第7話 巡り巡って彼女は
朝の冷え込みは昼間に差し掛かって少し和らぐも、放課後を迎える頃にはまた同じような冷え込み具合に戻る。日はすっかり傾き、寒々しかった空が茜色に染まっていた。
澪に助言を貰った日の放課後、校舎を出た司暮はすぐさまスマホを取り出し、コネクトを開く。
司暮が青羽とのやり取りに使っていたコネクトを開くのは、連絡を絶ったあの日以来だ。絶ったとはいえども、司暮がコネクトの機能で一時的にメッセージのやり取りを封じていたにすぎず、完全に削除されたわけではない。そのため、機能を解除することで、再度やり取りは可能である。
「…………いや」
そうしてメッセージを打とうとする司暮だったが、突如その操作を中断した。
一方的に連絡を絶っておいて、勘違いであったことに気付いたら手のひらを返す――自分の今しようとしていたことが、いかに独り善がりな行動なのかを自覚し、その手を止めたのであった。
司暮はスマホをポケットにしまい、いつもの帰り道を歩き出す。
――なぜだか今は、彼女と並び歩いたことのある全く別の道に見えてくる。
まさか、前日見知ったばかりの相手の学校に飛び込んでくるなど、司暮は思ってもみなかった。自分の内心を代弁するような言葉、そして告げられた唐突な作戦。その日を境に、司暮と青羽の戦いが始まった。
――まず初めに、この場所に連れて来られた。
学校からは徒歩三十分ほどの所にある最寄り駅。構内へと足を進めると、司暮は見覚えのある店の看板を視界に入れた。
『まずは私とここへ行くのです!』
そう言い出した青羽に連れられ、やって来た喫茶店。そこで作戦概要でも語られるのかと思いきや、甘いものを堪能するばかりの青羽。終いに青羽は、慌てて店を飛び出して行ってしまった。
――思えばあの時、彼女は。
その喫茶店近くにある改札。司暮がここにやって来たのは、青羽と隣町まで参考書を買いに行った日以来だ。
あの日と同様に、改札口横の切符売り場で購入を済ませる司暮。
『私ICカードあるから』
当時この場所で、青羽はそう口にした。
あの時は気付きもしなかった司暮だが、今なら分かる。彼女はここに来る度、わざわざ電車に乗ってまで来ていたのだ。だからこそ彼女は、喫茶店に行った日もどこか慌てた様子で帰っていったのだろう、と司暮は思う。
「…………っ」
振り返れば振り返るほど、自分が犯したことの重大さが身に染みてくる。司暮は、あまりの不甲斐なさに、歯を食いしばっていた。
改札からホームへ進み、下りの電車に乗り込む。相変わらず、上りとは対極に乗客が少ない。
もうかなり時間が経ったはずなのに。
甘いメロンパンの香りが未だに忘れられない。
* * *
『はい、どちら様でしょうか?』
インターホン口から聞こえるその声には、どことなく聞き覚えがある。
けれど、それが目的の人物でないことはすぐにでも分かった。――司暮が連想した人物の声と比較し、ほんの少しだけ声が大人びているのだ。
「はる……、青羽さんの友人の時沢司暮と言います」
ここは、司暮が青羽と決別した場所――青羽の自宅である高級マンション。頑丈なセキュリティー故、入居者以外が中に入ることはできず、司暮は入り口にあるインターホンを介して『501号室』の住人――青羽の母親と言葉を交わしている。
『あら、ごめんなさい。青羽は今、留守にしてて』
「そう、ですか。分かりました、ありがとうござい――」
『待って』
目的は青羽に会って話をすること。そのために、電車に乗って隣町までやって来たのだ。
ここに居ないのであれば仕方ない、と感謝の言葉を残して去ろうとする司暮を、青羽の母親は呼び止めた。
『時沢君、だったよね。きっと君が、家に泊まりに来たって子でしょう?』
「あ、はい。その節は本当に、色々ご迷惑を…………」
シャワーを借りたほか、服を借り、一晩泊めてもらっている司暮。
結局あの時、青羽にきちんとお礼が言えていなかったこともあり、改めてお礼を口にした。
『そんなことないわよ。あの日の雨はあまりに急だったもの。これからも青羽のこと、よろしくね』
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
そんな、インターホン越しのやり取りを経て、司暮は春木家のあるマンションを後にした。
果たして、青羽はどこにいるのか。
唯一残された当てを信じ、司暮は来た道を引き返していった。
* * *
もうとっくに夜と言っても差し支えない時間帯――先ほど近くを通った時とは打って変わって、住宅街が夜の静けさに飲まれている。
その一角にある、とある公園もまた、本来あるべき賑やかさを失くしていた。
この公園は、司暮と青羽が初めて出会った場所だ。
司暮の帰路から逸れているために通らなかった住宅街の道沿いにあり、決して広くもなく、かと言っても狭くもない。もう少し明るければ、子供たちの黄色い声に溢れる憩いの場だ。
僅かな街灯は、園内を照らすにはあまりに不十分。かなり薄暗い公園の中に、司暮は足を踏み入れる。
数歩進み、誰もいないと思われたこの場所に、司暮は人影を捉えた。
公園の端――ベンチに座る人の姿。
俯いて表情こそ見えずとも、そのシルエットには見覚えがあった。
「……春木?」
司暮の声に呼応し、青羽はピクリと反応し、顔を上げる。
そして、震える声で訊ねた。
「どうして、ここに……?」
「それについては俺も同感だよ」
それは司暮が初めて見た表情だった。
目元に湛えられていることも、頬を伝っているわけでもない。
けれど、司暮にはそれが泣いているように見えた。
司暮にとって初めて見た青羽の弱い部分。いつもいつも底抜けに明るく、自信に溢れた彼女からは想像もつかないその悲し気な表情は、儚くて脆い、弱さを露呈させている。
青羽は立ち上がると、頭を深く下げる。
「ごめんなさい」
その姿もまた、青羽には酷く似つかない。
「なんで春木が謝るんだよ……。あの日、何も言わず関係を絶った俺が全部悪いんだから」
何も言わずに立ち去り、勝手に見限って、それが勘違いだと分かった。
あらゆる非は自分にあるはず。決して、青羽が責任を感じたりする必要はなく、謝られるようなことに心当たりがなかった。
――けれど、司暮の中にある予感が過る。
きっとそこに、青羽が隠したかった事情が絡んでいるのではないか。
だからこそ、自分では青羽が何に対して謝罪しているのか分からないのではないか、と。
謝罪の言葉を口にして以降、何も弁明しようとしない青羽。それがなおさら、そうとしか思えない要因となった。
「……それに、詮索してほしくなかった事情が絡んでるんだろ?」
青羽は肯定も否定もしなかった。けれど、それが肯定を指していることはほぼ自明だ。
いつもの司暮であったら、触れてはならないと踏み留まっただろう。
ただ、今朝の澪のあの口ぶりが、青羽が何かで苦しんでいることを仄めかしていた。それを知ってしまった以上、いつものように約束を守っているわけにもいかない。これ以上、彼女が苦しむ、彼女に不相応な姿を見たくない、想像もしたくない。
司暮は、青羽の隠していることを知りたかった。
かといって、約束を破り、訊き出そうとするだけではきっと、彼女が口を開こうとしないに違いない。詮索する側が詮索して欲しくないものを持っている以上、教える道理はない。それが、二人の間で約束が保たれ続けてきた要因でもある。
だから司暮は――。
「中学の時さ、ここらじゃ有名な進学校目指してたんだよ」
司暮がそう言った瞬間、青羽が再び目を見開いた。
「司暮、君……?」
決して打ち明けなかった、過去の話だ。青羽が驚くのも無理はなかった。
けれど、一度意を決した司暮は、滞ることなく話を続ける。
「当時、近くの席に同じとこ目指していた友達がいてさ。そいつとは一緒に受かろうぜって話してて、いつも応援してくれてたんだ。――でも俺は、その期待には応えられなかった。友達は合格して、俺はダメだったんだよ」
司暮の志望先は青羽を含めた、この辺りでは誰もが知るような進学校だった。
その先の進学実績も高く、学校全体の評判も高いまさに名門。それが、当時の司暮の志望校だった。
だが結果は、望んだ通りにならなかった。
元々、成績が合格ラインとかなり離れていた司暮。それでも決して諦めることなく、果敢に挑戦したという経緯もあり、挑戦に対する悔いは残らず、結果に対する純粋な悔しさだけが残る高校受験だった。
そうして、司暮は滑り止めで受けていた私立に進学することになる。それが今現在、司暮の通っている茜雲北高校だ。
「ただそれだけだったなら、まだ良かったんだ」
司暮の顔が急激に曇り出す。
ここから先が、司暮にとって触れることすら憚られるほどの、辛い過去の核心なのだ。
「中学校を卒業して、偶々その友達と再会したことがあってさ。その友達は同じ学校の友達と一緒にいたんだけど、その周りの奴らが俺を見つけた途端に言ったんだ。『不合格とか、だっせーの』ってさ。もちろん腹は立ったよ。けど、いつか見返してやるくらいに思って、その時は何とか踏み留まっていたんだ」
けれど、踏み留まれなくなった。
その原因こそ、今回の件に直結している。
「でも終いには、俺と一緒に勉強していた友達すらもそれに加わったんだ」
「えっ…………」
話の経緯からは予測のつかない出来事に、青羽は小さく驚きの声を漏らす。
なぜその友人が、司暮を裏切るようなことをしたのか。
真相はこうだ――。
司暮は当時、今のように孤立しておらず、周りの生徒たちともよく話すような普通の中学生だった。友達も数人いて、その内の一人が近くの席にいた件の友人。隣の席が異性ということもあって、司暮はしばしばその友人と話していた。
流れが変わったのは受験期に入ってからだ。
司暮の合格する確率の低い挑戦に対し、『無謀だ』『馬鹿だ』と、周りの人間の多くは嘲笑った。志望校のランクが司暮より低い人間も、努力を怠っている人間すらもその流れに同調し、司暮にとって学校はかなり居心地の悪い場所と化していた。
それでも、司暮は屈することがなかった。――友人のおかげだ。
『一緒に頑張ろうぜ』
度々励ましてくれて、司暮の挑戦を後押ししてくれたのである。
けれど、それこそが司暮の勘違いだった。
「まぁ要するに、友達だと思っていたのは俺だけだったってこと。最初からそいつは、俺のことを友達だなんて思ってなかった」
初めから、その友人は陰で司暮を嗤っていた一員だったのである。
司暮の前だけいい顔をし、励ましたのは惨めに不合格になるのを期待したから。初めから司暮を励ます意図なんてなかったのだ。
「そんな過去があったから……、あの日、俺は怖くなったんだ」
あの過去と重なる。
高みの見物で嗤っているのではないか。むしろ、利用すらしているのではないか。
疑心暗鬼になった司暮はそうして、青羽を信じ切れなかったのである。
「……ごめん」
青羽が、小さく謝罪の言葉を口にする。
「別に青羽を責めてるわけじゃ――」
司暮の言葉を遮るように、青羽は首を横に振った。
司暮は詮索して欲しくなかったところを自ら打ち明けることで、青羽にも打ち明けて貰おうとした。打ち明け損になる可能性もある中で司暮がそうしたのは、彼女なら打ち明けてくれるのではないかと思ったから。
――春木青羽を『信じた』からだ。
けれど、その思惑は叶わない。
「ごめんね――」
青羽は俯いたまま、司暮の元から逃げ出すように走り出した。
「……待った!」
それでも司暮は、ただ青羽を逃がさなかった。すぐさま追いついて腕を掴み、逃げ足を封じた。
「離して……。私は……話したくないの」
「思惑が見え透いてたならもう隠さない。俺は春木が秘密にしてきたことを知りたいと思ってる」
「どうして……。司暮君、今までそんなことなかったのに」
青羽の言う通り、司暮は引かれたラインを決して越えようとはしなかった。
触れることで苦しい思いをすると思ったから――自身のトラウマが、まさにそうだったように。
だけどそれは、触れない方が平穏に済むと判断したからの話だ。
「少なくとも今まさに、春木の隠してることが春木自身を酷く苦しめていて、悲しませてる。そうだろ? それを知った上で、ほっとけなんて無理だ」
「ダメ、なんだよ。君のその話を聞いたら猶更話しちゃダメなんだよ……!」
「あくまで俺のため、か。でもそれはむしろ、俺のためにならない。一人の犠牲の結果でで達成したって、俺は嬉しくない」
司暮にとって、志望校合格は悲願だ。
けれど、それが誰かが苦しみ、我慢するのを見過ごした先にあるのだとすれば、司暮はそれを良しとはしたくない。
何より、青羽とは一緒にやって来た感覚がある。
合格して喜びを分かち合いたい。その気持ちに嘘は吐けない。
「でも……」
「春木は俺を本気で救いたいと思った。だからあらゆる手を尽くして、これまで助力して来た。そうだろ?」
「……うん、そうだよ。私は司暮君に合格して欲しいって――」
「俺も青羽を本気で救いたいと思ってる。それを否定するのは、自分の行動を否定しているのと同じなんじゃないのか」
「…………っ」
「俺だって並大抵の覚悟で話したわけじゃないから分かるんだよ。人に話したくない過去を打ち明けるのには、物凄い勇気がいるって。自分のペースで、ゆっくりでいい。だから……、話してくれないか?」
その瞬間、青羽が抵抗しようとしていた力がスッと抜ける。司暮もそれに合わせて、手を放した。
青羽は何も言うことなく、先ほどまで座っていたベンチに静かに腰を下ろす。
「司暮君」
「うん?」
「長くなるよ。ずっと立ってたら、疲れちゃうから」
そういって微かに笑みを浮かべた青羽はベンチの端に寄り、司暮に席を譲った。
* * *
丁度一年前、春木青羽がまだ高校二年生だった頃。
二年二学期末のテストが終わり、結果が発表されたその日、教室でのことである。
クラスメイトのとある女子生徒が、青羽の席を訪れた。
「青羽ちゃん、また一位だったんだって!? すごいじゃん!」
「ううん、全然だよ」
青羽は俗言う、天才であった。
勉強に留まらず運動や芸術にも優れており、新しく何をやってもそれなりにこなしてしまうほど、抜群のセンスを持っていた。
学校の成績においては高校の二年近くに留まらず、小、中とほとんど上位から陥落したことがないほどに秀でて出ており、殊更、高校に入ってからは一位になることも多く、まさに模範生と呼ぶに相応しかった。
そんな青羽にとって、定期テストごとに周りの生徒から賞賛されるイベントは日常茶飯事に等しい。昔は褒められることに対して鼻が高く、嬉しい気持ちになることも多かったが、近頃はその嬉しさの度合いも薄まりつつあった。
その原因は、今の立ち位置にある。
青羽は多くの生徒から羨望の眼差しを浴びる、まさに憧れの象徴たる存在だ。容姿、性格、頭脳、運動能力、創造力。何をとっても完璧な少女はいつしか、常に完璧であることを求められてきた。この位置から陥落した際を想像した際に迫り来る恐怖心が、青羽の上に重くのしかかるようになり、段々とこれが当たり前でなくてはならないと感じるようになった頃にはもう、嬉しいという感情は消失してしまったのだ。
「ところで、進路志望調査どこにしたの?」
女子生徒は何の気なしに訊ねた。
進路の希望は本来、教師以外が知る必要などないものだ。当然、答えたくなければ答えなくてもいいはずのその問いだが、周りの生徒からの憧れで注目の的である青羽は、この問いを拒否する権利がないも同然だった。
常に完璧を求められる。裏を返せば、人の機嫌を損ねる様な言動を慎み、優しく温和で好意的に接しなければならないということ。質問に対して断ることや、嘘で誤魔化すこともそのブランドを崩す原因になりかねないのだ。
青羽は別に、そのブランドを保とうとしているわけではない。むしろ心の底から嫌っていて、今すぐにでも重圧からの解放を望んでいた。しかしそれを表に出せば、一転して失望の眼差しで見られるようになる。人の好感度は、上げるのには時間がかかるが、崩れるのは一瞬なのだ。
だからこそ、青羽が人と接する際には、周りの期待と自分の意志とのちょうど中間を狙った対応を毎度毎度慎重に心掛けなければならない。
「雄立大学の医学部、とかかな。まだそこまで考えてるわけじゃないんだけどね」
「雄立の医学部!? 青羽ならきっと大丈夫だよ!」
「そうかな? ありがと」
青羽は作り笑いを浮かべて、感謝の言葉を告げた。
決して彼女も、他の生徒も悪意を持っているわけではない。心底期待して、憧れて、応援してくれているのは確かなんだと青羽も分かっていた。
でも、だからこそ質が悪い。
青羽は人に失望されることに、人一倍恐怖を感じていた。期待を裏切ってしまうことが、何よりも怖くて怖くて、本当の自分を前面に押し出すことは出来ない。そのため一部に、どうしても偽りを演出する必要があった。
それでも、青羽にとって気を許せる人間が、たった一人でも近くにいたことは救いだった。
「お疲れ、青羽」
放課後の美術室。いつも遅くまで居残る青羽に労いの言葉をかけたのは、まだ若手の女性教師だった。
五月女澪。青羽が所属する美術部の顧問だ。
他の部員が下校し、教室内が青羽が一人になると、澪はいつも決まって青羽の隣に椅子を持ってきて腰を下ろす。
「どう? イラストの調子は」
「感情を上手く表現するのが苦手なんですよね~。なんか、ちょっと仏頂面になりがちで」
「そう? 私は結構上手く表現できてると思うけど」
普段の美術部は、技術向上のためにデッサンをしたり、実際に絵を描きながら、コンクールという晴れ舞台でいい結果を残すための日々を送っている。青羽も部活動の活動時間内は他の部員に合わせて活動しているが、それが終わって一人になってからは、決まってクロッキー帳にキャラクターイラストを描いていた。
青羽はイラストを描くことが好きだった。
中学在学中のとある日、クラスメイトである男子生徒が持っていたライトノベルの表紙を見たことがきっかけで興味を抱いた青羽。調べてみると、その作品、そしてキャラクターが多くの人に愛されていることを知った。元より絵が趣味で中学時代も美術部だった青羽は、いつしか自分も沢山の人に愛されるようなキャラクターを生み出したいと思い、自然な成り行きでイラストを描き始めることになる。
だが、そんな青羽の前に大きな壁が立ちはだかっていた。
青羽は大きな病院の院長である医師の父親、そして同病院で働く医師の母親の間に生まれ、周りに比べて裕福な家庭環境で育って来た。何一つ不自由のない生活を過ごしてきた一方で、青羽の将来だけは決して自由ではなかった。一人っ子である青羽は、父の後を継ぐことを周りから期待されていたのである。
幼い頃から親戚や親の知り合いのに会う度、「将来はお父さんの病院の院長か」とか、「お父さんやお母さんみたいな立派な医者になるんだぞ~」とか、まるでそうすることが正しいと言わんばかりのことを聞かされてきた。その影響で、青羽は体感的に将来の自由がないことを悟っていた。
家庭内にイラストを描くための道具を揃えたりすることは愚か、そういう希望があると口にすることすら憚られる――そんな我慢を強いられる中でも、青羽はコピー用紙にこっそりイラストを描いては、親に気付かれないように捨てる様な日々を続けるのであった。
光明が差したのは高校入学後。青羽の学業成績からすると妥当な、この辺りで有数の進学校に進学した青羽は、中学時代と同じ美術部入部したことでとある教師と出会う。
それが、現在青羽の隣に座る五月女澪であった。
「雄立大学の医学部。教師陣も期待してたわ」
突然切り替わった話の内容に、青羽の身体がピクッと反応する。
澪が青羽の顧問である以上、その進路希望表の中身を知る手段は想像に難くない。提出した担任教師からでも直接訊いたのだろうと青羽は思う。
依然としてペンを持ち、クロッキー帳に視線を向けまま口を開く。
「そうですか。一先ず安心しました」
本当の進路を告げることは、生徒だけでなく、教師をも裏切ってしまうことになる。特に有数の進学校となれば、学年随一の成績を持つ青羽には有名な大学に進学をしてもらうことを望んでいる。そのため青羽の本当の希望進路は、実績を上げるどころか傷をつけかねないのだ。
「ごめんね……」
「いいんですよ~。何も、先生が謝ることじゃないですから。私はこうやって話を聞いてもらえて、イラストのアドバイスを貰えるだけでも十分なんです」
『相談したいことがあります』
美術部に入部して間もなく、青羽はすぐさま澪を頼った。
事の経緯はまだ入部していない頃。高校に入って初めての授業――現代文の担当教師は澪だった。
授業開始してすぐ。教壇の上に立つ澪の一言で、教室の空気が一変する。
「先に約束をさせてください」
環境が変わったことに対する不安や緊張を完全に抑え込み、生徒全員の注目がただ一点――澪に集まる。小声のお喋りや、ノートを捲る音さえ消えた、完全たる静寂に包まれた。
「私は、あなたたち一人一人が成績を上げるために、あらゆる面で全力を尽くします。朝でも、昼休憩でも、放課後でも、授業の合間でもいいです。授業で分からなかったことを聞きに来てもいい。学校の悩みや、ちょっとした愚痴を吐きに来てもいい。美味しい喫茶店があるだとか、こういう趣味が面白いですよとか、世間話をしに来てもいい。一教師と一生徒の関係性ではなく、等しく同じ人として良い関係を築きながら、あなたたちの成長に助力出来たらなと思います」
その場にいた誰もが、その話の一言一句を逃さなかっただろう。それほどまでに澪の表情も、声のトーンも、そして言葉一つ一つが真剣で、真っ直ぐに伝えたいと言う思いが生徒にビシビシと伝わっていた。
その中の一生徒であった青羽にとっては、まさに救世主的な存在に見えた。きっと彼女なら自分のことを理解してくれるのではないか。そう思うにはあまりに十分すぎる迫真のスピーチだった。
そして、偶然は立て続けに起こる。
入部しようと思っていた美術部の顧問も澪が務めていたのである。そのことを知った澪は迷うことなく入部を決めると、入部届を出しに職員室の澪の元を訪れた。
そして、直截に言った。
「相談したいことがあります」
「……そう。分かったわ」
澪はそれを受け入れると、人のいない屋上へと青羽を連れ出した。
季節は冬の初め。先日までは朝夕ともに冷え込みが激しい冬らしい気候であった。
しかしその日は、季節外れの台風によるフェーン現象の影響により、一段と暖かな日だった。放課後、西日から差し込む光すらどこか暖かく、時折吹く風が心地よい。
「話、聞きましょうか」
屋上フェンスの手前にお互い向き合うようにして立ち、澪はそう言った。
けれど、青羽はすぐに言葉が出て来なかった。
本当に気持ちは表に出さず、心の内に秘める生活が続き、最後に本音らしい本音を口にしてから随分と久しい。そのせいで、どうにも躊躇いが生じて思うように言葉が出て来ない。
「私、は……」
もどかしさに拳を震わせながら、捻り出すように言葉を口にする。
そんな様子を見た澪は、優しく青羽を胸に抱き寄せた。
「……っ!?」
「いいのよ、ゆっくりで。私はあなたが話すまで、ちゃんと待ってるから」
まだ何も言っていない。
ただ、相談したいことがあると言っただけで、その内容までは言っていない。
けれど、澪は様子からその内容が決して明るいものでないことを察していた。いつも振り撒いていて評判の笑顔は、青羽が相談の依頼をしたその瞬間から影を潜めていたのである。
この瞬間、青羽は澪のスピーチで話していたことが、生徒の好感を得るための嘘などではないことを再度確かめたと同時に、この人なら頼れると確信を持った。
そうして青羽は、これまでのこと、そしてこれから先のことまで全て、詳らかに明かした――。
「――大変だったわね。自分の意思を押し殺しての生活を強いられるのはとても辛いことだと思うわ。でも、これからは私が味方よ。まずは私があなたに何をできるか、考えてみるわね」
「ありがとうございます」
そうして青羽は初めて、自分の思うことを明かせる相手ができた。
初めは少しぎこちない会話だったが、段々と本物の友達ができたように他愛もない話をするようにもなっていく。まさに、澪がスピーチで話していたような状況になりつつあった。
その過程で、澪がイラストに触れていた過去があったことも明らかになり、二人はいつしか美術部の活動後に、言うなれば『イラスト部』の活動をするようになる。
活動時間は何よりも心地よい時間だった。
他でどれだけ苦しく、我慢が強いられる環境でも、この場だけは自分を惜しみなく表現できる。学校にいる時間の内の僅かではあるが、それだけでも学校に進んで行きたいと思えるほどには、青羽にとって大切な拠り所であった。
――だからこそ、突如として迎えた崩壊の時は目先が真っ暗になった。
離任式を終え、澪にとって学校に、美術室に居られる最後の日。
誰もいなくなった放課後、本来ならイラスト部の活動時間だが、青羽の手にはペンも、クロッキー帳も握られていない。ただ、現状の悔しさを滲ませるように拳を握っていた。
「……行って欲しくないです」
俯きながら、青羽は静かに本音を漏らす。
これまでのかけがえのない時間が、大切な自分の恐怖心の捌け口を失ってしまうことが怖かった。またあの日々に戻ってしまう、刻一刻と迫る期限に対する切迫感が頭の中をめちゃくちゃに乱していく。
本当は感謝を伝えるべき場所なのに――。
「ごめんね……」
青羽も、澪も、伝えるべき言葉が口に出ることはなく、最後の一時はあっという間に流れてしまった。
その日を境に、青羽はイラストを描かなくなった。
また昔のように隠れて描くこともできたが、受験生の年を迎えたことでその時間は失われることになる。あれだけ毎日のように通っていた美術部に行く回数は減り、その分は全て勉強時間に回っていった。
「うそっ、また一位じゃん!」
生徒に期待される声。
「この調子で、次の模試も頑張れよ」
教師に期待される声。それらを聞いていられる間は、少なくとも失望されていない。
承認欲求ではなく、恐怖心に駆られるまま動く青羽は、日が経つごとに精神を蝕み続ける。本心、本当の自分とは何か。揺らぐことなく貫いてきたアイデンティティすら、段々と歪んでいった。
そうして夏休みを経て、季節は秋に移る。
進路希望の方向性を固めるという時期に入り、青羽の高校では生徒、その親、担任教師の三者面談が行われることになっていた。
ここまで、周りの声に従うようにして雄立大学の医学部志望を口にしてきた青羽だったが、イラストの道に進むためには一つ大きな分岐点を迎えている。専門学校、或いは専門に扱っている大学に進みたいという本当の希望を伝えるなら、この機会が事実上最終期限とも言えた。
そして迎えた三者面談当日。青羽と青羽の母、担任教師の三人が向かい合うように席に着くと、担任の男教師は早速話を始める。
「青羽さんはかねてから雄立大学の医学部志望ということですが、お母様は聞いておられますか?」
手元の資料を繰りながらそう尋ねると、青羽の母は頷きながら「聞いております」と短く返す。
「青羽さんも今の所、この志望で変わりはありませんか?」
その問いを聞いて、青羽は硬直する。
即否定したいのに、首を振ることも、「いいえ」と言うことも、恐怖心がそれをさせてくれない。きっと、失望されてしまうのだろうと思えば思うほど、青羽のやりたいことが遠退いていく。
「……青羽?」
しばらく返事のない青羽を不審に思った青羽の母は首を傾げる。
続いていく無言の時間。
いっそのこと、頷いてしまえばこの恐怖から逃れられるのだろう。でも、それをすることは自分の意思を尊重してくれていた澪を裏切るようなものだ。
肯定か否定。その二つの間で強く揺れた青羽が出した答えは、三つ目の回答だった。
「……っ!」
勢いよく席を立つと、その場を離れるように青羽は走り出す。
「青羽!」
母親の制止の声は決して届いておらず、青羽は完全に振り払って教室を出ていった。
二択のどちらを答えることも、青羽にとっては恐怖だった。必ず誰かを裏切る行為になるのだから。
いつしか、恐怖から逃れることを最優先に生きてきた青羽にとっては、この『逃げる』という選択しか取れなかった。例え、急に降り出した豪雨の中だろうと、学校から少しでも遠くへとひたすらに走り続けた。
「…………」
息を切らし、走りを緩めて周りを見渡す。気付けば町をも飛び出していた。
「どこ、だろ……?」
とにかく遠くへ、と走った結果に辿り着いた場所は、とある住宅街の中。その一角に、何やら公園らしき場所があった。
全身びしょ濡れで、足もかなり疲れが溜まっている状況。一旦休もうと、青羽はとぼとぼと公園の中に入っていった。
誰もいるはずがない。
視界すら霞むほどの豪雨の中、公園に用がある人間なんて――そう思った矢先、異様な光景が目に飛び込んできた。
背丈は平均より少し高く、若干細身の体躯。制服姿から恐らく同年代くらいの男の子が、公園の中心に立ったまま、空を見上げて高笑いしていた。
けれど、笑うという動作に反して、僅かに見える横顔がとても物寂しい。きっと彼は泣いているのだと、青羽は気付いた。この時、青羽は初めて、自分よりも酷くボロボロな人間を目の当たりにしたのである。
誰にだって打ち明けられない事情がある。
自分がそうであるように、きっと彼も心の内に沢山のものを抱えているに違いない。まるで自分を鏡に映したような姿だなと青羽は思う。
「そんなところで傘も差さず、君は何をしているのかな?」
気付けば青羽は、自然とそんな言葉をかけていた。
彼は自分のことを知らない存在。それはつまり、彼からは期待の目を向けられないということであり、失望を恐れる必要がなかった。
すなわち、青羽にとってその彼は、澪と似ている存在だった。だから青羽は自然と、彼を澪の代わりとしてしまったのである。
二人が交わした『詮索しない』という条件はお互いの関係性を保つ役割と同時に、青羽が失望されてしまう可能性を極限まで減らすことに一躍買っていた。
* * *
「――最低だよ。見ず知らずだった司暮君を、無意識のうちに精神安定剤みたいにしようとしてた。失望を恐れなくていい君に依存しようとした」
司暮にとって衝撃的な話であったのは確かだ。あの日の出会いの裏側にあった出来事が、予想以上に大きく、重たいものであったから。
でも同時に、彼女には酷く同情した。
才能があることが、むしろ逆に作用する。青羽に比べて劣る人のほぼ無意識的な僻みが、圧力として青羽にのしかかるのだ。
なおさら、青羽の家での出来事が思いやられる。本人にはそんなつもりがなくとも、才能に劣る人間にはそう見えてしまうものなのだ。彼女が背負っているのは、あまりにも皮肉な宿命だと司暮は思った。
「『しようとした』ってことは、ずっとそういうわけじゃなかったんだろ?」
青羽の台詞を引用して司暮が触れ込むと、青羽は頷きを返す。
「……司暮君の通う学校に行ったあの日、私の中で大きな変化があったの」
それは司暮と青羽が出会った日の翌日。
そして、司暮と青羽の関係性が変化した日でもある。
「偶然だった。君を探すために、先ずは職員室を尋ねようと思ったの。その時に、進路相談室から声が聞こえて、司暮君が抱えていた問題の一端を垣間見た」
――自分の意志を貫き、堂々と口にする司暮。
――自分の意志を貫いているけれど、隠している青羽。
二人の置かれている状況はどちらも、自分の志望が叶っていないというもの。けれど、その二人が取っている行動は、まるで対極であった。
それでも青羽は、希望が叶わないことの辛さやもどかしさ、悔しさを誰よりも知っている。
巻野の、生徒の意志を一切尊重しない態度には心底憤りを感じた。まるで、澪とは真反対で、同じ先生でもこうも違うものかと、呆れすらあった。
そして何より、人一倍意志の強い彼が被るであろうダメージは本当に大きいのだろう。強い意志の分だけ、辛い思いを強いられるなんて、あまりにも理不尽な話だ。
青羽は司暮に強く同情した。
故に――。
「それで俺を助けようと思った。それ以降の青羽は、ただそれだけだったんだろ? だったら、何も責任を感じる必要なんて――」
「違うよ」
青羽は司暮の言葉の先を折るように、きっぱり否定する。そして静かに視線を落とすと、薄暗い公園の中に表情が隠れた。
「いつの間にか、周りが見えなくなった。司暮君に期待を持たせていたことも、配慮すべきことも見落としたの」
司暮が青羽から様々なものを得るうちに、司暮は青羽を信頼し、この先にも期待するようになった。
本来、青羽としては避けなければならないはずだった。期待を持たせることが、いつかの失望の可能性になるから。
だが、司暮を助けることばかりに思考が割かれるようになった青羽は、度重なる機転の利いた策により、無自覚的に司暮へ期待を抱かせていたことを気付けなかった。そして、青羽の家でのあの出来事が起こって初めて、最も恐れていた事態の最中にいることを自覚したのだ。
「模試の結果表……、見ちゃったよね?」
「……悪い。詮索するつもりはなかったんだ」
「ううん、そういう意味じゃなくてね。全部私が悪いの。司暮君を応援する立場にありながら、どうして配慮に欠けることをしちゃったんだって、今もすごく後悔してる」
例え司暮の勘違いによって起きた出来事だったとしても、青羽の優しさは結果論で片付けることを許さなかった。真実を知ったとしても、自責の念が消えることはない。
「それに、きっとまた失望したよね。喉から手が出るほど欲しいものを持つ人間が、期待されている道以外を望んでいるなんてさ」
イラストレーターを目指す道のりは、青羽の周りの人間が期待しないであろう道のりだ。それを口にしてしまえば、『宝の持ち腐れ』だの、『親不孝』だの、散々言われるに違いなかった。
例え司暮であってもその例外ではない、と青羽は思った。
どれだけ足掻いても目標に届かない中、司暮からすれば、届いているにも拘わらずそれを溝に捨てているようにしか見えないのではないか。だからこそ青羽は、この過去の話を余計に触れられなくなってしまったのだ。
しかしそれは、青羽の中の思い込みであった。
「そんなわけあるかよ」
「…………え?」
予想外の司暮の言葉に、青羽は呆けたように首を傾げた。
「俺、春木のイラスト見た時から才能感じてたんだ。プロ顔負けじゃないかってさ。それが、春木の口から過去の話を聞いてからさらに驚いた。思うように練習できなかったのにあれだけ上手いのかって、どんだけ才能に恵まれてんだよって思った。第一、俺は失望どころか尊敬してるんだ。自分で決めた夢に、それだけ真っ直ぐな点にな」
「嘘……、嘘だよ」
「嘘なわけあるかよ」
「私は臆病者だよ? 嘘をずっと吐いてきたんだよ? 司暮君みたいに、自分の意思を真っすぐに伝えられないのは、意志が弱いからで……」
司暮は青羽の言葉の続きを聞かまいとわざとらしく大きく息を吐き、曇天の空模様――否、真っ暗な夜空を仰ぐ。
「俺の高校受験の話、実はあれだけで終わりじゃなくてさ」
「……?」
「うちの親、放任主義な癖して、成績やら実績やらにはやたら口うるさいんだ。事あるごとに『学歴、学歴』ってのが口癖で、よりレベルの高い所へ行けってさ。別にそれを否定はしなかったよ? 俺も全て間違ってるとは思わなかったから。……ただ、両親のそれは余りに度が過ぎてた」
このことを話そうとするだけで、胸が痛い。苦しい、泣きたい、吐き気がする。動悸が激しくなって、呼吸は荒くなり、目眩がする。
それでも司暮は、歯を食い縛って話しを続けた。
「合格発表の日、両親と一緒に合格発表を見に行ったんだ。でもそこには俺の受験番号はなくて、帰りの車の中で言われたよ。『どれだけ勉強しようが結果が出なきゃ意味がない』、『勉強してないのと同じだ』、『怠慢だ』って。家に帰ってからも、その説教は延々と聞かされたよ」
合格者一覧に自分の受験番号がないと分かっただけで、司暮は失意の中にあった。そんなことは傍の誰が見ても分かっただろうに、司暮の両親は追い打ちと言わんばかりの行き過ぎた説教を施した。
結果、日付を跨ぐまで、本来食事をとって団欒が生まれるはずのリビングのテーブルが、酷く悍ましい雰囲気に覆われた地獄と化す。怒声を交えた罵詈雑言は、近隣まで聞こえていたに違いない。
事実として司暮は、志望校に不合格となった。それが自分の未熟なせいだということくらい、当時の司暮も理解していたのだ。だからこそ、分かりきったこと執拗に繰り返し、あらゆる面を掘り出しては悉く否定する両親には嫌気がさし、愛想を尽かした。
その日からしばらく、受け続けたストレスで幾度も嘔吐した。恒常的な頭痛に苦しみ、過呼吸にも襲われたが、自業自得だからと言い聞かせ、我慢する日々が続く。そして、司暮の中に後遺症という名のトラウマが残った。
体調面と精神面が落ち着いた頃、それはまだ春休みの期間であった。
高校受験を終えて間もないにも拘らず、司暮は三年後を見据えた大学受験の勉強を始めた。高校入学後もその勉強姿勢は変わることなく、周りの生徒に目もくれず勉強に執着した司暮は、自ずと周囲から孤立した。
全ては二度と同じような目に遭わないように。
もう同じことを繰り返したくない。
その一心だった。
二年半の月日が流れた今は、段々と後遺症は薄くなりつつあった。それでも、思い出せばノイズ一つなく脳内に再生され、己を蝕んでいく。何とか何とか、思い出さないようにして生活する日々に変わったのである。
これが、青羽に話そうとしなかった司暮の過去の全貌。今の司暮を形作った出来事の全容である。
何とか平静を保とうとした司暮だったが、話し終えた途端に姿勢を崩し、ベンチに手をついて荒く呼吸する。
「大丈夫!?」
「……大丈夫。だからまぁ、俺の志望校ってのは結局、周囲の目を気にした結果なんだよ。全然立派でも何でもないってこと」
周囲から後ろ指を指され、笑い物扱いされる恐怖。
両親から努力を否定され、怠け者扱いされる恐怖。
司暮はそれらから逃げるように、誰もが知るような実績のある名門大学を選んだ。
「司暮君が嘘を吐いてるとは思わないよ。でもきっと、それだけが理由じゃないよ」
けれど青羽は、それを否定する。
「……いや、俺の志望理由に俺の知らない理由があるわけなんて――」
「じゃあ、司暮君。例え大学の志望先の決め方がそうであったとして、高校受験の時はどうして名門進学校なんて受けようと思ったの? 笑い者にされてもなお、諦めなかったのはただの意地?」
「…………」
「違うよ。私が見てきた司暮君は、何かから逃げるためにやらされているようには見えなかった」
「だったらなんだって言うんだ……」
「振り向いて欲しかった。そして、認めて欲しかった、褒めて欲しかった、労って欲しかったんじゃないの? 君の両親に」
「…………」
そう言われて、司暮は初めて思い出した。
いつしか記憶の底に眠ってしまった、司暮の根本的な原動力――それは、仕事優先で自分に対して興味を持ってくれなかった親に、自分を見て欲しいと言う気持ちだ。
だから司暮は、志望校に不合格になったあの日、余計に辛い思いをした。
本当は労って「頑張ったね」って、言って欲しかった気持ちを真正面から裏切られてしまったから。
「きっと私だから気付けたんだと思う。司暮君と同じ境遇を持ってるから。何かを見て欲しくて、褒めて欲しくて。美術で頑張って、美術の才能を褒めて貰おうって頑張ったこともあったから。それは決して邪な理由なんかじゃないよ」
青羽はそう言うと、静かに立ち上がる。
勢いよく振り向くと、セミロングの髪がさらりと揺れた。光源が少ないはずなのに、司暮にはなぜだか髪が煌めいて見える。
否――。
「だから胸を張って、司暮君は私の好きな真っ直ぐさで、目標を実現して見せてよ!」
その現象は、いつもより何倍も煌びやかな青羽の笑顔による錯覚だ。それほどまでに、青羽は清々しく笑っていた。
「胸を張って、ね……」
司暮は青羽に合わせて勢いよく立ち、青羽を真っすぐ見つめた。
「春木」
「……………?」
「勉強、また教えてくれるか?」
司暮の予想外な言葉に青羽は一瞬驚きつつも、再び笑みを見せる。
「もちろんだよ!」
司暮はほっとした気持ちと嬉しい気持ちになりながら、すっと肩の力を抜く。
「……それとさ、もう一ついいか?」
「うん……?」
「さらっと話を流そうとしてるみたいだが、結局春木はこの先どうするつもりなんだよ」
「あ、うん、えっと……」
「人の心配する前にだな……」
痛い所をつかれたとばかりに、表情を歪めながら一歩後ろに下がる青羽。
司暮のこの先のことは、今のやり取りで方針が固まった。一方の青羽は、話に出てきた段階では決めあぐねているとのことだった。
自身が持つ本当の希望進路を選択するのか、それとも――。
「な~んてね」
「は?」
一見、あまり考えていないのかと思われた青羽の様子だったが、全ては演技だったらしい。おどけたように小さく舌を出して微笑む。
「ちゃんと決めてるよ。まずは親に、自分の本当の気持ちを話してみる。もう恐れたりなんてしない」
「そっか」
青羽の目に強い意志を感じた司暮。こればかりは嘘でないのだろうと、安心して表情を緩めた。
「それじゃあ寒くなって参りましたので、たい焼きでも買いに行こう!」
そんな司暮の表情を見てか、突如とんでもな提案をする青羽。いつもの青羽だ。
「はぁ!? いきなり何言い出すんだよ」
「冬といえばたい焼きだからね!」
「そうか? 石焼き芋の方が印象にあるけど。あの町内を回る奴な」
「違う違う! 今はたい焼きなんだって」
「……? まぁ、別にいいけど」
いつの間にか、二人の間にあったはずの溝は埋まっていて、両者間の蟠りが解消されていた。
けれど二人にとっては、『あの約束』が破られることこそ、仲直りに必要な事だった。全てはその約束によって起きていた出来事なのだから。
そうして二人は今ようやく、『偶然出会った他人』という関係性ではなくなったのだ。
「ほらよく言うでしょ? めで――」
「その先はもう言わなくていいから。そういうことね……」
「しょうもない、って言いたげな顔しないでよ! とにかく早く行こっ、時間遅くなっちゃうから!」
「お、おいっ!」
青羽に腕を引っ張られながら、司暮は思う。
いつの間にか、こんな奇想天外な日常に居心地の良さを感じていたのだろうと。
印象の強い記憶は、風化し辛いものだ。消えることのない、司暮のトラウマがまさにそうだ。
けれどそれは、何もマイナス面だけではない。
青羽と出会い、すれ違い、大切なことを気付かされた。自分を大きく変えられたのだと、司暮は感じる。
だからこそ、この冬の寒さと、この肌を通して感じる温もりは、生涯忘れることはないだろう。
走りながら夜空を見上げる司暮は、そう思いながら密かに微笑むのであった。
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