第3話 青天の霹靂

 さっっ、さ、さ、寒いううううう!!!


 自分を襲った一瞬の出来事とは……


 斜め頭上から顔面へ勢いよくざっぱりと、三キログラムの卵白を被ることだった。


 きんきんに冷えた卵白が、頭、顔からぬるぬると膜を張るように滴り落ちる。


 何を作ろうかと、いろんなお菓子のことで頭をいっぱいにさせ、上の空だった。

 ろくに確認もせず私が片手で掴んだ取っ手は、目的のほぼ空の軽い容器ではなく、その隣に置いてあった中身がたっぷり入ったものだったのだ。


 背の低い私にとって上段は目線よりも上であり、そしてそんな重量のあるものを、 片手で咄嗟にどうこうできるもんではない。


 バケツは一瞬でかしぎ、完全密封型でない蓋は中身の重さでパカリと外れ……それでいまに至る。


 青天の霹靂へきれきに凍りつく。

 その身に何が起きたのか理解するのに。

 そして業務用冷蔵庫の温度設定二度で冷やされた卵白の冷たさに。


 無意識で咄嗟に目はつぶったらしい。

 目に入った感じはしない。

 顔に手をやると眼鏡が無い。

 衝撃でぶち飛んだようだ。

 顔をうつむき加減にして目を薄ら開けて、すぐに閉じた。

 春先に氷柱つららの先から日差しで溶けた水滴が落ちるがごとく、ぬらりぽたりと卵白が頭から滴っていて、目に入りそうだったから。


 全身びしょ濡れのぬるぬめモンスター。


 丑三つ時迫るケーキ工場。

 疲れきった身体にゲキを飛ばし、もうちょっとで仕事から上がれるって矢先に、よもや自分がこんなどえらい失敗するとは。


 ありえんだろ、こんな状況……


 身動きしたら自分の体から滴る卵白があちこちに広がって、さらに掃除に時間が取られるのは、想像に難くない。


 服をこの場で脱いで脱皮移動するか?

 ぬるみMAXのエプロンとズボンとを脱ぎ捨てるとして。

 リネンシャツのエプロンで隠れていた部分と、中に着てるタンクトップは多分ぬるってないから、脱いでそれで頭とか顔とかあちこち拭けば、この卵白溜まりからうまく抜け出せるか?


 独りっきりとはいえ、職場でブラとパンツ一丁になるとは乙女心が泣ける、いやむしろアホ過ぎて笑えてくる。


 寒がりの私は、あまりに寒過ぎてぶるるっと自然に身体が震えて我に返った。


 その場に固まったまま思考していたのは、実際の時間にすればものの数秒だったに違いない。


 なにはともあれ、ぶち飛んだ眼鏡を捜さないと……。


 行動に移そうとした段階で


 あ!!! ルセット!!!


 左脇に抱えたルセットレシピファイルの中身が濡れたりしてないか、一番大事なことに思い至る。


 ルセットの安否を確認する為に、思わずカッと目を開けたら目に卵白がちょっと入った。


 うへえぇ……


 すぐにぎゅっと固く目を閉じて、頭と顔面から滴り続ける卵白のぬるぬるを、急いで空いてる右手で拭い去ろうとしたその瞬間。


 頭の上に突如ズンと圧力がかかった。


 ぬるぬるの膜がぐっと肉厚になったような感触がして、それが、どりゅんとまるで意思を持ったように這いずって顔面を塞いでくる。

さらには口にぐねりと入り込んできた。


「うぐっ ぐぁがっ!?!」


 息ができない!!


 右手で慌てて掻きむしる。

 そして、びくともしないと判断して、大事なルセットレシピの入った赤いファイルを手放し両手で応戦する。


 もはや卵白とは思えない、ぶりんぶりんのゲル状の物体との死に物狂いの格闘。

 がむしゃらにもがくも、顔から引き剥がせない。


 必死で物体にめり込ませた指先に、一瞬硬い何かが触れた。

 本能のままそれを渾身の力を振り絞り、硬い部分をゲルごと握り締めた。


 そのとたん。

 ドゥルン!

 ゲル状のソレは後方に剥がれ落ちた。


「ひゅっ がは!! っはぁっ……あっ おゔぇっ はぁ あ……」


 肺が、脳が、細胞が、血液が。

 一斉に酸素を求めて、ぐわぁっと沸きたつ。

 四つん這いで地面を握り締め、えずきながらも必死に吸っては吐いてを繰り返す。


 ようやく呼吸が整い始める頃、涙や鼻水ヨダレと卵白でぐちょぐちょであろう顔を、今度こそゴシゴシと拭って、固くつぶったままであった目を開けた。


 ん? 待てよ? そういえば私、今地面を握り締めて……って……

 アレ? 何を?

 頭の奥どこか遠く無意識下で思いながらも……


 下を向いていたその目に映ったものは……

 土と草。


 へ?????

 土?????

 草?????


 そう。

 工場の見慣れたリノリウムの床ではなく、見まごう事なき、土と草。

 握り締めたのも土と草。


 へたん……

 力が抜け尻もちをついた反動で、思わず顔が上がる。


 明るい森のような場所だった。

 昼間

 青空

 真上に突き抜けるくっきりと色濃い虹


 おまけになんとも視界がキラキラしい。


 空気中にダイヤモンドダストが漂っているような。

 木や地面自体も輝いているような。

 ど近眼の私は眼鏡なしで光っているものを見ると、光を絞って撮影した夜景のごとく、光源全てが光芒こうぼうを放つ大きい丸い球に見えるのだけれど。

 いま世界がそれらをまとっているようにも見える。



 なんじゃこりゃ??

 工場ではない?


 ……ありえない。


 キラキラしいけど、眼鏡なしで視界のピントが合ってる。

 ……マジでありえない。


 まさか私……死んだ?


「死後の世界は体の不調が全て治るから、もう薬も眼鏡も部分入れ歯も要らないね」

って、お父さんの棺桶に語りかけるお母さんが思い浮かぶ。

 だから私お母さんの時も……


 じゃあこれって死後の世界ってこと? 

 卵白の冷たさに心臓麻痺でも起こしちゃったとか?


 それとも気絶して夢見てるとか?


 そもそもあの窒息しかけた苦しいのって一体??


 地べたにへたり込んだまま本日二度目のフリーズ中の私。





【次回予告 第4話 アンポンタンポカン】

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