第11話 約束 呼び名 暴走未遂

 急に彼女を包む雰囲気が固くなった気がした。

 褒めたつもりだったが、何か気に障ることがあったらしい。


浅茅あそうさん」

「は、はい」


 声色にも明らかに怒りが混じっている。その迫力に気圧されて思わず身を引く。


「その、私を『翻訳ほんやくさん』と呼ばないでください。周りからそういう風に揶揄されていることは知っていますし、気にしないようにしていますけれど……好きじゃないんです。そのあだ名」

「あ……ごめんなさい」

「それに、祖父母のことで変な噂があるようですが、事実無根です。私の祖父母は私を大切にしてくださいますが、そのために他人を害するようなことは決してなさいません。私も祖父母にそんなことを望んだことはありません」

「そのことに関しては、私は全然信じてないです。かみありさんを見ていて、それはありえないってわかるから。でも……あだ名のことは軽率でした」


 その呼び名はあまりにも彼女のことを端的に表していたし、ケイがそう呼んでいたから何も思わず追従していたが、考えてみれば随分バカにしたようなニュアンスがある。嫌がるのも、怒るのも当然だ。

 深々と頭を下げ、謝る。


「以後、気をつけます」

「お願いします。他の誰かに言われるのは諦めていますけど……あなたにだけは、そう呼ばれたくなくて」

「わかった、もう言わないから。約束する」


 宣言して小指を差し出す。

 すると彼女も小指を出して、そっと絡め合った。

 そして、ふふっ、と嬉しそうに笑う。


「どうしたの? 何かおかしかった?」

「家族以外の人と、こんなふうに約束して指切りしたのが初めてで。こんな私にも特別な人ができたんだなって思うと、ちょっと嬉しくなってしまいました」


 絡めた指をじっと見つめて、少し弾んだ声でそんなことを言うのだ。

 ついさっきまで怒っていたと思ったらこの笑顔。

 何なの、この可愛い生き物は。こんちくしょう。

 それはさておき。

 呼び名、か……。


「じゃ、なんて呼べばいいかな。『上有住さん』じゃ他人行儀だし、『すみ』もただ名前を呼んでるだけで特別感がなくて、しっくりこないし……。何かリクエストはある?」

「いいえ。浅茅さんが決めてください」

「いいの? 変な呼び名をつけちゃうかもよ?」

「それでもあなたに決めてもらったものがいいです。お願いします」


 全面的な信頼をもって丸投げされて、うーん、と唸る。


「それじゃあ……『澄香』から取って、『ミカ』でどう?」


 急にピンと来て、それがいいと直感した。呼びやすいし。


「これなら、うっかりみんなの前で呼んじゃっても多分バレないよ。私たち二人だけで通じる名前」

「ミカ……いいですね。気に入りました」

「お気に召したようで何より。じゃ、今度は私に名前をちょうだい」

「え?」


 そんなことを言われると思っていなかったのか、意表を突かれたとばかりに目を丸くする。


「え、じゃなくて。私も『浅茅さん』じゃない呼び名が欲しいんだけど」

「あ、あっ、そうですね……。では、浅茅さんのお友達に倣って『リッちゃん』と……」

「ヤだ。ちゃんと考えて」


 即座に却下すると、ミカはううんと困ったように唸り始めた。丸投げされるプレッシャーを知ってみてほしい……というのはちょっと意地悪だったろうか。

 それから数分が経ち。


「すみません……これという呼び名が思い浮かばなくて……。『浅茅さん』以外の、私が決めた名であなたを呼ぶところを想像すると、なんだか恥ずかしくて……」

「ま、そうだろうと思った」


 今まで友人を作らず、一人で過ごしてきたのだ。愛称をつけるなんてことをしたこともないだろうし、その必要もなかっただろう。だからすぐにできるとは思っていない。


「じゃ、私のことは『リコ』と。律子リツコを縮めたの。呼びやすいでしょ」

「それでいいんですか? 男の人の名前ですよ?」

「え、そうなの?」


 可愛い響きのある名前で、有名女優やアイドルにもいるからよさそうだと思ったのだが。


「外国では『リカルド』や『エリック』といった男性名の愛称が『リコ』になることが多いんです」

「へぇ……そうなんだ。知らなかった」


 さすがミカ。博識だ。


「でも、それを言うなら『ミカ』も北欧では男性に多い名ですし、日本では『ミカ』も『リコ』も女性名として浸透しているので全然問題なかったですね。すみません、余計なことを言ってしまいました」

「いいよ、気にしてないから」

「ありがとうございます。浅茅さんがよければそう呼ばせていただきます。考えてみれば、初めてお会いしたときの浅茅さんは男装していて、とても恰好よかったですし、相応しい呼び名かもしれませんね」

「よせやい、照れるぜ」


 冗談めかして、嬉しいやら恥ずかしいやらの気持ちを誤魔化して。


「じゃ、私のことは『リコ』って呼んでね」

「わかりました。リ……リ……浅茅さん」

「ぅおーい。さっそく他人行儀ですね?」

「す、すみません。その、愛称で呼びたいんですけど……面と向かうとやっぱり照れくさくて……」


 蒸気が噴き出すほど真っ赤にした顔を両手で隠してうつむく。気持ちはわかるが、ちょっと寂しい。


「私だけ『ミカ』って呼ぶの、不公平だよ」

「わかっています。わかっているんです。でも……」


 くすぐったそうに体をくねらせて、ミカはふるふると首を振った。

 なら、しょうがない。強硬手段だ。


「じゃあ、いいよ。二人のときにミカが『浅茅さん』って呼ぶたびにキスするから」

「ええええぇぇえぇ? 本気ですか。教室で浅茅さんを呼べなくなるじゃないですか」

「二人のときだけの話だよ。それはそうと、今『浅茅さん』って言ったよね」

「えっ、ちょっと、今のは違……んっ」


 少し強引にミカの唇を奪う。前にしたときより少し長めに。

 しかし……抵抗されるかと構えていたが、意外にもあっさりと受け入れられてしまった。重ねた唇がどんどん熱を帯びてきて、ミカの吐息とこぼれる声が甘く溶けるように変わっていく。拒否する気配は微塵もない。

 実はキスされるのが好きだったり……そんなわけないか。


「……もう、急すぎます……」

「私を『浅茅さん』って呼ばなきゃいいだけでしょ。ほら、『リコ』って呼んでみて。敬称略でね」


 鼻と鼻が触れるくらい近くにあるミカの瞳に、私が映っていた。多分、私の瞳にはミカが映っているんだろう。

 キスをしたせいか、呼ぶのが恥ずかしいせいか。はたまた、こつんと額が触れ合っているせいかわからないが、今まで以上に赤面したミカが、私の瞳の中にいる。


「…………リコ」


 彼女は、小さくその名を囁いた。

 瞬間、私の中で言いようのない感覚が全身を駆け巡った。意識が痺れるような甘さに満たされ、ふわふわと浮かび上がる心地だった。大袈裟でもなんでもなく、人生で最も嬉しいと感じた瞬間が、間違いなく今だった。


「呼んでくれてありがと、ミカ。お礼にキスしてあげるね」

「えぇ……もうこれって、リコがしたいというだけですよね?」

「そうだよ?」


 当たり前じゃない、何を言ってるの? というようにうなずいて、少し呆れながらも笑顔を見せたミカにキスをした。




 無言で向き合う、私とミカ。

 初対面の人同士がすれ違いざまにちょっと体が触れて謝り合うような、よそよそしい空気が漂う。


「えーと……ごめんなさい」

「いえ、こちらこそ……」


 沈黙の果てに零れ落ちるのは、気まずい謝罪の言葉。

 あまりにも気持ちのいいキスで雰囲気が盛り上がりすぎて、お互いに抱き合ってごにょごにょが始まりそうになったとき、ミカが教育上よろしくない声を上げ始めたので私はハッと我に返った。

 ここは学校で、部屋の周りに人がいる可能性だってある。しかも第二図書室は防音ではない。むしろ普通の会話ですら聞こえてしまうかもしれない壁の薄さだ。

 そんな場所でこれはまずい、非常によろしくない、と分水嶺ギリギリのところでブレーキがかかったのだ。

 まあ、神聖な学び舎で行為に及ぶなんて非常識だと自制したのではなく、他人にミカのこんなえろ……もとい、可愛らしい声を聞かせてなるものかという独占欲丸出しの理由だが。


「…………」

「…………」


 少し距離を取って乱れた服をただし、ふと目が合った瞬間に慌てて逸らし、無言で床を見つめる。

 気まずい。


「その……リコは、小説を読んだりしますか?」


 よそよそしさに混じって色濃く漂う桃色の空気を追い払うように、冷めやらぬ赤面はそのままに落ち着いた調子で訊いてきた。私も幾分か平静を取り戻し、答える。


「うーん……マンガはよく読むけど、小説はね……。現代文げんぶんの授業でも眠くなって困るくらい、苦手かも」

「そうですか……。私が訳した作品を読んでいただければと思ったのですけど……」


 しょぼん、と肩を落とすミカ。


「…………」


 そして再び静寂。

 気まずい。


「ああ、でも、物語が嫌いってわけじゃないんだよ。読んでるマンガもファンタジー系が多いし。小説でも面白い作品があるなら知りたい」

「はい」

「オススメがあったら、ミカが朗読してよ。それならいくらでも聞けるから。ミカの声で聞く物語が、私は大好きだから」


 フォローのつもりで言ってから、えらく自分勝手だなと思った。私がすべきは読書する努力だろうとつっこまれても言い返せない。

 しかし、ミカはとても嬉しそうに笑っていた。


「お任せください。オススメがあれば読みますし、気になる物語があったら遠慮なく言ってくださいね」

「うん、ありがとう。放課後、ここに来るのが楽しみになってきた」


 私を虜にしたミカの朗読が聞ける。しかもだ。

 これが楽しみにならないはずがないではないか。

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