最終話 『翻訳さん』の影響
ミカがずっと取り組んでいたフランス語で書かれた物語の和訳が終わり、一段落ついたある日の放課後。
私はいつものように朗読してもらった物語の感想を書く作業をしていた。
それは小学校の宿題にあった『読書感想文』のようなもので、本を読まない私にとって苦痛でしかないものであった。ミカの声をたっぷり聞く機会を作ってくれている原作者への感謝のつもりで始めたことだが、やはり苦手意識は簡単に拭えない。
しかし、ミカの朗読のたびに感想文を書いているうちに、文章を書くこと、文章を読むことへの抵抗感が薄れてきていた。回数を重ねて私自身が『文章』に慣れつつあるのだろう。『上手くできない』『やりかたがわからない』というのは興味を失って避けるようになるキッカケとして多くを占めるらしいし、それを少しだけ克服したからそう感じるようになったのかもしれない。
そうすると、次は自分で小説を読んでみようという気になる。
もちろんミカの朗読が最高であることは揺るぎないが、彼女が翻訳作業に没頭しているときは邪魔をしないように彼女の手元をただ見ているだけだ。それだけでも十分楽しいけれど、彼女があんまり見つめないでくださいと恥ずかしがるので、しかたなく小説を読むようにしたのだ。
それも、和訳されたものではなく英語の原作を、だ。
「言語の違いか、私の力量不足でしょうか、原作の英文のニュアンスを日本語で上手く表現できないことがよくあるんです。なので、原文で読んでもらうのが一番だと思うんです」
いつだったか、少し悔しそうにミカは言っていた。
その『ニュアンスの違い』というものが何なのか。
それに興味がわいて、ミカの和訳と原作を比べて読むようになったというわけだ。
当然、英語の成績が残念な私には英文がわからないので、違いを感じることはない。ミカの翻訳が無知な私にとっての正解なのだから、比較しようがなかったのだ。
それでは意味がないと思って、自分なりに原作を訳してみることにした。ミカも「とてもいいことです」と自分の作業の合間に手伝ってくれた。
そのおかげか、数か月経ったころには「リッちゃんさー、急に国語と英語の成績上がってるよね? 何かやってんのー?」とケイに言わしめるくらいの変化はあった。
ミカと付き合い始めて堕落するどころか成績が上がるなんて、本当にこの出会いに感謝したい。それをもたらしてくれた
私は本気でそう思っている。
「そういえばミカ、今年は文芸部の朗読会に出なかったね」
忙しなく働かされた文化祭が終わって、ようやく二人だけの放課後を過ごせるようになったとき、ふと疑問に思って訊いてみた。
カフェは大繁盛。キッチン担当にされたミカも、人見知り全開ながらもほんの少しだけクラスに溶け込んで仕事をこなし、万々歳で終わった。
「クラスの仕事が忙しくなりそうだったから、朗読会を断ったの?」
私は職務上、ホールとキッチンを往復することが多く、ミカがずっとキッチンにいたのを見ていた。だから今年は朗読会に参加しなかったと知ったのだ。
「いいえ。今年は初めから朗読会が予定されなかったんです。文芸部の部長のミヤタさんが卒業して部員がいなくなり、去年で廃部になっていますから」
「廃部? ああ……部員は一人だけって言ってたっけ」
さぞかしミカを部員に迎えたかっただろうに、と勝手にミヤタ先輩の気持ちを想像してしまう。いや、入部しても超絶人見知りのミカではろくに会話もできなかったに違いない。部長を任せようとすれば逃げただろうし。
朗読会という衆目に晒されるものに、ミカが参加したこと自体が奇跡のようなものなのだ。
「ミカって人見知りがすごくて人前が苦手なのに、なんで朗読会に出ようと思ったわけ? 強制された様子もなかったし、そういうことをするタイプじゃないでしょ」
「そうですね……今でもどうしてかわかりません。帽子をかぶって、お客さんの顔が見えなければ朗読できるとは思いましたけど、そもそも人前に出ようと思ったこと自体、自分でもよくわからなかったです。文芸部の顧問の先生に無理を言いましたし。ただ理由もなく『何が何でも物語を朗読してみたいと思った』としか。でも……」
私をじっと見て、ふふ、と微笑む。
「無理を通して朗読会に参加して、本当によかったと思っていますよ。あなたに出会えたのですから」
「そりゃこっちのセリフ」
返して、私も微笑む。
しばし、互いにじっと見つめ合って――ふと気づく。
「ミカ、ちょっと疲れてるよね。慣れないことをしたからかな」
顔色を見ていて、なんとなくそんなふうに感じた。クラスメイトに囲まれるだけではなく、彼らと協力して何かを成すのは、ミカにとって相当な負担になったに違いないのだ。
彼女はそれを隠すことなくうなずく。
「ええ、それなりに。クラスのみなさんは馴染めない私に優しくしてくださいましたし、いろいろ気を使ってくださったので、私のような者でもなんとかお仕事をまっとうできたという感じでしょうか。でも、すごく楽しかったですよ。
「フォロー? 何のことやら。あいつらが勝手にやったんでしょ。二人とも変人だしいい加減に見えるけど、結構なお人好しでお節介焼きだからね」
ぐう、きっちりバレてる。私が頼んだことをしゃべったんじゃないだろうな、あいつら。
「ふふ……そういうことにしておきます」
からかうようにも嬉しそうにも見える笑顔で言って、ミカは私の反応を見ていた。いたずらっ子な表情が可愛くて、思わず私も笑ってしまった。
「でもまあ、文化祭も終わったし、これでゆっくり作業できるね。次もフランス語の作品?」
「その予定です」
「そっか……私には難しくて、フランス語はよくわかんないんだよね。英語がやっとだよ」
はあ、とため息一つ。
ミカくらいになるにはどのくらいかかるのだろう。一生無理か。
「語学はとにかく反復練習です。根気よく取り組むほかありません」
「ですよねぇ……」
それはわかっているのだけれど、自分の能力の限界はいかんともしがたいものだ。真面目に勉強してこなかったツケなのだろう。
そんな落ち込み気味な私に「ファイトですっ」と天上の微笑みをお恵み下さり、
「うーん……」
その横で、私はカリカリと紙片に
それでもまだまだ英語力の低い私だ。これでいいと思っても、正しいかどうかはわからない。
「ミカ、これで合ってるかな」
書き上がった英文の意味が通じるか、確かめてもらう。
「……?」
By the way, didn't you just call me "Aso-san" ?
So I'll kiss you right now.
All right ?
差し出した紙片を見たミカは、顔を紅潮させて小さくうなずいた。
よかった。通じた。
「じゃ、そういうことで」
さっそく英文の内容を実行しようと、ぐっと肩を抱いて、彼女を引き寄せて――
「…………」
ミカが恥ずかしがりながらも笑みを浮かべていることに気づく。
なんだ、この違和感……?
「リコ……? どうしました?」
唇を重ねる寸前でピタリと動かなくなった私を不思議そうに見ながら、ミカはその名を口にする。
慣れてしまったのか、今では『リコ』と呼ぶときにそれほど照れたり恥ずかしがったりしなくなった。それは嬉しくもあり、残念でもあるのだが……今は違和感を煽る要因でしかない。
「……わざとなの?」
そのとき唐突に、私は悟った気がした。
「わざと『浅茅さん』って呼んで、私にキスさせようとしてる?」
「えっ……まさか、そんな。まだ『リコ』と呼ぶのに慣れなくて、つい……」
ついさっき呼んだくせに、そんなことを言う。
「ホントに? 自分からキスしたいって言い出せないからじゃなくて?」
「っ! ち、違います」
ミカは慌てて否定する。
……が、表情はウソをつかない。どうしてわかったんですか、と見開いた目が如実に語っている。
英文の翻訳はまだまだだけど、彼女の表情を訳すことならお手の物だ。
「ま、どっちでもいいけど。ルールはルールだからね、上有住さん?」
ニヤニヤしながら言って、彼女をじっと見つめる。
ミカは少しキョトンとしてから私の考えていることを察したようにハッとして、ちょっと拗ねたような顔を作った。
「私のことは『ミカ』と呼ぶんじゃなかったんですか?」
「ああ、そうだった。つい。ごめんね?」
「ダメです。ルールですから」
わざとらしく問い質して、わざとらしく謝って、わざとらしく怒って見せて。
互いの本心が透けて見える意味のないやりとりがおかしくて、知らず知らずに互いに笑い合って。
「なら、しょうがないね」
私は抱き寄せていた彼女を離し、目を閉じる。
「ええ。それが私たちの約束ですから」
言ってミカは、そっと私に抱きついてきた。
彼女のほうから触れてくるというのがなんだかくすぐったい感じがして、思わず身震いしてしまった。
「震えています? するのは平気でも、されるのは苦手ですか?」
「ううん、全然。ちょっとこそばゆいだけ」
「強がりですね、リコは……」
勘違いしながら小さく笑った彼女の吐息が私の頬を撫でたそのあと、二人の唇が触れた。
自分からするのが初めてで慣れないからか、ミカのキスは少しぎこちなくて。
でも、込められた気持ちは焼けるほど熱く私に伝わって。
「リコ……愛しています」
溶けるような甘い吐息混じりに、私のすべてを奪っていく天上の声で、ミカは想いを囁いた。
そのときの恥ずかしそうな表情がとても綺麗で、愛おしくて。
私はぎゅっと彼女を抱きしめ、少し赤くなったその耳に、湧き上がる想い全部を込めた一言を返す。
「私も大好きだよ。ミカ」
完 番外編に続く……
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