くんの手に視線を落とした。
「ゆ、」
「……ん?」
聞きたいことがあって声を出したら裏返ってしまい、顔が熱くなっていく。
恥ずかしい。どうしてこんな時に。
「柚?どうした?」
悠真くんに向き直り、そのまま抱きついて胸板に顔をくっつける。
きっと「忙しくて寂しい」って私が言ったら、悠真くんは「ごめんね」と申し訳なさそうに寂しそうに謝るんだろう。でも、悠真くんは忙しいままだ。どうしようもないこと。
どうしようもないことを仕方がないって一生懸命飲み込むのが上手くなったのが、大人だ。私は大人だから……。
「飲み会、あの人もいるの……?」
「あの人って……林さんのこと?」
私がこんなに不安になっているのは彼女の存在が気になっているから、というのもある。
彼女は悠真くんの部下で、二十三歳。私は会ったことがないけれど、社内の何人かに言い寄られていて、それを悠真くんに相談しているらしい。だからきっと可愛い人なんだろう。
でも、林さんは悠真くんに私という彼女がいることを知っているはずなのに、悠真くんに告白をした。
「今日、告白された」と悠真くんが困った顔をして私に打ち明けてくれたあの夜。呆然とした。
『彼女がいるのは知っているんです。でも、どうしても好きになってしまって。彼女にしてくれませんか?』
と、林さんは言ったらしい。悠真くんは勿論丁重にお断りをしたらしいが、私は、林さんが私に勝てると思っていることに驚いた。
「会社の飲み会だから多分いると思うけど、そんなに心配しないで。大丈夫だから」
悠真くんは私の髪を優しく丁寧に撫でながら、柔らかい声で私を宥めるように言った。
全部、大丈夫じゃないよ。悠真くん。
私は悠真くんに全然会えていないのに林さんは毎日会社で会える。私より若くて可愛い女の子。黒い、もやもやが心を侵食していく。
彼女という存在の方が大きいことは、わかっている。それでも、ううん、だからこそ、どんどん欲張りになってしまう。
「……柚、心配?」
悠真くんはまた私を抱きしめた。さっきよりも少しだけ強い力で。小さな声は揺れて、私の耳へと入ってきた。
「……心配じゃないよ。浮気の心配はしてない。でも、」
言葉が止まる。不安?不満?私は悠真くんにどうしてほしいんだろう。
沈黙が流れる。悠真くんは私の次の言葉を待っていてくれる。そういう気配を感じた。私は考えるのもそれを言葉にするのも人より遅い。元彼は私のそういうところによく苛立っていた。でも、悠真くんは私の言葉にちゃんと耳を傾けてくれる。
不安なことがあったら漠然としていてもいいから言ってね、と付き合いたての頃、言ってくれた。それをふと思い出して。
腕をするりと解いて、私はゆっくりと顔を上げた。私を見つめる悠真くんと目が交じり合う。眉を下げて心配そうに私を見ていた。——悠真くんは、そういう人だ。
「……悠真くん、」
爪先を、そろ、と立てて背伸びをする。
その合図が伝わったようで、悠真くんは少しだけ屈んで私がしようとしたキスを先に奪った。私がするよりも先に、その唇を掬い取って、私がしようとしていた触れるだけのキスなんかではなく、ついばむようなキスを何度も、何度も。
「……んんっ!ゆ、まく……っ、」
そのキスは、私が今日、欲しかったそれだった。甘さが舌の奥に広がっていく。求められている、熱い、息が苦しい、好きだなあ、と泣きたくなってくる。
キスをして、好きだって言って、それから妬いていることを伝えようと思ったのに。勢いで思っていることを言ってしまおうと思ったのに。
一カ月ぶりのキスは、思考を緩やかに停止させていく。
——どうして。
「……柚っ」
悠真くんは余裕のない濡れた目をして、息を微かに漏らした。
さっきまで余裕だった、私とは一カ月会わなくても平気そうだった悠真くんが、どうしてそんな顔をしているの?
思わず悠真くんの頬に触れると、彼は最後に小さく音を鳴らして唇を離した。
酸素を欲して息を吸う私の腰を支えながら、その唇は私の首筋へと落ちていく。
触れられるたびに体が反応して、声が漏れてしまう。
「……我慢できない。いい?」
「わっ!」
悠真くんは艶のある吐息まじりの声で囁き、私の膝裏と背中に腕をまわして抱き上げた。お姫様抱っこで連れて行かれたのは、悠真くんのベット。
悠真くんは優しく私を下ろしてくれた。体がベッドに沈んでくと、悠真くんの匂いがして、そのまま包まれて眠ってしまいたいと思った。
でも、本人は目の前にいるのにな、と口角が緩んで、私は悠真くんに手を伸ばした。
「悠真くん、あのね……林さん、可愛い?」
「やっぱり林さんのこと気になる?」
私の手が悠真くんに背中に回る。体を密着させたまま耳元で聞くと、悠真くんは顔を擦り寄せながら囁いた。
何も言わずに頷くと、体を離して私の目を真っ直ぐに見つめる。
「普通に可愛いとは思うけど、一般的な可愛さだよ。俺は可愛いも好きも、独り占めしたいと思うのも、全部、柚だけ。疲れた時に会いたいと思うのも、触れたいと思うのも、柚だけ。……ちゃんと伝わってない?不安?」
悠真くんはまた私の髪に触れて、ゆっくりと撫でる。
私が小さく頷くと、悠真くんは一瞬動きを止めて、髪から私の頬へ手を移動させた。そして、遠慮がちに頬を撫でる。
「私、嫉妬してたの、林さんに。いつも悠真くんに会える林さんが羨ましい。きっと可愛い子なんだろうなって思ってた。だって私は悠真くんに全然会えない」
悠真くんが気持ちを伝えてくれているのに、私は不満ばかりを口にして。
なんだか自分が情けなく思えてきて、顔を逸らすと悠真くんは「……うん」と小さく声を漏らしてから。
「ごめん、柚。仕事を言い訳にして全然柚と会えてない。ごめんね、もう少ししたら落ち着くと思うから。それまで待てる……?」
「……待てないって言ったら?」
悠真くんの方を向くと、「うーん」と唸って「それは困るなあ」と苦笑いを浮かべた。
「今、俺は仕事が忙しいでしょ?だからもう、本当に、柚に嫉妬させてることが本当に、申し訳ないんだよ。ごめんね。ただでさえ不安だと思うのに、ごめん。でも、手放したくないんだよ。俺の方が年上だからもっとかっこいいこと言いたいところだけど……」
むっ、とした私の唇を悠真くんは指先でなぞり、柔らかさの中に熱っぽさを含んだ目で私を捉えて。
「……そうやって俺でいっぱいになって、どうしようもなくなっているのさえ、可愛いと思ってしまう。柚が待てないって言ったら、もっと俺でいっぱいにして離れないようにしたくなる。余裕な大人を演じているだけだよ、いつだって」
私は悠真くんの言葉に驚いていた。まさか、そんなことを言われるなんて思っていなくて。私は真っ赤になっているであろう顔を隠したくて、手で顔を隠そうとした。けれど。
それは難なく悠真くんの手に絡め取られ、悠真くんは私を見つめたまま、私の手の甲にキスを落とす。
「ゆ、悠真くんてそんなに私のこと、好きだったの?」
「……?そりゃ、そうでしょ。だって彼女だよ?柚、俺の彼女だって自覚、まだないの?」
「え?あ、あるよ!勿論あ、……ちょっと、ま、っ、待って!」
「駄目。待たない……ていうか、待てない」
悠真くんは、ふっ、と笑って私の唇、鎖骨……と体にいくつもキスを落としていった。
気付けば黒い不安はなくなり、私は悠真くんのことだけを考え、感じていた。
好きで、好きで、どうしようもなくなってしまうような恋は、好きの大きさが相手と同じだけないと辛くなる。でも、同じ好きの量なんて保てるわけがない。違う人間なんだから。
「……悠真くん、好き」
「ん、俺も好きだよ、柚」
柔らかい声と、私を見つめるその優しい目が心地良くて、そのまま目を瞑った。
大人になった今だからこそわかる。
大人だから、我慢することだって飲み込むことだって多いけれど、私達には言葉があって、声があって、気持ちを伝える手段をいくつも持っているということに、本当は気づいている。そして、その機会はいつだって与えられているということにも、気づいているはずだ。
必要なのは、気持ちを伝えるほんの少しの勇気。
それから、大人ぶった大人を少しの間だけやめて、心の内側を大事な人に見せる可愛さ。ただ、それだけ。
ただ、それだけ 葉月 望未 @otohana
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