黄桃

紡木きよ

黄桃

 さみしいときに、すぐそばに来て。

 まだ離れたくないって言ったら、頭をなでて抱きしめていて。

 いつも頭の片隅に、わたしの居場所を残しておいて。


            


 ママは言った。

 愛美ちゃんはたくさんの人に愛されて綺麗になるの、と。

 「女は愛されて美しくなる」

 私の名前は、そういう意味を孕んでいるのであった。



 我ながら、名前の通り育っているのではないかと思う。

 男のひとが途切れたことはないし、そのおかげで身も心も潤っている。

 愛の数は、多ければ多いほど良い。

 それが整理された関係でなくとも、私が満たされればそれで構わなかった。

 


 大学3回生になって単位のために取り始めた哲学の授業は、本当につまらなかった。いつも授業の10秒前に教室に入り、空いている前の方の席に座っていた。

 でも、私は哲学の授業を休んだことも、眠ったこともない。

 先生が教壇にいる姿を見るのが好きだったからだ。

 

 この授業は簡単に単位をくれると有名だったため、哲学になんの興味もない学生がほとんどで、そんな学生は90分を贅沢な眠りの時間に充てていた。

 先生は、怠惰な学生相手に怒ることをしない。時間ぴったりに教室に来て、寝ている学生たちには目もくれず、淡々と講義をし、時間ぴったりに帰っていく。

 興味がないんだろうな、と思っていた。

 他人に無関心で、自分の世界で生活しているひとだと思った。そんな先生が羨ましかった。

 先生の静かな授業が、好きだった。




 太陽が攻撃してくるような、うだる暑さの日。

 夏休み前の最後の授業は、先生の哲学だった。

 例のごとく始業直前に教室に入ると、夏休み直前の最後の授業だからか、だだっ広い教室はいつもより空席が目立った。眠たい哲学の授業を一足早い夏休みに充てたのだろう。

 かくいう私も、今日は授業に来るかどうか、ギリギリまで悩んだ。

 昨日はバイト先の先輩に誘われ、おしゃれなイタリアンを食べに行ったのだが、そこで飲んだワインの度数が高く、お酒が回った私は結局そのまま相手の家に泊まってしまった。相手の家から大学までが割と遠く、さぼってしまおうかとも思ったが、先生の単調な声で昨夜の酔いを冷まそうと思ったのだ。

 チャイムとともに先生が入ってきて、いつも通り生徒には目もくれず、そのままニーチェの説明を始めた。

 冷房でひんやりした机に触れると、炎天下に走ったせいで上がった体温が少しずつ下がっていくのを感じた。涼しさと熱が溶け合うと、次第に先生の声が遠くなり、いつしか私は深い眠りについていた。



 ふと気が付くと、大講義室の中には私ひとりになっていた。

 四限の授業が始まってもう30分もたっている。

 もういいや、と四限はあきらめ、バイトまでの時間をつぶそうと、再度眠りの体制に入る。

「二度寝はなしです」

 聞き覚えのある声がして振り返ると、長身で黒縁メガネの男の人が立っていた。

 先生が、そこにいた。

「すみません、すぐ出ます」

 筆記用具とパソコンを鞄にしまい、慌てて立ち上がった。

 最後の授業で爆睡したうえに、それが先生にばれるなんて、恥ずかしいし悔しい。

 今まではちゃんと起きてたんです、授業で寝たのは今回が初めてなんです、と声を大にして訴えたい。

「レポートの期限は再来週の金曜日です」

「え?」 

「興味のある哲学者について、3000字以内で書いてください。参考文献は二冊以上。新書や入門書は使わないでください。でたらめばかりなので。」

「は?」

「は?なんですか、質問ですか」

 状況がうまく呑み込めず、言葉にならない疑問の音だけが口から出ていく。

 どうして寝ていた私に課題を教えてくれるのか。

 どうして先生はここに残っているのか。

 そもそも、どうして先生と会話しているのか。

 処理し切れないたくさんの疑問が、四方八方に私の脳内を駆け巡る。

「あなたはいつも真面目に授業を聞いてくれていたのに、最後の授業で少し寝ただけで単位をもらえないのは気の毒でしょう」

 感情を前面に出していたのであろう、私の表情を汲み取って先生は言った。

「……見てたんですか」

「誤解を招くような言い方はやめてください。僕の授業を履修する学生は9割寝てますから。毎回ひとりだけ顔を上げて90分間こちらを見てくる人間の顔くらい、嫌でも覚えるでしょう」

「…そう、ですか」

「僕は今からこの教室でゼミの発表会なので、早く帰ってください」

「はい、すみません、ありがとうございました」

 寝ぼけ半分でそそくさと教室を出ると、次第に脳内に満ちていた靄が薄れ始めた。

 先生と話したという事実を改めて認識し、授業と全く変わらない単調な話し方が思い出される。

 他人に興味などないであろう先生が、わざわざ課題を教えてくれた。

 むずがゆいような喜びを胸の片隅に感じながら、大講義室を後にした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄桃 紡木きよ @bunnei1614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る