第二夜 蚊柱を見る男
子供の頃から、他の人には見えないものが見えている。
そう言うと「霊感がある」のだとされるけど、本当にそうなのだろうか。
一般的に霊感があるとされる人が見るものは、女の霊だとか兵隊の霊だとか、とにかく人の姿である場合がほとんどだし、さもなくば猫とか狸だとかいった動物だったりする。
俺が見えているものは、そういう「なんだかわかるもの」ではない。
黒く、細かい、うねうねとしたものが群がって飛んでいるのが見える。
まるで、蚊柱のようだ。
これがなんなのか。見えてしまうのは、霊感があるということなのか。
誰も教えてくれはしないので、俺は何もわからないままだ。
†
「えーと、次のお便りですね。ルナさん。ありがとうございます。
『蚊柱さん、リスナーのみなさん、こんばんは。最近聴き始めたルナと言います。質問なのですが、蚊柱さんの経験した一番怖かったことはなんですか? 過去にお話しされていたらすみません。私の一番怖かった経験は単位の計算をしたら絶妙に足りなそうだったことです。ギリギリいけるかいけないかというところなんですが、まだ六月なんですよねぇ。無理かもしれません。後悔先に立たずですね……こわっ! リスナーの皆さんはこんなことないようにしてくださいね。長々と自分語り失礼しました! それでは、失礼します』
えーっと、六月なのに単位落としそうで怖い、ってこと? 六月だとなんで? ああ、まだ始まったばっかりだからか。なるほどね。ギリギリセーフなら、これから欠かさず出席すれば大丈夫なんじゃないですか? 頑張ってください。現段階で後悔先に立たないってわかってるならね、大丈夫でしょう。
質問は、体験した一番怖かったことでしたね。うーん、そうだなぁ。一番怖かった、というか、後悔になっちゃうかな。後悔している怖い体験があるんですよ。
配信でも何度か言ってる通り、変なものが見える体質で、これって子供の時からそうなんですよ。他の人に見えないものが見えてる。蚊柱みたいなやつでね。だから蚊柱っていう活動ネームなんですけど。
俺が小学校の高学年ぐらいの時の話なんですけど、低学年ぐらいの子に、蚊柱みたいなのがくっついて移動してたんですね。それまで移動するヤツなんて見たことなかったし、今でもないんですよ。後にも先にもその時だけ。普通は場所にあるものが、その子にくっついてるみたいに移動してた。
行き帰りとか同じ方向じゃなかったし、毎日見かけるってわけじゃなかったけど、見る度に蚊柱みたいなのがどんどん濃くなっていって、とうとうその子が見えないぐらいになっちゃったんですよ。
その頃は、蚊柱にどういう意味があるのかなんて全然わからなかったし、なんでその子だけまとわりつかれてるんだろうって好奇心が出ちゃって、その子の後をついていった。
その子の家は学校からそんなに離れてない場所にあった。ボロアパートで。今ではもうないんですけど。で、そのアパートを見た瞬間、その子がどの部屋に住んでるか一発でわかった。一階の真ん中の部屋だったんだけど、そこがもう真っ黒で。蚊柱みたいなので真っ黒になってた。うねうねと蠢いててね。音がするわけじゃないのに、すごく煩く感じるぐらい、ぶわーっ! ってなってて、俺、怖くなって逃げちゃったんですよ。
それからしばらくして、そこのアパートは火事になって、人が亡くなったりということもあって、今はないんですけど。その子がどうしたのかも、全然わからないんですよね。
この蚊柱みたいなのって、事故とか火事とか、不幸なことが起こる場所で見ることが多いってことに後から気づいて。高校生になったぐらいだったかな。わかったんですけど。
もしあの時わかってたら、その子になんか言ってあげられたのかな、とか、周りの大人とかに、注意とか、できたのかなと思っちゃう――って話です」
†
配信を終えた直後、一通のメールが届いた。「本日配信でお話されていた件について」というサブジェクトを読み、どの話だろうと思い返しながらタップした。
怖い話系の配信をやっていると、配信が呼び水となってネタが届くことはよくある。
配信を聞いて体験談を送ってみようと思い切ってくれる人がいるのだ。怪談系の配信者は何人もいるが、その中から「この人にだったら」と選んでもらえるのは光栄だ。
俺は自分が経験者だからこそ、投稿者の話を信じるというスタイルを大切にしている。リスナーからの体験談は本当に体験したものとして受け止めるようにしていた。
気を引きたいだけの創作話が届くこともあるが、本当に体験したものかどうかは、案外わかってしまう。本当の経験談は、話としては支離滅裂で、整っていないものであっても、体験者の心の動きは生々しいものだ。
今日の話で何か思い出したものがあるのだろうかと思いながら、メール本文を目で追っていき、俺は息を飲んだ。
===
本日配信でお話されていた、蚊柱様が経験した後悔を伴う恐怖体験についてですが、
そのお話に出てきた蚊柱のようなものを纏っていた少年に、心当たりがあります。
お会いしてお話することは可能でしょうか。
===
ぞっとしながら昨夜の配信のアーカイブを慌てて再生し、問題の箇所まで飛ばすと注意深く自分の語りに耳を傾けた。
やはり、そうだ。放送中、俺はずっと「その子」という言い方をしていて、性別がわかるようなことは一言も言っていない。改めてメールを見直すが、しっかりと「少年」と書かれている。「うっそだろ」と呟きながら、床の上に置きっぱなしだったペットボトルの珈琲に口をつける。
あの日見た「あの子」は、年下の男の子だった。
今までにもこの話をしたことがある。自分が怪談系の配信をしているのも、過去の配信で性別を明らかにしたことがあったのかもしれない――そう思いながら、メールを見直すと、続きがあることに気がついた。
===
時期は二十年ほど前。
丈倉小学校、安谷小学校、藪沢小学校のいずれかではありませんでしょうか。
これらの内容にお心当たりがございましたら、是非ご連絡下さい。
===
俺は呼吸を忘れ、瞬きもできず、しばし固まった。
心当たりがあるなんてもんじゃない。俺が通っていたのは安谷小学校だ。あの子を見たのは六年生の春だった。現在三十一歳であるから、丁度二十年前になる。
身バレを恐れて具体的な住まいは明らかにしていないが、県名は公開している。試しに、他のふたつの小学校を検索してみたが、どちらも他の県のものだった。在住県にある小学校を適当に選び出したわけではなさそうだ。
これは、本当にアタリなのかもしれない。
興奮にも似た気持ちが湧き上がったが、それと同時に疑問も浮かび上がる。何故、あの話からここまで特定できたのか、ということだ。
蚊柱のようなものは俺にしか見えないはずだ。仮に、見える人がいたとして、同じ人物を同じ時期に、同じように見たのでなければ、特定するのは無理だろう。
仮説を立ててみても、どうにも腑に落ちない。こんな内容で俺を騙しても、相手に得があるようにも思えない。目的が全く読めないものほど、不気味なことはない。
半信半疑で小学校名を答えると、少年を見た時期は春だろうといった返事が来た。
これも、当たりだ。疑念は全く晴れないが、興味が勝った。好奇心は猫をも殺すというが、配信者の
散々考えて、安谷小学校にほど近い『ゴルジュ』という、個人経営の喫茶店で会おうと返した。インターネットで検索しても出てくることもないような、老夫婦が経営している昔ながらの喫茶店だ。意地が悪いと思ったが、相手は場所を尋ねてくることはなく。承知した旨と感謝の言葉が書かれているだけだった。
何かヒントになるものはないだろうかと、メールアドレスを検索してみたが、ヒットするものは無し。名前の方でも全く情報は出てこなかった。
一体何者なのか。俺にコンタクトを取ってどうしようというのか。
俺は文末に書かれた「知来真紀」という署名を睨みつけた。
先方に指定した時間よりも早く店に入り、知来を待った。
店内には経営者の老夫婦と、近所の爺さんらしいふたりがいるだけだった。知り合い同士なのだろう。大声で話しているが、内容はもっぱら健康のことだ。どちらかが知来ということはまず無いだろう。
次の配信のことでも考えようと思ったが上手くいかず、ゲームでもして気を紛らわそうと思ったものの集中できず、チラチラと店内の時計を確認するだけで時間が過ぎていった。
待ち合わせの時間丁度に、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、一目で余所者とわかる身なりの良い男だった。一見の客が入ってくることが稀な店であるから、店主も、爺さんたちも驚いているようだ。
男は微笑みを店主に向け、すぐに俺の座る席にやってきた。
「初めまして。知来です」
サマージャケットの胸の内ポケットから名刺入れを取り出し、スムーズに手渡してきた男に、しどろもどろになりながら正面の席をすすめる。女性だと思っていたので軽くショックを受けたのが態度に出てしまった。
知来は「失礼します」といって正面に座ると、すぐにお冷を持ってきた店主の妻に「温かい紅茶をストレートで」と頼んだ。喫茶店で紅茶を頼む男を見るのは初めてで、キザなヤツだと思ったのは、完全に八つ当たりだろう。
俳優に例えても遜色がない整った顔の男だ。女受けはもちろん、男が憧れるタイプの端正な顔立ちをしている。サックスブルーのサマージャケットにスタンドカラーのシャツを合わせているところも、いい男感が強い。フォーマルにもカジュアルにもなりすぎない、品のある装いというのを見せつけられた気がする。普段着よりは少し気合の入った服を選んではみたものの、完全に負けている。
「なんとお呼びしたら良いですか?」
知来は警戒心を抱かせない、柔らかな笑顔で問いかけてきた。しっとりとした艶のある声だ。配信者になったらさぞかし女子に人気が出ることだろう。
「じゃあ、田中で」
不貞腐れたような声になってしまったと気づいたが、知来が気にした様子はなかった。
なんと切り出したものかと考えた。内容がないようなので、頼んだ紅茶が届く前に本題に入るのは避けたい。
「俺の放送、よく聞いてくれてるんですか?」
「ええ。怪談系の動画や配信はできるだけチェックしています」
「怖い話が好き、なんですか?」
正直なところ、目の前の男と怪談という組み合わせがしっくりこなかった。こんなスマートな大人が、素人のやっている心霊系のチャンネルをみているものなのだろうか。
「ええ。大変、興味深いですね」
その言葉をどう解釈したものか。素直に受け取れずに、知来の思惑を考えていると、紅茶が運ばれてきた。彼が一口つけたところで、俺は少し身を乗り出して小声で尋ねた。
「メールのことだけど、あの子は今も生きてるんですか?」
「ええ。元気にしておりますよ」
真実かどうかもわからない言葉ではあるが、生きていると伝えられたことで、俺は大きく安堵した。べったりと貼り付いた罪悪感が、少しばかり軽くなった気がした。
「彼の了承を得ていますので、情報をお伝えしましょうか?」
「その必要は――いや、一応聞いておきます」
必要ないと思ったが、せっかくの機会だ。
「彼は、月下部朔といいます。現在、二十七歳。特殊配達業を生業としています」
「特殊配達業?」
「普通には配達できないものを請け負う業務ですね」
「今はどこに住んでるんです?」
「職業が職業なので、不定です。一応本拠地は東京ということになっていますが。あと、こちらが近影です」
向けられた小型のタブレットを見て、俺は首を傾げた。
日焼けした肌に、肩にかかりそうな長さの髪をハーフアップにして、複雑そうな表情でこちらに視線を向けてはいるが、直視はしていない。眼差しは涼やかで、すっと通った鼻筋とやや薄い唇がクールな印象だ。自転車を支えて立っている何気ない姿だが、それが絵になって見えるほどにスタイルがいい。伸びやかな手足は少年っぽさがあるものの、軟弱さはなかった。
「なんか、思ってたのと」
だいぶん違う。ややもすれば、ダンスユニットで踊っていそうな雰囲気だ。
「想像と違いましたか?」
「いや、もっとこう、病弱そうというか、繊細そうなイメージがあったんで、かなりヤンチャそうだなという感じが」
「見た目は職業的なものです。配達業なので日焼けするんです。髪が長いのも首の日焼け防止ですね。なんでも、首をやるとかなり痛いのだとか」
そういうものなのかと曖昧に頷きながらも、俺の目はタブレットに吸い寄せられたままだった。どうにも記憶の中の子供の姿と、日焼けした青年が同一人物とは思えない。騙されているのだろうかと再び疑念が湧いてくるが、俺を騙したところで得るものがあるとは思えなかった。
「ところで、田中様は今でも蚊柱のようなものをご覧になるのでしょうか」
「あ、ええ。見ますよ。今でも現役です」
答えると、知来は唇の端を持ち上げた。
「ひとつ、お願いがありまして」
きたな、と思いながら背もたれに寄りかかり腕を組んだ。直接会いたいと書かれていたことから、単に思い出話をするだけとは思っていなかった。投資話だとか、宗教の勧誘だとか、そういう展開になるのは想定していたので驚きはない。
知来は鞄から、小さな巾着を取り出した。京都の土産物店などで売っていそうな、豪華な着物の端切れで作ったようなものだ。
「この石を、蚊柱が見えるところに置いて欲しいのです」
意外な申し出に首を傾げる。
知来が巾着から取り出したのは、透明感のある石だ。水晶だろうか。人差し指の第一関節ぐらいほどの大きさのもので、その辺りにある石と変わらない形をしている。
「触ってみてもいいですか」
「どうぞ」
触れた感触も、普通の石のように感じる。温度はなく、ざらついている。砂利よりは滑らかで角が取れている。色さえ違えば河原の小石のようだ。
「これを置くとどうなるんですか?」
「明言はできませんが、消えると思いますよ」
「蚊柱がですか?」
衝撃的な発言に、俺は半身を乗り出した。知来は蚊柱のようなものについて何か知っているのだろうか。そもそもあの話から、どうやって俺と月下部とを結びつけたのだろうか。
「知来さんは、蚊柱が見えるのですか?」
「いいえ。私はそういったものは全く」
拍子抜けした俺をよそに、知来は涼しい顔で紅茶を啜っている。
「ちょっと待ってください。『そういったものは全く』って、何も? 霊感があるとか、変なものが見えるとか、そういうのは何も? じゃあ、なんで俺の怪談聞いて連絡とってきたんですか? 大体、なんであの話でその子にたどり着いたんです?」
連絡を受けてからずっと気になっていたものを一気に吐き出して、俺は知来の反応を待った。彼はそっとカップを戻すと、内心が全く測れない笑顔を見せた。
「残念ながら、私はそういった特異体質ではないようでして、田中様が見ていらっしゃるようなものはもちろん、音やら声やら気配といったものを全く感じないのです。そもそも『霊感』とは何を指していうのでしょうね。その辺り、とても気になっているのですが――それは置いておくとして、月下部のことですね」
そこで知来は一度言葉を止め、圧倒されてしまった俺の意識が戻ってくるのを待ったようだ。
「彼は『周囲を歪める』という体質がありまして、ひと所に留まることができないんです。結果、幼少期からあちこちを転々としておりまして――現在の仕事もそれが理由なのですが。そういった体質なものですから、彼が過ごした場所で、田中様のように奇妙なものを見たという経験をされる方が結構いらっしゃるんです。なので、あのお話を聞いて、これは月下部を見たことがある人なのだな、と推察したわけです」
先ほどよりは話すペースを落とした知来は、話を理解しているかを確認するかのように俺の目をじっと見ている。
「もし外れだとしても、田中様が見ているものが、霊障だとか、穢れだとか、怪奇現象だとか、そういった何かであれば、この石がお役に立つかと思い、伺った次第です」
にこり、と知来が微笑む。どう反応して良いのか迷っていると、知来はテーブルの上に一万円を置いて立ち上がった。
「それでは、よろしくお願いします。貴重なお時間をありがとうございました」
俺は呆然として、テーブルの上に置かれた石と、一万円札をぼんやりと眺めていた。このふたつがなかったら、知来がいたこと自体、夢か幻のようだった。
ぼんやりとしたまま帰路につき、手の中の巾着を数度軽く投げた。物があるということは白昼夢を見たわけではないのだろう。
言われた通りにするのは癪ではあるが、自宅に石を持ち帰るのもちょっと怖い。かといって捨ててしまうのはもっと恐ろしい。となれば、指示に従うのが最も気が楽だった。
普段は、蚊柱のようなものがある場所には近づかないようにしている。単純に気持ち悪いのと、何かが起こったのを知るのが嫌だからだ。何かがあった痕跡を見てしまうと、不幸があるとわかっているのに、何もできなかった歯痒さと無力感と罪悪感が襲ってくる。
蚊柱が消えれば、不幸も起きないのではないかと考え、通勤路の蚊柱のあるところを巡り、小石を投げ置いていくと、帰宅する時には手元にはひとつも残らなかった。その事実に背筋が粟立つ。
それから一週間も経たぬ内に、蚊柱は綺麗さっぱりなくなっていた。置いた石はそのままそこにあったが、観察してみると透明だったはずのものは黒ずんで、その黒ずみが蠢いているように見える。
蚊柱を吸い込んだのだろうかと想像して、その気持ち悪さから持ち帰るようなことはしなかった。
†
「えっ、嘘だろ?」
しばらく経ったある日、駅近くの石がなくなっていることに気づいた。
蹴り飛ばされてしまったぐらいならいいが、誰かが持って帰ったりしたのだとしたらまずいのではないかと不安になった。他の場所も見てみたが、あるところと無いところとまちまちだった。
今日の朝まではそんなことなかったのに、急にどうしてだろうかと考えていると、涼しげな知来の顔が浮かんだ。何か知っているだろうかとメールを送ると「問題ありません」とすぐに返答が来た。
そうはいっても、本当に大丈夫なのだろうか。ここのところ自宅近くで蚊柱を見ることがなくとても快適であったし、事故や火事といった騒ぎも起きなかった。石によって齎された平穏なのであれば、それを失うのは恐ろしかった。
何が起こっているのだろうかと、家から一番近い場所を双眼鏡で見張っていると、闇が一段濃くなったような気がした。
月が陰ったのかと空を見上げたが、どこにも月は見当たらない。新月なのだろうか。
何かが起こる前触れかと息を殺して見ていると、人影が現れた。その人は蚊柱があった場所で足を止め、屈みながら地面に腕を伸ばして何かを拾い上げるような仕草を見せた。
こいつだ! と確信した俺は、部屋から飛び出して現場に走った。
「あの」
思わず声をかけると、人影がこちらを向いた。
俺より少し背が高い。顔の判別はつかないが、既視感のようなものを覚えた。
「石を、拾ってましたよね」
相手は何も答えないが、無視を決め込んでいるというよりは、観察しているようだ。
「責めてるんじゃなくて――そうだ! 知来って人を知ってますか? 俺頼まれて」
「ああ、協力してくださった方ですか。ありがとうございました」
知来の名前を出した途端、彼の雰囲気が和らいだ。
「知来さんのお知り合いなんですね?」
「はい。置いてくださった石を、全て集めているところです」
「アレ、触っても大丈夫なんですか?」
石の中で何かが蠢いている様子を思い出し、俺は慌てた。
「触らない方がいいと思いますが、オレは耐性があるので」
暗過ぎて表情はわからないが、淡々とした口調には卑屈さも、得意になっている様子もなく、ただ事実を述べているようだった。
「なんでこんな真っ暗な日に――」
「今夜じゃないと、ダメなんですよ」
はっきりと言われ、俺は違和感を覚えた。月の無い夜である。であるのに、彼は懐中電灯も持っていない。この暗闇の中、どうやってあの石を判別したのだろうか。じっとりとした汗が、急に冷えた。
彼は拾った石を巾着の中にしまいながら言った。
「この辺りもだいぶ変わりましたね」
「えっ」
「随分前ですけど、少しの間この町にいたことがあったので。あのあたりに、桜の木があったと思うんですけど、駐車場になってしまったんですね」
そういえばそうだった。駐車場になったのは俺が高校を卒業した頃だったから、かれこれ十年ぐらいになるだろうか。どの辺りに住んでいたのかと聞こうとして、ハッとした。
彼は、あの時の子供なのではないだろうか。
たくさんの蚊柱に覆われていた、二度と会うことはないだろうと思っていた、あの子。
思い至ると同時に、知来が見せてくれたタブレットの青年を思い出す。暗闇ではっきりと見えないのがもどかしいが、背格好は同じぐらいに見える。特徴的な髪型は少し違っているが、長いことには違いない。
知来が教えてくれたのは、本当にあの時の子供だったのだ。
「この度は、ご協力ありがとうございました」
驚きに何もいえない俺を持て余したのか、彼は頭を下げるとそのまま去っていった。
闇がぬるりと動いたような気がした。
見上げた空に、月はなかった。
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