10
女の店を出てから夕陽が落ちるまでの間、幸はマンションに帰るのが億劫になって駅中の喫茶店で、同じく駅中で購入した文庫小説をパラパラと読み進めながら時間を過ごしていた。『過去の受賞作特集』というポップの、一番左上にある本を適当に買い、ブックカバーもかけずに読んでいた。
電車の音に踏みつけられている中読む本は、雑音に反してするすると頭の中にはいっていった。本の主人公が少しだけ、彼女に重なったからかもしれない、と幸は思った。
生まれてすぐに自分が周囲の人間と決定的にズレていることを自覚し、誰よりも家族を愛していた彼女(主人公)は、周囲の人間を徹底的に観察した。主人公はその場面において最も模範的な人間を数人ピックアップし、それを模倣する方法をみつける。世間話なら五十代の主婦パート、今どきの話題なら大学生のアルバイト、同い年の話題なら近しい年の同性。怒る時は眉を少し上げ、声に勢いをつける。共感を示すなら分かり易く頷く。特に恋愛の話には気を配っていた。まったく恋愛に興味がなく、しかし三十代後半となれば結婚を意識しなければと周囲の視線をかいくぐるため、婚活や合コンに参加したと嘘をついてはその場を逃れていた。
そんな生きること自体傾倒し、家族に迷惑を掛けまいと生きていた主人公の人生が、どこか彼女と重なった。彼女は誰かの為に生きているのだろうか。誰かのために、別人のような個性を作り出して、着飾って、感情を模倣しているのだろうか。
幸は買い物袋へと本を落とし、店を出た。最寄り駅の改札前から見える景色はいつも通りなのに、家に向かおうとする足はどこか重苦しい。彼女は、家にいてくれるだろうか。そんなことを考えて改札を通ろうとしたら、不正解のような音に阻まれる。
「お客様、改札に入ってからこちらに到着するまで一体何をされておられましたか?」
幸は長時間駅にいた理由を必死に説明し、訝しむ駅員をせっとくするため、小説の内容を駅員に説明することとなった。土産話にはちょうどいいか、こんな話を聞かせたらなんていうだろうか。思わずこぼれそうになった笑いを堪え、幸は彼女の待つ家に向かった。
◇
マンションの玄関口でポケットまさぐって気が付いた。
「鍵、無いんだった」
幸は最近の自分の、無鉄砲のようにも思える行き当たりばったりな行動が嫌になる。彼女とインターネットルームで別れてから半日近く経ってしまった。買い物やらなんやらと言いつけてきたような、そうでもないような、あやふやな記憶を手繰り寄せるも、不安しか残らない。
(自分の家に帰ってたりしたらどうしよう。管理人の番号とか控えてたっけ)
自室に繋がるインターホンを鳴らす。反応はなく、数秒が経った。諦めて管理会社の電話番号を調べようとしたその時、一件の着信があった。
「……もしもし」
『遅い』
ご立腹なのが声だけで伝わる。きっと眉根を吊り上げているに違いない。初めて見た不愛想で、無機質な彼女とは似ても似つかない態度に、叱られているはずが嬉しくなってしまう。
「なんか、ほっとする」
『意味わかんない。早く来て』
「鍵、開かないんだよ」
『私も開け方わかんない』
「そこ、モニターの右下に開錠ってあるだろ」
カチっと音がした。幸は右手に抱えた買い物袋を見て思いついた。
「卵って、買ってある?」
『一様、買ってあるけど。それが何?』
「待ってな、とっておきのものがある」
幸はそう言って階段を駆け上った。大きく二段で飛び越えていく足取りに、駅で感じた重苦しさは微塵も無かった。今はとりあえず、ゆで卵でも一緒に食べよう。そう思って駆け上がった。
玉虫色の人形 黒神 @kurokami_love
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