第4話 心の記憶

 私の突拍子もない行動に静まり返った教室。

 それが永遠に続くかと思われたそのとき、ケイが呆れたように大袈裟なため息をついた。


「リッちゃん。さっそく猪突猛進を披露してかみありさんを口説くのはいいけど、みんなの自己紹介が終わってからにしてくれないかなー」


 気だるそうなのんびりした調子で言って、ケイは外国人のようにやれやれと肩をすくめた。

 その一言でどっと教室に笑いが起きて、ハッと我に返る。

 私はいったい何をしているんだ……?


「…………」


 衆目に晒され、恥ずかしそうにうつむきながらも上目で私を睨む翻訳ほんやくさん。握った彼女の手がみるみるうちに熱くなってきて、このままだと溶けてしまうのではと思って慌てて放した。


「な……何なんですか……」


 蚊の鳴くような、か細い抗議の声。それが聞こえた瞬間、津波のように後悔だの不安だの恐怖だのが襲い掛かってきて、さーっと体から血の気が引いていくのがわかった。


 やってしまったぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!


 声にならない心の絶叫が意識を満たし、自分の机に突っ伏して人生の終わりを覚悟した。


「ほんとにもう、頼むよリッちゃん。というわけで、次のかた、どうぞー」

「あ、はい。私の名前は――」


 ケイが上手い具合に静まり返って混乱していた教室の空気を誘導してくれたおかげで、止まっていた自己紹介が再び流れ始めた。本当にケイには感謝しかないが、そのときの私はそれどころではなかった。

 よりにもよって翻訳さんを困らせるようなことをしてしまったのだ。

 彼女のに社会から抹消されることを恐れたから

 文化祭の朗読会からこっち、使

 これでは朗読の感想を伝えることも、できればお友達になってくださいと告げることもできない。

 ああ、神様。お願いです。五分でいいから時間を戻してください……!

 机に突っ伏しながら、私はそんなことばかりを考えていた。



 自己紹介が終わり、担任がいくつかの連絡事項を伝えたところでホームルームはお開きとなった。今日はもう授業もなく、帰宅するのみである。


「……で? あれはなんだったの?」


 問い詰めるようなジト目のケイ(この子、こんな顔ができるんだ……)が、そそくさと教室を出て行った翻訳さんを見送ったあとに訊いてきた。

 同じくしてユキノも「さっさとゲロっちまいな」というようなお上品ではないセリフで威圧してくる。

 とりあえず、ホームルーム終了の瞬間にジャンピング土下座を敢行して上有住さまに誠心誠意謝罪したところ、彼女は寛大にも私の無礼をお許しくださいまして(単に目立ちたくなかったから適当にあしらっただけという説もある)、社会的に死ぬことはなくなったのでございますが、おそらく二度と口をきいていただけなくなっただろうことが残念でならないのです。

 いや、全面的に自分のせいなので自業自得なのだけれど。


「申し開きもございません。それと迅速なフォロー、ありがとうございました。学食でカツカレー特盛セット(税込一二八〇円)を奢らせていただきます。お納めくださいませ、ケイさま」

「いや、あたしが聞きたいのは謝罪じゃなくて、なんであんなことをしたのかってことで。あと、ダイエット中だからそんなカロリーモンスターはいらない。つまんない小芝居もね」


 私よりスリムで軽量なケイにそんな必要があるかな、とか思いつつ。


「去年の文化祭で文芸部の朗読を聞きに行ったって話はしたよね」

「うん。リッちゃんが仕事をサボって逃げたときのことだよねー」

「そういう言いかたはやめて? あれは予定になかったシフトを勝手に入れられた私のささやかな抵抗の意味を込めたボイコットだという主張が認められて不問になったはずでは?」


 抗議のジト目を返すと、ケイは不機嫌な表情であさってを向いた。

 私の代わりにホールに駆り出されて、女子なのに『ショタ執事』として一般客(主に年上のお姉さまがた)から大人気を博したことをまだ根に持っているらしい。身長が低くて童顔なのが運の尽きだ。


「まあ、それはいいとして。そのときに朗読した読み手さんがすごくよかったってことも多分話したと思うんだけど」

「ああ、リッちゃんが必死に探し回ってた『魔法使い』の君だねー」

「うん。

『…………は?』


 ケイとユキノが声を揃えて怪訝そうに眉根を寄せた。


「ずっと焦がれて探していた人が唐突に目の前に現れたもんだから、つい気持ちを抑えきれなくなって……それでああいうことになってしまった、と。そういうわけで」

「ま、待って待って。翻訳さんが魔法使いだったって? なんでわかったの?」


 急展開に戸惑いつつ、ユキノが急き込んで訊いてくる。

 それに対して、私は何をいまさらという気持ちで一言。


「……マジか……」

「マジで」


 自信満々にうなずくと、ユキノは脱力して息をつき、ケイは腕を組んで眉間のシワをさらに増やした。


「一応は幼馴染のあたしでもほとんど声を聞いたことのないほど無口で超絶人見知りのあの子が、人前に出て朗読したなんて信じられないんだけど……」

「間違いないって。自己紹介で聞いた上有住さんの声が朗読会の魔法使いと同じだった。心の奥底に刻み込んだ、あの天上の御声をこの私が聞き間違うわけないし」

「まあ、あれだけ魔法使いにご執心だったリッちゃんがそこまで言うんなら、そうなんだろうけど……うーん……」


 疑い半分といった調子でうなずき、ケイは唸った。


「それで、愛しの君まほうつかいが見つかって、リッちゃんはどうしたいのさ?」


 ユキノが言う。

 そんなの、決まっているではないか。


「朗読会の感想を伝えて、できればお友達に」

「あんなことして怖がらせたあとなのに、できるかね?」

「…………」


 そうでした。上有住さんの中では、私はまごうことなき不審者だったんだ。

 ……終わった。


「まー、謝って許してもらえて、社会的に死ななくてよかったと思うしかないねー。ドンマイ、リッちゃん」

「そうそう。元気出しなよ、リッちゃん。そうだ、今から学食でアイス食べよ。リッちゃん、オレンジ味が好きだったよね。奢ってあげる」

「うぅ……ありがと、ユキノ。チョコマーブルとフローズンピーチも追加で……」

図々ずうずうしいね⁉」


 二人にぽんぽんと肩を叩かれ励まされながら、私は本当にとんでもないことをやらかしてしまったという後悔に涙したのだった。

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