第三夜 あわいにいる女

 わたしは人を捉えることができない。

 顔を見分けるどころか姿形すらぼんやりとしているし、声も歪んで聞き取りづらい。

 代わりに、他の人には見えないものが見えているようだ。

 それはヒラヒラと舞う文字のようであったり、獣のようなものであったり、人のようなものであったりと様々だ。

 わたしにとっては、人よりも何かのほうがずっと身近な存在に思える。

 けれど、それが良いことではないのは、なんとなくわかっている。

 人として生きるなら、人に親しみを覚えなくてはならない、のだ。

 けれど思ってしまう。

 彼らの側にいたほうが、幸せなのではないか、と。


 † 

 

 小学校に一日通っただけで限界を迎えてしまった。

 幼児の検診の時にはすでに、人を認識していないようだったらしい。

 文字を覚えてからは文章でのコミュニケーションが可能になり、自分の意思が伝えられるようになったが、それまでは知的な問題なのではないかと思われていたようだ。

 さまざまな検査を受けてみたけれど決定打はなく、これといった診断は下っていない。視力も聴力も問題はない。今のところ、精神的な何かではないか、という漠然とした見解が出ているだけで、治療が可能なのかどうかも、全くわからないままだ。

 人の顔も姿形も正確に捉えることができない。ぼんやりと歪んで、そこにいるのだろうということはわかるけれど、誰なのかまではわからない。人の話し声も上手く聞き取ることが難しい。ピッチも音量も狂ってしまっていて、言葉をもちいての意思疎通にストレスを感じる。

 それだけなら、まだマシだった――のだと思う。

 人の判別ができないのに、人以外のもの――動物だとか物質だとか、そういったものだけではなく――一般的には見えていないものが見える、という問題も抱えていた。

 見えているものが何なのかは、誰も確認しようがないのでわからないのだが、何もいないところを見て反応するわたしに、両親や医者は「何もない」と言った。

 これも脳機能の障害か何かで見えているのではないかと期待したのだけれど、思わしい検査結果は出なかった。

 異常がない、というのは、治ることはない、という宣言と同じだ。

 わたしがそこにいると認識しているものが、誰にも見えず、脳や瞳の問題でもないといわれてしまえばどうしようもない。せいぜい不安がらせないように、見えないフリをするしかない。が、どれが見えていて、どれが見えていないのか、わからないので上手く立ち回っているとはいえないだろう。

 今は、週に一度のペースで支援施設に通っている。

 できるだけ、多くの人と関わりを持ち、わたしという人間を認知してもらうことが、わたしが今後生きていく上で重要なことになるのだそうだ。

 人と関わることは苦手だ。きちんと見えないし、聞こえない。ついでに言えば、発話にも自信がない。きちんと音を聞き取れていないからだ。やりとりは筆談とチャットにしてもらっている。声を聞かなければ耳と頭が痛いことはないので、やりとりができる。

 施設に通うことによって、わたしはわたしの特性を知り、何をしていることが苦手で、何が得意なのかを知っていった。確かに、これは両親やわたしだけでは上手くいかなかったかもしれない。

 映像作品ひとつをとってもそうだ。うるさいだけだと思っていたが、施設の人が次々に違うコンテンツを流してくれたので、好きと嫌いを見つけることができた。

 ドラマやニュース、歌番組。こういったものは全くもって受け付けない。顔が判別できないのと、声が不快だというのが理由だ。

 好きなのは、世界紀行のような街並みや自然の風景を映したものや、動物の行動を撮ったもの。芸術、美術に関する紹介番組や、オーケストラのコンサート。美しい映像に、美しい音楽、そして字幕がついていれば楽しむことができるというのは大きな発見だった。

 漫画やイラスト、絵画ならば人を認識することができるのを、わたしを見守ってくれる人たちが知った結果、チャットにて雑談するようにもなった。

 また、将来どんな仕事をするかについても模索している。今のところ、パソコンに関する作業なら、テキストコミュニケーションで行えるのではないか、と話している。

 こうして理解してくれる人たちと、コミュニケーションを取れるようになってきたので、わたしはこのままでも大丈夫ではないか、と思っていた。

 しかし、それはわたしだけ、だったのかもしれない。

 両親は、医療以外の可能性を探しはじめていた。


 支援施設へは、両親のどちらかが送迎してくれている。どこにも寄らずに行き来するのが常だったのだが、その日は違っていた。

「会わせたい人がいるんだ」

 車窓からの景色がいつもと違うことに気づいたわたしに、父が言った。急に予定を告げられて、嫌な予感がした。

 両親がわたしの行動範囲を広げようとしてくれていることや、できるだけいろいろなものを見せたいと思っていることはわかっていたし、どこかに寄って帰るということはあったけれど、そういう時は前もって予定を伝えられていた。

 今回は何も伝えられていない。それは「人に会わせる」つもりだから、なのだろうか。わたしが最も苦手とするのは人と会うことだということは、両親も知っている。難色を示されたくなくて、行動に出たのだろうか。

 車が進むにつれ、なんだか両親が緊張しているような気がした。

 わたしには、声色を読む力も、顔色を伺う力もないので、実際にふたりがどんな様子なのかを知ることはできないが、父はいつもよりも呼吸が強く、母は姿勢を変える頻度が高い。リラックスしているとは到底思えないので、嫌な気配はますます強くなった。

 そして何より、外の様子がおかしくなりだしていた。クラゲが、何匹も宙空に浮かんでいる。それらは全て、同じ方向に泳ぐように進んでいた。体色は様々だが、美しいというよりは禍々しく見える。カーナビが示す目的地は、クラゲが向かう方向だ。

 わたしは慌ててチャットアプリを開き、母に向けて質問した。

 いちか >どこに向かっているの?

 わたしからの通知に気づいたら母が身動きするが、返事はなかなかこない。

「どこに向かっているの?」

 たまらず声にだすと、父が母に何か伝えるような素振りをした。車をスーパーの駐車場に入れ、端のほうに停車する。

 波田母 >急にどうしたの? 何かあった?

 いちか >どこに向かっているの? わたしに会わせたい人って誰?

 答えない母に苛立ちながら、質問を投げかける。

 波田父 >お母さんとお父さんはいちかを心配してるんだよ。

「わたしは、どこに行くのか、聞いてるの!」

 両親には、声にしたほうが伝わる。そのことが余計と苛立ちを掻き立てた。自分で自分の声を正しく聞けている気がしないので、適切な音で感情を伝えられているのか、わからないことが悔しい。

 波田母 >ごめんね。急だったね。

 謝罪なんてどうでもよかった。落ち着いて欲しいのなら、質問に答えて欲しい。胸のあたりが熱いが、その裏側では冷たい水が滑り落ちていく。

 やはりわたしの発音では、わたしの心に燻る気持ちは伝えられないのだろうか。望むものを与えられないのは、わたしの気持ちが全く伝わっていないということなのではないだろうか。怒りと虚しさがない混ぜになって胸に渦巻き、体内を駆け巡って出口を求める。

「何も教えてくれないなら、行かないし、会わないから」

 一方は言葉として。一方は涙として。体外に溢れ出したものは、感情の純度とは違っていて、それもまた悔しさにつながった。

 波田母 >ごめんね。いちかを楽にできるんじゃないかって思ったの。

 波田父 >このままでは問題解決にはならないだろう?

 波田母 >悲しませるつもりはなかったの。ごめんね。

 涙で歪む画面には、両親の言葉が並んでいるが、わたしには伝わらない感情だった。

 両親がわたしに触れようとしたが、それを振り払い、助手席の後ろに縮こまった。体温なんかでこの感情を緩和しようなんて、卑怯だと思った。

 わたしが欲しいのは説明で、何もわからないまま、心配だからという大義名分に振り回されたくはない。

 父と母はしばらくそうしていたが、わたしの機嫌が直らないと思ったのか、父は運転を再開した。窓の外のクラゲと、反対方向に車が進んでいるのがわかる。今日、連れていくことは諦めたのだろう。

 安堵するとともに、胸の底にどろりとした感情が湧き上がってくるのを感じた。説明しないまま済まそうとする両親に対しての憤り、上手く感情を伝えられない情けなさ。子供みたいに泣き出して問題を解決したように思われたのかもしれないと思えば苛立ちが募り、それでも車外に飛び出して行けない無力さに打ちひしがれる。

 普通の目を持っていれば、ここで外に飛び出して逃げ出してしまえたのだろうか。そもそもこんな扱いを受けることもないのかもしれない。

 波田母>凄い力を持った先生がいるらしいの。

 波田母>その人なら、いちかの問題を解決できるんじゃないかと思ったの。

 熱い目元の向こうで光画面に並ぶ言い訳を見たくなくて、膝に両目を押し付けた。


 †


 部屋に閉じこもり、寝食も忘れてネットの海に潜った。

 両親が行こうとしていた場所に何があるのかが気になったのと、得体の知れない何者かに診断されるぐらいなら、自分で動いて何かに捕らえられたほうがマシに思えたからだ。

 わたしのことを怪しく思っているのは、両親以上にわたし自身だ。誰にも言ったことはないが、オカルト系の情報やコミュニティを閲覧して、もう数年経つ。

 緊張を危機感で蹴飛ばして、わたしは初めて文字を打ち込んだ。

 それは『カオナシさんに相談だ!』という、ひねりも何もないタイトルだが、スレッド数が五十は越える長寿スレだった。

 タイトルの通り『カオナシ』という人物に困りごとを相談するという内容で、オカルト関係の困りごとをカオナシが解決してくれるという。過去ログを見ると、相談者が後日、感謝を述べたり報告をしていたりして、もしかしたらと思えるような雰囲気があった。

 匿名掲示板の雰囲気については知っているし、真偽不明の世界だということも、眉唾物だということもわかっている。けれど、こうでもしなければ有益な情報を得られないというところまで来ていた。

 ===

 初コメ失礼します。

 特異体質の治し方をご存知ないでしょうか?

 見えるべきものが見えず、見えなくて良いものが見える状態を改善したいのです。

 このままでは、両親が怪しい組織にハマってしまうのではないかと心配です。

 些細なことでも構いません。心当たりがありましたらご連絡ください。

 ===

 最後に専用に作ったアカウントを書いて、深呼吸をしてから送信ボタンを押した。

 かなりぼかした書き方ではあるが、不特定多数が見ている掲示板では出せる情報が限られてくる。身バレして困ることはあまりないが、おかしな人間は世の中にたくさんいるし、オカルト系という傾向から、怪しい団体の人間がカモを狙っている可能性もあるので慎重になる必要がある。

 早速レスポンスがつき、色々と質問をされるがカオナシ本人からではないだろう。野次馬を捌きながら、答えられるところは答え、伏せるところは伏せ続けた。

 カオナシからのアクセスはなかったが、両親が連れて行こうとした場所についてはすぐに調べがついた。地図ではごく普通の民家が確認できるだけだったが、今の借り手は『天子の道』という集団だそうだ。宗教団体ではないらしいが「活動内容はお察し」と掲示板には書かれていた。

 専用アカウントにメッセージが届いたのは、書き込んでから十日後だった。

 送り主のアカウントを見てみると、オカルト系の活動をしている人物で、活動をまとめたサイトには心霊スポットの動画や、怪奇現象についての考察などが掲載されている。動画チャンネルの登録者数は十万人近くで、名も顔も知れている人物からのコンタクトに私の心は騒いだ。

 ===

 はじめまして。掲示板の内容を読みました。

 ご両親が藁にもすがる状態になられているということで、緊急性を感じたのでメッセージを送らせていただきました。

 詳細が書かれていないので判断は難しいのですが、そういったことに詳しい知人がいますので、まだ解決していないのであれば、ご紹介しましょうか。

 ===

 連絡をくれたことに感謝の言葉と、是非紹介して欲しいといった返事を送ると、間をおかずに返答が来た。

 ===

 知来真紀という男のメールアドレスになります。

 こちらからも話を通しておきますので、ご安心ください。

 良い方向に向かうことをお祈りしております。

 ===

 励ましの言葉に胸を熱くしながら、丁寧にお礼を伝える。今すぐにでもメールを送りたかったが、話を通すといってくれたこともあって、半日経ってから連絡を入れることにして、メールの内容を練った。長すぎず、要点を外さず、困っていることは切実に――などと考えている間に時間は過ぎ、出来上がった文面を三度ほど熟読してから送信した。

 驚くことにその日のうちに返事が届いた。かなり急いでくれたらしい。

 知来からは「お力になりたいと思うが、お会いしてみないことには何とも」といった内容が書かれており、確かにそうだと納得しながら、どうしたものかと考えた。

 話が話なので、家に呼ぶのは互いに警戒するだろうと考えた。外で会うのが望ましいが、わたしのこの体質では、行ける場所はそう多くはない。わたしにとって望ましいのは施設で会うことだが、知来としてはどうなのだろうか。

 悩んでみても答えが出るものではないので、そのままメールに書いて送ると「施設で構わない」という返答が来た。また、未成年であるなら、両親を同伴した方が良いだろうと書かれていて、きちんとした大人なのだと感心した。

 両親の都合を聞かねばならない。電源を落としたままにしていたスマートフォンを取り上げ電源を入れる。未読のメッセージを一切無視して、両親に都合の良い日を確認した。部屋から出るには良い頃合いだろう。


 †


 約束の日、施設に借りた部屋に両親とともに待機し、知来の到着を待った。

 来客の対応は職員がしてくれて、部屋まで連れてきてくれることになっていた。

「いらっしゃいましたよ」

 歪んだ職員の声も今日は気にならない。わたしは立ち上がり、見られるわけがないと知りながら、入り口を凝視した。入ってきたのは三人だった。

「はじめまして。知来と申します。今回はお時間をいただきありがとうございました」

「月下部です」

「本日は娘のためにご足労いただき、ありがとうございます」

 挨拶が交わされる中、わたしの目は月下部と名乗った人物と、もうひとりに釘付けになった。顔も、姿形も、声も、未だかつてないほどに明瞭なのだ。

 本物の人の顔というのはこういうものなのかという驚きと、どうしてこの人たちだけははっきりしているのだろうという疑問が交互にやってきて、混乱のまま言葉を失っていた。

「いちか?」

 問いかける母の声は歪んでいる。急に全てが良くなったわけではないらしい。

 わたしの視線に気づいた月下部は、わたしを見てから、わたしの視線を追って右隣を見た。そこに、名乗らないもうひとりがいるのだ。

「いちか? どうしたんだ?」

 父に肩を揺らされ、ハッとする。視線の先では、わたしをずっと見ていた月下部が、知来に何か伝えていた。

「なるほど、なるほど。お嬢さんの状態がわかりましたよ」

「え!」

 両親とわたしの声が重なる。出会って一分も経っていないだろうに、もう何かわかったというのだろうか。

「まあ、座ってお話しましょう」

 興奮気味のわたしたちは、立っているままだということを忘れていた。母が慌てて用意していたペットボトルの珈琲を二本、知来たちに出している。数が合っていないが、慌てているのだろうか。

「いちかさんには、俺の声の方が聞こえやすいだろうということで、俺が話を進めます」

 母に指摘する間もなく、月下部が口を開いた。その言葉に強い衝撃を受け、息が止まる。

「わかる、んですか?」

「反応を見るに、そうなんだろうなと」

 わたしの両脇で、両親が息を飲むのがわかる。わたしは泣き出したいのを我慢して、頷いた。涙が話の邪魔になるというのは、物語の世界で勉強済みだ。

「単刀直入に言いますと、いちかさんは『見鬼』ですね」

「ケンキ、というのはなんですか?」

 月下部の言葉に被せるように、母が質問を投げかける。

「見る、鬼と書いて『見鬼』です。ざっくり言うと、霊が見えるというヤツです」

「霊というのは人間の形ではないのですか? わたしが見るのは色んな形なのですが」

 霊という言葉に驚いて尋ねると、月下部はにこりともせず首を傾げた。

「さあ? 俺はあなたの目と脳を持ってないんで、どう見えてるかはわからないですし、他の見えてる人がどうなのかも知らないんでなんとも言いようがないですね」

 それは、その通りだ。愚問というやつだったなと思っている目の前で、月下部の体が揺れた。どうやら知来が椅子を蹴ったらしい。

「あー、っとあんまりこういうの向いてないんで、説明は後から知来がします」

 早口で言った月下部は、持ってきたバッグから弁当箱ぐらいの大きさのケースを取り出して、わたしの前に置いた。

「いちかさん。この中から、一番気になるやつを選んでください」

 ケースは上部が透明になっていて、開けずとも中に入っているものが一目でわかった。色も形も様々な石が並んでいる。迷いそうなほどに多いが、わたしの目はひとつの石に吸い寄せられ、それを意識してからは他のものが気にならなくなった。

「これです。この、薄緑の」

 アイスの溶けたメロンソーダのような色合いの、つるりとした石だ。

「では、こちらを。中をご確認ください」

 手のひらサイズの布袋を渡される。中には、選んだ石と同じ石がついたペンダントが入っていた。

「これは――」

 押し売りの類だろうかと価格を聞こうと視線を上げた瞬間、わたしは再び驚きに包まれて、何も言えなくなった。

 月下部の隣、知来の姿がはっきりと見える。月下部よりも大人なのだろう。身体の線がしっかりしている。並べてみると月下部は大分鋭い眼差しをしているのがわかる。知来は柔らかな視線ではあるが、それは靄のような感じでもあり、真意がよくわからない表情ともいえた。いわば、モナリザの微笑みだ。

「いちか?」

 腕を引かれたのでそちらを見ると、知来よりも年を重ねた女性の顔があった。少し面長で、下唇が厚い。鼻の脇に少し目立つホクロがあった。触れてみたくなって手を伸ばすと、彼女は反射的に体ごと後ろに引いた。

「ホクロ、あったんだ」

 絞り出した言葉に、彼女の目が丸くなり、そのまま動きが止まった。煌めいた瞳には溢れ出さんばかりに涙がせり上がってくる。

「見えるのか?」

 父の声は驚きと期待に満ちている。振り返れば、逆三角形のような輪郭をした、目が細く、鼻が大きめの男性が顔を覗き込んだ。

「顔が、わかるのか?」

 震える声に頷けば、その瞳からは涙がこぼれ落ち、強く抱きしめられた。そして母も、わたしの背中を撫でながら、声を殺して泣いているようだ。

「月下部さん、知来さん。本当に、ありがとうございます」

 わたしを抱きしめたまま、父は支えながらふたりにお礼の言葉を伝ええた。わたしも感謝を伝えようとしたが、喉がヒリヒリとして言葉が出てこない。とりあえず、彼らに頭を下げたが、いつの間に出て行ったのか、もうひとりの姿は部屋から消えていた。

「いえ、いちかさんが連絡を下さったからですよ」

「こちらのペンダントはおいくらになるのでしょう? 手持ちの財産で無理なようでしたら、分割でお支払いしますので」

 鼻を啜りながら言葉を絞り出す父に、知来が柔らかな声で答える。

「お代は結構です。一年後、そちらのペンダントをお返しいただければ、それで」

「一年後? そうしたらまた見えなくなるのですか? なんとかなりませんか?」

 母が焦りを滲ませ、訴える。

「石の効力が続くのが一年なのです。交換の際は、月下部が伺いますので、その時にまた、新しい石を選んでいただくことになります」

「新しい石にすれば、問題ないのですか?」

「いちかさんが望むようになりますよ」

 知来の言葉は希望あるものに聞こえたが、薄暗さが滲んでいるように思えた。


 †

 

 毎年この季節になると月下部が、名乗らないままのもうひとりを連れてやってくる。

 ペンダントを手放した瞬間、彼は月下部の隣に現れる。そして、面白がるような顔でわたしを見るのだ。

 石を選び、ペンダントを受け取ると、彼は消える。

 彼は月下部に憑いているもので、そのことを月下部も知っているのだろう。

 彼らが少し、羨ましい。

 交換したペンダントを大切そうに布に包むと、月下部は暇を口にする。

「それではまた、新月の夜に」

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