いつもよりちょっとだけバカになる

うたた寝

第1話



「おかえり~」

 家に帰ると子供が彼の元へと駆け寄って来る。それだけで今日一日の労働の疲労が無かったことになるような気がするのだから、単純なのかもしれない。いや、親というのはそういうものなのかもしれない。子無し・妻無しの一人暮らしの身であれば、仕事などとっくの昔に辞めていたかもしれない。辞めたら困る家族が居るから続けられている、そんな感じだ。

 まぁ、共働きの妻の方が収入が多く、嫌なら養ってやるから仕事辞めれば? と言われてはいるが。何と男前の妻だろうか。今時古い考えかもしれないが、男が養われるってどうよ、って思い何とか働き続けている。子供を腰にくっつけたままリビングへと移動すると、

「おかえりー」

 今度は妻から挨拶された。リビングのテーブルの上でパソコンを広げているところを見るに、どうやらまだ仕事中らしい。

「ご飯は? もう食べた?」

 彼が聞くと、妻はパソコンから顔を上げ、

「食べた。貴方の分は冷蔵庫の中」

「おっ、ありがとう」

 元々ご飯は当番制。先に家に帰った方が作る、というルールでやっていたが、妻が在宅勤務に変わったため、最近作るのはもっぱら妻になっていた。意図せず、料理当番を押し付けたみたいな形になってしまったので、曜日で当番制にする? と聞いてみたところ、貴方の料理を食べなくていいから今の方がいい、とバッサリとぶった切られた。僕のことを気遣って言ってくれてるんだよね? そうだよね? とポジティブに受け取っておくことにする。

「パパの料理食べたい?」

 腰にくっついている子供に彼が聞いてみると、子供は足元を見て目を合わせないようにしばし考えた後、

「………………うん」

 何か子供に凄い気を遣わせてしまったみたいである。娘よ。優しい子に育ってくれてパパはとっても嬉しいが、不用意な優しさは逆に人を傷つけることもあるんだぞ? と5歳の子供に教えようか考えるパパであった。

 まぁ確かに、妻の料理の方が美味しいのは否定のしようが無い事実ではあるのだが。妻の料理と見比べると見劣りするというだけで、パパの料理もそこそこ美味しくないだろうか? 美味しくない? その答えはきっと、彼の料理を食べた時、妻も子も少しの間を置いてから言う、『…………美味しい』に全てが込められているのだろう。ちなみに彼は知らないが、妻が彼の料理を嫌がる理由にはもう一つ、使った後のキッチンが汚いから、というのがある。作るのに精一杯でキッチンの汚れなどには意識が行かないのである。

 料理教室でも行こうかしら、と彼が考えていると、

「あっ、お風呂も溜まってるよ。時間経ってるから追い炊きはした方がいいだろうけど」

「ああ、ホント? どうしようかな」

「ご飯にする? お風呂にする?」

「……それとも私?」

「バカ」

 大変冷たいものである。リアクションしてくれるだけまだ優しい可能性もある。

 お腹空いてるんだよなぁ~、でもお風呂入って先にサッパリしてからもありだよなぁ~、と彼が悩んでいると、彼のスマホから着信音が聞こえた。

 まさか会社の人間じゃないだろうな? だったら無視してやろう、と思いつつスマホを見てみると、幸いなことに会社の人間からではなかったが、さて、どうしたものか、と彼は心の中だけで送られてきた文章を読む。


『今日、これから会えないかな?』



 やましい事情は無いのだが、正直に伝えるのが憚られる内容の時、人は一体どのように伝えるのだろうか?

 例えば、女友達に一対一の飲みに誘われた時とか。

 男友達なら気にしなくてもいいと思う。もしくは、一対一でさえなければ気にしなくてもいいと思う。いや、妻以外の女性と一対一で飲む、ということを変にやましく捉えているだけで、何も気にしないものなのかもしれない。

 だがしかし、こちらとしては若干言いづらい内容なのだ。

『やましい事情は無い』という言葉に嘘は無い。付き合いは長いが失礼な話、女性と意識したことが一度も無い相手だ。それはきっとお互い様。変な話、お風呂に一緒に入れるくらいにはお互い異性として意識していないと思う。

 そんな関係性ではあるのだが、『妻子持ちの男性が妻以外の女性と一対一で食事』。……何かやましく聞こえてしまうのは彼の心が汚れているせいなのだろうか? しかもそんなかしこまった場で食事をするわけでもあるまい。彼女のことだ。千ベロの居酒屋とかその辺な気がする。ムードもへったくれもあったものではない。

 正直に言って大丈夫だとは思う。大丈夫だとは思うのだが、万が一、妻が嫌な顔をしたらどうしようか? 多分、行くな、とまでは言わないような気がするが、帰ってきた際にそっと家のドアのチェーンが掛かっている、ということくらいはありそうな気がする。

 かと言って嘘を吐くのもリスキーだ。バレるリスクを負うことになる。嘘がバレた時の怖さったらない。正直に言ってチェーンが掛けられるわけだから、嘘を吐いてそれがバレたとなると、ある日家に帰ったら家が無くなって更地になっていた、ということくらいは控えめに見てもありそうである。

 では誘いを断るのか? いや、しばらく会えていなかったし、久々に友人と話したい気持ちはある。まぁ、物凄く正直に言っていいのであれば、家帰って来てからもう一回外に出るの面倒くさいな、という本音はあるが、まだ着替えてはいないのでセーフということにしておこう。

 正直にも言えず、嘘も吐けず、でも行きたい。では何と説明するのか? 答えは一つ。

『ゴメン! 昔の知り合いに飲みに誘われた!』

 嘘は言わずに都合の悪い部分は言わないようにする。これである。大人になると汚い術を覚えるものだ。最悪後で詰められても、『あれ? 言ってなかったっけ?』ととぼけられる。まぁ、これはこれで、隠していた、と受け取られる可能性もあるわけだが、国民には黙秘権が認められているので行使させてもらうことにしよう。

『今から? 断れば?』

 至極ごもっともな妻の意見。しかし、

『断れるような性格に見える?』

『見えない。言ってみただけ』

 日頃の行いが良いおかげ(?)で誘いを断るような男には見られていない。帰宅後の出勤や急な土日出勤をしてきたかいがあった(?)というものだ。

 というわけで、無事家を出発して待ち合わせ場所である居酒屋へとやってきたわけなのだが、居酒屋に着くとありえない光景が目の前に広がっていた彼は目を疑った。

「おっ、早かったね~。……ん?」

 彼女が片手を挙げて挨拶して来るが、彼はそれどころではない。彼女に顔を近付けながら衛星のようにグルグルと周囲を回りながら、

「えっ? えっ? えっ? えっ? えっ?」

 突如始まった衛星攻撃に恐怖を覚えたらしく、彼女は怯えている。

「なにっ? なにっ? なにっ? なにっ? なにっ?」

「お前が……。お前が……っ!? お前がぁ……っ!?」

「何なのっ? 何なのっ? 何なのっ?」

「待ち合わせ場所に……、僕より先に、着ている、だとっ!?」

「そんな驚くことかなっ!?」

 心外だ、とばかりに彼女は言ってくるが、彼からすれば当然の反応である。待ち合わせをして待たされなかったことなど一度も無いのだから。

「誘った時にはもう居酒屋の前に居たからね」

「ありえない……っ。湯川教授が聞いたら怒るかもしれないけど断言しよう、絶対にありえない……っ!! 外国の電車並みに時間を守らない奴なのに……っ!!」

「話聞いてるっ!? ねぇっ!! 誘った時にはもう居酒屋の前に居たって言ったよねっ!! 待ち合わせ場所にもう居るのにその状態でどうやって遅刻するのさっ!!」

「貴様さては偽物だなっ!? 本性を現せぃっ!!」

「本物だっつぅのっ!! ほらぁっ!!」

 頬っぺたを引っ張って変装が解けないことを主張する彼女。

「バカなっ!? 本物だというのかっ!? そんなことを認めなければ先に進めないとでも言うのかぁっ!?」

「さっきから何ごっこしてるんだよっ!?」

「明日は雪っ!? 雪なのかっ!? いいや、雪などでは生温いっ!! 世界を揺るがすような天変地異がぁ……っ!? はっ!? 隕石っ!? 隕石落下かっ!? アルマゲドンなのかっ!? こうしちゃいられないっ!! 今のうちに『I Don't Want to Miss a Thing』を歌えるようにならなければ、」

「いいからっ、もうっ、落ち着けぇいいいっ!!」

「はうあっ!?」

 悲痛な悲鳴とともにその場に倒れ込む彼。しばし苦悶の表情で悶絶した後、

「おまっ、おまっ、お前……っ!! 久しぶりに……、会った友人に……、金的は……、無いんじゃないの……?」

「どうだ! この足の感触! 本物だろう!」

「そこだけ聞くと……、変な誤解招く……、ガクッ……」

 変な意味ではなく、子供の頃よく取っ組み合いの喧嘩とかをしていて、その時金的されることがあった、というだけの話である。新任の若い女の先生によく『チンチン蹴られたぁ~っ!!』と泣きつきに行ったものである。当時はただ泣きつきに行っただけなので他意は無かったが、今から考えると軽いセクハラだったのかもしれない。道理でいつも相談に行くとちょっと困ったような顔をしていたわけだ。

 ちなみにだが当然だが、金的された時に金的してきた足の感触などいちいち覚えていない。それは記憶が古いからとかではなく、たった今された金的だってそうだ。護身術としてだってちゃんと教わることだってあるくらいのれっきとした急所への一撃だ。急所を攻撃されているのだからそんな足の感触を楽しんでいる余裕なんて無いのだ。後何故出会って数秒でこんな金的、金的と連呼しなくてはいけないのか。

 女の子になってないかしら? と彼がゴソゴソ確認していると、どうやら彼はまだ男の子のようだった。とはいえすぐには立てなそうだと彼が四つん這いのままになっていると、彼がいつまで経っても立ち上がって来ないことに飽きたらしい彼女は、

「早く居酒屋行こうぜー」

「鬼かお前っ!! 人の大事なところを蹴っておいてっ!!」

「いいじゃん。もう子孫残したろ? 役目全うしたろ? 使い道も無いだろう?」

「バカタレェッ!! そういう問題じゃないっ!!」

 子孫を残していることと、生殖器を破壊してOKは全く別の話である。後別に残す子孫が一人だけとは限らないぞ? まぁ、出産時相当痛かったらしく、二度と産まん、と産後妻が言っていたのはよく覚えているが。……ん?

「あっ!」

「?」

「子孫云々で思い出した! 出産祝い貰ってない! くれ!」

「………………」

「おいこら待て! 聞こえないフリするなっ! 店の中へと逃げるなっ!! ……ってか本気でちょっと待ってまだ動けない……っ」

「だらしないなぁ」

「ちくしょうっ! お前男に転生したら覚えとけよっ! 絶対金的してやるからなっ!!」



「……ってわけで金が無いんですよ~」

「居酒屋で食って飲んでしてる奴に言われても説得力無いんですが?」

「この飲み代が全財産だ」

「男以上に男らしい金の使い方してるのな……」

 宵越しの銭は持たないってやつだろうか? 彼なんかは怖くて絶対できないが。

「あ、でもお子さんの写真は見たいかも。ある?」

「あるよ。ほら」

 子供の写真だけで構成されたフォルダを見せてやる彼。

「ふぇ~。可愛い~!」

 彼女は彼から受け取ったスマホを見ながら、

「奥さんに似て良かったね~」

「どういう意味?」

 非常に引っかかる物言いだったので聞いてみる彼だが、彼女は無視して写真をスクロールしていく。

「すっごいいっぱい写真あんじゃん」

「いや……、なんかついつい撮っちゃうというか」

「へぇ~。ちゃんとパパやってんだ~」

 学生時代、写真を撮る習慣など無く、写真のフォルダなんてほとんど空だった彼だが、子供ができてからというもの、気付いたらカメラを向けていて、子供の写真がフォルダを埋め尽くし始めていた。

 一通りスクロールし終わったのか、彼女はスマホを彼へと返すと、

「にしても、誘っといて何だけど、本当に来てくれるとは思わなかったなー」

「ホントに何だな」

「ダメ元で誘ったんだけどね」

「そういや珍しく気遣った文章だったな」

 疑問文で誘ってくるのが中々珍しい。大体、『行こうぜー』と来るのに。

「そりゃこっちだって気遣うさ。妻子持ちの旦那を独身女性が一対一で飯に誘ってもいいものかって。変に奥さんに誤解されても嫌だし」

「全く同じことを僕も迷ったぞ。まぁ、僕の生まれ持った素晴らしい機転の良さで、」

「すみませ~ん、ビールお替り~」

「聞けよっ!」

「どうせ適当に言葉濁して来たんでしょ? 多分奥さん気付いてるよ」

「………………えっ?」

 気付いている? え? ウソ? マジ? ピンチ。帰った時家あるかな?

「わっかりやすいからね~。あんたの嘘」

「顔に出るってこと?」

「顔に出るって言うか、嘘言いますって顔するって言うか」

「嘘言いますって顔……?」

 どんな顔? って彼は思ったが、

「何か、いい嘘思いつきました、みたいな顔って言うか」

「………………」

 確かに。閃いた! みたいな顔はしているかもしれない。

「だから嘘がバレるって言うよりは、今から嘘言うのねふーん、みたいな」

「それは…………結局嘘吐いたことになるのか?」

「びみょい」

 嘘言います、と言って嘘を言った場合、それは嘘なのだろうか? 事実と異なることを言ってはいるから嘘なのだろうか? でも『嘘言います』って本当のことを言っているわけだから真実のような気もしなくも……。誰か、コナン君を呼んで来てくれ。真実はいつも一つだ。

「普段の嘘もバレてるってことか……」

「何? そんな日常的に嘘吐いてんの? サイテー」

「いや、嘘って言うか、サプライズとかで隠し事って言うか」

「ああ、なるほどね。多分、十中八九バレてるね」

「……やっぱり?」

 妻にしろ子にしろ、サプライズを仕掛けた時のリアクションがちょっとオーバーだな、って気は彼もしていた。サプライズを仕掛けた側が喜ぶよう、本当のリアクションより大きめにとってくれているのかと思っていたが、あれは気付いていたものを気付かなかったフリをしているリアクションであったのか。

「いい奥さんに、いい子供だねぇ~。そして酷い旦那」

「おいこらちょっと待て。僕をオチに使うな」

「え? 奥さんと子供放っておいて女とご飯に来ている男がいい旦那だと?」

「すげー人聞きの悪い言い方すんじゃん?」

 誘われたからわざわざ来てやったのに何て言い草である。まぁ、確かに見る人が見れば浮気だ何だと騒ぐシチュエーションなのかもしれないが。

「一緒にご飯ぐらい良くね? それで文句言い出したら結婚した瞬間、異性の友人との連絡全部切らなきゃいけなくなってくるぜ?」

「どっからが浮気かはきっと永遠に終わらない議題だね~」

「お前はどっから?」

「嫌味?」

「…………ごめん」

「謝るなしっ」

 彼女はケラケラと笑う。何で『嫌味?』って言われたかというと、彼女には未だに恋人ができた経験が無いのだ。年齢=彼氏居ない歴、というやつだが、彼氏を作ろうとしていないわけではない。好きな人ができればアプローチもしに行くし、自分から告白もしに行くタイプだ。そしてフラれて『自棄飲みじゃー』に付き合わされる、というのが大体セットである。

「まぁまぁ、お前にもいつか恋人ができるって。焦らない焦らない」

「急に上からになりやがったな」

「家に帰って『おかえり』って言ってもらえるあの温かみね」

「そんなんでマウント取るな。あたしだって『おかえり』くらい言ってもらえるわ」

「え? マジ? 彼氏?」

「Siri」

「悲しいっ!!」

「たまに『何言ってるか分かりません』って言われるけど」

「なお悲しいっ!!」

「あとお隣さん」

「あ、それは暖かい」

「でもお隣さんから楽しそうな家族団らんの声が毎日聞こえてくるんだよね……」

「やっぱ悲しいっ!!」

「ホントもう……、そんな幸せな日常を壊してやろうかと思うよね……」

「思うなよ! 怖いなぁっ!!」

「あと誰か」

「誰かって誰よ? 居ないんだろ? 正直に言え」

「誰も居ないハズなんだけどねぇ……。『ただいまー』って言うとどこからか返事が聞こえてくるの……。不思議だよねぇ……」

「怖いなぁっ!! 幻聴なら病院行けっ!! 幻聴じゃなかったらお祓い行けっ!!」

「あと自分」

「それはカウントしない」

「あたしの頭の中にはあたしではない別の誰かが居て……」

「怖い怖い怖い! 一人が嫌過ぎて人格作りだしてるじゃないかっ!! 逃避するなっ! 現実を見るんだっ!! 脳内に人を作ってもお前は一人だぞっ!!」

「…………はぁ、帰ったら一人かぁ…………」

「現実見させたら受け止め切れずに急に落ち込みだしやがったっ! おーい! 戻ってこーいっ!!」

 一人の孤独を思い出したのか、彼女が遠い目をして帰って来なくなったので慌てて連れ戻す彼。連れ戻そうとする際、『嫌だ~! このまま夢の世界に行くんだぁ~っ!!』と彼女が強い抵抗を見せたが、何とか現実世界に連れ戻すことに成功する。

 必死に連れ戻した彼女は恩人であるハズの彼の方を睨みながらビールをグビグビと飲むと、

「余計なことをしやがって……」

「現実世界に連れ戻してやったのに何て言い草だ」

「おかげでまた明日から辛い現実を生きていかなきゃいけなくなった」

「みんな辛い現実世界で生きてるんだ。諦めろ。辛い分いいこともあるさ」

「例えば?」

「僕と一緒にお酒が呑めるとか」

「………………」

「………………」

「………………」

「………………」

「………………ぺっ!」

「溜めに溜めて唾吐きやがったなこいつっ!?」

「あ~マジ現実世界クソだわぁ~」

「何てガラの悪い奴だ! そんなんだから彼氏できねぇんだっ!!」

「あんだとぉっ!? キサマ、言ってはいけないことを言ったなぁっ!!」

「告白する前は聞きもしない『あの人の素敵なところ』を恋する乙女って感じのキラキラした目で永遠話してきやがるくせに、フラれた瞬間手のひら返したようにどこぞのヤンキーかよってドスの効いた目で悪口祭りだもんな。そんな奴がモテるかいっ!」

「うるせぇ! こんな可愛らしい女の子をフッた男なんてみんなクソに決まってんだろうっ!!」

「……可愛い? ……誰が?」

「あ・た・しっ!」

「………………はい?」

「ほわたぁーっ!」

「痛ぇーっ! おまっ、お前っ、パーなら百歩譲ってまだしもグーで殴りやがったなっ!」

「だったらパーでほわたぁーっ!」

「ぶへぇっ!? ち、違うっ! パーなら殴っていいって意味じゃないっ!!」

「だったらキッークッ!」

「ごふぅっ!?」

 チーン! という音が響いたような、気がした。実際には鈍い音がしただけだが。

 彼らが座っているのは座敷タイプの席。彼女の足の前には彼の股間が。そう。本日二度目の金的である。彼はしばらく股間を押さえて蹲っていたが、

「お、お、お、おほほほ……」

「え? 何? 壊れた?」

「一度ならいざ知らず、二度もボクの大事なムスコを……っ!! もう許さんっ! お前髪の毛全部引っこ抜いて坊主にしてくれるっ!!」

「わわわわぁ~っ! 止めろぉ~っ! 止めてくれぇ~っ! 髪だけは止めてくれぇ~っ! 嫌だぁ~っ! パパみたいにハゲたくない~っ!!」

 そんな感じで二人がわちゃわちゃ座敷の上で取っ組み合っていると、


「あの~、お客様~? もう少しだけお静かに願えますと……」


「「すみませんでした」」


 居酒屋で騒いで怒られるってよっぽどである。店員さんが下がるまで深々と頭を下げ続けた二人は、店員さんが居なくなったのを確認するとゆっくりと顔を上げ、

「……ほら、怒られた」

「おめーのせいだ!」

 彼が言うと、彼女はぷっ、と噴き出した。それに釣られて彼も噴き出す。お互い声に出してしばらく笑った後、彼女は笑い泣きした涙を指で拭ってから、

「あ~。……なんか、懐かしいねぇ~。昔もこうやってバカやって怒られたっけ?」

「まったく成長してないってことかもな」

 彼の言葉に彼女は『確かに』と笑いながら同意した後、

「でもちょっとホッとしたかも」

「?」

「またこうやってバカみたいな話ができてさ」

 彼女はビールを口に付けると、彼も真似して口を付け、

「変わらないってのもいいもんだよな」

「ホントにね」



 一目彼女を見た時に気付いてはいた。何かあったんだろうな、と。

 彼女は僕の嘘を分かりやすいと言ったけど、何かあった時の彼女だって同じくらい分かりやすい。顔に出る、というわけではないが、何となく雰囲気で分かる。

 それがプライベートなことなのか、仕事のことなのかまでは分からないが、一人で整理しきれない何かは彼女に起こったようだった。久々に会いたかった、というのも多分本心だろうが、何かあったから話し相手が欲しかった、というのが本音だろう。

 昔から彼女はそうだった。何かあってもそれを誰かに打ち明けるようなことはしない。ある素振りさえ見せはしない。その何かについては絶対話さないが、その時無性に誰かに会いたくなるみたいだった。別のことをいっぱい話して、その何かの記憶を上書きしたいのだろう。

 何かあった? なんて無粋なことは聞きはしない。言ってこない、ということは、言いたくないってことだろう。言いたくないってことは、知られたくないということ。その知られたくないことにこちらが気付いている、などという気まずくなるようなことは言わなくていい。

 明るい子、ってイメージを壊したくないのか、彼女はとにかく人前では明るく振舞いたがる。フラれた時だって、本当は泣きたいくらい悲しかったろうに、僕たちが変に気を遣わないように、思ってもないであろう悪口を次々と口にして、もう気にしてませんよ、というのは一生懸命アピールしていた。

 彼女は自分の暗い話なんて絶対話したがらない。彼女の話を聞いて周りの人が暗くなるのが嫌なのだろう。人と会っている時は楽しい会話をして、みんなを笑顔にしたい。そういう女性だ。

 だから僕も詮索なんてしない。彼女の意図を組んで楽しい会話をしようと思う。このわずかな時間の間だけでも、キミがその何かを忘れられるように。


 僕はいつもよりちょっとだけバカになって、キミを少しでも笑わせようとした。

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