第10話 彼女の城

「お友達を飛び越えて恋人になっただと⁉ マジかよ……」


 信じられん、とケイは顔をひきつらせて呟いた。

 翻訳ほんやくさんにちゃんとお許しいただけたんだろうな、どうなんだよ? と、ケイとユキノが揃って男子みたいな口調で訊いてきたので、前にもこんなやり取りをしたような気がするとデジャヴを感じつつ、「昨日、好きですと言われた」と返した。それで二人ともがこの反応である。


「えぇ? じゃあリッちゃんのおでこの絆創膏は何なの? 怒らせて殴られたんじゃ?」

「ああ、これは……好きと言われたのが嬉しすぎて立ったまま気絶して、倒れたときに机の角にぶつけた傷なんだけど」

「なんてこった……」

「二……三……五……七……十一……」


 さすがのケイも言葉を失い、ユキノに至っては現実逃避のためか素数を数えている。

 キスまでしたことを話したら、きっとこの二人の精神はどこか遠い世界に旅立って帰ってこなくなるんじゃないだろうか。

 いや、親友とはいえ今は絶対に言わないけど。


「あ、ついうっかりしゃべっちゃったけど、このことは秘密厳守ナイショでね。私はどう言われてもいいけど、彼女が変な目で見られるのは避けたいので」

「わかってるよー、それくらいは……。しかし、リッちゃんと翻訳さんあのこがねー……」


 難しい顔をしてうなるケイ。

 誰とも関わらず、常に無口無表情。ヘタなことをすればが黙っていない、いつも英文を翻訳しているちょっとした変わり者。孤立してもしかたがなく、本人もそれを望んでいる様子。

 翻訳さんとは周囲からそう見られている人物だ。

 それが、出会いが最悪で翻訳さん史上最低の不審者として認識されたはずの浅茅律子わたしと同性で恋人になるなどとは、昔から彼女を知るケイの想像の埒外らちがいだったのだろう。


「ま、とりあえずあたしたちに火の粉が飛んでこなくなったようだし、あれこれ言っても始まらない。それより親友リッちゃんの幸せを祝福しようじゃないか。ねぇ、ユキノどん」

「そだね、ケイどん。昼休みは学食でお祝いしよう」

「ケイ……ユキノ……ありがとう」

『もちろんリッちゃんの奢りで』

「…………。そうか、そうか。君たちはそんなやつらだったな」


 ユニゾンでせこいことを言い出した親友たちを放っておいて、昼休みは愛しの彼女と過ごそうと心に誓った。



 翻訳さんは昼休みや放課後になるとすぐに教室を出ていってしまう。その間、どこにいるのかと疑問に思っていた。

 その答えが『第二図書室』だった。

 特別教室棟の三階にあり、本の倉庫のような狭くて薄暗い部屋だ。普段は誰も使わず、静かで翻訳作業が捗ると彼女は言う。


「第一図書室に置かれなくなった辞書や希少本もありますし」


 と嬉しそうに微笑むところを見ると、本当に本が好きなのだなと思う。小説を数ページ読んだだけで眠くなる私とは大違いだ。


「どんな感じで作業をしてるか、近くで見てみたいんだけど」


 一緒にいたいという本音を隠して言ってみると、彼女はぜひ来てくださいと笑顔で了承してくれた。

 そうして初めて第二図書室に招待された日は、それはそれは緊張したものだ。ほとんど彼女の私室と変わらないし、好きな子の部屋に行くのに緊張しないはずがない。しかも薄暗い中で二人きり。冗談抜きで、彼女の天上の御声を聞いて理性を保てる自信がない。


「名目上は図書室ですので、飲食が禁止されていてお茶は出せませんが、ゆっくりくつろいでください」

「ありがと」


 立ち並ぶ書架の奥、小さな事務机のそばにある椅子に座ると、彼女は机のデスクライトのスイッチを入れて、引き出しに入れてあったタブレット端末を操作して作業を始めた。教室で使っているところを見たことがなかったので、電子機器を使う姿は少し新鮮だ。


「そのタブレットは?」

「辞書の代わりです。英和辞書ならこの部屋にもありますが、フランス語となると古いものしかないので、自宅から持ってきてここに置かせていただいています。勝手に、ですけれど」

「え、フランス語の作品まで訳してるの?」

「いえ、まだそこまでは。少し前に勉強を始めたところですし」


 と、勉強の進捗を見せるようにノートを開いてこちらに向けた。細かい書き込みが多くて、落書きと空白だらけの私のノートとは比べるのが失礼なレベルだ。


「英語に加えてフランス語か……話せる言葉がこれで四つになるね」

「四つ?」


 ことん、と小首を傾げ、私をじっと見つめる。


「ええと? フランス語を話せるようになったとしても、あとは日本語と英語なので三つですが」

ねこ

「はい?」

「猫語、話せるでしょ」

「……? 何のことです?」


 傾げた小首の角度が増す。


「この前の昼休み、校舎裏の花壇のところで猫と楽しそうに話してたでしょ。だから猫語も翻訳できるんだ、すごいなーって思ってたんだけど。違うの?」

「……!」


 ぼふっ、と音が鳴ったと錯覚するほど一瞬で彼女の顔が紅潮して蒸気が吹き出す。


「みっ、見てたんですか……⁉ いえっ、じゃなくてっ、ひ、人違いですっ!」

「はっはっは。この私が愛しいあなたを見間違えるとでも?」

「うぅ……忘れてくださいぃぃ……」


 完熟トマトも顔負けの赤面で、古書には大敵の部屋の湿度を爆上げする彼女。

 お世辞抜きでめちゃくちゃ可愛い。大好き。


「ちょっとからかいすぎた。ごめん」


 謝りながら彼女の頭を撫でると、ぷうっと頬を膨らませて恨みがましく私を睨んだ。その仕草も可愛いとか……これ以上は私の心臓がもたない。


「そうだ、猫で思い出した。ひとつ言いたいことがあったんだった。結構大事なコト」


 話を変えようと考えたとき、前々から気になっていたことをこの際だから注意しておこうと思った。


「何でしょう?」


 私の様子が変わったことで落ち着きを取り戻したか、彼女は真面目な表情でこちらを向いた。


「いつも机にかじりつくようにしてノートを書いているけど、傍から見るとものすごく猫背になってるのよね。体に悪そうだし姿勢が悪くなるし、気をつけたほうがいいと思う」

「え……そうなんですか……?」


 自覚がなかったらしく、意外そうに首を傾げる。


「この部屋もそう、薄暗いしデスクライトだけだと見えにくいだろうし、ちゃんと明るくして作業したほうがよくない? 姿勢だけじゃなくて目も悪くなるよ」

「猫背は気をつけるようにしますが……部屋を明るくするのはちょっと……」

「どうして?」

「廊下を通る誰かに、この部屋を使っているのがわかってしまうじゃないですか。それで部屋に入ってこられると……」

「入口にカギをかければ?」

「施錠されているのに明かりがついていたら、それを消すのに確実に人が入ってくるじゃないですか。そんなの怖くて嫌です……」

「あー……」


 聞きしに勝る筋金入りの人見知りだ。可能性としてはそれほどでもないことを、ここまで怖がるとは。

 そう考えてみると、彼女が怖がらずに話してくれるこの状況、とんでもない奇跡が起きているのではなかろうか。それだけ私に心を許してくれているということなのだろうが……ダメだ、顔が勝手ににやけてしまう。部屋が薄暗くてよかった。


「んー、まあ、そこまで嫌なら明かりはしかたないけど……猫背は直すようにしてほしいかな」

「はい。以後、気をつけます」

「お願いね。可愛い彼女カノジョが姿勢を悪くするのは、ちょっと嫌だから」

「大切な彼女カノジョからのお願いなら、聞かないといけませんね」


 からかうように言った私に、そんな反撃をしてきた。

 そんな風に言われて嬉しくないわけがない。先ほどの彼女ではないが、私の顔から蒸気が噴き出しそうになった。

 この子、なかなかやりおる……。


「そ、それにしても、フランス語か……。難しいって聞くけど、なんで覚えようと思ったの?」


 昇天する前に話を変えようと、再び話題を戻す。

 彼女はタブレットの画面に視線を落とし、少し操作して英文のメールを表示して見せた。


「作品の和訳掲載を許可してくださったイギリスの大学生のかたが、フランスの小説投稿サイトに面白い作品がたくさんあると教えてくださったので、それを読んでみたいと思ったんです」


 英語がほとんどわからない私にはメールの内容はさっぱりわからないが、『Alliceアリス』という単語があることからして、その大学生から彼女に宛てられたものだろうという推測はできた。


「フランス語にとどまらず、将来的にはドイツ語やイタリア語、ロシア語も覚えたいと思っています」

「はぇー……さすが『翻訳さん』と呼ばれるだけあるね。情熱がすごい」

「…………」


 そう言うと、彼女は手を止めて、こちらを睨むように眉をひそめた。

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