靴音/木曜日午後九時三十分
えんがわなすび
浴槽にて
カツ、カツ、――…
ヒールの音が響く。
それが玄関の前を通り過ぎたのを耳で確認してから顔を上げる。
浴槽の淵に置いた小型の耐水性付き時計が、九時三十分を知らせていた。
木曜日。夜。
今日も一日終わって浴槽にダイブ。
熱々に張った湯が痛い程の刺激を残して淵から溢れていった。
「ぶあぁ〜…」
全身から力が抜けていって、口からは意味のない言葉が出る。どこのオッサンだと思ったが自分もそれに当てはまるのだと、掬ったお湯をバシャリと顔にかける。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。
湯気の立つ浴槽に浸かりながら傍に置いていたタブレットを取る。
水没するって?
ご心配なく。
ジッパー付き袋の上からタブレットを操作。お気に入り登録の欄から電子書籍の棚を呼び出し、読み始めの小説を開く。
場所を取らず、いつでも好きな時に本が読める。便利な世の中になったもんだ。
長風呂になるのは確実だが、湯に浸かりながら静かに本を読むのが堪らなく好きで止められない。紙媒体の、あのページを捲る音が聞けないのは残念だが、電子書籍も良いものだ。スワイプして捲る。文字が流れる。
どれだけ読んでいたか。
微かな音が耳に入ってくる。
それは徐々に大きくなっていき、建物の空間に響き渡る。
カツ、カツ、――…
遠くから近づいてきたヒールの音は玄関を通り過ぎ、また遠くなっていく。
顔を上げ、浴槽の淵に置いた小型の耐水性付き時計を見る。
九時三十分。
それを確認し、タブレットを閉じた。
「女がこんな時間まで大変だな。仕事お疲れさん」
聞こえないはずのそれを発し、ざばりと湯から上がる。
湯気が上がって視界が白くなった。
*****
木曜日。夜。
今日も一日終わって浴槽にダイブ。
熱々に張った湯が痛い程の刺激を残して淵から溢れていった。
「だあぁ〜…」
全身から力が抜けていって、口からは意味のない言葉が出る。どこのオッサンだ。俺か。掬ったお湯をバシャリと顔にかける。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。深く深呼吸する。
湯気の立つ浴槽に浸かりながら傍に置いていたタブレットを取る。
水没するって?
いやいや、ご心配なく。
ジッパー付き袋の上からタブレットを操作。お気に入り登録の欄から電子書籍の棚を呼び出し、読みかけの小説を開く。
場所を取らず、いつでも好きな時に本が読める。便利な世の中になったもんだ。ありがたい。
長風呂になるのは確実だが、湯に浸かりながら静かに本を読むのが堪らなく好きで止められない。紙媒体の、あのページを捲る音が聞けないのは残念だが、電子書籍も良いものだ。スワイプして捲る。文字が流れる。文字が流れる。
どれだけ読んでいたか。
微かな音が耳に入ってくる。
それは徐々に大きくなっていき、建物の空間に響き渡る。
カツ、カツ、――…
遠くから近づいてきたヒールの音。
顔を上げ、浴槽の淵に置いた小型の耐水性付き時計を見る。
九時三十分。
それを確認し、タブレットを閉じた。
「いつもこんな時間まで大変だな。仕事お疲れさん」
玄関を通り過ぎようとした音が不自然なところで止まる。
聞こえないと思っていたのに、まさか聞こえてしまったのだろうか。だとしたら気まずい。ぎくりと体を強張らせ、いや今のは単なる独り言であって話しかけたつもりはないと誰に言い訳するでもない思考を巡らせる。
不自然に止まっていた音は思い出したように音を再開させ遠ざかっていった。明らかに先程より早いスピードで去っていく音に、ざばりと湯から上がる。
湯気が上がって視界が白くなった。
*****
木曜日。夜。
今日も一日終わって浴槽にダイブ。
熱々に張った湯が痛い程の刺激を残して淵から溢れていった。
「ゔあぁ〜…」
全身から力が抜けていって、口からは意味のない言葉が出る。オッサンみたいな声だな。俺か。掬ったお湯をバシャリと顔にかける。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。体が湯に溶けるような錯覚を覚える。
湯気の立つ浴槽に浸かりながら傍に置いていたタブレットを取る。
うん?水没するって?
ご心配なく。
ジッパー付き袋の上からタブレットを操作。お気に入り登録の欄から電子書籍の棚を呼び出し、読み終わりそうな小説を開く。
場所を取らず、いつでも好きな時に本が読める。便利な世の中になったもんだ。ありがたい。開発した人は天才か。
長風呂になるのは確実だが、湯に浸かりながら静かに本を読むのが堪らなく好きで止められない。紙媒体の、あのページを捲る音が聞けないのは残念だが、電子書籍も良いものだ。スワイプして捲る。文字が流れる。文字が流れる。文字が流れる。
どれだけ読んでいたか。
微かな音が耳に入ってくる。
それは徐々に大きくなっていき、建物の空間に響き渡る。
カツ、カツ、――…
遠くから近づいてきたヒールの音。
顔を上げ、浴槽の淵に置いた小型の耐水性付き時計を見る。
九時三十分。
それを確認し、タブレットを閉じた。
「なあ、あんた。こんな時間まで大変だな。仕事お疲れさん」
玄関を通り過ぎようとした音が不自然なところで止まる。
話しかけようと思ったつもりではなかった。けれど無意識に口に出ていた。案の定、通り過ぎようとした相手は驚いたように止まっている。
驚かせようとしたわけでもない。
ただ、こんな時間までヒールで歩くようなものが外にいることに心配してしまったのだ。だって、そうだろう?踵の高いそれで一日外にいりゃ、疲れるなんてもんじゃない。経験はないが、それくらい俺にだって分かる。
だから、ちょっとした労いの言葉を…。
けれど相手は何かを言おうとした気配だけ見せて、弾けたように音を再開させた。
カツカツカツカツ。
速度を増したそれは瞬く間に遠ざかっていった。
まぁ、そりゃそうか。
突然姿の見えないところから声をかけられれば誰だって驚く。悪いことをした。
ちょっとした罪悪感に息を吐き、ざばりと湯から「怖がらせちゃったねぇ」
意図しない声に浮かせかけた体制のままビクリと止まる。驚愕に喉から空気だけが細く短く通り過ぎた。
はっとして体ごと視界を変えれば、黒スーツ姿の男が傍に立っていた。場違いなほどピシッと着込んだそれに、上がった口角。湯気が酷いというのに、何故か黒縁の眼鏡には一切の曇りがなかった。
「こっちは驚かせてしまいましたかね」
どこか楽しそうに男は眼鏡の縁を上げる。
いや待て。なんだ、こいつ。どこから。ここは風呂だぞ。いや、そもそも。
「失敬。混乱しているところ申し訳ないけれども、そろそろお迎えが必要だと。いや、ご退場の方ですかね」
「なんだって…?」
漸く出た言葉は震えていたかもしれない。得体の知れない恐怖が足先から頭まで昇ってくるようだった。男は笑っている。弓形の目が一層細くなる。怖い。理解が及ばないことが。
「風呂好きも本好きも咎めることじゃないんですよ。でも声はいけない。干渉しちゃあ駄目です」
「こえ…。声って、話しかけたことか。確かにいきなり話しかけて驚かせたが、そんなの――」
「それに、いつまで浴槽に囚われている気ですか」
"もう死んでいるというのに"
理解が及ばないことが、怖い。
男の淡々とした言葉が湯気に混じる。
囚われている。死んでいる。誰が。
――俺が。
男が一層笑う。上げた口角が切れ目を入れて裂けるように口が開いた。
中は漆黒の闇のように黒かった。
「ぁ――」
言葉を発する前に男の真っ黒い口が大きく開かれ、闇が濃くなる。
"喰われる"
その思考を最後に、俺は消えた。
「干渉しなければ、最後まで読めたんじゃないですか?」
湯のない浴槽に男一人残して。
プルル、プルル…、カチッ
只今、電話にでることができません
発信音の後にメッセージをどうぞ
ピッ…
『あっ、もしもし?…ザザザッ――ですけど。あの、マンションの管理人の。ご依頼していた件、解決してくださったんですね!相談者の女性も喜んでましたよ。あそこの前を通るたびに、その…現象に悩んでたみたいで、声まで聞こえたときはどうしようかって…。ああ、いえ、もう大丈夫なんですよね。それで…あの…、本当にご依頼料は取られないんでしょうか…?いえ、無料だって聞いてましたけど、確認の為に…。そういうことでしたら、今回はありがとうございました。では…』
プッ――…
【了】
―――――
浴槽の男
お風呂と本に囚われた人。死んでる。
熱々の湯で長風呂はできないって?死んでんのに感覚なんかあるか。
廊下を歩く女
OL。生きてる。
仕事帰りで疲れてるのに、通り道の部屋に住む霊にも憑かれてるって?全然面白くないって。
電話の声
マンションの管理人。生きてる。
定年でもやれる簡単なお仕事のはずなのに、変な相談くるわ、依頼者は電話に出ないわ…。やあねぇ…。
???
黒スーツの男。
スーツは防水仕様、眼鏡は曇り止め完備に決まってるじゃあないですか。常識ですよ。
靴音/木曜日午後九時三十分 えんがわなすび @engawanasubi
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