第8話 ラストスパート

 虚ろに、澪は職員室の天井に取り付けられた白い蛍光灯を見つめていた。

 冷え込んだ朝の職員室。つい先ほど、司暮から青羽のことについての報告を受け、その司暮は教室へと戻っていった。

 青羽の件が大きく前進したことは素直に嬉しい。けれど結局、司暮に頼るしかなかったことには少し悔しさが残る。

 ただ今はそれ以上に、教師としての実力不足を感じていた――司暮の件である。

 かつての教え子に対することでの後悔から学んでおきながら、また一人の生徒を救い出せないのではないか。失われた自信に漬け込むように、不安が募っていく。

『いいですか、五月女先生。私は長年、生徒たちのことをよく見てきました。その中で、多くの生徒を合格へと導いてきました。私は自分のその教育方針に自信を持っているのです』

 巻野への説得を試みる中で、巻野から言われた言葉に対して、澪は何も反駁できなかった。

 例えどれだけ実績があろうと、それでもやらなくてはならない。そのことが分かっていても、自分の教育方針こそ正しいと断言できる自信がなかった。相手を否定することが怖かった。



 教師とは生徒を導く仕事だ。

 教えを請われれば指導し、救いを求められれば助けてあげる。


『先に約束をさせてください――』


 脳裏に浮かんだ、かつての自分の言葉。


「大噓つきだ、私は」



* * *



「……おい、そのビニル袋はなんだ」


 司暮はジト目で青羽を見やる。


「へ?」

「腑抜けた顔して『へ?』、じゃねーよ。そのビニル袋の中身は何ですか、と訊いたんだ」


 その日放課後、司暮は市立図書館を訪れていた。目的はもちろん、青羽と勉強会をするためである。

 昨日の出来事で司暮がようやく認識したことだが、青羽の学校からここまでは随分な距離がある。当然、距離の近い司暮が先に着き、入り口付近で青羽の到着を待っていた。

 そして、制服姿の青羽が少し遅れて顔を出したのだが、待たせていることは何のその。上機嫌にコンビニのビニル袋を揺らしながら、司暮の元へと歩いてきたのだった。


「あっこれね~。もちろん、甘いものだよ!」


 言って繰り出したのは、甘いものの代表格であるシュークリームだ。

 コンビニでは定番とされるコスパの高い商品で、パティシエの作るような超本格生地とまでは流石にいかないが、手軽に質の高いスイーツを味わえるということで近年は人気が高い。中でも、青羽が買ったのは、『生クリームとカスタードクリーム織りなすリッチなツインクリームシュー』と、見るからにカロリー高くて重そうな一品であった。

 しかしながら、カロリーの高さは美味しさの裏返しとも言える。パッケージデザインの断面図にこれでもかと溢れんばかりのクリームが描かれており、小腹の空く時間帯相まって司暮の食欲を刺激する。


「心配しなくても大丈夫。ちゃんと司暮君の分まで買ってきたからさ~」

「心配してる点はどう考えてもそこじゃないんだけど……。今から勉強するってこと分かってる?」

「もちろん承知してますとも。でもほら、糖分補給は大事でしょ? 今日は雨降ってないからベンチで食べよ!」

「全く……」


 文句たらたらの司暮だが、この懐かしい会話がどこか心地よく、これ以上強く言い返すことは出来なかった。青羽がステップしてベンチに向かう背中を追い、二人並んでベンチに座る。

 随分と日が暮れるのが早くなってきた。冬至に向かっている、つまり受験本番により近づいているという証拠である。

 ほんのり薄暗い周囲を照らす街灯の元、青羽はウキウキでシュークリームを頬張る。


「残り一か月を切った、か……」


 年末、年始、そうしてすぐに第一関門がやってくる。受験勉強の開始が人より数段早かった司暮からすれば、一か月などあっという間に過ぎてしまうだろう。


「不安?」


 司暮の漏らした声から、青羽が司暮の顔を覗き込む。


「じゃない、と言えば嘘になる。試験そのものも、志望校が受けられるかどうかも」

「大丈夫だよ。私のビジョンに曇りはないんだから」


 青羽はいつの間にか最後の一口になっていたシュークリームをパクっと頬張ると、スタッと地面に降り立つ。


「それにね、大切なのは気の持ちようだよ。自己暗示じゃないんだけど、受かる受かるって思っていた方が受かりそうな気がしない?」


 言って、清々しい微笑みを浮かべる青羽。


「何とも曖昧な励ましだなぁ……。まぁでも、不安でガチガチになってたら実力は出し切れないだろうな」

「そうそう。むしろ楽しむくらいの気概じゃないくちゃ!」


 司暮は青羽に倣ってシュークリームを喰らうと、すぐさま図書館の方へと歩き出す。


「行くか」

「うん!」


 誰だって受験に恐怖は付き物だろう。

 落ちた後、計り知れない劣等感と絶望感が押し押せて来る。この先どうしたらいいのかと、路頭に迷う。その経験が一度ある分だけ、司暮の中には不安が大きくのしかかっていた。

 けれど今回は前回とは違う。

 笑い者にされたあの頃とは違って、背中を押してくれる人がいる。そのことが何よりも心強かった。

 その恩を仇で返すわけにいかない。

 そういう思いが、司暮を勉強へ駆り立てていた。



* * *



 元旦。

 司暮は今年もまた、勉強で年を越していた。

 青羽との勉強会を度々行いつつ、家では自室に籠って机に向かい続ける日々。特に年末を迎えて以降、司暮は一歩たりとも家を出ていない。


「っ~」


 大きく伸びをしながら、無機質な天井を見上げる司暮。連日の猛勉強で肩首の凝りは凄まじく、身体は酷く鈍っていた。

 毎年、司暮にとって年末年始は嫌な時期だ。両親が常に家にいるという事実があるだけで、どうにも憂鬱な気分になることが多かった。

 それでも今年は例外。トラウマが薄まりつつあることもそうだが、それ以上に勉強に対する熱意がそう言った煩悩を払い除けている。


「にしても、正月か………」


 今の時沢家に、家族一行で初詣という習慣はない。

 ここ数年、勉強ばかりの年末年始を過ごす司暮が最後に初詣に行ってからは随分と久しくなった。正月らしさを感じたのですらかなり前になる。


『運をつけることも大切だよ? 選択問題で分からない問題に出くわすこともあるだろうし』


 ふと、青羽が言っていたことが過った。

 その話が出た当時の司暮は、『実力をつけ、神頼みをしなくてもいい状況にする――だから運要素は必要ない』としていたのだが、それはあくまでテストの点数の話。例え神頼みでもいいから、どうにか上手くいって欲しいと願う事案が司暮にはもう一つある。


「気分転換がてら、一人で初詣に行くのも悪くない――いや」


 突如、青羽から突然の誘いが来そうな予感も過って来る。ここ数日会っていない上、そういった話は一度も出ていないが、彼女なら突然言いかねない。


『今日、少し時間あるか?』


 いつも突拍子のない誘いを持ちかけて来た青羽に、仕返しと言わんばかりの先制攻撃。コネクトで青羽にメッセージを送信した。

 とは言え、彼女には彼女の都合もあるだろう。もし断られれば、それを尊重するつもりの司暮である。


『ピコーン』


 送って数分も経たずして、司暮の携帯に通知が入る。

 時刻は現在深夜だ。大晦日から元旦にかけて、年越しは起きている人も多いのだが、どうやら青羽も起きていたらしかった。

 ただ――。


『司暮君!? 大丈夫? 熱でもあるんじゃないの?』


 司暮の先制攻撃をいとも容易く強烈なカウンターで返す青羽。


『前に言ったでしょ? 風邪は受験生の敵だって』


 そんなメッセージを読みながら、スマホを持つ手をプルプルと震わせる司暮。怒り心頭という様子で、画面に返信メッセージを打ちこんでいく。


『それで言ったら春木は二十四時間三百六十五日高熱だろうが!』

『ん~? それは司暮君が私に対して使う体温計が壊れてますね………。至急買い換えた方がいいですよ、正月はセールとかも多いのでお得です!』

『あぁ~! もういいわ!』


 どんどんと青羽のペースに嵌められていく司暮は、諦めたように大きく嘆息した。彼女との会話においては、司暮がどう足掻こうと主導権は握れそうにない。

 閑話休題、司暮は再びメッセージを打ち出す。


『今日、時間あったら初詣行かないか?』

『初詣? いいね、行こう! 楽しみだな~』

『どうせ春木の場合は、いくつかある屋台の甘味とか、そっちに対してだろ?』

『あ、バレちゃった?』


 さすが青羽だなと思いつつ、司暮と青羽はそうして淡々と予定を立てていった。



 同日、昼頃。

 司暮の家の近くに学問の纏わる神社があるということで、集合時間の十分前に先に辿り着いた司暮。数日ぶりの外出ということもあるが、外がとびきり冷たく寒く感じられる。

 周りを見渡してみると、司暮たちと同様に初詣に訪れる人たちが大勢いた。着物を着ている女性の姿や、千歳飴を手にしている子供の姿は、正月らしさを実感させてくれる。

 ザク、ザクと砂利を踏みしめる音や、楽しそうに正月番組のことを話す声。

 突如、それらがピタッと止んだような錯覚になった。


「あけおめ~! 司暮君!」


 年始早々、青羽は相変わらず元気が有り余っている。

 その声に少し驚かされつつも、司暮はきちんと挨拶を返す。


「明けましておめでとう、春木」


 司暮は青羽のいつもとはまるで違う全身を見渡す。

 青羽は大人っぽい白を基調とした着物に身を包んでいた。耳上あたりには花型の髪飾りを携え、薄っすら化粧もしている。


「着物、マジで似合ってるな」


 その言葉は、すっと司暮の口から漏れていた。

 不思議なものだ。青羽はどことなく子供っぽいはずなのに、こうして大人なものを着せられても決して浮いたりはしない。着るものによって全く別な春木青羽が生まれる、そんな感じである。


「ありがと!」


 ニパッと初日の出よりよほど眩しい笑みを浮かべながら、くるっとその場で回転して見せる青羽。あざとい仕草なはずなのに、青羽がすると可憐な仕草に変わってしまう。


「それじゃあそろそろ行きますか!」

「そうだな」


 初詣に行く人のテンションというより、夏祭りに向かう人のテンションな青羽の掛け声に合わせ、司暮は彼女と並び歩く。


「まずはベビーカステ――」

「そこまで衣装ちゃんとして置いて、ほんとキャラブラさないのな………」

「じょーだん、冗談だって! とりあえず参拝ね」


 二人は本堂へと向かう道のりを歩きながら、ここ数日の進捗を話したりするだけでなく、普段正月はどうしているのだとか、正月はどの番組が面白いだとか、正月は何が美味しいのだとか………、青羽のペースで楽しく談笑していた。道中、手水舎で手や口を清めた後に並んだ長蛇の参拝の列も、お互い退屈することなく二人の番を迎える。

 賽銭を入れて鈴を鳴らし、二礼二拍手の後それぞれがお祈りをする。しばらくして合わせていた手を下ろし、深くお辞儀をしてから二人は神前から立ち退く。


「何お願いした?」

「どうにか自分の志願大学を受験できますように、って」

「『合格』をお願いしない辺り、司暮君らしいね」

「春木は? イラストレーター関連か?」


 司暮の問いに、青羽は首を横に振る。


「ううん。私も結構そういうことは自分で成し遂げたい派だから、二の次でいいかなって」

「じゃあ――」

「まぁ秘密、かな?」

「お、おいっ!」


 自分だけ聞いておいて答えないのは狡いだろ、と思う司暮。

 ただ、かつてのような理由で隠していないことはすぐにでも分かった。

 青羽は、混じりっ気のない悪戯な笑みを浮かべていたのである。その笑顔のどこにも、やましい部分は感じさせなかった。

 司暮から逃れるようにして青羽が小走りで向かった先は、本堂近くにある授与所。要するに、御守りや絵馬を買える場所である。


「御守りもだけど、せっかくなら絵馬も買おうよ」


 そう言った青羽に倣って、合格祈願の御守りの他に絵馬も購入した司暮。同じく購入し終えた青羽とともに、設けられている絵馬を描くスペースに移動する。

 各々絵馬を描く作業に入っていく二人。

 お祈りの内容と被る司暮はすぐさま書き終えたが、一方の青羽はやたらと時間がかかっていた。

 絵馬というぐらいだからきっと『絵』を描いているのだろう。イラストレーターを目指す人間なら拘りがあるのだろうと、司暮は急かすことなく気長に待つことにした。


「出来た!」


 そう言って天に掲げた青羽の絵馬を見て、司暮は少し驚いた。

 絵馬に描かれていたのは、とある男の子を横から見た図。机に向かって勉強をしているという様子から、何となく自分だろうと察する司暮。


「なんで俺………?」

「いやまぁ、ここ最近で一番よく見た景色だったから」


 青羽の絵馬に描かれた司暮の横には、細い字で一文が添えられていた。



『この時間が少しでも、彼のためになりますように』



 あえて、その内容に司暮は触れなかった。

 心がじんわり温かくなる青羽の優しさでいっぱいであったこともそうだが、訊くまでもなくこの言葉が全てを物語っていると思ったから。

 そして同時に、『この時間』がずっと続くわけじゃないという当たり前を認識して、少し胸が痛くなったから――。


「さ~てと、一先ず美味しいもの巡りしに行きますか~」


 少しわざとらしく青羽がそう口にしたのは、司暮を気遣ってだろう。

 受験が終われば、二人は道が分かたれることになる。

 もし、青羽が志望校を変えていなかったなら、同じ大学ということもあってこんな時間が長く続いたのかもしれない。本当の志望を後押しした司暮に後悔はないけれど、そのことには名残惜しさを感じた。


「ねぇ、司暮君」


 一足先に歩いて先導しようとした青羽が、立ち尽くす司暮の方を再び振り返る。


「離れ離れになっても………な~んて考えるのは、受かってからだよ?」

「なっ!?」


 司暮の中の思いを、お見通しとばかりに言う青羽。


「とにかく今は目の前のことに集中。今までの調子で頑張っていこっ!」

「………そうだな」


 司暮は大きく息を吐いて雑念を追っ払い、鳥居の方へ歩き出す。

 そもそも受験に合格できなければ、名残惜しさなんて感じられないだろう。青羽に対する罪悪感がその全てを搔っ攫っていくのだ。

 だから今は青羽の言う通り、目の前にだけ集中すべき。司暮は改めて前を向いた。


「どうせ目の前って、甘いもののこととかなんだろ?」

「おぉ~大正解。春木大学青羽学部には満点合格できそうだね!」

「その学校嫌だな………。校舎とか全部お菓子でできてそう」

「最高じゃん!」



 そんな正月を経て年始が明けると、二人はまた勉強会を積み重ねながら、来たる勝負の時を迎えるのであった。

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