第10話 道は違えて
時沢司暮と春木青羽が出会った秋の季節から、冬の季節を跨ぎ、三月の初旬――春を迎えていた。
春と言えども、まだ冬との境に近い。桜咲く季節には少し早く、公園に植えられた桜は蕾のまま、暖かくなるのを心待ちにしていた。
その一方で、一部にとってみれば、少し早く桜の咲く季節でもある。
「お待たせ~」
見慣れた制服姿ではなく、冬服にモコモコのベージュコートを羽織った青羽が公園に姿を現す。その訪れを待っていた司暮もまた、冬の暖かな服に身を包んでいる。
二人は今春をもってそれぞれの高校を卒業していた。
「また買ってきたのか?」
司暮は青羽の手に、見慣れたビニル袋がぶら下げられていることに気付く。
「そりゃもちろん。お花見には欠かせないでしょ!」
「花見には早すぎるだろ、まだ三月だぞ?」
司暮は辺りを見渡し、当然なことを口にする。あの桃色の彩りなど影も形もなく、乾燥した茶色の木の葉が時折舞う、極めて殺風景な冬模様である。
「花見は花見でも、今咲く花があるでしょ?」
「何、なぞなぞ的な話か? それとも、梅の花とでも答えればいいのか?」
「もちろん桜のことだよ。まぁ一先ず、これどうぞ」
青羽はそう言って、袋からコーヒー缶を取り出して司暮に手渡す。
「ありがと……って熱っ!」
依然寒い今の季節。ホットコーヒーというチョイスは実に気が利いているのだが、手が冷えていることもあって火傷しそうなほど熱く感じてしまう。寒い季節に良く見る風物詩だろう。
司暮はお手玉するようにしながら、少し冷めるのを待つ。
「もうすぐだね」
「…………だな」
司暮は公園にある時計を見やってそう呟く。
時刻は十一時四十五分。間もなく正午を迎える。
高校を卒業した二人がかつて出会った公園に集まった理由は、今日正午に控えた司暮の合格発表を一緒に見るためだった。
「緊張、してるみたいだね」
「そりゃするだろ。しない奴の方がどうかしてる」
「それは私の話かな?」
「春木は元から心配無用だったからな……」
春木の合格発表が行われたのは先月だった。
共通テストの得点のみで合否が決まるのだが、自己採点の結果時点で合格は確定と言っても過言ではなく、合格発表時にもあまり緊張感がなかった。そして肝心の結果が出ても、青羽はケロッと「合格したよ~」と言っていたのだった。
しかし、本来の受験生の合格発表時というのは、まさに司暮のような心境なはず。青羽の例は極めて稀である。
――突然、司暮の肌に触れる冷たい感触があった。
「……雨、かよ」
雨脚は頗る弱く、急いで雨宿りしないといけないほどではない小雨だ。近くの四阿に退避することなく、二人はその場に留まった。
「やっぱり思い出しちゃう?」
「そりゃ、嫌でもな……」
雨、そしてこの公園。結び付けるのは、土砂降りの中にいたあの日の出来事だ。
それだけではない。司暮が青羽を一度見限ったあの日も、突然雨に見舞われたという過去がある。司暮にとって雨とは、あまり良い予兆とは言えなかった。
だが、それは青羽にとっても同じことだ。
そのはずなのに、青羽は少し嬉しそうに空を見上げた。
「私は雨に感謝してる。雨は私たちを結び付けて、お互いを前に進ませてくれた。成長させてくれた、恵みの雨だからね」
「ほんとポジティブだな、春木。でもまぁ、そう言われるとそうかもな」
あの日雨が降っていなければ、二人は出会わなかったかもしれない。
もしそうだったなら、司暮は志望校受験を諦め、青羽はイラストレーターの道を諦めていたかもしれない。
お互いがお互いを刺激し、望んだ未来への道のりを歩み出せた。そのきっかけをくれた雨には感謝すべきなのかもしれないと、司暮は青羽の考え方に共感した。
司暮は青羽に合わせて空を見上げる――すると、一面を覆っていた曇り空の僅かな切れ間から日の光が落ちた。弱く振っていた雨もピタリと止む。
そして同時に、正午を知らせる鐘が公園一帯に鳴り響く。
――運命の時間だ。
「司暮君!」
「分かってる」
青羽が言うより早いか、司暮はすぐに開けるように用意しておいたサイトから、合否結果のページをいち早く開いた。
表示されたのは――季節としては少し早い、綺麗な桜の花。
「ご、合格…………、えっ…………?」
この日のために頑張って来た、この合格の桜を目にするために挑んできたはずなのに、実際に間の辺りにすると現実なのかどうか疑ってしまう。司暮は呆けながら、しばらくスマホを凝視していた。
「司暮君! 合格だよっ、合格!」
その正面で、当の本人より先に喜びの声を上げる青羽。司暮の肩をバンバン叩いて、司暮を正気に戻そうとする。
「…………よかっ、た。ほんっとうによかった…………」
ようやく事実を飲み込めた司暮だが、喜びよりも安堵が先に訪れた。魂が抜かれたかのように、へなへなとベンチの前に崩れ落ちる。
青羽はその様子を見て、ゆっくりとしゃがみ込み、司暮の背中を優しく撫でた。
「おめでとう、司暮君」
青羽のいつもとは違う、優しく包み込むような祝福の言葉を聞いた途端、司暮に涙が込み上げた。
環境はあの日と似ているのに、その涙の意味はまるで真逆。これまで悉く裏切られてきた努力の全てが報われた瞬間は、司暮にとって筆舌し難いほど大きな達成感や喜びを味合わせた。きっと彼以外、決して味わうことはできないだろう。
司暮の慟哭が、平日昼間の静かな公園に響き渡る。
今回は、大雨が遮ってくれることはないけれど、事情を聴いてくれれば誰もが共感してくれるはずだ。末代までの恥にはならないことだろう。
そんな司暮たちの元に、暖かな日が差し込んでくる。青羽が周りを見渡してみると、そこには幻想的な光景が広がっていた。
七色の架け橋――虹。まるで、司暮の合格を祝福しているようだった。
この幻想を作り出したものこそ、天からの恵み――雨である。
「やっぱり、雨は好きだな。私」
青羽は虹を真っすぐに見つめ、そう呟くのであった。
* * *
季節はめっきり春らしくなり、いよいよ街中の桜が咲き始めていた頃。
別れの後に訪れる出会いの季節――春。
時沢司暮は、駅のホームのベンチに座り、来たる電車を待っていた。
『お疲れ様』
コネクトに表示されているその一言を見直し、新たなステージに進んだことを再度実感する。
この言葉の送り主は、司暮の両親からのもの。父親、母親とのグループチャット内に送られた二人からの素っ気ない言葉は、司暮が雄立大学を合格した日にいの一番に報告した際に来たものだ。『おめでとう』とか『頑張ったね』とか、他の言葉は特に添えられていない。
それでも、司暮にとってこの言葉は三年越しに送られた労いの言葉。それがいくら形だけの気持ちのこもっていないものだとしても、司暮にとっては一つの悲願で、努力が報われた証拠。達成感に溢れたあの日は、とにかく地に足がつかなかった。
そして、あの日から僅か二週間ほど。
司暮は新しい一歩を踏み出す。
「……ったく、春木は」
司暮がスマホを見ていることをどこかで見ているかのように、この結果をもたらした女神からのメッセージが届く。相変わらずだなと思いつつ、自然と笑みが零れていた。
『お互い頑張ろうね!』
二人はこの先、別々の道へと進む。
あんな風に偶然出会うことはもう、きっとない。いきなり呼び出されて出かけることも、くだらない会話をすることも、隣同士や向かい合って座ることもない。そう思うと何だか急に寂しく思う司暮。
せっかく応援のメッセージをもらったのだ。前を向かなくては、と司暮は手元にあった紙袋からとあるものを取り出す。
「なんか、もう懐かしいもんだな」
それは、かつてこの駅から青羽の住む街に向かった際、青羽が買ってきたシュークリームだった。あの日食べた絶妙な甘さが忘れられず、自然と購入していたのである。
司暮は一口、パクリと頬張る。
もう一口、さらに一口…………。あっという間に、平らげる。
口の中に広がった懐かしく奥ゆかしい甘さを噛み締めつつも、一緒に買ったブラックコーヒーで綺麗に流し込んだ。
瞬間、駅ホームに電車の到着を知らせるメロディーが鳴る。
「よし、行くか!」
完
雨降りし紅蓮の空 木崎 浅黄 @kizaki_asagi
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