第3話 たぶん、一生涯
そんな風に、僕と咲世子さんの時間が過ぎていく。でも、とうとう最後の肉になり、空っぽの冷蔵庫がとても寂しくなってしまった。残っていたのは、使いづらい小間切れだ。
(どうしようかな、ラストに相応しいメニューにしたいけど……)
何にするか決めかねていた僕は、会社でもぼうっとしていた。
そんな折、隣席の同僚が話しかけてくる。今夜は二日掛けて煮込んだカレーを食べるだとか何とか。
(カレー……そういえば兄さんはカレーが好きだったな)
ふと思い出し考え付いたのが、兄さんに手製のカレーを御馳走する案。もちろん咲世子さんの肉で作る。それを食べさせてしまう事は、酷く悪趣味で残酷なのかもしれない。でも僕としては、全てが『僕のもの』だった秘密の肉を――名実ともに咲世子さんを手にしていた兄さんに譲るのだから、出来れば好意だと思って欲しかった。
兄さんにカレーを御馳走する場所は、やはり兄さんの家がいいだろう。僕の家には咲世子さんのワンピースや靴があるし、気づかれないとも限らない。だからと言って実家でカレーパーティをするつもりも無かった。父さんと母さんに、咲世子さんの肉を食べさせる意味がないからだ。
僕は昼休み、久々に兄さんへ連絡を取る。ワンコールで繋がった。
「久しぶり兄さん、調子はどう?」
『仕事をしながら咲世子を探してる毎日だよ。智哉は?』
まさかその咲世子さんを食べていましたとは言えない。僕は後ろめたさから「仕事で忙しかったよ」と嘘をついた。
「ところで兄さん、今晩は兄さんの家にお邪魔してもいい? カレーを作る予定なんだ」
『カレーかぁ。家で作るようなものは久方食べてないなぁ……いいね』
「じゃあ午後八時ごろ行くから、ご飯を炊いておいて」
そうやって通話を終える。
(咲世子さんの肉は硬めだから、今日は定時で帰って煮込まなくちゃ)
そう思って、午後の僕は頑張った。帰りに寄るスーパーも、ちゃちゃっと済ませてレジの列に並ぶ。でも、いよいよ僕の番という所で、福神漬けを買い忘れた事に気づいたりして、また並びなおす羽目に。ちくたく過ぎていく時間が勿体ない。
やっとの事で家に着いた僕はスーツを脱ぎ、さっそくカレー作りに入る。まずは水を張って沸騰させ、肉を茹でる所から。僕の経験から行くと、弱火で一時間くらいは煮込まないと柔らかくならない。
その間、野菜の下ごしらえをしながら考えていたのは、咲世子さんの事ばかり。咲世子さんはもう死んでいるけれど、肉が無くなるのは僕にとって二度目のお別れに他ならない。学生のころ「智哉くん」と笑って呼びかけてくれた事を思い出せば涙が出てきた。その涙はなかなか止まらなくて、やっと大人しくなったかと思ったら一時間以上も経過している。あまり煮込みすぎても肉が裂けてしまうので慌てて火を止めた。それからフライパンで野菜を炒めて鍋に投入。野菜に火が通ったら、カレールーとニンニクの擦り下ろしを少々。これが僕のカレーだ。兄さんも気に入ってくれるといいのだけれど。
作り終わってみれば時間は午後七時四十五分。僕は鍋に蓋をして、兄さんの家へ向かった。
兄さんの家、正確に言えば兄さんと咲世子さんの家は市内の少し西寄りにある。咲世子さんの職場に近いというのを前提に選ばれたマンションだ。僕がここに来るのは二度目。一度目は引越しの手伝い。そこで二人の仲の良さをまざまざと見せつけられて、それ以降来ていない。二人に会うのは、いつも実家だった。
ちなみに、僕の家には父さんと母さん以外誰も来ていない。兄さんと咲世子さんは来たがったけれど、あちらこちらに二人の愛みたいな痕跡を残されるのが嫌なので。僕は咲世子さんを好きなのだから、ちょっと冷たいかもしれないけれど許して欲しい。
タクシーを使ったので、マンションにはすぐ着く。そうしてカレーの匂いをさせながら、四〇二号室を目指した。インターホンを鳴らすと兄さんがすぐ出迎えてくれて――引っ越した当時とは丸っきり違う、すっかり咲世子さんの領域になったキッチンに案内される。僕は鍋をコンロに置き、温めなおす作業に移った。その際、冷蔵庫に『今日の買出し、牛乳二本。忘れないで!』という咲世子さんが書いたメモを見つけ、思わず「うっ」と声が出てしまう。懐かしい筆跡。これだけでも、兄さんが探しまくる理由が伝わってきた。
「どうしたの? 智哉」
「なんでもないよ、ちょっと焦がしちゃったかなぁと勘違いして」
「そっか、良かった。ところで、ご飯の量はこれくらいでいい?」
「丁度いいよ、兄さん」
本当は、ちょっと多めに盛ってあるなぁと思っていた。でも最後の晩餐だしお腹一杯食べておきたいので、そんな風に答える。
兄さんは白ご飯の他に、サラダを用意してくれていた。綺麗に飾り付けられていて、どちらかと言うと不器用だった兄さんが嘘みたいだ。きっと器用だった咲世子さんが教えたんだろう。そこで、もやもやするのは嫉妬心だ。でも感情を殺して、白ご飯にカレーを掛ける。ああ、いい感じに美味しそうだ。
僕はダイニングに案内され、そこでも咲世子さんの存在を見つけた。壁にピースサインをしながらお握りを食べる、咲世子さんの写真が貼ってあったのだ。お花見にでも行ったのか、咲世子さんの背景は咲き誇った桜の樹々だった。
「兄さん、これ……」
「独りでの食事が寂しくてね」
「そう……」
兄さんの手前、頷いて見せたものの、僕なんかずっと独りだった。寂しさなんか感じないくらい、ずっと独りだった。なので、咲世子さんと楽しい思い出に浸れる兄さんが少し羨ましい。
「智哉、そろそろ食べようよ」
兄さんがスプーン片手にそう言った。僕は「うん」と言いつつカレーをスマホで撮影。所々に咲世子さんの肉が見えるから、ずっと壁紙にしよう。
「いただきます」
「いただきます」
二人で同時に挨拶し、ぱくりとカレーを食べる。かなり良い出来だ。肉はほろほろして柔らかいし、咲世子さんの旨味が全体の味を引き締めている。臭みはカレールーとニンニクで完全除去。これなら兄さんも喜んでくれると思ったら、彼は一口食べたところでぼろぼろ泣いていた。
「あれっ……おかしいな、最近レトルトしか食べてないから、家庭の味が嬉しかったのかなぁ」
単なる家庭の味で、これほど涙を流すだろうか。
(たぶん兄さんは本能的に、これが咲世子さんの一部だと解ってるんだ)
まさかそんな事は言えないので、僕は「喜んで貰えて良かった」と、それだけ。変な事を言うとボロが出そうだ。まぁ、ハンカチだけは渡したけれど。
僕は兄さんが泣いている間にカレーを完食。もう二度と食べられない一品。本当に美味しかった。
僕がカレーへ思いを馳せていた間に、兄さんはカレーを再度食べ始める。ただし涙は流したままだ。本当に、本当に兄さんと咲世子さんは結ばれていたんだなと感じる。僕はそれが羨ましい。例え兄さんがこれからも、この世に居ない咲世子さんを探し続けるとしたって。
だから、咲世子さんありがとう。肉という形だけれど、僕の前に現れてくれて。お陰で僕の愛や欲望が満たされました。お別れはちょっと寂しいですが、咲世子さんを僕の中に取り込んだので大丈夫。これからはワンピースと靴と壁紙で懐かしみます。たぶん、一生涯。
咲世子さんありがとう けろけろ @suwakichi
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