第6話 受け身失敗の功
担任がやってきてホームルームを終え、いつものように翻訳さんがそそくさと教室を出ていくその背を見送った。いつも通りの放課後だ。
だが。
「
今日は佐藤女史の呼び出しをいただいてしまった。
お弁当のことといい、ホントにもう……厄日なのか?
「ケイ、ユキノ、先に帰ってて」
「わかったー。ちゃんと『
「勝手に呼び出し理由を決めないでくれるかな⁉」
とツッコミを入れたが、可能性を否定できないのがなんとも。
二人のニヤニヤ顔に見送られ、教室を出た佐藤女史について廊下を無言で歩き、職員室に入る。女史は奥に並ぶデスクの一つに着くと、一枚の書類を取り出した。
「先日提出してもらったものなのだけれど、記入漏れがあるの。あなたでなければわからない内容なのでこちらで勝手に修正するわけにもいかなくて。わざわざ来てもらって申し訳ないけれど、お願いできるかしら」
「あ、はい」
たいした用でもなく、ケイの妄言が現実にならずにホッとする。さっさと不備を修正すると、あっさりと解放された。
こんなことならケイたちに待っていてもらえばよかった。今からダッシュすれば追いつけるかもしれないけど、どうしようか。
そんなことを思案しつつ荷物を取りに教室に戻ると、静まり返った室内には誰もいなかった。放課後になって十数分で無人になることは珍しいが、みんなそれぞれに忙しいんだろうと勝手に納得してカバンを肩にかけた。
「やっぱりケイたちを追いかけるか」
昼食が半端でおなかも空いているし、合流して甘いものでも食べて帰ろうと思った。
そうと決まれば善は急げ、教室を駆け出て――
「ぅわっ!」
廊下に人がいたらしく、ぶつかりそうになった。その寸前で踏み出した足を横へずらし、間一髪で体をひねって衝突を避けると、そのまま体勢を崩して受け身も取れず思い切り廊下に転がった。
運動能力も反射速度も並以下の私が相手にぶつからずに避けられた奇跡の体裁きを自分で褒めてやる暇もなく、廊下に打ち付けた右肘と両膝に鈍痛が走る。
こんな痛いご褒美なんていらないんですけど! と悪態をつきたいところではあるが、入口の先を確かめもせずに飛び出した迂闊な自分に跳ね返ってくるだけだ。
やっぱり厄日だな……今日は。
「ごめんね、ビックリさせちゃって。ぶつかってないよね? 大丈夫だった?」
まず相手に謝って、よいしょと起き上がる。それから服についた汚れを叩き落として、相手を見て……硬直した。
「…………」
ぶつかりそうになったのは、なんと『翻訳さん』だった。彼女は怯えたような表情で私を見たまま立ち尽くしている。
こんなところで会えるなんて奇跡だ。……じゃなくて。
「あっ、ほん……上有住さん。ホントごめんね、ビックリさせたよね、ごめんなさい!」
奇跡の巡り合わせ、とか言っている場合ではない。よりにもよって悪印象を持たれている翻訳さんだ。ただでさえお亡くなりになっている好感度をマイナス領域に突入させるようなことになる前に、とにかく謝るしかない。そう思って深々と頭を下げる。
すると、翻訳さんはくるりと踵を返したかと思うと、一目散に走り去ってしまった。脱兎のごとく、とはよく言ったものだと感心しそうな速さだ。すぐに彼女の背が廊下の向こうに見えなくなった。
これはもう……完全に終わったな。
「あーあ……」
脱力してしまい、教室入口の戸に背を預けて天井を仰いだ。
こんなに迷惑を重ねてしまっては、明日、挨拶ついでに話すことなんて無理だろう。
ホント、何やってんだかね……私は。
ずるずる、と戸に背中を擦る感覚。打った膝が痺れて折り曲がっていることに気づかぬまま、私は廊下に座り込んでいた。
ズキズキと痛み出す膝に、涙がにじむ。
いや、これは絶望の涙か。
……どっちでもいいや。
「はぁ……」
今日何度目かの深いため息が漏れる。私にとっての幸せである『翻訳さん』も逃げていったし、いまさら何度ついても問題ないだろう。
「あの……
やけっぱちになってぼんやりとしていた私に、天上の声が降ってきた。
そちらに目を向けると、薄いピンク色のハンカチを差し出す翻訳さんが立っていた。
「え……?」
逃げたはずの彼女がなぜここに? と私の思考が混乱する。
「その、膝から血が出ていますし……これを使ってください」
翻訳さんが言う。そのとき初めて、自分の膝から少しだけ血がにじみ出ていることに気づいた。道理で痛いわけだ。
「いやいや、ハンカチを汚しちゃうからダメだって。大丈夫、ティッシュ持ってるから」
ははは、と空笑いし、そばに落ちていたカバンを探る……が、どうやらポケットティッシュは品切れのようだった。そのときに少し足を動かしたせいか、鈍痛がぶり返して思わず眉根が寄る。
「あらら、品切れかー。でもまあ、これくらいはほっといても……」
「そこの椅子に座ってください。手当てしますから」
「大丈夫だってば」
「座ってください」
「…………」
有無を言わせない迫力で強く言われて、私は反抗するのをやめた。朗読会で魔王と戦った力強い勇者を演じたその声音には逆らえないと思ってしまったのだ。
教室に入って手近な椅子に座ると、その前に翻訳さんがしゃがんで私の膝にハンカチを当てた。水で湿らせてあったらしく、ひんやりした冷たさと傷口に染みる痛みが同時に押し寄せてくる。
「もう少し我慢してください」
一転して子供をあやすような優しい調子で声をかけて、傷の汚れをふき取り、ポケットから絆創膏を取り出して膝に貼ってくれた。
「あくまで傷口の応急処置です。打撲もあるようですし、痛みが酷くなるようでしたらきちんとお医者様にかかってくださいね」
「あ、うん、ありがとう……ございます」
お礼を言って、じっと翻訳さんを見つめる。
私の膝を拭いて汚れたハンカチをポケットに入れて、自分の席に行き、机の中からノートを取り出してカバンに入れた。忘れ物を取りに教室に戻ってきて、私とぶつかりそうになったということらしい。
そうすると、いったん去ったのは、ハンカチを水で湿らせるためだったのかもしれない。私のために。
「ちょっと、意外だったかな……」
ぽろっと、心の声が漏れ出してしまった。
「?」
それが聞こえたのか、そそくさと帰ろうとしていた翻訳さんが足を止めてこちらを向いた。その目が、なんというか……無表情で怖い。
「いや、その、私って上有住さんに嫌われてると思ってたんだけど、わざわざハンカチを濡らして戻ってきてくれて、手当てまでしてくれて。それに普通に話せるし。ケイからはめったに人と話さなくて、誰とも関わらないって聞いてたから……それがちょっと意外だったというか」
「私のせいでケガをさせたんです。それを無視して逃げるような無責任な人間にはなりたくありません」
怒っているのか、冷たくそう言ってそっぽを向いた。
しかし、わずかに震える手が、精いっぱいの虚勢を張っていることを示している。やはり私……というか他人と話すのは怖いのだろう。
だから私は、殊更威圧感のない軽い調子で能天気な笑顔を見せた。
「いやいやいや、廊下に飛び出した私が悪いんだよ。上有住さんは何も悪くないし。……あ、汚したハンカチは新しいのを買って返すね。同じようなのがあればいいけど」
「いいんですよ、ハンカチくらい。お気になさらないでください」
「そういうわけにはいかない。ちゃんと買って返す。私だって、きれいなハンカチをダメにしてまで手当てしてくれたお礼を、言葉一つで済ませるような恩知らずになりたくないから」
「…………」
気楽な笑顔のままで、睨みつけるほど視線に意志を込めて翻訳さんを見つめる。
彼女はしばらくそれを無表情で受け止めて――
「……失礼します」
聞き逃してしまいそうな小さな声で呟いて、教室を出ていった。
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