第9話 決戦の時
「遂に、か……」
司暮は試験会場となっている近所の大学校舎を、そして同じく受験する生徒たちの数を目の当たりにしてポツリと言葉を漏らす。
司暮にとって運命の分かれ道となる、共通テスト当日。
寒々とした冬の青空の下、浮足立つ受験生たちは気を紛らわせるように談笑しながら受験会場へと向かっていく。会場に一人で来た司暮にはそんな話し相手もおらず、淡々と受験生の波に沿って歩いた。
司暮が志望大学を定めた高校入学前から始まって約三年。長かったはずの月日もいざこの場所に立ってみると、まるで昨日のことのように思い出される。
中でも青羽との出会いは、司暮の中で一番の転機だった。
長らく続けて来た青羽の献身的なサポートの甲斐もあり、出会う前とは見違えるほど成績を伸ばしてきた司暮。以前は見ることも嫌になるほど苦手意識を持っていたはずの英語に、少なからず自信がついている。
それだけではない。
『信じて』
昨晩、青羽から司暮に送られた、たった一言のメッセージ。
――これまでの努力を、自分自身を、そして春木青羽を信じろ。
肝心なことを言わない悪戯心が透けて見えるが、そのニュアンスを理解できるようになるくらいには多くの時間を共にしてきたのである。声ではない文面のメッセージでも、どんな表情で言っているのか、そこにどれだけ思いが乗っかっているのかは鮮明に脳内で映し出された。
そんな青羽。イラストレーターの道を歩むために選択したのは、芸術を専門に扱った四年制大学だ。そのため、受験会場の組み合わせの関係で会場こそ違うが、同じ時間に同じ問題を解くことになる。青羽のメッセージに対して司暮からは、『一緒に頑張ろうぜ』と返されていた。
大学構内に入ってから徒歩五分ほど。試験会場である理学部棟のとある大きな教室前に辿り着く。試験開始三十分前のため、既に到着している受験生たちは教室に入ることなく、荷物置き場の近くなどで各々最後の自主勉強に入っていた。
ただ、誰もが真面目な受験生とは限らない。中には場違いともとれるような騒がしい人や、ゲーム機でゲームをする人もいた。もちろん、その人なりのメンタルケアと言われればそれまでで、受験はあくまでも個人戦なのだから気にしては負けなのだが、あまり迷惑になる様なことはしないで欲しいなと思う司暮。距離を取るようにして人混みの少ない所へと足を向けた。
迫る勝負の時は三十分後。今から勉強したところであまり意味のない、ただの悪足掻きのように見えるのかもしれない。実際、それは正論に違いないのだろう。
それでも、緊張しないよう談笑して気を紛らわせるように、最後の最後まで姿勢を貫くことが自信になる上に、『やりきった』という気持ちで試験に挑むことができる。悪く言えば気休めだが、ある種のルーティーンのようなものなのだ。加えて、朝の眠った脳を覚ますアップの効果もあるのだから、やらない理由はない。
廊下を進み、人気の少ないよさげな場所を見つけた司暮。壁に背中を擦るようにして、その場にしゃがみ込む。
背負って来た鞄のファスナーを開け、中から一冊の本を取り出す。
『長文読解、長文に苦手なあなたへの一冊』
それはかつて、青羽と一緒に出かけた際に購入した英語の問題集だった。
問題集なので、本来はこういった試験前の復習用途にはあまり向かないはず。それでもわざわざここまで持って来たのは、何か力を与えてくれるような気がしたからだ。それこそ、鞄のファスナーに括りつけられている、正月に買った合格祈願の御守りよりも――。
「よしっ」
司暮は気合を入れると、来たる時まで復習を続けるのであった。
* * *
大学入学共通テストは、その前身であるセンター試験の系譜を一部受け継いでいる。試験は丸二日かけて行われ、初日は文系科目、二日目に理系科目が実施。つまり初日から、司暮にとって最大の壁である英語が登場する。
午前中の社会科目である地理、そして午後の第一科目である国語を難なく潜り抜けた司暮は、遂にその時を迎えた。
(………………)
本来、一番初めの科目で緊張し、それ以降段々と慣れていくものだろう。ただ司暮にとっては、ここに来て緊張が最高潮に達していた。
指定されている座席に座り試験開始を待つまでの間、司暮の手足がぷるぷると震えだす。いくら自信をつけて不安を払拭して来たとはいえども、命運のほぼ全てを握る科目を前にすれば緊張せずにはいられないのである。
それでも、時は司暮の緊張が和らぐのを待ってはくれない。試験官が問題用紙と解答用紙を配り、試験官の掛け声とともに一斉に試験がスタートした。
開始序盤――大問の前半は、司暮が元々苦手としていない文法問題が多い。自信満々で淡々と問題を解き進め、肝心の長文問題に向けて余裕を捻出していく。
これは、かつて青羽が指摘したことに対する別のアプローチである。長文問題の解き方の改善は大前提として、出来る限り長文問題に時間を使えるような時間配分を心掛けることも、高得点に繋がる。これも青羽との勉強会で生まれた考え方だった。
そうして順調な滑り出しを見せる司暮。遂に件の長文問題に差し掛かった。
「ふぅ…………」
周りの迷惑にならない程度の小さな声量で、司暮は大きく息を吐く。熱くなりすぎて大切なことを見落とさないために、一旦ブレーキをかけた形だ。
『実はね、英語の長文問題には傾向があるんだよ。例えば、一つの段落に言いたいことは一つだけしかないとか、伝えたいことは先に書かれてるとかね』
『全部同じように理解しようとするんじゃなくて、重要な部分とそうではない部分に優先順位をつけて理解する。これが長文問題を解く上での鉄則だよ!』
青羽の指摘を今一度、頭の中で反芻する。そして、長文問題に目を通していく。
問題の難易度は平年通りで特別難しくない。青羽に買ってもらったあの問題集とほぼ同水準であり、最も反復練習をこなしているレベル帯だった。
(大丈夫、大丈夫………)
何度も何度もやり込んだという経験は、大一番で自信へと変わる。勢いそのままに、司暮は駆け抜けていった。
「試験終了です」
試験開始から八十分後。その合図を耳にした時、司暮は小さくガッツポーズした。
全ての問題を解き切り、空白を作らなかった。青羽の助言が実った形で、全力を出し切れたのである。
青羽と出会う前は、全てマークすることすら難しかった。中には、問題に目を通すことすら出来なかったこともある。その状態からここまでやってこられたのは、他でもない青羽のおかげであると同時に、研鑽してきた甲斐あってのこと。司暮は一瞬だけ、自分の健闘を称えた。
あとは大きなミスを作らないよう、いつも通りに。
山場を乗り越えた司暮は気を抜くことなく、二日間を走り抜けていった。
* * *
共通テストが終わった翌日。事実上、志望校が決定する日である。司暮にとって第二の関門、或いは最大の関門と言っても差し支えないかもしれない。
普段とは違い、受験生は午後登校となっている。その目的は前日まで行われた試験を自己採点するため。この得点を元に、志願届けを提出していくことになるのだ。
登校中、司暮は同学年である周りの生徒たちを見渡す。足取りは心なしか重たく映り、雑談に花を咲かせる生徒たちも大人しめに感じる。試験結果は今更どれだけ騒ごうと確定しているというのに、採点前のまだ明らかになっていない状況はとてつもなく不安なのである。それは司暮とて例外ではなかった。
静まり返った教室にて、生徒たちが全員登校したことを確認した巻野は、共通テストの回答と得点の記入用紙を配布する。
「――採点をし終えたら随時、俺のところまで来ること」
そして、淡々とこの後すべきことの説明をし終え、教壇から降りた。
巻野が教室を後にした途端、すぐさま採点に取り掛かるクラスメイトたち。それをよそに、司暮は深呼吸して間を置いた。
下手すれば本番よりも緊張する時間だ。ぱっと点数が表示されるわけではなく、一問一問正誤を確認する必要があるため、一問ごとにプレッシャーがかかってくる。想定外の誤答には焦りが、思いがけない正答には小さな喜びが。一喜一憂しながら、司暮は順々に採点を進めていった。
そうして、最後の一教科を残して採点を終える。
ここまでの結果は司暮が自身に課したラインを上回る、上々な出来栄えだった。苦手の一つであった古文漢文も、青羽のアドバイスを元に勉強を重ねた結果が実っている。
しかし、安堵するには余りにも早計だ。
「ふぅ…………」
司暮は机上の、『英語』と書かれた問題用紙を睥睨する。
最後に残した教科とは、司暮にとっての宿敵たる英語。特別意識してこの順番にしたわけではないというのに、自然と最後に回していた辺りが、ラスボス感を滲ませる。
――感触は決して悪くなかった。
二日前を振り返りながら、緊張する自分を落ち着かせていく。少なくとも、全問解答しきったという事実は、採点する司暮の背中を押す自信になっていた。
命運を左右する最後の科目。
司暮は一度置いていたペンを握り、採点を開始した。
しかし、司暮の予想外はすぐさま発覚することになる。
(嘘だろ………)
序盤に続く文法問題の得点が、思いの外伸びない。むしろ、普段の模試よりも悪い結果になっていた。
原因は、細かい所での注意欠陥。所謂ケアレスミスだ。
今回に限らず、司暮は後半の文章問題で猶予を作るため、文章問題を淡々と解くようになっていた。だがそれ故に、間違えやすい所の注意不足であったり、よく読めば分かる部分を読み飛ばしたりなど、要所要所の精度が下がっていたのである。
何度も何度も、本番さながらの練習を重ねた司暮だが、ここまで露骨に点数に絡んだのは初めて。それも、よりによって本番で現れてしまい、採点を進める司暮は焦りで気が動転しそうだった。
長文問題、リスニングを含め全ての採点を終えた司暮。表情を隠すように机に突っ伏し、唇を噛みしめる。悔しさが血として口内に滲み、鉄っぽい味が酷く苦い。
結果として、司暮が最も頑張ってきた英語の得点は、自身に課した基準には一回り届いていなかった。
それでも、青羽と二人三脚で努力を重ねてきた長文問題はきちんと結果として現れ、自己最高水準に達した。おかげで、望んだ得点まではいかずとも、全体としては過去最高得点だ。彼女との出会いがなければ、この点数にすら届かなかっただろう。
けれど――やはり、司暮は素直に喜べなかった。
ケアレスミス。それは最も悔やまれるミスの一つだ。
今こうして改めて見返してみれば、至極当たり前で単純で、どうして間違えたのかと思えてしまう。実力不足や努力不足のように割り切ることができない分だけ、『あの時こうしていれば』という悔いが溜息として現れてくる。
(この先、どうしたらいい………)
絶望を突きつけられ憔悴する司暮は、身体を少し起こして足元を見下ろす。
結局、どうにもならなかった。
あの日屈辱を味わった時から、何も変われなかった。
どれだけ努力をしても、持たざる者は報われない――そんな事実を再度痛感するためにやってきたはずじゃない。それを覆したかった。
でも………。
諦めるしかない。
そんな文字が脳裏に浮かびかけた、その時だった。
「っ………」
視界の端に映る、揺れる赤い物体――それは、元旦に青羽と出かけた初詣で買った、合格祈願の御守りである。
『この時間が少しでも、彼のためになりますように』
その日、青羽が絵馬に描いた文字が思い出される。
(ここで諦めたら、今度こそあいつを裏切ることになるだろ………。馬鹿か、俺は!)
まだ、全てが終わったわけじゃない。
例え司暮が望んだ得点でなかったとしても、まだ二次試験での挽回の余地は残されている。とりわけ二次は平均得点率が低い分だけ、その可能性が考えられるのだ。
もちろん現状は厳しい。この後の大一番も、酷く不利になった。
ただそれでも、青羽や澪が繋いでくれたバトンを簡単に手放したりなどできない。絶対に無碍にしたくない。
司暮は、マイナスなことを考え、諦めかけた自分を罰するように、机に頭を思いっきり叩きつける。
「おいおい………」
「え、何!?」
そんな奇行に、クラスメイトたちは各々驚くなり呆れるなりしていた。
ただ幸い、司暮には仲のいい人間が一人とていない。本来悲しいことのはずなのに、どこか誇らしい気持ちで席を立つ。
全ては、全力で受験勉強に打ち込んだ証拠なのだから。
* * *
他の生徒たちの考慮し、自分以外の生徒が面談を終えるのを待った司暮。満を持して、進路相談室までやって来ていた。
「まずはお疲れ様」
巻野から上辺だけの労いの言葉がかけられる。
司暮と巻野は、偽の志望校を口にしたあの日と同様に向かい合っていた。
「それじゃあ、共通テストの結果見せてもらおうか」
巻野は司暮の目の前、机上に置かれた一枚の紙を指差してそう言った。
その紙には、司暮が自己採点してつけた各教科の得点が書かれている。司暮は素直に、その紙を巻野の方へとスライドさせた。
「――ふむふむ。なるほどねぇ、うーん……」
目を通して開口一番、巻野の声はどこか軽快で調子が良さそうであった。明らかに、この場では不適切で不謹慎な言動だが、その原因は全て、紙面に書かれた得点が作り出している。
何せ巻野にとっては予定調和の得点であり、『それみたことか』としか思えないのだ。
「志望はこのまま、でいいんだな?」
得点票を置き、訊くまでもないだろうと、決めつけたような問いを投げる。その裏には、『変えるほどの得点じゃないしな』と見え透いた悪意も含まれている。
ただ、今回の司暮の得点は、司暮の中で失敗とはいえども決して低いものではない。司暮が嘘で口にした志望校――小嵐大学の合格ラインには十二分で、安全ラインと言っても差し支えない。
したがって、司暮の元の雄立大学志望であろうとそうでなかろうと、より偏差値や知名度の高い大学を目指してきた司暮は、志望校を変える決断を取っていただろう。
「いえ。変えさせて欲しいです」
司暮ははっきりとそう告げた。
すると、先ほどまでにやつきすら見せていた巻野の表情が一転する。巻野にとってみれば、ここで話が終わるのが最も平和だったのだから当然だろう。
しかし、そんな巻野の表情に、司暮はとある疑問を覚えていた。
『時沢司暮、無事に志望校を受験させる大作戦』
かつて青羽がそう口にした作戦の概要は、巻野と同じく教師である五月女澪を味方にするというものだった。青羽が澪に対して何を期待したのかは分からなかったが、昨年末の澪とのやり取りから、澪は巻野を直接説得しようとしているようだった。その時、澪はあまり上手くいっていないという旨を口にしたが、それ以降も試みると口にしている。
そして、迎えた今日。巻野が司暮の得点を見て恍惚とした表情を浮かべたこと、司暮が言った言葉に対して明らかに表情を歪めたことから、その後も失敗が続いたであろうことは推察できる。要するに、あの青羽が打ち立てた策は完全に失敗したと見るのが普通だろう。
ただ、司暮は腑に落ちなかった。
あれだけ自信満々だった、これまで予想外な形で上手く事を運んできた青羽の策が、これであっさり失敗に終わったと、司暮には思えない。
青羽を最後まで信じ切るなら――。
例え予測できる未来だとしても、何かがあると信じて姿勢を貫くしかない。
「雄立大学。受けさせてください」
改めて、本当の志望校を口にした司暮。
これを聞いた巻野は、怒りを通り越したのか、呆れたように笑う。
「ふっ、この期に及んでまだ諦めていなかったのか……。今回の英語の得点が特別良いわけでもないし、当然二次試験にも英語がある。ここから逆転しようなんて無理な話だろ。俺の言ってること、何か間違ってるか?」
司暮は、心の中では頷くしかなかった。
こうならないために全力を尽くしてきたはずなのに、結局元の木阿弥だ。巻野からすれば、惨めで仕方がないだろう。
でも、諦めたくない。
可能性が完全に潰えていないなら、僅かな希望を掴みに走り切りたい。これまでの努力を、青羽の協力を否定したくないから………。
そんな司暮の切なる思いが、頼みの綱に届いたのだろうか。
「まぁ、間違ってるでしょうね!」
それは、デジャヴを覚える光景だった。
少し幼げな顔つきなのに、今はとても大人なカッコよさすら感じさせる。薄灰色のセーターにチェック柄のスカートの制服姿の少女は、まるで救世主のような凛とした立ち振る舞いで現れた。
勢いよく開かれた扉の向こうに、春木青羽。
「お、お前は確か……」
あからさまに表情に歪め、焦りを滲ませた巻野。
二人が初めて顔を合わせたあの日――前回時は、青羽の立ち回りでいい風にやられているためである。
もしかしたら、青羽の直接的な助力があれば状況を打開できるかもしれない。そんな希望の兆しよりも先に、司暮には言わずにはいられないことがあった。
「ちょ、ちょっ……と待てよ春木」
「何? 司暮君」
大人な表情を収め、いつものキョトンとした表情で司暮を見る青羽。
「今日は春木にとっても大事な日だろ。ここに居てもいいのか?」
共通テストを経て、自己採点をし、その報告をするのは何も茜雲北高校に限ったことではない。どこの進学校でも決まって行われているはずなのだ。
司暮が雄立大学の志望を伝えたように、青羽もイラストレーター志望であることを伝えて志望大学を決定する大切な日。人の心配をしている場合なのかと、司暮は不安げに青羽を見つめる。
しかし、青羽は平然としたまま言い放つ。
「私のことなら安心してよ。一言で黙らせてきたから」
「怖いこと言うなよ……」
少し前までとは違い、期待を裏切ることへの恐怖を恐れなくなった青羽であれば、一切臆することなく堂々と宣言したに違いないと思う司暮。故に、冗談が冗談に聞こえないのである。
「それにね、司暮君。私がこの場に来ることは、初めから決まってたことだから」
初めから、つまり作戦の発案時から決めていたと青羽は言う。
――ここまで全て、青羽の計算内だったのだ。
しかし、混乱に乗じて乗り切るという、前回のような虚を衝く策は簡単に通用しない。巻野が落ち着きを取り戻すまでに時間はあまりかからなかった。
「部外者が立ち入っていいと思ってるのか? 前回は寛大に見逃してやったが、今回はそうもいかない。最後通告だ、今すぐ出ていけ」
他校への勝手な侵入という点は、単純な違反行為に他ならない。巻野からの脅しは、決して詭弁ではなく、確実な一刺しだ。
けれど、それでたじろぐなら、前回にしろ初めっから学校に来なかっただろう。こういうことを物ともしないのが春木青羽という人間なのだ。
「寛大に見逃した、ねぇ……」
進路相談室内で円を描くように歩きながら呟く青羽。まるで探偵が犯人を追い詰める光景を見ているようである。
司暮は信じる青羽に全てを任せ、行く末を黙って見守る。
「……何が言いたい?」
青羽の煽りにまんまと乗じる巻野。
「見逃したのはどっちでしょうね、って話。前回私が深く詰らなかったのは、更生の余地を与えたからだよ。あんまり手荒な真似はしたくなかったしね」
その青羽の言葉で、司暮に疑問の一端は解消される。
直接言及したわけではないが、司暮に偽の志望校を飲ませたのもその一環だったのだろう。やはり青羽の作戦は全て、計算の中にあったのだと司暮は思う。
「更生の余地? まるで俺が犯罪者みたいな物言いは止めてもらいたいね」
「犯罪なんて比にならないでしょ~。犯罪みたいな明確な法律も、罰もない分、先生がやろうとしていたことは余計に質が悪いんじゃないかな?」
「へぇ……。で、俺が何をしようとしたって?」
この期に及んで、自身の大きな罪を自覚しない巻野。
青羽はゆっくりと巻野との距離を詰め、すぐ隣で足を止める。
「いい? よく聞いてね?」
口調は可愛らしくとも、声が酷く冷ややかなのが良く分かる。傍から見守る司暮の背筋に寒気が走るほどだ。
ゆったりとした動きで、さらに巻野との距離を狭めた青羽。ぶつかるくらい肉薄させ、荒々しく言葉をぶちまける。
「自分勝手な教育方針とは名ばかりの身勝手で、一生消えない傷や後悔を刻み付ける。たった一人のエゴで、生徒の先の人生全てを台無しにしていることにいい加減気付け、この馬鹿野郎!」
怒りの感情全て剝き出しにした青羽の声は、進路相談室の外にも漏れ出すほど力強いものだった。
司暮の全身に、今度は電撃が走る。
本来は自分自身で片付けるべき問題だ。自分の進路だからこそ、猶更。
ただ、巻野を黙らせるだけの成績を勝ち取れなかった情けなさを感じるよりも先に、自分のために全力になってくれる彼女の姿勢に対し、大きな嬉しさが込み上げた。
頼ってよかったと心から思えるだけの、心強い味方だ。
「な、何をいってるんだ、君は……。俺はただ、彼の進路を案じて……」
完全に弱みを突かれたのだろう。ついさっきまでの威勢のよさは消え、みっともなく狼狽する巻野はとても滑稽だった。
「彼の熱意をこれだけ近くで見て来てまだ分からないの? 彼は絶対後悔しないよう、高校に入る前から常に全力だった。全ては目指す大学に合格するため。その可能性を潰すことは、これまで全ての努力を否定する。生徒の努力を称え、伸ばしてあげる。少なくとも私が知る本物の教師像は、そうやって生徒の可能性を信じてたよ!」
青羽にとっての恩師が聞けば、きっと何よりも嬉しい言葉だろう。
一方、その対極にある巻野は、俯いてしまって言葉すら出なくなった。
「まぁでも、言って『はい、そうですか』ってならないことも想定済みだから」
青羽はそう言って踵を返すと、進路相談室の扉の前まで戻る。
「春木……?」
司暮の疑問の声に答えるように、青羽は扉を軽くノックする。そして、囁くように声をかけた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
ほんの少しだけ時間を置き、進路相談室の扉がガラリと開く。
そこに現れたのは、司暮も巻野も予想外の人物だった。
* * *
司暮が巻野との最後の面談に入る少し前のことだ。
春木青羽は、約二か月ぶりに司暮の通う茜雲北高校を訪れていた。
目的は、司暮を希望通りの進路に向かわせるため。しかし、その前に一つやるべきことがあった。
校舎三階にある、多目的教室という名の教室。そこは普段の授業ではあまり用いられず、健康診断を始めとした特別なイベントの際に使われる場所となっている。そのため、今日も例外なく、授業で使用していそうな様子はない。
そんな教室ドアを、青羽は三度ノックする。
「はい、どうぞ」
すぐに中から返事が聞こえ、青羽は迷わず扉を開けた。
教室に入ってすぐ、青羽は目的の人物と相対し、両者の視線が交錯する。
「――青羽………」
気まずげに視線を泳がせる女性。青羽が目的としていた人物とは、かつての恩師である五月女澪であった。
二人が最後に顔を合わせたのは、離任式後の美術室。その日以来一年弱ぶりで、感動的な再会――といきたい所だが、両者にとってそんな感情は二の次だった。
「どうしてここに、とは聞かないんですね」
澪がここにいることは、職員玄関口近くの事務所で訊ねたことで知った青羽だが、澪にとっては予想外の訪問だったはず。だが、当の澪に驚く様子はほとんどなかった。
ふふっと、小さく微笑む澪。
「何となく察してたのよ。青羽なら今日、ここに来るだろうって」
「そうですか……。すいません、色々と無理なお願いをしてしまって」
青羽が澪と再度接点を持ったきっかけは、青羽が澪に司暮のサポートをして欲しいという婉曲なメッセージからだ。澪もその意図をかつてのことと重ねて察し、以降は出来る限りのことをやってきた。
しかし――。
「ううん、謝るのはこちらの方。私は今回も、そして青羽の件も結局は力になれていない。だからこそ青羽は私を見限り、自身で彼の助けにやってきた。そう、なんでしょう?」
悔しそうに、拳を握る澪。
結果としては、何も残せていなかった。この日を迎えるまで、巻野を説得するには至らなかったのである。
期待を裏切ってしまったことに対する罪悪感、そして二度と繰り返さないと自身に誓ったことを守れなかったことから、青羽の謝罪が素直に受け止められない。
けれど、青羽の反応は澪の予想に反していた。
「考察として筋は通ってますが、全然違いますよ。私にとって先生は、永遠の恩師です。見限るなんて、何様だって話です」
「青羽……」
青羽はスカッとした笑みを浮かべると、タタタッと澪の元に駆け寄る。
「力になれていないなんてとんでもない! おかげで上手く事が運んでいるんですから」
まるで空気を読めていないかのような青羽の溌溂な笑みと言動に、澪は目を丸めて動揺する。
「上手く事が運んでるって、時沢君の点数――」
「あぁ、いえ。まだ得点は聞いてませんよ。それに結果が良かったとしても、あの先生は認めてくれないと思います」
「どういうこと?」
澪は小首を捻る。
青羽の口ぶりから、てっきり司暮から点数を聞き、それが良かったのだと早とちりした澪。だが、そんな考え方を根本から否定する青羽の言葉の意味が分からない。
「共通テストはマーク式ですからね。極端な話、勝率がまばらなじゃんけんを連続でやっているとも言えるわけです。だから仮に得点がずば抜けて高くても、まぐれだの何だのって、適当な御託を並べて押しくるめようとするに違いないんです。それくらい、あの先生は失敗というものを極度に恐れてる」
「つまり青羽が私に望んだのは、その御託が出て来ないように巻野先生を説得すること、だったと……」
「そうなりますね」
青羽から依頼の本当の意図を聞いた澪は、なおさら自分の不甲斐なさを責めた。
しかし、まだ疑問の全てが解消されたわけではない。
「……ちょっと待って。私から巻野先生への説得が実を結んでいないこの状況でも、青羽は順調だって言うの?」
自身が説得に失敗したにも拘わらず、『上手く事が運んでいる』とは、どういうことなのか。澪の疑問は増すばかりだ。
一方、当の作戦立案者は、平常を保ったままコクリと頷いた。
「いくら完璧と思う作戦を立てても、全ての歯車が合うとは限らないですからね~。今回の件、確かに先生の説得で丸く収まるのがプラン上では最も望ましい結果です。ですが、正直難しいかなとは思っていました――決して先生には何も期待していないとか、そう意味合いではありませんよ?」
青羽は一呼吸置くと、澪から視線を外して窓の外を眺めた。
外に映るのは、寒々しい曇り空。
「先生、怒れないんですよね?」
その言葉に、澪からの回答はなかった。
澪は驚きと同時に、自身の致命的な欠点を改めて自覚させられる。
「決めつけたように言いましたけど、半分ブラフと言いますか。先生のことを四六時中観察していたわけでも、内心を見透かせるわけでもないので、推理的に導いたに過ぎないですが……」
青羽はそう言ってゆっくりと歩きながら教室の教壇前に立ち、振り向いて再び澪の方を向く。
「私が入学して初めての授業は、先生の現代文でした。その時先生は、私たちに熱いメッセージを送ってくれて、それが私にとっての救いになったんです。一人一人に寄り添う教育方針。生徒のことを良く知ることが教育に繋がるという理論は、まさに教師の模範的姿勢だと思います」
最大限の賞賛。教え子から直接聞いたこれ以上ない誉め言葉だと言うのに、澪は喜びも照れもしない。ただ黙って、青羽の言葉の続きを待つ。
「私情が絡んだこともあって、先生と過ごす時間は本当に長かったです。ですがふと過去に思いを馳せると、その時間のどこを切り取っても、先生の怒った姿、呆れた姿が全くが一つとしてありませんでした。悪ふざけをしたり、不真面目な生徒に対しても、優しく注意する程度で、悪さの度が多少過ぎていても一線だけは越えなかった」
俗にいう問題児を教師が叱ったりする光景は、学校ではよく見られるものだ。
時代が流れ、体罰を代表としてそれらは否定される風潮にある。とはいえ、完全に抑制されたわけではなく、少し強めの口調で注意する姿は依然見られるだろう。事実、巻野はそれに該当する。
それでも、生徒に対して憤りの感情を口や表情に出すことがない――青羽が見てきた限り、澪はそういう先生だった。
「人は怒られることで委縮してしまうものです。そこを配慮しているとも思えますが、必ずしも全ての生徒には当てはまらない。怒られて成長する人間、甘やかされるとむしろ悪化する人間もいます。ただそれでも、先生は怒らなかった。そこから私は、生徒一人一人に合わせるという教育方針に、矛盾があると気付いたわけです」
その矛盾の正体こそ、澪は人を怒れないのではないかという仮説。そしてそれは真実であったと先ほど立証された。
「見事な推察、御見それしたわ。イラストレーターじゃなくて、探偵を目指した方がいいんじゃないかしら……?」
苦笑いを浮かべて諧謔を交える澪だが、「けど」と逆接の言葉を付け加える。
「正確には、怒ることができないというよりも、人のやり方を否定できない。否定するのが怖いの」
「っ………」
そんな本人の訂正は、青羽にとあることを気付かせた。
「じゃあ、あの日のあれは……」
『ごめんね……』
それは二人が分かたれたあの日、青羽が聞いた澪の最後の言葉。
「本当は背中を押してあげたかった。イラストの才能を抜きにしても、青羽の本懐をずっと抑えつけておくべきだとは思わなったから。でも、青羽の過ごしてきたやり方を否定した先で、後悔することになるんじゃないかって……」
人は変化を恐れる生き物だ。とりわけそれが、現時点で大きな問題になっていないなら、変化によって大きな問題になるリスクから現状維持を選ぶことが多い。リスクを忌避する人間の性によるものだ。
当時の青羽は、周りから完璧を求められる状況であったとはいえ、本人はそれに順応しながらやり過ごせていた。そんな中、周りに合わせることを止め、自分の意思をはっきり告げるようになった時に、周囲に受け入れられるかどうかは分からない。場合によっては、周囲から孤立し、その決断を悔いてしまうことになるかもしれないのである。
だからこそ、澪はこれまでの青羽のやり方を否定し、本心をさらけ出す生き方を勧められなかった。生徒という自分以外の人間であるからこそ、無責任に口にできなかったのだ。
「先生はやはり、生徒のことを一番に思ってくれたんですね。私はそれが聞けただけで、嬉しかったです」
青羽はそんな澪の考え方を否定しなかった。
「それに私は、少なくとも先生に助けられました。あんな風に寄り添って傍にいてくれて、気遣ってくれただけでも、どれだけ心強かったことか」
放課後、二人きりの時間。一日あたり、たった一時間くらい。
たったそれだけなのに、その時間を求めて学校に向かった日々は、全て澪がいたからこそ生まれた。
「だから私は、先生に司暮君のことを頼んだんです。同じ学校に心強くて優しくて頼れる味方がいるだけでも、全然心持ちは変わってくるんですよ」
それこそが、青羽の本当の狙いだった。
学校が違って常に司暮の傍にいられるわけではない青羽。茜雲北高校に始めて来た日に、彼女がこの学校にいることを偶然知っていた青羽は、すぐさま彼女を頼ろうと決めたのである。
「ですから、本当にありがとうございました。先生」
青羽は深々と頭を下げた。
礼を言うのは、頭を下げなければいけないのは、果たしてどちらなのだろう。
けれど今は、それ以上にすべきことがあるのだと澪は思った。
「聞かせて貰ってもいいかしら? その代案たるプランってのを」
青羽は顔を上げた。
そして、幾度も見てきた、楽し気に生徒と接する際の朗らかな澪の笑顔が瞳に映る。
「青羽がここに来たのは、私にもう一つ依頼があってのことなんでしょう?」
彼女ほど頼もしい人間は他にいないだろう。
そう再認識させられるほどの包容力に、青羽は魅了されていた。
「さ、五月女先生、どうしてここに! 今は進路面談中なのではないですか!?」
進路相談室内に、巻野の慌てた声が響く。
巻野からすれば必然的な疑問だった。進路面談を行っているのは、何も巻野のクラスに限ったことではないのだから。
しかし、同じく三学年の担任を受け持つ澪は、確かにこの場所にいる。
「私のクラスは既に終わっています。そして今は、大切な教え子のサポートをしに来ました」
五月女澪の生徒に寄り添う教育方針により、澪のクラスは今日を迎えるまでに度重なる面談を行ってきていた。その甲斐あってほぼ確認作業となった今日の面談は、三学年のクラスでは最速で全生徒が終えている。
そんな澪の堂々とした物言いは、巻野の癇に障る。
「彼は私のクラスの生徒です、と前にもお伝えしましたよ? 何より、そのようなサポートは私だけでも十分ですから」
「十分であれば、私もここに来るつもりはありませんでしたが」
普段寛容な澪だが、ここでは一切引き下がらない。
他人のやり方を否定することに恐れるこれまでの澪であれば、ここまではっきりと対立の姿勢を見せなかっただろう。
そうさせたのは、裏で糸を引いている青羽。
『否定しなくてもいいんです。先生が正しいと思うことをただ羅列するだけでいいんです』
否定ができないなら否定しなくてもいい。
ただ真っ直ぐな自分の意見を堂々と口にするだけでも、巻野は揺れる。
かつて、青羽の強い言葉に巻野がたじろいだことがあった。今回の青羽の策は、その経験から得た隙を狙い撃つというものである。
「仮に合格しても、それが望んだ進路でなければ意味がないんです。時沢君の後悔は絶対に消えません」
「どうでしょうか。何もかも背中を押すのではなく、こちら側がリードを持つことも時には重要ですよ。過去の成績を見る限り、二次試験で逆転できる可能性は決して高くはない。データに従ってランクを下げるのは教師として正しい道筋の立て方ではないですか?」
淡々と自分の意見を述べる澪に対し、負けじと反論に出る巻野。今回ばかりは引き下がれないという強い意志からか、簡単には折れそうに見えない。少なくとも、傍から見ることしかできない司暮には、長期戦になりそうな平行線に見えた。
だが、それを挫きにかかる。緊迫した空気をぶち壊すように、冷笑が二人の会話を遮った。
――春木青羽は嗤っていた。
「な、何がおかしい!」
この瞬間、巻野は嫌な予感を感じてか焦りを滲ませる。
既に青羽がこの場のペースを完全に掌握していた。
「先生の言い方だと、決して受かる可能性が低いとも言えないってことですよね。そりゃそうだ。元の想像より遥かに成長していて? 英語の得点も、目標には届かずもきちんと上昇している。合格の兆しがないとは断言できない、先生にとっての想定外が起きたわけですから」
言葉の揚げ足を取り、煽るような立ち回りは、更なるボロを誘うしたたかな一手。
ただ、今回の巻野は冷静さを欠かない。ここでのそれが悪手だと、本能的に察しているようだった。
「確かに成績は上がっている。それでも、判定がドベから一つ上がったくらい、確率が十パーセント程度上がったに過ぎないだろうが」
「まぁそうかもしれませんね」
「ほら見たことか。所詮十パーセントぐらいじゃ何も――」
「それが彼の実力百パーセントだったら、の話ですが」
「…………っ!?」
青羽はそう言うと、目線で澪に合図を送った。すると澪は一度進路相談室を出て、とある紙束を手にして教室に戻って来る。
青羽は会釈しながらそれを受け取り、司暮の席の前に叩きつけるように置く。
「先生がずっと懸念材料としていたのは、とにかく英語の得点の低さですよね。特に、司暮君の志望する雄立大学は二次科目で英語が指定。過去の模試結果を聞いた限り、先生が難しいと言うのにも正直頷くしかありません――でした。要は、今の成績さえ良ければ良いはずです」
青羽が突きつけたのは、テスト形式で記された英語の問題用紙。
「これを今から司暮君に解いてもらいます。用意した問題は、雄立大学よりも偏差値の高い大学で実施された過去問です。念のため、司暮君がやっていないであろう別学部のものを用意しました。これを制限時間内に問いて、そうですね…………。六割、丁度百点満点なので六十点以上の得点を出せたなら、実力の証明ということで受験を認めてもらえないでしょうか?」
巻野が司暮の合格の可能性を見ている要素は、共通テストの得点と、過去の模試の得点だ。
だが結局のところ、この先合格の鍵となるのは今現時点の実力。まぐれの起き得ない仮想二次試験の記述問題で合格の可能性を満たす成績を証明できたなら、さすがの巻野も認めざるを得ないはずである。
青羽の策の正体は、この賭けをいかにして持ち出すか。澪にさせたのはそのためのレール引きだった。
「ちょちょっと待った待った! 聞いてないぞ……」
この話を事前に聞かされていない当の司暮が、驚いた表情で青羽を見やる。けれど、青羽はニコッとした笑顔を返すだけで、何も言ってはくれなかった。
六十点。
一見あまり高くないハードルに見えるが、筆記である二次試験においてはかなりの高得点だ。これまで英語を苦手としてきた司暮にとってはかなりの難易度で、当然司暮の不安は膨らむばかりだ。
一方の巻野。
「確かに、難易度は高そうだ。まぁ、ここではっきりさせておくのがいいだろうな」
司暮の英語の成績をよく知っていることもあり、ここではっきりさせて諦めさせるには都合がいいと思っていた。何より、青羽が持ち出したのは完全に巻野側が有利になるような賭け。乗らない理由もない。
巻野は問題用紙をペラペラ捲って内容を確認し、改めて自分に有利そうであることを確かめた上で、青羽が持ちかけた勝負を承諾した。
巻野から問題用紙、そして近くにあった鉛筆と消しゴムを受け取った司暮。
青羽が出したのは、これ以上ないであろう助け舟だった。
付きっきりで勉強を見て貰ったり、色々と献身的に協力してもらいながら、結局共通テストでは思うような結果を残せなかった。本当であればあの時点で、自分の目標への道のりは潰えたはずだったのだ。そんな一旦ゼロになった可能性を、例え僅かでも捻り出す青羽には感謝という言葉では足りないほどだ。
あとはここで、自分の結果を出すだけ。正真正銘、ラストチャンス。
そんな事実を認識すればするほど、司暮の心臓の脈拍は高鳴っていく。
「一応確認しておきます。さっきの司暮君の反応見たら分かると思いますが、彼にはこのことを伝えていなかったので、このための傾向対策をしていない、素の状態です。試験問題も過去問集からのコピーなので、細工、工作等もありません。そしてここからは、伝言等の不正を防止するため、私と澪先生は共に退出して、試験監督を先生にお願いします」
「いいだろう」
「それでは一旦失礼します」
不正と思われるわけにはいかない、ということもあるのだろう。司暮に対して最後に一言かけることすらなく、青羽と澪は進路相談室を後にした。
再び、司暮と巻野が向き合うだけの空間に戻る。
進路指導室内には、張り詰めた空気が漂い、試験会場さながらの臨場感に包まれている。まさに腕を試すにはうってつけである。
「さて、準備はいいか?」
「…………はい」
司暮は、巻野の合図で鉛筆を手に取った。
余計な力が入っているせいで、六角形の角に指が食い込んで痛む。それほどまでに、司暮は極度の緊張に襲われていた。
司暮にとっては余りにも突拍子のない展開だ。
事前に作戦は伝えられていないのが、公正な試験の場とするためだったと理解はできても、すぐに心の準備が整うわけではない。何より、今から解こうとしている問題が難しいと先に言われているようなものなのだから、余計に緊張してしまうのだ。
それでも、最後の最後くらい、自分の実力で成し遂げて見せたい。
話は至って単純明快。ここで六割の得点を出せれば志望校受験の切符を掴める。ずっと目指してきた中で長く不透明だった受験校合格への道のりの入り口が、ここに来て初めてすぐ手の届く場所までやってきたのだ。
全ての命運は、試験時間九十分に懸かっている。
* * *
「お待たせしました」
試験を終え、澪が試験の解答を手にして進路指導室に入室する。その隣には青羽の姿もあった。
全ての点で公平を期すため、今回の採点は三学年の英語教師に委任。事情を包み隠しても受け入れてもらえたのは、澪の信頼感あってのことだ。
澪は解答用紙を司暮の前に裏返しで置き、少し遠巻きから運命の結果発表を見守る。
「念のため確認です。この試験で六割に満たなければ巻野先生の方針を受け入れ、六割越えを果たせば司暮君の進路希望で確定とする。異論はありませんね?」
逃げ場を塞ぐように、青羽が再度条件を明瞭とし、巻野はそれを頷いて受け入れた。
「じゃあ司暮君。裏返して確認してみて」
司暮の緊張は最高潮。まさに手に汗握る展開だ。
これまでの努力が報われるか、水の泡に終わるか。二極化される結末に、気が動転しそうである。
「……っ!」
どれだけ考えても、結果は既に確定している。
司暮はどうにでもなれと言わんばかりに、勢いよく紙を捲った。
「――っ!」
それは、対立していた両者共に言葉を失うような結果であった。
「な、な…………」
巻野は唖然とし、
「…………う、うそだっ」
司暮は驚愕のあまり、自分の目を思わず疑った。
〈六十二点〉
名前欄の隣には赤文字で、しかとその数字が刻み込まれていた。定期テストですら簡単に出せなかったはずのその数字に、司暮が何かの間違いだと疑うのは至極当然のことだ。
ただ、この結果を既に知っていたかのように、極めて平然としている人間が一人――春木青羽は、間を置かずに淡々と再度進行役を担う。
「さてと、勝負は勝負です。受験さながらの臨場感どころか、先生自身の眼前という更なるプレッシャーがかかった大一番。そこでこの結果を出せば、さすがの先生でも文句はないでしょう」
今回のテストは二次試験の過去問――共通テストなどと違って、選択問題はごく少数だ。
偶然やまぐれだと、負け犬の遠吠えをすることすらも叶わず、巻野はただ黙って事実を飲み込むしかなかった。
「では、私たちの出番はここまでです。進路面談の方、続けてください」
青羽はそう言うと、澪とともに進路指導室から退出した。
色々なことがあって錯綜したが、青羽の言うようにこれはあくまで進路面談。もう一度訊くまでもないが、巻野は最後に確認を入れる。
「……志望校は雄立大学。本当にそれでいいんだな?」
司暮にとってこれはもう迷う必要のない問いだ。即答しても構わなかった。
けれど司暮の中に、これまでの様々なことが過ってくる。
努力が実らず、上手くいかない日々。投げ出してしまおうと思うほどに追い込まれた。
そんな中、春木青羽と出会って流れが変わっていく。突破口が見えたと思えば、すれ違いもあったが、結局彼女は有言実行でここまで連れて来たのだ。
紆余曲折はあった。決して順風満帆な日々ではなかった。苦しみを生んだ巻野に、思うところは依然として沢山ある。
それでも、巻野に尻を叩かれていなければ、青羽にも出会わず、ここまで頑張れなかったかもしれない。
司暮は恨みや怒りだけでなく、大きな感謝も込めた笑みを浮かべ、答えを口にした。
「はい。ありがとうございました!」
* * *
進路面談を終え、進路指導室を出ると、窓の外はすっかり闇色に染まっていた。
そんな司暮の帰還を、先に出ていた青羽と澪は出迎える。
「お疲れ様~! やったね!」
ニカッと笑顔を浮かべ、ピースサインを突きつける青羽。その隣の澪も、優し気に微笑んでいて、ほっとした様子である。
「本当にありがとうございました」
司暮は床に打ち付けそうな勢いで、深々と頭を下げる。
だが、話が長くなると思ったのか、或いは職員室近くという場所を考慮してか、澪は一つ提言する。
「話は一旦後よ。二人とも、家まで送るわ」
「いや、自分は――」
「やった~!」
遠慮を覚えている司暮とは対極に、そういうことはお構いなしな青羽が手放しで喜んでいた。
「いや春木、こういうのは普通――」
青羽のあまりの遠慮なさに司暮は一般論を口にしようとするが、澪はそれを一切咎めなかった。
「いいのよ、時沢君。私も今日は仕事終わりだし、二人とはもう少し、話がしたかったから」
「なるほど……。まぁそういうことでしたら」
司暮にとって、障害となっていた問題は全て解決した。
けれど、一件落着とするには納得がいかない。如何せん、今回の青羽の策には不明瞭な点が多すぎるのだ。
全てが終わった今、きちんと二人から事情を聴きたかった司暮は、澪の車に乗せられて学校を後にした。
そうして三人は、夜の茜雲北高校を離れていく。
学校の先生に送ってもらうと言うのはどうもむず痒く、罪悪感の湧くものだ。後部座席に座る司暮は先程のまでの出来事のこともあって、地に足がついていなかった。
「さすが司暮君だったね~」
少し煽り口調でありながら、なぜか自分のことのように誇らし気に口にする青羽。それを聞いて司暮もいつも通りの会話スイッチが入る。
「随分危ない橋を渡らせたもんだな……。初めて作戦の名前を聞いた時に連想したような機転の利いた策とはまるで真逆だぞ。第一――」
「危ない橋ってほどじゃないよ? ちゃんとこれも計算内だったんだから。ね? 澪先生」
青羽が澪に話を振ると、澪は小さく微笑む。
「狡猾とか姑息って言われても文句言えないわよ?」
「ちょっと先生? そこは機転の利いた名策と言ってくださいよ!」
「……あの、全く要領を得ないんだけど、結局春木は何を画策したわけ?」
不満げな面を浮かべて青羽に問うと、青羽はいささか悪戯気な笑顔を見せた。
「巻野先生ってさ、詭弁を捏ね繰り回してる部分が質悪いけど、所詮詭弁でしかないんだよ。ちょっと詰めて、どこかしらにボロを出させるのが最初の段階だった。だから澪先生には、自分が正しいと思うことをとにかく主張して、絶対に食い下がらないようにしてもらったの。結果、巻野先生は焦って『二次試験で逆転できる可能性は決して高くはない』と揚げ足が取れるようなボロを出した、というわけ。まぁ、その後の勝負に上手く運べたなら、どんなボロでも良かったんだけどね」
その話を聞いて、司暮は澪が言っていたことの意味がようやく分かった。
さながら罠のような策、言うなれば誘導尋問。やり方としてはあまり褒められたものではないのかもしれない。とはいえ、青羽の計算高さがあってこそ成り立つ策でもある。実に青羽らしいと、司暮は思う。
「つまりは、あの一戦を飲ませるために立ち回っていたってことか。………で、その肝心の一戦の中身だけど」
「ごめんごめん。それだけはちょっとだけ無理難題を突き付けたかも。でもね、司暮君にとって有利になる配慮はしてあったんだよ?」
「…………は?」
司暮は思わず目を点にして首を傾げる。
一旦頭の中を整理すると、やはり彼女の発言の問題性が浮かび上がってくる。
「いやいやちょっと待て。細工なしの正々堂々じゃなかったのか?」
司暮が指摘したのは、巻野に勝負を持ちかける際に予め表明していた『細工はしていない』という前提が綺麗に破られているではないか、というもの。これでは狡い、ずる賢いを通り越して、潔いくらいの反則である。
だが、さすがの青羽もそれくらいの分別はつく。
「もちろん、問題自体には細工してないよ? ちゃんと過去問集、原文ママだもん。けど、その問題が出題された大学の選び方にはちょーっとした細工があってね。簡潔に言うと、司暮君が高得点を取れる可能性が出来る限り高いものを選んだの」
「いやいや……、まさにそれがダメなんだろうが」
「ううん。司暮君にとってあの問題はおそらく初見、そして受験大学より難しいのは確かなんだよ。ただ、配点傾向と難易度が長文以外に傾いてる特徴があるの。実際、私が過去解いたことがあるから間違いないよ」
「俺が言いたいのはそういうことじゃない。有利な問題選択そのものが、公正な勝負において間違ってるって言ってるんだよ。第一、そんなので勝ったって嬉しくない……」
あの勝負は、正々堂々と結果を残し、その結果で巻野を黙らせたからこそ価値がある。
不正な問題で高得点を取ったところで、それは巻野をただ騙しただけ。例え目的を完遂できても、罪悪感が絶対に拭えないのである。
モヤモヤとした気持ちで表情を曇らせる司暮をよそに、青羽は飄々と話を続ける。
「のんのんのん。司暮君、私があの試験問題を机の上に出した後を思い出してみてよ」
「出した後?」
「巻野先生、あのテスト問題を事前に確認してたでしょ?」
青羽が司暮の前に問題を置いた後、巻野は確かに問題用紙を捲って目を通していた。
巻野はそこで不正や細工がないかを確認しつつ、全体的に難易度が緩くないかもしっかり確かめていたのである。
「先生はそこで、問題の有利になるような傾向に気付かなかった。――違うね。過去の模試傾向から進路を提示してたっていうなら、その時点で探りを入れてもおかしくないんじゃないか、って話だよ」
「…………」
この瞬間、司暮は青羽の仕掛けた策の意味を理解した。
青羽が仕掛けたのは、彼の口にした教育方針が本当に生徒のことを思ったものなのかを確かめるというもの。仮に、巻野が口にしていた『過去の成績』から志望大学を奨めているというのなら、司暮の長文が極端に苦手であるというあからさまな弱点にも気づけているはずなのだ。しかし、表面上の英語の総合点までしか目が行き届いていない巻野にはそれが分からなかった。
知っていれば、そういった不正な選び方の可能性を指摘できたはず。すなわち、巻野が本気で生徒のことを考えていないという一端を垣間見る結果になるのだ。
「司暮君はこれまで、意見は食い違えど強く反撃に出て来なかった。それはあくまで自分に問題があって、巻野先生の言い分も正しいと思えたから、だよね? でも、あの先生が見てたのは、結局表面上の得点だけに過ぎない。生徒が合格するかどうかの可能性をきちんと見極めようと本気で思ってたなら、長文問題の弱点がどれくらい改善しているか把握しておくべきで、それを訊こうともしなかった。司暮君はそんな先生の言うことを、それでも間違っていないと切り捨てられない?」
青羽の問いに、司暮ははっきりと首を横に振る。
「……いや、間違ってると思う」
「そうでしょそうでしょ!?」
誇らしげな青羽は続けて、決して不正だけで成り立たせた勝負ではないと弁明する。
「でも今回は、司暮君の勉強の成果で勝ち得たものだよ。あの大一番で六割を越えられるかどうかだけは、司暮君の実力を信じるしかなかった。長文の苦手が解決してないなら、きっと六割には届いてなかったよ」
「そうね。青羽は時沢君が頑張って来た努力を認めて、尊重して、信じた。時沢君はその期待に見事応えたのよ。胸を張っていいと思うわ」
澪も同調し、これはあくまで司暮の頑張った結果だと言った。
司暮はようやく、今立っている場所を実感していた。
これまでの努力、苦しみ、それらがようやく実を結んだのだと、遅れて喜びがじんわりと滲み出してくる。
「し、司暮君!?」
司暮は顔を俯かせていたが、それは傍から見てすぐに泣いているものだと分かる。青羽もすぐさまその異変に気付いていた。
「悪い。まだ、始まったばかりだってのに……」
「いいのいいの。ここに来て初めて、司暮君はスタートラインに立った。あとはゴールに向けて、また頑張っていこう!」
今日はまだ共通テストが終わった翌日。司暮の受験する雄立大学の試験日まで、残り一か月ほどの期間がある。
今回の試練で伺えた確実な成長の跡は、今後に向けての嬉しい材料だ。司暮にとって、次のステップへの大きなモチベーションになっていた。
雪が降り出しそうなほど寒く、息が白い一月の後半。
司暮は青羽と共に、二次試験へと新たな一歩を踏み出したのであった。
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