第7話 思い切って、本心を
ほんの少しだけ話をして、
地面に打ち付けた膝も歩けないほど酷くならず普通に登校し、教室でノートを広げていた彼女にいつものように挨拶する。
相変わらず彼女は返事してくれなかったが、代わりに小さく会釈してくれた。
それが妙に嬉しくて、私は天にも昇るような気持ちになった。
『放課後、少しお時間をいただけますか』
そう書いた紙片を通り過ぎざまに彼女の机に置き、ケイやユキノの無駄話の輪に合流する。直接言わないのは、みんながいる前で話しかけるのは嫌がるだろうと思ってのことだ。それでも、放課後になって彼女が応じてくれるかどうかはわからない。
不安と期待を綯い交ぜにした気分で授業を乗り切り、放課後になった。
ケイたちには「用があるから」と告げて先に帰ってもらった。何かを察しているのはその表情からわかったが、ニヤニヤしながら「がんばれー」とエールを貰った以外は何も言わずにおいてくれた。
好きな子に告白するとでも思っているのだろうか。
……似たようなものか。
翻訳さんは放課後になってすぐに教室を出ていった。いつものように。
しかし、彼女のカバンが机に残っている。
だから必ず戻ってくる。
そう信じて、待つ。
教室から一人、二人、と人が減っていき、ほどなくして残っているのは私だけになった。静まり返った空間に一人でいると、緊張が少しずつ体の芯から湧き上がってきて無駄に肩に力が入る。
そのままでは石像になってしまうような気がして、意識的に脱力し、椅子の背もたれに伸びた。少しの間ぼんやりと天井を見つめてから、そうそうと思い出してカバンからラッピングされた新品のハンカチを取り出す。翻訳さんに買って返すと約束したものだ。まったく同じデザインのものが見つからなくて、それならいっそのこと全然違ったものにしようと選んだ、無地の薄い水色のハンカチ。なんとなく、彼女に似合うと思ったのだ。
それに視線を落とし、じっと見つめる。
受け取ってもらえるだろうか。
気に入ってもらえるだろうか。
私の話を聞いてもらえるだろうか。
そもそも、戻ってきてくれるだろうか。
じわじわと不安が広がっていく。刹那にも永遠にも思える時間をかけて、じわじわと。
「…………っ」
形のないものに意識を圧し潰されて息苦しさを感じ始めた、そのとき――遠くから廊下を歩く足音が聞こえてきた。それは間違いなくこちらに近づいている。
来てくれた……!
そう思って顔を上げると、戸口に人影が現れた。
無表情で私を見るその人は、間違いなく翻訳さんだった。
「ありがとう。ごめんね、時間を取らせて」
席を立って頭を下げる。
「私はただ、カバンを取りに来ただけです」
そう返して席に戻り、椅子に座った。すぐにでも帰ってしまうようなことを言いながらも、話くらいは聞いてあげる、という意思表示のようだった。
その好意を逃さず、自席を離れて彼女の前に移動する。
「えっと、まずはこれを。昨日はありがとうございました。同じものが見つからなくて申し訳ないんですけど、お納めください」
とハンカチを差し出す。翻訳さんは少し目を丸くして、しばし躊躇ったあと、それを手に取ってくれた。
「別に構いませんと言いましたのに……ご丁寧に、ありがとうございます」
「それと……
「はい」
小さくうなずいて、上目遣いに私を見る。落ち着きのある瞳で、警戒している様子は感じられない。
「去年の文化祭の朗読会、とてもよかったです。聞いたこともない物語なのに、上有住さんの語りでぐいぐい引き込まれて、めちゃくちゃ感動して……そのことをずっと伝えたかった」
「えっ……」
「ただこれだけを言いたくて、上有住さんにつきまとうような真似をしていました。ホントにごめんなさい。これからは話しかけたり近づかないようにしますので、ご容赦ください」
再び深々と頭を下げる。私の本気と誠意を感じてもらえるように。
友達になりたいという目的を捨てたわけではないが、彼女にその気がないのだからどうしようもない。自己紹介のときに与えてしまった『不審者』のイメージを『ただのクラスメイト』に戻してもらえればそれで十分だ。
「えっ……えぇ……? 朗読会に……
戸惑う翻訳さんの声。
謝罪に対する困惑でもなく、接近しない宣言に対する驚嘆でもない。朗読会という単語が私の口から出たことが一番の予想外だったようだ。
垂れた頭を上げると、顔を真っ赤にしてあわあわと慌てる彼女がそこにいた。
「外部の女性客と……なんだかものすごい拍手をくださった男性しかいなかったはずなんですけれど……」
「そうそう、その拍手をしてたのが私。でも、いくら薄暗かったからって、男と見間違えるのは酷い……ああ、そうか。男装執事カフェの
「えぇぇええぇぇ……?」
驚きのあまりか、言葉をなくした翻訳さんはニワトリの首を絞めたような声を上げながら目を見開いていた。
「あのときの物語、展開自体はありきたりだったのに、上有住さんが読むとすごく面白く感じて……それで、そんな楽しい時間をくれたあなたにお礼を、と」
「えっ、いや、でも……私、帽子で顔を隠していましたよね。リボンタイもわざわざ二年生のものに替えたり、先生にも部長にも秘密にしてくださいとお願いして……なのにどうしてあれが私だと……?」
「文芸部顧問や部長に訊いても結局正体はわからずじまいだったんだけど、始業式の日の自己紹介のときにあなたの声を聞いて、この人だ! ってすぐにわかった。それで興奮しちゃって、いきなり手を掴んだりしてしまったんだけど……あの節は大変申し訳ないことを」
「いえ、丁寧な謝罪をいただいていますし、それはもういいんです。でも、声だけで……?」
ケイたちと同じ反応をする翻訳さん。
そんなにおかしなことなのだろうか。
世の中にはどんなアニメキャラでも声を少し聞くだけで声優の名前が即座にわかるという特殊技能を持つ人もいるそうだが、それに比べれば私なんて可愛らしいものだ。
「上有住さんの声がめちゃくちゃ私の心に刺さったから忘れられなくて。なんというか、気に入ったとか魅了されたとかいう次元を通り越して、私の語彙が死亡して『大好き』ですとしか言えない」
「だ、大好き……って……私を、ですか……?」
今にも蒸気を吹き出しそうなほど真っ赤になった顔を両手で隠して、翻訳さんはうつむいてしまった。
彼女と話せるのも最後だし、伝えたいことは全部伝えておこうと思って、包み隠さず気持ちをさらけ出したのだが……少し感情が出過ぎただろうか。また「リッちゃんは思い込んだら周りが見えなくなる」とケイに怒られてしまうかもしれない。
でも、次がないなら言うべきだと私は思う。彼女に対する気持ちも、伝えないままに封印するより、彼女に知ってもらったという安心感を残してから心の奥底に沈めたい。それが独善で彼女の迷惑など考えていないことは承知の上だ。
後悔なんてしたくない。猪突猛進上等、ただ突き進むのみ。
「本当に……?」
「はい。上有住さんが大好きです」
「…………」
うぅ、と小さくうめいたかと思うと、翻訳さんはゆっくりと顔を上げて私をじっと見つめた。
しばしの沈黙のあと。
真っ赤な顔で恥ずかしそうに、桜色の可愛らしい唇を少し開いて。
「ありがとう……ございます。嬉しいです……」
囁くように、そう答えた。
その声と、普段は無表情が貼りついている顔に浮かぶ嬉しそうな笑顔で、私の心は完全に彼女に持っていかれた。
反則だ……この可愛さは……。
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