第6話 似ても似つかぬ二人
昨晩の天気予報通り、翌朝の外はものの見事に雨が上がっていた。
道端には依然として雨の足跡――水溜りが残っているが、これもすぐに消えていくのだろう。司暮がそう思うほどに、今日の空は雲一つない晴れ模様だった。
司暮は早朝の隣町の街並みを目に焼き付けるようにしながら歩いていく。休日だと言うのに制服を着ている自分が、この世界からどこか浮いているような感覚に陥っていく。
否――司暮は自ら元の浮いた自分に戻ることを選び、一つの光を排水溝へと流し捨てたのだ。世界から浮いている感覚というのは、錯覚でも何でもなく事実そのものでしかない。
涙は一滴たりとも浮かばなかった。
悲しいとか悔しいとか、そんな感情は不思議と薄く、やはりそういうものなのだと割り切れてしまったからだ。おかげで、雨の力を借りて涙を流したり、慟哭を掻き消したりする必要もない。空模様と同様に、どことなく晴れやかな気分だ。
気付けば司暮は、帰りの列車が出る駅に辿り着いていた。
ただ、見送りに来てくれただろう人の姿はここにない。必要ないと断っても、着いて来ようとするはずのその人はもう、司暮の傍にはいなかった。
なぜなら――。
時沢司暮は、春木青羽という一人の人間を見限ったのだから。
* * *
遡るは昨夜のことだ。
夜遅くまで自分のために起きていてくれた青羽への恩返しとして、司暮は手慣れた簡単な料理を振舞うことにした。
慣れていることもあってほとんど手間取ることなく調理を進めた司暮。完成する前に、料理を並べるためのスペースを確保すべく、勉強に使用していた机の上の整理を始める。包丁で食材を切る音や火を点ける音でも全く目を覚まさなかった青羽は、ここでも全く目を覚ますことがなかった。
その整理の最中、司暮はとあることに気が付く。
今回の勉強で使用していた教材の内、雄立大学の赤本を手に掛けた時だ。
「あれ……、何気なく使ってたけどこれって確か」
司暮の頭の中を過ったのは、このシリーズを図書館で利用していた時のことだ。青羽が司暮の実力を測る際にも用いたこの教材の背表紙には、『貸し出し禁止』を示すシールが貼られていたことを思い出す。
当然、司暮が手に持っているものにはそれが付いていない。
「わざわざ買ったのか……?」
司暮の志望学部に留まらず、全学部の入試過去問を掲載した分厚い本だ。本の中ではかなり高価な部類に該当するというのに、人のため惜しげなく買うなどとんだ奉仕精神だな、と司暮は思う。
そうして司暮がその本を移動させようと持ち上げた時。
突如、折り畳まれた一枚の紙がポトリ、手元に落ちてきた。
ぱっと見では何の紙なのか全く検討もつかないただの紙。故に司暮は、好奇心もなく無意識的にその紙を開いてしまう。
その紙の正体は、司暮も受験したとある模試の結果を記したものであった。つまるところ、青羽の模試結果表である。
かつて青羽は、自分の進路について触れられることを拒んでいる。そのことがすぐに想起された司暮は特に見ようともせず、すぐに紙を閉じようとした。
しかし、とんだ不運に見舞われる。
司暮は思わず目を疑った。
「なんだよ、これ……」
予想だにしなかった、とある文字が視界に飛び込んできた瞬間、司暮の閉じようとする手が止まってしまった。
大学受験模試では、予め志望校をいくつか選び、試験結果に応じて現段階の合格率を『A』、『B』、『C』、『D』、『E』の五段階的に評価するというシステムがある。今回の模試の場合、『第一志望』、『第二志望』と、志望度が高い大学を上から順に四つ選ぶことになっていた。
司暮の目を釘付けにした文字は、その第一志望校名に書かれていた。
『雄立大学』
その大学名は、司暮が志望していた大学と同一のものである。
この瞬間、司暮の中にあったはずの選択が弾かれてしまう。例えこれが詮索に当たるのだとしても、司暮としてはどうしても明瞭にしておきたい点があったからだ。
罪悪感より、大きな焦燥感が頭をグラグラ揺らしていく。
吐き気がしそうなほど気持ち悪い気分の中でも、それを抑えて目を隈なく滑らせていく。
そして遂に、目の当たりにした。
『志望学部――医学部』
『判定――A』
多くの場合、医学部は他学部に比べて偏差値が高い傾向にある。雄立大学の場合も例にもれず、司暮の志望学部より二ランク近く高い水準。加えて、その判定が『A』――五段階評価では最高評価であり、現段階では合格確率が十二分に高いことを示していた。
青羽の成績は司暮の想像するものよりも遥かに上回っていた。当然この事実は、司暮にとってかなり衝撃的なものだ。普段の言動を見れば、失礼ながらも、これほど聡明なタイプに見えなかったためである。
だが同時に、この結果が何かの間違いであると言う線はないとも司暮は思う。青羽が図書館に手司暮の実力を測った際に出した結論や、的を射た指摘。これらはそんな実力があったからこそ導けたのだろうと、今ならば納得できるのだ。
ただ、まだ釈然としない司暮。ぼーっと目の焦点を合わせることなく、頭の中を必死に掻き回す。
――意図的に志望校を合わせ、何らかのデータを取ろうとしたのではないか。
これまでの青羽のやって来たことから、まずはその可能性が過った。しかし、この模試の受験日が二人の出会った日よりも前であるため、その可能性は皆無である。第一それでは、学部をより難しい『医学部』に変える意味が見当たらない。
つまり、青羽には少なくとも、司暮のために志望校を合わせたという線はない。
だとすれば――偶然。
すなわち、青羽は本当にこの大学、この学部を志望していたということで。
雄立大学の過去問本は司暮のために買ったのではなく、実際は偶然にも自分のために買っていたものだということ。
「……そういうこと、かよ」
その瞬間、司暮の中にあった点と点が繋がった。
同時に、大きな絶望感が頭の中を蠢き、吐きそうなほど気分が悪くなる。視界もぐにゃりと歪み、強い目眩で思わず司暮はしゃがみ込んだ。
青羽がかつて、進路について触れないように言った理由。その正体は、まさにこの絶望感を与えないためだと、司暮は断定する。
青羽は、司暮が真実を知ることで『自分には手助けする余裕がある』ように見え、まるで見下されているような、煽られているような気分にしかならないことも知っていたからこそ隠していたのだ。
――実際に、自分がそうしていることを悟られないように。
知らぬが仏。きっと、これを知らなければ何事も起こらなかっただろう。
でも知ってしまえば話は違う。
きっと勉強を教えていたのも、自分のメリットのためだ。
人に教えることは勉強になるという。自分が理解しているかを確かめ、どうすれば相手が理解しやすいかを考える際にその事象を細かく分析することが、自身の理解を深めることに繋がるからだそうだ。
青羽がそれすらも目論んでいた可能性は否定できない。いつだって彼女は、何かを隠しつつも、裏では綿密に計画を立てていたから。彼女の計算高さが、司暮の憶測の信憑性をより高めた。
「どうして今更、信じちゃったんだろうな……」
今の状況は司暮にとって、かつての記憶と恐ろしく重なっていた。
思い出しいたくもない屈辱と、今の司暮を作り出した原因の一端であるあの時と――。
少し時間を置いて、何とか冷静さを取り戻した司暮。
青羽の自宅の中、そして現在時刻は深夜帯。終電は既に逃している。
青羽は依然夢の中に、その隣の司暮は、不運にも知ってはならないことを知ってしまったことで混乱の最中にいた。
(事実だけを拾い集めると、まるで不倫が発覚した現場みたいじゃないか………)
再び塞ぎ込まないよう、司暮は胸中で冗談を吐きながら苦笑いを浮かべる。
たった一週間程度の関係に過ぎない。出会い方も普通ではなかった。その終わり方だって、普通に則る必要はないだろう。
それでも、出来るなら貰った分だけの恩は返しておきたい。彼女には今後の突破口になり得る、長く見つけられなかった欠点を指摘してもらった。最後にきちんと清算してから、この関係を終えたい。
だから司暮は、あくまでこれまで通りを装い、途中だった料理を再開した。
「甘いもの、好きだったよな……」
普段とは違う、青羽好みの味付け。全てはちゃんと喜んでもらうためだ。
そういった工夫が功を奏し、サプライズ名目でこれまでの清算を果たした司暮。翌朝、抜け出すようにして青羽の家を立ち去ったのであった。
この先はきっと修羅の道だ。
青羽がやろうとしていた作戦の意図を知らず、偽の志望校を呑み込んでいる状況の司暮は、彼女を頼ることなく自らの手でやり遂げなくてはならなくなった。また巻野との戦いが始まるというのは憂鬱ではあるが、それでも諦めるつもりはない。
勉強自体に関しても後ろ盾を失うことになる。けれど、もう十分すぎるくらい助けてもらったのだ。ここから先は、どの道自分の力でのし上がらないといけないんだ、と自らを奮い立たせる。
「…………」
始発電車をホームで待っていた司暮は、決意表明の意味も込め、司暮は春木青羽との連絡通路を遮断した。
* * *
季節は秋から冬に移る。
徐々に秋の陽気は影を潜め、朝晩は冷え込みが強くなり始める十二月の中旬。週末には初雪を観測するでしょう、と天気予報士は少し嬉しそうに告げた。
司暮が春木青羽と決別してから早二週間の時が経った。
司暮の日常はそれ以前の様相に戻り、すっかり元通りである。学校でも家でも勉強して、いかにして志望校を受験できるよう繋げるのかを考える日々。期限だけが、刻一刻と迫りつつあった。
あの日以来、司暮と青羽は一度も顔を合わせていない。
青羽にとっては理解し難いであろう別れ方だっただけに、かつてのように学校に突撃してくる可能性もあっただろう。ただ、司暮にはそれがないと断言できた――前回とは、大きく訳が異なるためだ。
あの日は司暮が約束場所に現れなかったことによる捜索が目的である一方、今回は司暮に対する疑念を晴らす目的となる。司暮が何も言わずに連絡を絶ったことから、何か話せない事情が絡んでいると変換できる以上、青羽が学校を訪れることは、二人の間で交わされた『詮索しない』という約束に抵触してしまうことになるのだ。
もしかしたら受験会場で会うこともあるのだろうか。余計なことを思う司暮だが、全ては自分の志望校が希望通りにならない限り有り得ない話。まずはその問題点を解決する策を一刻も早く練らなければならない。
けれど、一向に思いつかないのである。
思えば、青羽が学校に突撃した日――本来の最終期限日。その時も結局、司暮はどれだけ考えても思いつかなかった。自分自身で自分の勉強の致命的な欠点に気付けなかった過去もあり、司暮はあらゆる面での自信を失っていた。
素肌が露出している顔や首に当たる冷ややかな風に時折身震いしながらも、気づけば学校に辿り着く。玄関で靴を履き替える生徒の中には、早くもマフラーを巻く生徒の姿が見受けられた。
高校生活も遂に最終盤に差し掛かっている。
残されたのは二学期の残り一週間ほどと、三学期の二か月弱の日々。ただし、三学期の授業は全て午前中で終わるため、これまで通りに通うのも残り僅かとなった。
青春の真っ只中。振り返ってみても、司暮の脳裏にはこの学校での思い出がまるで見当たらない。それは、自分が一つの目標に向けて常に直向であったことの裏返しであり、後悔どころかむしろ誇らしい部分でもある。
けれど、それが全て水の泡となったなら。きっと間違いなく、この時期の木々のような寂しさを感じてしまうのだろう。合格という桜の花を咲かせるためには、少したりとも時間を無駄にはできないのである。
気合を入れ直し、教室へと向かっていた最中、見知った顔が正面からこちらへと歩いてくる。そして司暮の顔を見てすぐ、丁度良かったと少し嬉しそうに相好を崩した。
「おはよう、時沢君。少しだけいいかしら?」
澪とこうして対峙するのはあの日以来――故に、用事の方向性は粗方検討がついている。
頷き辛い場面ではあったが、断ってもどの道同じ結論に辿り着くだけ。
司暮は、静かに首肯した。
「あの、どうしてまた屋上なんですか? 風邪引きますよ……」
「何となくよ、何となく」
「いや何となくって……」
登校中感じていた肌寒さを遥かに凌ぐ風の冷たさに、司暮が思わず両腕を摩ってしまうほど屋上の空気は冷ややかだ。言うまでもなく、この時期、こんな極地に足を踏み入れる生徒はおらず静寂に満ちている。
受験生のクラス担任だというのに、何となくでこんな寒冷地を選ぶのはどうなのだろうか。内心愚痴りつつ、司暮は自ら本題に触れた。
「春木、のことですか?」
「そうよ。君に聞きたかったことがあってね。――どうしたの、時沢君?」
「いえ…………」
予想通りの澪の返答。それはつまり、あまり触れたくない話題に触れなければならないということ。故に司暮は、少し気まずそうに視線を落とした。
その一瞬の動揺を、澪は見逃さない。
「……何かあった?」
優しく語り掛けるように問う澪。
けれど、司暮からの応答はない。
「…………。先に話しておくべき、だったわね」
そんな司暮の様子を見た澪は、後悔を言葉に滲ませ、天を仰ぐ。
一方の司暮は視線を上げ、澪の表情を窺う。美しい横顔には、悲しさと寂しさと懐かしさが、べったりと張り付いていた。
「ねぇ、時沢君。青羽に、何か隠し事をしているような様子はなかった?」
「…………」
まるで全てお見通しだというような訊き方に、司暮は胡乱気な目になる。
澪が溜息交じりに深い息を吐くと、白い靄はゆっくりと天に伸びていった。
「そっか。まだ、あの子は――」
その口ぶりから、きっと澪と青羽との過去に何かがあったのだろう、と司暮。
だが、司暮にとって青羽はもう縁を切った人間。自分から聞くようなことは何もなかったし、聞く必要もない。第一、あの約束に抵触する。
しかしながら澪は、その謎を自ら明かすのだった。
「青羽はね、昔からずっと周りに対して本音とか本心とか、そういうものを隠しているのよ」
彼女が隠し事をしていることは、最初から分かっていたことだ。今更、特に驚くようなことでもない。
けれど司暮の中では、今の澪の言葉がどうにも引っかかった。
『ずっと周りに――』
司暮が知る限り、青羽が隠していたことは進路に纏わることだ。自分の進路を知られることで、司暮に自らの意図を詮索されないための隠し事。他の人に対しても隠しておかなければならない理由がまるで見当たらない。
「…………っ」
司暮は改めて思い返して、はっとさせられる。
司暮が青羽と出会ったあの日。名前も、学校も、何も知らないあの時に、『詮索しない』という約束が取り付けられている。その時の青羽は当然、司暮の成績など知りようもない。
つまり、司暮の考えにある青羽の隠し事は、あの時点ではなかったはずなのだ。
司暮は思う。あの件で明らかになったことは、彼女の隠し事の氷山の一角。自身に打ち明けなかったのは、全く別の、大きな背景が隠されていたからなのではないか、と。
『青羽のことは信じていいと思うよ』
あの時、澪が言った言葉の本当の意味がこれを見越していたものだとすれば、全ての辻褄が合う。
もしここまでの司暮の考察が正しいならば、司暮は澪の助言を聞かず、青羽を一方的に裏切ってしまったことになる。もう、関係のない話題だと切り捨てるわけにはいかなくなった。
「君はその例外になり得るのかなって思ってたけど、どうやらあの日以降変わっていないみたいね……」
澪は少し悲しそうに、視線を地上の方へと落とす。
澪の言葉には、司暮への期待があったことを仄めかしていた。
司暮はすぐさまそのことについて問う。
「自分が例外になり得ると思った根拠って、何ですか?」
「君たちはとても似ているのよ」
「……似ている? 自分と春木がですか?」
思いがけない言葉に、司暮の目が点になった。
絶対に似ても似つかない、凸凹な二人だと自負していた司暮。傍から見ても、とても相性がいいようには見えなかっただろう。
けれど澪は、はっきりと似ていると言ったのだ。
「もちろん、似ているのは性格とかじゃないわよ? 私が言いたいのは、君たちが置かれている境遇についての話よ」
境遇が似ている――それは司暮が青羽の自宅を訪れた時、両親があまり家にいないという点を知ったことで、一端を垣間見ていた。
だが澪は、例え青羽の家庭事情を知っていたとしても司暮の家庭事情は知らない。故に、それ以外の所で似ていると言うのだ。
「君が私の所を訪れてきたあの日、青羽からのお願いを受けて進路相談室の近くに立ってたことあったでしょ? あれは青羽なりの私へのメッセージだった。『私と彼の境遇は似ているから、同じように手を差し伸べて欲しい』って、そういうニュアンスのお願いだったのよ」
「春木…………」
司暮の中に、沸々と後悔の念が生じる。
あの日――青羽の自宅にて、司暮が青羽に抱いた不信感。その正体は、自らの成績や進路を伏せることで、司暮を裏で見下していたのではないかというものだ。
過去、似たような出来事を経験し、トラウマとして抱えている司暮にとって、これは恐るべき条件の一致。同時に、青羽が本質を隠すように話すタイプの人間であったことから、司暮は不信感を抱いてしまった。
だが、澪の言葉を聞けばそれも有り得ないと分かる。
春木青羽は初めからずっと、ただ司暮のためになることだけをやっていたのだ。澪を進路指導室前に立たせたのは、澪の協力を仰ぐための施策であり、引いては司暮のためにやっていたこと。人を見下すような人間がするには、あまりにも迂遠すぎる偽装工作なのだ。
もちろん、この疑念を抱く大きな要因として、司暮の持つ過去があったことは言うまでもない。――だとしても、これまでの青羽を信じ、きちんと弁解を届けるべきだった。いつも青羽に指摘していた独り善がりを、まさに自身で体現してしまっていたのである。
司暮が猛省に耽る中、澪は淡々と話を続ける。
「その件に関しては一先ず安心してね。何としても君の希望進路が通過するよう、こちらとしても出来る限りやってみるから。少なくとも時沢君は、受験生として、ただ目の前の勉強に集中してね」
司暮にとっては何とも有難い言葉だった。
成績の面でただでさえ追い込まれている状況で、他のことにも脳のリソースを割かなければいけないのは、精神的に徐々に追い詰められていくばかり。そういった面を心強い信頼のある教師に委ねられるというのは、司暮にとっては随分と助かることだ。
ただ、確認しておくべきことはある。
「……あの、いいんですか?」
「うん?」
「五月女先生、自分の担任でもないのに……」
司暮の担任教師はあくまでも巻野。進路担当である三年担当教師は忙しいというのに、他クラスの生徒にまで見る余裕はあるのだろうか。司暮はどうしても、澪の身を案じずにはいられなかった。
ただ澪は、そんな司暮の頭にポンっと右手を乗せて、軽く髪を揺する。
「生徒が教師の心配なんてしなくていいのよ。少なくとも私は、生徒皆のこの先の幸せを祈っているの。それが例え、自分のクラスの生徒であろうと、なかろうとね。それに、時沢君は現代文の担当生徒じゃない? 教え子であることは、青羽であっても時沢君であっても変わらないわ。だから私への気遣いの心は、合格という結果を持って見せてね」
ニカッと爽やかな笑みを浮かべる澪は、そう言って静かに右手を除けた。
「……ありがとうございます」
司暮は深く深く頭を下げた。
他クラスの生徒である以上、実際、そこまでする義理はない。『忙しいから』、『クラスの生徒に全力を尽くしたいから』と言って断られても、彼女の評価がマイナスになることは決してないと言うのに――それでも澪は、司暮に助力することを誓った。
そんな澪の恩は、決して仇で返すわけにはいかない。司暮は頭を上げると、再び外の景色に目を向ける。
今回の澪のおかげで、青羽があの日言っていた大仰な作戦の本質がようやく明らかになった。ここまで先を見通せていたからこそ、彼女は勉強の点だけに焦点を当て、全力になってくれていたのだと司暮は思う。
司暮の叶わなかった望みを実現させようと動き、苦手だった部分の克服に全力を尽くす。これだけのことをしてもらいながら、自分が何も還元してあげられていないことに酷く腹が立った。たった一回の料理では、笑えるくらい足りやしない。
まずは一度でも疑ったことを謝りたい。
あの日、勝手に愛想を尽かして勝手に見限った非礼を詫びたい。
そして、これから先のことをきちんと口にしたい。
そのためにもう一度、司暮は青羽に会いたいと心の底から思った。
「五月女先生」
司暮の呼びかけに、澪は司暮の表情を見た。そこには、底知れぬ強い決意の色があった。
「本当にありがとうございました」
再度、深くお辞儀をした司暮は、「失礼します」と言葉を続け、寒々とした屋上を後にした。
* * *
たった一人となった冬の屋上は、より寂しさを孕んで寒さが増した錯覚が起こる。
司暮の言っていた通り、あまり長居していては風邪を引いてしまう。教師という仕事柄、生徒だけでなく他の教師に迷惑がかかってしまうのだから、それは避けなければ、と澪は思う。
それでも、もう少しだけ居よう。
澪はその場に留まったまま、登校して来る生徒を遠巻きに望んだ。
「重荷になっちゃったかな……」
澪は自分の言った言葉を頭の中で反芻し、反省する。
『君はその例外になり得るのかなって思ってたけど、どうやらあの日以降変わっていないみたいね……』
期待を滲ませていたと同時に、自然と青羽のことを司暮に押し付ける様な言い回しになっていたことが澪の中では悔やまれた。
例外――その中には当然、澪も含まれている。しかし澪は、青羽を救うことは叶わぬまま彼女の元を去ることになった。
全ては急遽決まった異動のせい。
そう片付けることもできたが、澪は決してそれを言い訳に使わなかった。
青羽と過ごした時間は相当に長かったのだ。いつだって彼女に助言できたはずで、一言言えていただけで話は変わっただろう。
それが出来ないままに去ったのは、一欠片の勇気と、本当に生徒を思い遣る気持ちが欠けていたから。
「ごめんね――」
その言葉の先は、誰に向いているのか分からない。
ただただ静かな空間の中に、スッと飲み込まれるように消えていった。
* * *
目を覚ますと、そこにはいつもの天井の姿があった。
「……っ~!」
春木青羽は、ベッドに寝転びながら伸びをする。
睡眠時間は四時間ほど。普段よりもかなり短く、溜まっていた疲労感は抜け切れていない。温もった掛け布団の中で心地よい二度寝をしたい気持ちを抑え、勢いよくベッドから起き上がった。
昨晩から日付を跨いで行われた勉強会を終え、司暮の手料理を平らげた二人。疲労と食後ということも相まって眠気が最高潮に達した青羽の様子を見た司暮の提案で、その後勉強会が再開することはなかった。
司暮はリビングで、青羽は自室でそれぞれ眠りにつき、迎えた朝。司暮が始発で帰ることになっているので、青羽は急いで支度を始めようと自室を飛び出す。
そうして眠い目を擦りながら、リビングの扉を開けた時だった。
「おはよう! 司暮、くん…………」
広いリビングに敷かれていたはずの布団が、綺麗に畳まれている。
早起きしたのだろうかと、すぐさま周りを見渡すが、司暮の姿がどこにも見当たらない。耳を澄ましても、まるでどこにもいる気配が感じられない。
青羽はすぐさま慌てて、リビングから玄関へと走り出す。そしてすぐさま、司暮が履いてきた白色のスニーカーの所在を確認した。
「えっ…………?」
けれど、司暮の靴が置かれていた場所が、空白と成り代わっていた。
極めつけは、玄関の鍵だ。
昨晩帰宅した際に内側から掛けたはずの鍵が――開いている。
「もう帰っちゃった!?」
少なくとも現在、司暮がこの家にいる可能性は低い。
とはいえ、帰ってしまったと決めつけるには早計だ。深夜に料理を振舞っていたこともあり、もしかしたら朝食づくりのための買い出しに行っている可能性も考えられる。青羽はすぐさま引き返し、今度は制服を乾かしておいた洗面台の方へと走る。
洗面台がある浴室横の脱衣場。ハンガーにかけておいたはずの制服は、綺麗さっぱりもぬけの殻。代わりに司暮がこの家で着ていた父親の私服が、これまた綺麗に畳まれ、近くに置かれていた。
この瞬間、さすがの青羽もおかしいと思った。
青羽が知る限り、時沢司暮とはかなり礼儀を重んじる常識人だ。そのことは、これまでの度重なる指摘であったり、布団や服が綺麗に畳まれていることからも良く分かる。
そんな彼が、果たして無断で帰宅することがあるのだろうか。青羽は、何らかの書き残し、或いは連絡が入っているのではないかと考えた。
一旦、自室に戻ってスマホを手に取った青羽。
『司暮君、今どこ?』
早い手つきで司暮にメッセージを送信する。
性分からか、コネクトの返信は随分早い司暮。そう経たないうちに返事が来るだろうと思いながら、青羽はリビングまで戻って来た。
しかしここで、また新しいことに気付く。
学校帰りにすぐさま集合場所まで来たことで背負ってきていた司暮のリュックも、既にここにはなかったのだ。買い物をしに出掛けたのだとすると、わざわざ持っていく理由はないはずだ。
青羽はふらふらと歩き、昨晩の勉強で使っていたテーブル前の椅子に腰を下ろす。
「…………?」
すぐさま、異変に気付いた青羽。その机には、昨晩使用していた教材の全てが置かれていた。
――その中には、司暮の私物であるはずのものも含まれている。
(忘れてったのかな……)
青羽が手に取ったものは、昨日一緒に行った本屋で購入した問題集。青羽はそれを司暮にプレゼントしていた。
勉強会の時に使ったままで、持っていくのを忘れたのかもしれない。仮にそうだとしたら、すぐにでも私に行きたいのだが、依然彼からの返信は来ないままだ。
何にせよ、ここで何もせずじっとしているのは性に合わない。青羽はそう思い立つと、勉強会で使ったものの片付けに入る。
「それにしても、思いの外順調で良かったなぁ。この調子なら、きっと大丈夫」
昨晩のことを思い返しながら、そんなことを呟く青羽。
自分の助言を参考にしたことで、少なくともマイナスにはなっておらず、むしろ随分上向いていたことは素直に嬉しかった。あくまでも、司暮の努力量があっての話ではあるが、その手助けをできていることに、青羽はやり甲斐を感じている。
ずっと勉強をやってきてよかった。
まさかここでそれを思うなんて、青羽は思いもしなかったが。
「っ!?」
声にならない叫びが、突如青羽から上がった。
「どうしてここに…………」
片づけをしていた青羽の手元に映る、雄立大学の赤本からはみ出た紙きれ。その正体は、持ち主であるからこそ、一目瞭然だった。
前回模試の結果表――それが挟まっていた訳は、司暮が家にやって来る前日まで遡る。
その日の青羽は自室で、机に向かっていた。
「今日はこんなところかな」
夜分遅く、ある程度の所で目途をつけた青羽は、筆記用具を置いた。
やっていたのは、雄立大学の過去問集――赤本での勉強。兼ねてから予定進路として口にしてきた『医学部』の問題は非常に難しく、かなりの集中力を要する。
間もなく日付を跨ごうかというところ。あまり夜更かしを得意としない朝型の青羽は、早く床に就き、早朝に勉強をするのが日課である。したがって今は、丁度眠さのピークであり、青羽の瞼は自然と降りようとしていた。
ただ――。
「それじゃあ、もうひと踏ん張りしますか……!」
生理現象を気合で押しやり、力強く意気込む青羽。ついさっき置いたばかりのシャーペンを再び握る。
眼前の赤本をペラペラと捲り、手を止めたのは『理学部』のページ。本が勝手に閉じてしまわないよう、体重をかけて癖を付けた。
そうして青羽は、『理学部』の問題を解き始めた。
『医学部』と同じく理系の『理学部』ではあるが、その難易度には二回りほど差がある。だからと言って決して易し過ぎるわけでもなく、青羽にとっていい勉強になっていることは言うまでもない。
しかし、青羽が『理学部』の問題を解くのには別の訳がある。
『雄立大学を受験します』
かつて司暮の進路面談に居合わせた際、青羽が耳にした司暮の言葉。対峙する相手が担任の教師ということもあってかその語気は決して強くなかったが、その言葉には確かな芯と熱意が感じられた。
そんな彼を真っ向から否定しにかかる、担任教師――巻野に対し、青羽は苛立ちを隠せない。頭ごなしに叱り、終いには『助言』とは口先だけの身勝手な押し付けをする始末だ。いかなる理由が背景にあったとしても、教師としてやっていいことではない。
かつての恩師とは真逆の教師像に呆れた青羽はそうして、進路指導室の扉を問答無用で開け放つに至る。
決して曲げようとしない真っ直ぐな司暮の姿勢。自分に最も欠けているものを持つ彼を応援したくなるのは、ほぼ必然的であった。
だからこそ青羽は、司暮にできる限りの助力を行っている。――理学部の問題を解くのも、引いては司暮のためなのだ。
そんな風に、自分の勉強と司暮のための勉強を並行することの多かった青羽。直前まで模試の結果を振り返ったりしていたことで、その紙をうっかり挟んで片付けていたのである。
青羽は瞬間的に、この出来事と消息不明の司暮の動向とを結びつけていた。
もし彼がこれを見てしまったとしたなら、どう思うだろうか。
『もっと効率的に学習できる能力があったなら、少なくとも今の高校には行ってなかったと思うから…………』
いくら忘れろ、と言われていても、何かを切望するような声が簡単に消えてくれるわけもない。青羽の脳裏に、張り付いて離れなかった。
時沢司暮は、才能を欲している――故に、この結果を見て、少なくともいい思いはしなかっただろう。
『裏切られた』と思われたに違いない。
「…………っ!」
青羽は硬い机に、思いっきり額を打ち付けた。
鈍い痛みが伝播すると次第に、涙が込み上げる。
そして、大粒の雨が流れた――。
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