第5話 得難き難儀な友よ

 翌日から通常授業が始まり、日を追うごとに新学年になったという浮かれた空気は薄れつつあった。

 そんな中にあって、私と翻訳ほんやくさんとの間の空気は、何とも言い難い様相のままだった。

 彼女は相変わらず、休み時間になると英文をノートに和訳する作業に没頭しているが、隣の席の私が少しでも動くとビクッと体を震わせる。

 明らかに私は警戒されているようだ。しかたないけれど。


「おはよう、かみありさん」

「ッ!」


 笑顔で朝の挨拶をすると、彼女はすぐにうつむいてしまう。言葉を返してくれることもない。返ってくるのは怯えた視線だけ。

 正直、心が痛いし折れそうになる。

 しかし、こうやって挨拶を続けていれば、友達になれなくても警戒心を解いてもらえるくらいになるかもしれない。彼女に嫌われてしまうのは自業自得なので諦めがつくが、翻訳さんが隣人わたしを警戒し続けてストレスを抱えるのはダメだと思うし、それは私の本意ではない。

 彼女を怖がらせたことを申し訳なく思っていること、害意はないことを時間をかけてゆっくりとわかってもらえればいい。

 そう思って、私は翻訳さんに挨拶を続けた。

 それから二か月ほど経って席替えが行われ、翻訳さんと離れてしまっても、それだけは欠かさなかった。

 それが私の気持ちであり、誠意だ。

 ……すみません、カッコつけました。

 本音は、そのうち翻訳さんの気持ちが緩んでお友達になれるんじゃないかという下心です。



「はぁぁぁぁぁ……」


 今日も翻訳さんに無視され続け、昼休みになると同時に教室から逃げるように出ていく彼女の背を見送った私は、地獄の底から湧き上がるようなため息をついた。


「想い人は振り向かず、か。健気だねぇ、リッちゃん」


 弁当箱を手にやってきたケイが苦笑しながら言って、隣の空いた席に座った。


「人と関わりたがらない子なんだから、いい加減諦めたほうがいいと思うんだけど。こだわりすぎると悪化するよー」

「うーん……そうかもしれないけど……怖がらせたことの責任というものが」

「その件に関しては、あの思わず動画に録ってSNSにアップしたくなるほど見事かつ完璧で大笑いできるジャンピング土下座で手打ちは済んでるでしょ。あの子だってそれはわかってるはずだし。それに席替えで隣同士じゃなくなったのに挨拶を続けるのも、あの子にとっては不可解でしかないと思うよ。リッちゃんがやってることは、ちょっとしたストーカーと変わんない」

「そう見える……?」

「見えるねー」


 きっぱりとケイは言い切った。いつの間にか前の席を陣取っていたユキノもうなずいている。

 実のところ、そうなんじゃないかなー、とは思ってはいたのだ。

 でも、そうするほかになく。


「どうしたらいいのかな……」

「多分、だけど」


 ため息のような私の独り言に、ユキノが購買部で買ってきたらしいカツサンドの包みを破りながら応えた。


「多分、上有住あのこはリッちゃんが何を考えてるかわからなくて戸惑ってるんだと思う。だって、挨拶してくるだけでそれ以上何も話さないんだもの。前科があるだけに『この人は何を企んでるんだろう?』って疑念を持たれてもしかたなくない?」


 と小首を傾げて見せたあと、いただきまーす、と豪快にサンドイッチにかぶりつく。

 言われてみれば、そうかもしれない。


「じゃあ、挨拶だけで終わらずに、翻訳さんに私が思っていることを素直に話したほうがいいってこと?」


 問いかけに一つうなずいて、もぐもぐごくんと飲み込んで。


「結論から言うと、そう。話しかたを間違えると修復不可の大事故になるかもだから、ものすごく危険な賭けになるけど」

「なるほど……」


 確かにユキノの言うとおりだ。

 例えるなら、私は玄関ドアをドンドン叩くだけで一切用件を告げない来訪者のようなものだろう。そんな不気味で怪しいヤツは普通なら相手にせず警戒だけする。

 ならばさっそく、明日にでも挨拶したあとに朗読会のことを話してみよう。


「ありがと、ユキノ」

ふぉういはひあひたしまして」


 カツサンドを頬張ったままのユキノがグッと親指を立ててウインクする。その指にソースがついていたり、カツを詰め込んだ頬をリスみたいに膨らませたりしていなければ男前すぎて惚れてしまう状況なのだが。


「ケイもありがと。相談に乗ってくれて」

「そのための親友あたしたちだからねー。リッちゃんが困ってるなら助けるよ」

「うんうん」

「ケイ……ユキノ……」


 私は本当にいい友人に恵まれたと、心底実感するとともに感動した。


「ま、本音はリッちゃんが翻訳さんあのこにヘタな手出しをして、こっちに火の粉が飛んでこないようにしたいだけなんだけどねー。社会的に死にたくないし」

「そうそう。死ぬのはリッちゃんだけにしてほしいというか」

「オイコラ親友ども」


 一瞬でも感動した私の純情を返せ。

 ともあれ、一縷の望みと方針が見えたおかげで気分が軽くなった。

 その途端、くぅ、とおなかの虫が今まで忘れていた空腹に抗議の声を上げた。はいはい、ごはんですね、と独り言などこぼしつつカバンに手を突っ込んで。


「…………」

「いってらっしゃいませー」


 一瞬で事態を察したケイは、教室の入口を指してうやうやしく言った。



 まさかお弁当を忘れてきたとは。

 しかもそれに今まで気づかなかったとは。

 はぁ、と憂鬱なため息が漏れる。

 それにしても、なんだか今日はため息ばかりついているような気がしてきた。ため息をつくと幸せが逃げると聞くし、つかないように少し意識しておこう。


「……?」


 学食の購買部に向かう途中、渡り廊下の窓から校舎裏の花壇が見えるのだが、そこにうずくまる人影があることに気づいた。やや斜め後方からなので誰なのかはわからない。背中までの黒髪とスカート姿なので女子生徒であることは間違いないけれど。

 花壇の手入れをしている……わけではないだろう。手に何も持っていないし、身動きもしない。じっと花壇の花を見ているだけのようだ。

 なんとなく目が離せなくて、立ち止まって様子をうかがう。

 女子生徒はときおり首を傾げたり肩を揺らしたりしていた。何かに話しかけているようにも見える。


「……あ」


 女子生徒が花のほうに手を伸ばした途端、花壇から茶色の何かが飛び出して校舎の陰で立ち止まると、女子生徒をちらりと見てから走り去っていった。

 このごろよく見かけるようになった猫だ。ケイによれば、近所の家で飼われている子で、ときどき家を抜け出して校内を徘徊しているらしい。

 逃げられてしまった女子生徒は残念そうにしながら立ち上がって手を振り、くるりと踵を返した。

 その女子生徒は――昼休みになるなり教室を出ていった『翻訳さん』だった。

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