第5話 やはり味方なんて

 面談の行われた月曜日から四日後、平日最終日である金曜日。

 その日最後の授業が終わり、帰宅しようと司暮が校門をくぐった時だ。一件の通知がスマホに届く。


『今日この後すぐ、例の公園に集合で!』


 コネクトに届く唐突のメッセージ。何やらデジャヴを覚えるので、司暮は何をするつもりか、ここでは訊ねないことにした。『お楽しみ~♪』とか、『秘密~♪』とか、機嫌を逆撫でするような返答ばかりが目に浮かぶためである。

 あれだけ連日会っていた司暮と青羽。だが、日曜日を最後に会っておらず、コネクト上でも、司暮が月曜の夜に報告をしたのを最後に音沙汰はなかった。

 その間司暮は、青羽からのアドバイスを強く意識した勉強を続けている。問題点が分かった今、必要なのは反復練習だ、といつもよりさらに勉強に熱を入れていた。

 そんな最中、果たして今回の用事は何なのだろうか。


「とりあえず行くか……」


 丁度先週の金曜日、青羽が司暮の到着の遅さから学校に突入してきたという前例もある。あまりのんびりしていると面倒事になることを知っている司暮は、『了解』とだけ返事を送ると、スマホをポケットにしまってあの日以来の公園を目指した。



 天候は薄っすら雲がかかっている程度の晴れ模様。辺りが仄かに暗くなり始めているくらいで、まだ日中と言って差し支えない程度には明るい。

 司暮が最後に公園を訪れたあの日とはまるで正反対な空の元、公園の景色は随分と違って見える。学校終わりに遊びに来た小学生らしき子供たちが公園内を右往左往駆け巡り、本来あるべき賑やかしさがそこにあった。

 どうやら青羽はまだ来ていないらしい。

 一通り視線を巡らせたが、司暮の目にそれらしき人物の姿は映らなかった。とりあえず待機しようと、司暮は公園内の端の方に設けられたベンチに腰を掛ける。

 のどかで平和な光景に和む気持ちを抑えつつ、司暮はスマホのアプリを活用して英単語の復習をし、青羽の到着を待つことにした。

 いつの間にか勉強に没頭していた司暮。覚える英単語の代わりに、絶賛待ち合わせ中という状況が抜けてしまいそうになった頃、ようやく青羽がやって来る。


「ごめん、待った!?」


 どうやら慌てて走って来たらしい、制服姿の青羽。

 幸か不幸か、彼女自身が集合時間を設定していないので、司暮もそれをとやかく言うつもりはない。スマホの電源を落として、ポケットにしまう。


「いや別に」

「とりあえず行こっか」


 案の定、青羽は行き先を告げないまま、一足先に公園の出口へと駆けていく。


「早く早く~!」

「そんなに慌てなくとも行きますって……」


 とても待たせていた人の言動とは思えない青羽だが、司暮は膝に手をついてのそっと立ち上がり、その背中を追いかけた。



 公園から歩くこと暫くして到着したのは、先日訪れた喫茶店のある最寄り駅である。

 二人は駅前から構内へと進み、まさにその喫茶店の方向に向かっていた。


「何、また喫茶店?」


 司暮は怪訝な視線を青羽に向ける。

 喫茶店そのものは司暮も嫌いではないが、先週行ったばかりなのだ。


「ううん、違う違う。ここから電車に乗って一駅行ったところに、大きな本屋があるんだけどね? これからそこに行こうと思って」

「要するに買い物に付き合え、と。俺は便利な荷物持ちじゃないんだけど」

「全く捻くれてるなぁ、司暮君は」

「その思考になるのは一体誰のせいだと思ってんだ?」

「まぁまぁ、それはいいとして。今日は司暮君にピッタリな参考書とか問題集、それを買いに行こうと思って」

「はぁ、なるほど」


 図書館の件同様、青羽からの招集はきちんと意図あってのものであった。

 しかし、それならそうと初めから言ってくれればいい話だ。サプライズ精神旺盛なのは勝手だが、余計な懸念をしないで済むよう気遣ってくれてもいいだろう。ましてや、青羽はかなりのお人好し。気遣おうと思えば、気遣えるはずだ。

 ただ今回に限っては、司暮にとって好都合かつ魅力的な内容でもあった。丁度、参考書等が欲しいと思っていたタイミングだったのである。

 よって司暮は、何だか青羽に弄ばれているような気がしつつも、一旦目を瞑ることにした。


「あ、でもその前にちょっといいかな?」

「何?」

「ちょっとここで待ってて!」


 そう突然言い出すと、青羽は司暮を駅の構内に置いたまま一人でに走り出した。この辺りは人通りが多いということもあり、一瞬の内にして青羽の背中は見えなくなってしまう。


「いや、だからなぁ……」


 相変わらず青羽の行動は突発的である。予測もつかないので止めようがない。

 仕方がないので司暮はすぐ近くの壁際に身を置き、人の流れをぼーっと眺めていた。幼い子供じゃないので、万が一の時はスマホがあれば合流も可能だろうと、時が過ぎるのをただ待つことにしたのである。

 青羽と別れてから数分。再び司暮の前に現れた青羽の手に握られていたのは、薄黄色のビニル袋であった。


「ごめん、お待たせ~」

「何か買って来たのか?」

「うん。ほら、これをね」


 青羽はビニル袋の中を漁り、中からとあるものを取り出した。

 刹那、甘くて芳醇な香りが鼻を衝く。小麦の焼けた匂い、そしてバターの上品な香り。


「メロンパンか」


 偏にメロンパンといえども、大きく分けて二種類ある。

 上に乗せられたクッキー生地に切れ目を入れて焼くベーシックなタイプと、メロンパンという名に相応しい生地が緑がかかったタイプ。青羽が買ってきたものは後者であり、バターとはまた違うメロンの甘い香りがより強く辺りに漂っている。


「この時間、ちょっと小腹が空くから買って来たの。ごめんね、こんなとこで待たせちゃって」

「それはいいけどそろそろ行こうぜ。あんまり遅くなるのも嫌だし」

「そうだね」


 二人は帰宅ラッシュの人の流れに沿い、駅の改札へと向かった。

 改札口近くにて、司暮は切符を購入する。

 切符売り場上部にでかでかと掲載された路線図を辿り、区間の運賃を確認してからパネルを操作していく。一連の動作から、思えば久しぶりに電車に乗るな、と懐かしみながら購入を済ませ、待っていたであろう青羽の方を振り返った。


「悪い、待たせたな」


 そう言って青羽の元に歩み寄る司暮だが、青羽には切符を購入しようとする素振りがまるでないことに気付く。


「切符買わなくていいのか?」

「うん。私ICカードあるから」

「なるほど……」


 あまり公共交通機関を利用しない司暮は忘れていたが、現代では電子マネーが主流になりつつある。自分の感覚が随分昔で止まってしまっているのだな、と司暮はちょっとだけ時代遅れを認識した。

 二人はそうして改札を抜け、ホームまでやってきた。

 人の多さからかなり並んでいるものかと思われたが、それは青羽が向かおうとする方向とは逆の列車だったらしい。線路を挟んで奥の方に待つ人々が、列を成して到着を待っていた。

 一方、青羽が向かおうとする方面――下り方面。偶然にも既に停車していたので二人はすぐさま車両に乗り込んだのだが、周りの空席がそこそこに目立つ。どこでもいいだろうと、二人は適当に座った。


「さ~て、メロンパンメロンパン~♪」


 座席に着いて早々、青羽は鼻歌を交えながら買ってきたメロンパンを取り出す。


「はい、司暮君の分も」


 すぐさまそれを口にするのかと思いきや、青羽は先に取り出したメロンパンを司暮に手渡す。司暮はポカーンとしながら受け取ると、少し間が空いてから状況を把握した。


「俺の分も買ってきたのか?」

「うん。市販品ではあるけど、これに合わせるコーヒーもついでにね!」


『気が利くでしょ!』と言いたげに青羽はドヤ顔をしながら、続けてペットボトルコーヒーも手渡す。先の喫茶店のことから学んだのか、きちんとブラックコーヒーである。

 やっぱり気を遣えるじゃないか。今日ここに至るまでの経緯を思い出し、司暮は心中で愚痴る。


「悪い。お金払うよ」

「ううん、要らない要らない」


 財布を取り出し、いくらだったか訊ねようとする司暮。だが青羽は、それを制するように司暮の財布の上に手のひらを置いた。


「要らないって、そういう訳にもいかないだろ?」

「司暮君、私が言ったこと覚えてないの?」

「一体どれのことだよ……。検索対象が広すぎて分からん」

「君と初めて会った日のことだよ。私、君の制服を汚しちゃったお詫びをするって言ってたでしょ? それのお詫び、結局してなかったから」

「あぁ、そういえばそんなことあったな……完全に忘れてたけど」


 司暮が青羽と出会ったあの日。

 青羽が脅かすような形で、司暮は濡れた地面に尻もちをついてしまった。確かにその際、制服のズボンが少し汚れはしたものの、お詫びの必要はないと司暮はきちんと断った。しかしながら青羽はそれを振り切って、翌日にお詫びをすると言い、その日は帰ってしまったのである。

 来たる翌日は、司暮がどうしても外せない面談のために約束の場には行かず、青羽が学校に突撃するという予想外の出来事が発生。その後は喫茶店を訪れて突然の解散となり、以降はその話が持ち上がることは一度もなかった。

 ただ正直、忘れたままでも良かったと司暮は思う。司暮は当時汚れた部分を見せるように立ち上がった。


「制服ならこの通り、クリーニングに出して元通りだ。第一、こっちはお詫び以上のことしてもらってるってのに……」

「じゃあせめて、クリーニング代分のお詫びはさせてよ。今日は元々、そういうつもりでも君を誘ったんだからさ」


 青羽の言葉を基によくよく考えてみれば、今日中にそのお詫びとやらをチャラにしておいた方が都合はいいのかもしれない。いついかなる時にそのイベントが発生するか分からないというのは、実に心臓に悪いのだ。

 何より、これほどまでの好意を断るとなると余計に骨が折れる。別に嫌がらせを受けているわけでもないのだ。

 よって司暮は、遠慮しがちな日本人的精神を一時放棄した。


「……分かった」


 あくまで渋々といった表情で、ゆっくりと腰を下ろす。

 青羽はそれを見て満足そうにニコニコすると、買ってきたメロンパンを一齧り。それに合わせて司暮もメロンパンを口にした。

 どうやら焼きたてだったらしい。まだほんのり温かく、外のクッキー生地はサクッと軽い食感、中の生地はふんわり柔らかな食感という絶妙なコントラストを楽しみながら、二人はメロンパンを心行くまで堪能した。

 その間に下り方面へと発車していた列車は、二人が丁度軽食を終えたタイミングで減速を始める。そして、隣駅の到着を知らせるアナウンスが流れた。



「で、その本屋ってどの辺にあるんだ?」


 停車後、駅のホームに降り立った二人。司暮はあまり来ない地元の外を物珍しそうに見回しながら問う。


「駅を出て少し歩いたところだよ。最近オープンしたんだよね」

「へぇ~」


 そんな会話を交わしながらホーム、改札と通り、駅の外に出た頃には随分と外が暗くなり始めていた。街の照明で随分明るいようにも思えるが、実際はもう夜の序章を迎えている。

 司暮の地元駅とは少し様相が違う街並みだ。大きなデパート、有名なブランド店、居酒屋を始めとした飲食店。どこもかしこも殷賑としていて、まさに都市部の様相を呈している。


「思ったよりデカいな……」


 駅から徒歩五分ほど。

 司暮の目の前には想像しているよりもかなり大きな、ビルのような建物――目的の本屋である。どうやら各階ごとにジャンル分けされているようで、表側の壁には案内表示の看板がいくつもあった。

 本屋と言えば平屋の建物か大きなショッピングモールの一角の店舗を想像していた司暮にとっては、この規模感が少し衝撃的だ。


「とりあえず二階に行こっか」


 青羽の案内に従って、本屋二階の教育本や参考書があるコーナーへと向かった二人。エスカレータを上った先には、数々の本が整然と並んでいた。

 先日の図書館で見たような一般的な過去問集を始め、各教科の主要部分を抑えた問題集、『これさえやれば合格間違いなし!』と却って不安を煽るのではないかという謳い文句が堂々描かれた参考書など、実に多種多様。教科書や同じ問題集を何度も擦ってきた司暮としては目から鱗のようで、一つ一つ手にとっては軽く内容を確かめている。まるで幼い子供が、ゲームショップでソフトの陳列を見て興奮しているような姿だ。

 そんな様子を見て、青羽は何気なく問う。


「司暮君は勉強って好き?」

「ん? 突然なんだよ」

「他意はないんだけど、何となく聞いてみたいなぁって」


 勉強が好きかどうか――この問いに対して、多くの人がノーと答える人のではないだろうか。

 させられている、しなければならない。強制感――同調圧力によって勉強をやっている人は決して少なくない。受験勉強から解放されて喜びに満ちるのは、達成感より解放感によるものの方が案外大きいものである。

 一方で、分からないことが分かるようになることが好き、知識をつけることが楽しいと答える人も当然いる。知的探求心が高く、様々な事象に興味津々な人たちにとっては、日々の勉強こそがある種の趣味であり、まるでパズルのピースが埋まっていくような快感を味わうのだ。

 では、果たして司暮はどうか。



「――分からない」



 ただ考え込むように、手元に視線を落としていた司暮。沈黙を切り裂いて出てきた回答は、たった一言だ。


「分からない? 普通、とかでもないの?」


 司暮は静かに首肯する。


「勉強って、やって当然というか、そういうものだと教わってきたから。いい大学に行って、いい所に就職して。そのために必要なのが勉強だから、好きか嫌いかなんて視点で考えたこともなかったな。生きるためには呼吸が必要で、その呼吸は好きか嫌いかって訊かれてるような感覚」


 そういうものだと概念的に勉強を捉えてきた司暮にとって、勉強は好きか嫌いの判断でやるものだとは思っていない。青羽の問いを考えるにあたって、不思議な感覚に苛まれていた。


「そっか……。何かごめん、変なこと聞いちゃって」


 司暮の回答に、若干地雷を踏んだように感じた青羽は、慌てて謝罪の言葉を述べる。

 しかし、司暮は思っていることをありありと口にしただけなので、特に気にはしていない。


「いや、別に。春木はどうなんだよ。勉強は好きなのか?」

「私はあんまり好きじゃないかな~。大切なことだとは思うんだけどね? 得意不得意を分析して、得意なことは伸ばすよう、苦手なことは克服するよう努力をするのって何事にも共通だし」

「本質を理解していると、好きだろうが嫌いだろうが、どの道無碍にはできないよな。勉強って」


 だから、好きか嫌いなんて関係ない。

 自らがこれまで考えたことを正当化するように、司暮はそう心の中で呟いた。

 そんな中、司暮の隣に立つ青羽が突発的に声を上げる。


「あっ! これ司暮君にいいかも。『長文読解、長文に苦手なあなたへの一冊』だって!」


 先程からずっと英語の本を探っていた青羽がようやく良さげなものを見つけたらしく、途端にテンションを上げて司暮に手渡した。

 その本はタイトルだけ見ると参考書かと思いきや、中身をペラペラ捲っていくと、過去問準拠の長文問題がズラリと並んだ問題集だった。所々コツや要点が掲載されている他、ちらっと巻末の解答を見たところによれば的確な解き方の手順なども記されている。メッセージ性の強いタイトルに恥じない、きちんと苦手な人向きの一冊となっていた。


「へぇ~。いいかもな、これ」

「うんうん。私は司暮君向きだと思うよ!」

「ならこれにするか」

「了解! じゃあ私買ってくるね」


 青羽はそう言って、まるでひったくり犯かのような手口で素早く司暮から本を盗ると、会計の方へと走っていく。


「あ、おいっ!」


 お金はちゃんと自分で払うから、と司暮は言いたかったのだが、言うより早いかで行動する青羽には一足遅かった。――ついでに、店内は走るなとも言いたかったが。

 ポツンと取り残された司暮。会計待ちの間、ブラブラと本を見て回ることにする。

 だが、思いの外早く司暮の目に留まる一冊の本があった。


「小説……か」


 司暮の前にあるのは、この店の売り上げランキング順に展示されたコーナーだ。一冊一冊スペースが空けられて置かれ、本の隣には簡単な本の概要が説明されている。

 小説と言っても、司暮の視線の先に映るこれらは、俗にキャラクター小説、或いはキャラクター文芸と表されるもの。司暮が気になったのはその本の中身ではなく、表紙に描かれた鮮やかなイラストであった。

 こうしてプロ作品に触れてみると、やはり青羽のあの時描いていたものはプロに勝るとも劣らないレベルだったんだな、と司暮は思う。


「お待たせ~。はい、これ」


 そうこうしている内に、青羽が購入を手早く済ませて司暮の元に戻ってくる。すぐさま、買った本の入ったビニル袋を司暮に手渡した。


「ありがと。でも本当にいいのか?」

「うん。もちろんお詫びって意味もあるけど、何より司暮君には合格して欲しいって心から思ってるから。こういうことくらいはさせてよ!」


 青羽は純粋無垢に微笑む。純真で真っ直ぐなその気持ちが、買って貰った問題集以上に嬉しくて、価値があると司暮は思った。


「まぁでも合格した暁には、何か奢ってね!」

「図々しいなおい……。まぁでもその時は、ちゃんとお礼させてくれ」

「うん! 楽しみにしてるよ」


 もし合格できたなら、その時は好物の甘いものでも何でも、青羽の望みを叶える自分がいるのだろうと司暮は未来を明るく想像する。

 問題はその未来を実現するためにどうするかだ。

 今考えるべきは、ただその一点のみ。


「帰るか」

「そうだね!」


 二人はそうして、駅近くの大きな本屋を後にした。

 夜の暗闇が、突如やって来た雨雲の存在を隠しているということも知らずに――。



* * *



 段々と夜が深くなり始める時間帯。仕事帰りのサラリーマンたちが立て続けに飲み屋に入っていく姿が見受けられる。

 本屋から来た道を引き返すようにして歩き始め、ものの三分ほど。

 大通り横の歩道を歩いていた司暮の肩に、ポツリと何やら雫のようなものが落ちてきた感覚があった。


「……なんだ?」

「どうしたの?」


 司暮が不審げに辺りを見回している様子に、青羽が問う。


「いや、ちょっとな……」


 制服の肩口を濡らしたものの正体が分からず、司暮が上を向いた時。今度は額にその雫が落ちる――雨だ。

 毎日欠かさず天気予報を見る習慣のある司暮。一日雨の降らない予想だった記憶があり、日中は晴れていたことも相まって、本当に雨なのか疑わしく思う。

 しかし、よくよく思い返してみる。


『所によっては、夕方から夜以降にかけて大雨となる恐れがあります』


 天気予報士が時折口にする、補足情報のような言葉。今日のような晴れ予報の際でも耳にすることはあるが、『所によって』と抽象的なこともあって司暮は凡そあてにしない。

 ――そう。つまりこれが不幸にも的中したというのだ。

 だが、気付いたはいいものの時既に遅し。ポツ、ポツと途切れ途切れだった雨脚が急に強くなり出した。同時に、周辺からは叫びのような声が上がり、皆、屋根のある所や屋内に向けて一斉に走り出している。


「やばっ……。傘なんて持ってないよ!?」

「走るぞ!」

「う、うん!」


 二人は慌てて走り出す。

 司暮はせっかく買った本を絶対に濡らさぬようリュックに入れ、胸に抱きかかえて走り、一方青羽は、髪をできる限り濡らさぬよう手を頭の上に置いているが、ほとんど体を成していない。それほどまでに雨は激しく降りしきり、賑やかしく人の声や車の走り抜ける音が響いていた街並みが一瞬にして雨に飲み込まれてしまっていた。

 這う這うの体で最寄り駅まで戻って来た司暮と青羽。しかしながら、すっかり全身がびしょ濡れである。


「先週のリプレイか何かか……?」


 自分と青羽の酷い有様を見て、思わず諧謔を漏らす。


「まさかこんな急に降るなんて、最悪。びしょびしょだよもぉ~」


 ポケットからハンカチを取り出し、濡れて重たくなった髪を拭き取る青羽は、お天道様に向かって愚痴を吐く。当然届くわけもなく、むしろ癇に障ったのか雨脚は更に強まった。当分この雨は止みそうにない。


「この後どうすっかな……」


 水分を大量に含んだ制服のせいで身体が重たく、靴の中も既に浸潤し始めていて、あらゆる所が気持ち悪い。うんざりした気持ちで、司暮は夜空を睨む。


「あっ、そうだ。一旦うち寄ってってよ。私の家、すぐそこだから」


 この先どうすべきか路頭に迷う司暮に、青羽が思い出したように提案する。


「でもさすがに悪いだろ」

「いいのいいの。大体、そのままでいたら風邪引いちゃうでしょ? 受験生に風邪は大敵だよ!」

「まぁ、それは至って正論なんだけどさ……」


 青羽はそんな、すんなりと良しとはしない司暮の腕を突如として掴みかかる。


「何!?」

「とにかく行くよ! 走って!」

「え、あ、おいっ!」


 そして、司暮の腕を引っ張り、再び雨の下を走り出す。

 さすがの司暮も再び雨に晒されることになったことで引き返そうとする気力が無くなり、成されるがままに青羽の家へと向かった。



 走り出してからさほど経たずして、青羽がとある建物の下に入って立ち止まる。


「着いたよ」


 全速力の割にはさほど切れていない息を整えながら、青羽はそう口にした。


「え…………?」


 着いた、ということは即ち、この建物が青羽の自宅であるということ。だがそこは、司暮が想像していたものとは明らか一線を画していた。

 ここは駅から徒歩圏内にある所謂一等地の区画だ。周りには商業ビルや大手ホテルなどが林立する一角の中にある、とある豪勢な建物。屋根下に入る直前、司暮の目にはいかにも高級そうな石造りの門札が映っていた。

 つまり今二人がいるのは、高級マンションの入り口前――。


「まさか……、家ってこのマンションの一室なのか?」

「うん、そうだよ!」


 青羽は当然のごとく答えると、淡々と建物の中に入り、カードキーを使用して大きな扉を解錠する。セキュリティーの頑丈さはもちろんのこと、エレベーターまでの僅かな距離ですら大理石があしらわれており、高級さは素人目にも一目瞭然である。

 エレベーターのモニター周り、天井や床も煌びやかに彩られ、まるで異世界のような気分を味わいながら二人は七階へ。

 ややあって、青羽の自宅である『701号室』の扉の前までやって来た二人。住人である青羽がドアノブ付近にカードキーを翳し、玄関扉を開け放つ。


「どうぞ!」


 青羽は司暮を先に通そうと道を譲るも、この期に及んで申し訳なさが込み上げてきた司暮。


「結構ぐちょぐちょだけど、迷惑じゃないか? 親御さんにも申し訳ないし」

「私も結構濡れてるから一緒だよ。気にしないで、さぁさぁ!」


 青羽は司暮の濡れた背中を力強く押し、無理矢理家の中へと押し込んだ。

 扉が閉まったと同時にガチャリと自動でロックがかかり、青羽は近くのスイッチを押す。すると、薄暗くて見辛かった家の全貌が明らかになる。


「すげぇな……」


 思わず司暮の口から感嘆の声が漏れた。

 玄関口から望める範囲だけでも、この家がかなり広大なことが分かる。

 廊下の幅もそうだが部屋の数を示すドアの数も然り、第一、玄関自体がかなり広い。きちんと整頓されている上にまるで不快な匂いはせず、むしろ薔薇の香りがここら一帯を充満していた。


「親御さんは?」


 どうにも生活音が中から聞こえて来ないことに加え、家中の照明も消えていた様子の春木家。時間帯ももう十分に夜分に差し掛かっていたことから、司暮は疑問を抱いた。


「あぁ~。うちは結構留守にすること多くて、今日も帰ってこないんだよね」

「そっか。どこの家も似たようなもんだな」

「司暮君の家もそうなんだ~。似た者同士、大変ですな」

「まぁでも、俺的には気が楽かもな。あれこれ言われずに済むし」

「分かる分かる!」


 偶然にも家の事情が似ている同士、珍しく話が盛り上がる。そんな共通の話題に花を咲かせながら、司暮は廊下突き当りのリビングに案内された。

 きっと、また別世界が広がっているのだろうなと思っていた司暮。だが、リビングは広さを除き、案外驚くようなものもない。置かれている家具一つとってもどれも品質は良さそうだが特別高級感はなく、部屋のレイアウトはあるでモデルハウスのような模範的な様相になっていた。

 青羽の計らいで、バスタオルを敷いた白いソファーに腰を下ろした司暮。一先ず落ち着いた様子を見せた司暮に、青羽は用を告げる。


「シャワー、先に入っちゃうね。司暮君もその後どうぞ」

「あぁうん、ありがとう。……って、俺はそういう訳にもいかないだろ。着替え持ってきてないんだけど」

「多分お父さんのあると思うから一旦それを着てもらって、その間に制服乾かせないか試してみるよ。ダメそうならそのまま着ていって、後日返してもらえば大丈夫だから」

「大丈夫って簡単に言いますけど、そういうのって意外と気を遣うんだよな……」


 何より、人様の家に上がらせてもらっている時点で申し訳ない気がして、高級マンションの一室だと言うのに若干居心地が悪い。ましてや、着替えを借りてシャワーまで浴びさせてもらうとなると凄く図々しい感じがするので、司暮はあまり気が進まない。

 そんな司暮に、青羽はニヤリ。


「司暮君? 風邪は受験生の何かな?」

「敵ですね、はい。ご厚意に甘えさせて頂きます」

「よろしい。では行って参ります!」


 ビシッと敬礼をし、青羽はリビングを後にした。

 人様の家の広大なリビングに一人、司暮は取り残される。

 カーテンが閉まっている窓の外では、依然として轟々と雨が降りしきっている。それにも拘わらず、全くと言って聞こえて来ないほど部屋が静かなのは、防音対策が強く施されている証拠なのだろう。おかげで、司暮のいるリビングが怖いほどに静まり返っていた。


「居辛いなんてもんじゃないな、これは……」


 日常的に、雨が降っている時は屋根や縁側に打ち付ける音を耳にしている司暮。住み慣れた家のリビングとはまるで違う雰囲気がどうにも合わない。

 独り言の愚痴ですら、まるで響きはしなかった。



* * *



 お互いにシャワーを浴び終わり、二人が再びリビングに揃った。

 青羽はどうやら部屋着らしい桃色の起毛生地一式に身を包み、一方の司暮は――。


「ププッ……、司暮君には似ても似つかないね、その服装。なんか、子供がお古を着させられてるみたいだよ?」


 何とか堪えようとはしていたのだが、残念ながら我慢できず吹き出して笑う青羽。


「うるさいな……。仕方ないだろ、根本的にサイズが合わないんだから」


 不幸中の幸い。下着だけは替えずに済んだのだが、制服に関してはそうもいかない。青羽が適当に用意したらしい、父親の私服に袖を通した司暮だが、どうやらサイズが一回りほど大きいらしい。上着は袖を余し、ズボンは裾が床を引き摺っている。

 加えてデザインも司暮が着るにしては渋すぎるため、本当にどうしようもない見た目になっている。それでも貸してもらってるため文句は言えず、司暮は着心地の悪さにも目を瞑ることにした。


「制服、乾きそうか?」


 ここらには見当たらない自らの制服の様子を訊ねる司暮。


「う~ん、そのことなんだけどね? 私、名案を思い付いたわけですよ」

「迷う方の『迷』案の間違いだろ」

「まだ何も言ってないんだけどなぁ……、もぉ~」


 プク~と頬を膨らませ、青羽は不服さを露呈させる。

 しかし、司暮の経験上この言い出し方でまともなものが出てきた試しがない。

 当然今回も、司暮の予感の方が的中する。


「今日さ、泊まっていったらどうかな?」


 ほらな、と心の中で司暮。


「あのですね、青少年の内面を慮る努力くらいは怠らないでいただけます?」

「へぇ~! 司暮君、案外そういうとこ気にする人だったんだね」

「違うな。春木が気にしなさすぎるだけだ」


 先刻の会話で、この家に青羽の両親が帰ってこないことが分かっている。すなわち、若い男女が一つ屋根の下というシチュエーションが完成してしまう訳で、何でもない関係性の二人がすべきことではない、と司暮は至極一般的な線引きをしていた。

 一方の青羽。何でもない関係性なら、なおさら気にする必要なんてないじゃないという司暮とは真逆の考えを持っていた。ただし、ある程度司暮の人間性を知っていて信頼が置けるからこその発言であり、決して危機管理能力の欠如によるものではない。


「まぁ、司暮君の心が年相応の男の子だったということは置いておいて」

「置きざまにさらっと棘を刺すな」


 遠回しな攻撃に対する司暮の指摘すらも置いておいて、青羽は話を続ける。


「せっかくだからこれ、やる機会としては持って来いだなぁって」


 青羽が手にしたのは、つい先ほど買ってきた英語の問題集。司暮が状態を確認するために、一度鞄から出していたのである。肝心の状態だが、司暮が体を張って雨から守ったこともあり、無事に完品を保っていた。


「要するに、図書館でやっていたような勉強会をしようと…………ってまさか、端っからこのつもりだったのか? 一体どんだけ計算高いんだよ……」

「え、何の話?」


 絶望して両手で顔を抑える司暮を、キョトンとした様子で見つめる青羽。


「初めから、ここまで全ての予定立てていたんじゃないのかって話だ」

「まさか~、そんなわけないって」

「いやいやだって、まるで全てが計算づくに思えてくるんだよ。本を買うだけために隣町まで来て、その本を使って泊まり込みの勉強会なんてさ」


 青羽には前科が多すぎる。

 何も考えていない風を装って、実は裏で綿密に計画を立ているような少女。それこそが春木青羽であると、司暮は思っていた。

 だが、どうやら今回に限っては的外れな邪推だったらしい。


「私が知る限り一番大きな書店の方がいいかなって思っただけで、他意は全くないよ。それに勉強会をするってなったら、図書館の方が色んな参考書使えるからね。わざわざそんなことしないよ?」

「確かに…………」


 司暮は言われて、先週末のことを思い返す。

 あの時の青羽は図書館の利点を余すことなく活用していた。多種多様な本を無料で借りられる以上、わざわざ春木家まで来る理由がないのだ。


「あと、もし私がそれをする立場なら、ここまで回りくどい手を使わないと思うし」

「さらっと怖いこと言わないで……!」


 テヘっと舌を出し、小悪魔的に微笑む青羽だったが、思い出したように話の軌道を戻す。


「まぁ、司暮君が泊まるの嫌だって言うなら仕方ないけど、私的には泊った方が賢明だと思うんだよね」


 青羽は言いながら、壁掛けの大型テレビに映る天気予報を見やった。司暮がリビングに戻って来た時からそのテレビにはニュースが映し出されており、今は天気予報になっている。


「制服、明日の朝までなら乾くと思うし、雨もその時までに上がるみたい」


 言わんとして、青羽が伝えたいことは司暮に伝わる。


『傘くらいは貸すけど、濡れた制服着て帰るくらいなら明日の朝、晴れ間に帰った方がいいんじゃない?』


 まるで青羽が言いそうな真っ当な助言が、司暮の脳内に上映される。

 この期に及んで己の意地を通して帰る方が、却って失礼になるというもの。司暮は軽く頭を下げた。


「…………悪い。迷惑かけるが、一晩だけ泊めて貰ってもいいか?」

「もちろん! さぁ、勉強やるよ!」


 勉強を見る側だと言うのに、なぜか青羽の方がテンションを上げて準備に取り掛かっていく。その様子を見ていると、司暮自身も自ずとやる気に満ちてくる。

 そんなこんなで急遽、泊まり込みでの勉強会が始まるのであった。



* * *



 時刻は午後九時を過ぎ、司暮が青羽の家にやって来てからは早二時間強の時間が経過した。

 夕方に食べたメロンパンのおかげか二人とも思いの外お腹が空くこともなく、先週末同様の集中した時間が繰り広げられている。


「あ、でも結構出来るようになってきたんじゃない? 時間あたりに解ける問題数も、正答率も上がってるよ?」


 広いリビングテーブル上には過去問本や参考書、ルーズリーフが目一杯広げられている。

 先週同様、司暮はひたすらに問題を解き、青羽は採点をしたり助言をしたりという形式を取り、青羽は解答用紙代わりのルーズリーフを見て成績向上を喜んだ。


「だとしたら、先生の腕前がいいんだろ」

「いやぁ~、それほどでもないよって言いたい所なんだけど」

「言ってる、それ言ってる」

「結局、司暮君の飲み込み速度があるから成せる業だよ。指摘してからまだ一週間も経ってないのに……」

「それは違うんじゃないか?」

「どうして……?」


 思ってもみない司暮の否定に、青羽は不思議そうに眉を顰める。

 司暮が真っ先に否定したのは、それが司暮にとって自覚のあるであったから。

 飲み込みの速さ――即ち、習得効率の高さ。それは司暮にとって欠けているものであり、長らく喉から手が出るほど欲して来た『才能』だった。


「もっと効率的に学習できる能力があったなら、少なくとも今の高校には行ってなかったと思うから…………いや、この話はやっぱ聞かなかったことにしてくれ。今は思い出したくない」

「……うん」


 司暮は自ら打ち明けておきながら、撤回するように口にする。

 かつて、青羽が発言を渋った時――司暮に進路のことを追及された時のこと。青羽は質問に対して拒否反応を示し、それ以上訊かないでくれと口にした。

 同様に、今の司暮もこれ以上話したくはなかった。今の自分に直結するその大きな過去は、あまり思い出して気持ちの良いものではなかったから。

 人間、辛い過去は忘れたいと望む。だがむしろ、それを望めば望むほど記憶の中に刻まれ、心を深く蝕む因子となる。何とも矛盾した理不尽な節理だ。

 司暮の中の辛い過去も同様、依然として消失しないまま居座り、頭を過る度に自らを切り刻んでいく。だから司暮は過去に蓋をすることで、自らが傷つかない道を選んできた。それは今も同じ――。


「まぁ少なくとも、俺はあんまり飲み込みは早くない方だと思う。今回もだけど、勉強量で補ってようやく、それと同等の結果を得たに過ぎないんだ」


 この結果は青羽からの指摘を受け、弱点部分を徹底的に直そうと意識し、研鑽したことによる賜物に過ぎない。仮にもっと飲み込みが早いなら今以上の結果が得られたはず。

 そんな、意地でも追い縋ろうと足掻いている姿が醜く見えて、司暮は自分のことがあまり好きになれなかった。

 けれど――。


「司暮君、それってすごいことだよ?」


 身を乗り出し、目を爛々と輝かせる青羽は真っ向からそれを否定――司暮の姿勢を肯定したのだ。

 これまで、この努力を肯定してくれた人間は司暮の周りに一人としていなかった。

 ――頑張っても無駄だから志望先は諦めろ。

 ――結果が出なければその努力に意味はない。

 何度も何度も、無残に切り捨てられてきた努力。


「目の前の大きな壁を見た時、大抵は怯んで挑戦もせず、諦める道を選択するんだよ。仮にその自覚がなくても、知らず知らずのうちにね」


 現実的に不可能だから、努力が報われないことが怖いから、後々後悔するのが嫌だから。様々な理由をもって、人は挑戦する前に諦めてしまう。それが一般的な反応だと、青羽は説明する。

 けれど司暮は――。


「でも司暮君はさ、絶対に諦めなかったじゃん。希望の薄い現状の数字を突きつけられても、諦めろって目の前で言われても、意思は曲げなかった。その諦めの悪さは、紛れもない才能なんだよ!」

「……褒められてるんだろうけど、もう少し言い方考えられなかったのかよ。根性があるとか、負けず嫌いとか」

「そうだよ、褒めてるんだよ! 私はそんな司暮君だから協力したいと思ったの。過小評価でネガティブに考えないで、司暮君は胸を張っていいんだよ!」


 いつもとは違う青羽の笑みは、力強い言葉以上に司暮の暗い考え方を払拭した。

 少なくとも自分を肯定してくれて、明るい兆しを作ってくれた青羽の前では、あまり消極的な考え方をするべきではないのだろう、と司暮は思う。

 ただでさえ貰ってばかりの恩を仇で返すようなことはしたくない。


「そうですね。じゃあその諦めの悪さをもって、もう一回気合を入れ直しましょうかね~」


 司暮は置いていたシャーペンを再び手に握る。


「もしかして根に持つタイプ?」

「別に~」

「やっぱり根に持ってるじゃん!」


 確かに、才能というアドバンテージを持っている人間に対して、劣る人間は努力でその差を埋めるしかないのかもしれない。でもそれなら、人一倍の諦めの悪さをもって人一倍努力すればいい。実は単純なことだったのかもしれない、と司暮。

 気持ちの整理が着いた司暮はそうして再び、集中した世界にのめり込んでいった。



* * *



 丑三つ時に差し掛かり、時刻も間もなく日を跨ごうとしていた。

 夕方購入した問題集を解くだけではなく、時折司暮の志望校である雄立大学の赤本を交えたりしながら、司暮の課題を根本から改善しようとしていた二人。

 だが、さすがに疲れはピークに達しようとしている。平日最終日、そして今日は雨に一度打たれたこともあってか余計に疲れが溜まっていた。身体の疲労が脳に伝わり、瞼を下ろそうと指示を下すせいで、目の前の英文字が薄っすら揺らぐ。

 思えば、夕食を食べるタイミングすら逃している。脳を働かせるために必要な糖分もとうに切れていて、疲労問題以前に、エネルギー切れを起こしていた。


「さすがに一回休憩しよう、ぜ――」


 司暮が休憩の提案をしようと、目下のテキストから視線を上げた時。青羽の方からスースーと静かな寝息が届いてくる。青羽は机に突っ伏するようにして、微睡みの中にいた。

 本当は既に限界に差し迫っていて、それでも無理をしてくれたのだろうか。

 司暮は夜遅くまで起きることには慣れっこだが、皆が皆そういうわけじゃない。責めるつもりはないし、自分のために身を粉にしてくれた彼女を責める資格などあるわけもない。

 むしろこの機に、彼女には何か還元するべきだろうと司暮は思った。


「こんなとこで寝たら、それこそ風邪引くぞ……」


 司暮は一度席を離れ、すぐ近くのペニンシュラキッチンへと向かう。そして足を止めたのは、家庭用としては最大クラスであろう銀色の冷蔵庫の前だ。

 礼節を弁えるなら、先に断っておくべきだ。人様の冷蔵庫は勝手に開けるなという躾が脳裏を過ったが、それを押しのけて観音開きの扉を開けた。


「卵、味噌、大根とキャベツ、豚肉もあるな……。思いの外充実してて助かる」


 司暮の家庭事情と似ているが、青羽の家の方が明らかに在庫のレパートリーが豊富だ。扉側には豆板醤やオイスターソース等の調味料があり、明らかに料理をする家庭なんだなと司暮は察する。


「さてと、それじゃあやりますかね。春木の言い方に肖れば、『夜食振る舞い大作戦』ってとこか」


 青羽を出来る限り起こさないよう注意を払いつつ、司暮はそんな大作戦を開始した。



「……う、う~ん。あれ、私いつの間に寝ちゃってたんだろ」


 大作戦を開始してから三十分ほどして、青羽はようやく眠りから覚めた。眠たい目を擦りながら、ゆっくりと体を起こす。


「物音に対しては聞き耳を持たないくらい爆睡してたのに、食べ物の匂いで目覚めるあたりが春木らしいというか何というか」


 言いながら司暮は、離席前まで座っていた青羽の正面の席に腰かけた。


「……えっ!? 何が起きたの!?」


 青羽は目の前の光景に仰天して目を見開く。

 つい先ほどまで広げられていたはずの参考書などは姿形もなく、代わりに二人前の出来たて料理が配膳されていた。茶碗によそわれた白米、綺麗に巻かれた卵焼き、そして具沢山の豚汁。香ばしい香りが広がるとともにほんのり立ち込める湯気が、罪悪感の湧く深夜帯にも拘らず食欲を掻き立てる。

 まるでマジックが目の前で行われたかのような青羽の反応だが、これをやってのけたマジシャン――調理人は司暮である。


「お腹空いてるかなと思って。最後に食べたの、あのメロンパンだけだったし。でも悪い。勝手に冷蔵庫の中身とかキッチンとか使った」

「ううん、それは全然気にしなくていいの。それより司暮君、料理上手すぎだよ!」


 寝起きではあったが、先ほどの驚きでいつも通りを取り戻した青羽。食欲がそそられる品の数々に目を光らせている。


「別に。両親が家にいないこと多いから、朝食と夕食で簡単なもの作ってるんだよ。まぁだから、本当に簡単なものしか作れないけど」

「でも逆に言うと、その簡単なものに関しての腕はピカ一だよ。だってこんなに美味しそうな卵焼きとか見たことないもん!」


 目移りさせながら、早く食べさせろと言わんばかりに息を荒くする青羽。


「冷めないうちにどうぞ」


 司暮はそう言って手元の割り箸を一膳手渡した。

 すぐさま、青羽はパクリと大きな一口。


「……っ、美味しいよ! なんで私が甘い卵焼きが好きだって知ってるの!?」

「いや、甘いもの好きなのはリサーチ済みだから、というより情報垂れ流しだったわけだけど」


 そんな司暮の正論はまるで聞いてはおらず、至福気に頬を緩める青羽。これだけ嬉しそうに、美味しそうに食べてもらえれば作った甲斐があったというもので、司暮の中にも充実感が溢れていく。


「ほらほら、司暮君も食べようよ。せっかく出来立てなんだしさ!」

「まるで自分が作ったかのような口ぶりだな。……まぁ、いいけど」


 司暮はまずお味噌汁を頂いた。

 間違いなく美味しい。間違いなく美味しいが、味噌がいつもより上物なおかげで相対的に味が上がっている程度であり、司暮からすれば日常的に食べている食べ慣れた味だ。裏を返せば、どことなく安心感すらある。

 一方、問題なのは青羽が大絶賛していた卵焼きだ。

 司暮の好みは、出汁の利いた関西風味付、いわゆる出汁巻き卵に該当するものだ。普段作るのも市販の白出汁を使った卵焼きであり、今回のように関東風の甘い卵焼きはほとんど作った記憶がない。

 その理由は明白。ご飯に合わないからである。

 青羽は気にせずバクバク白米を食べ進めているものの、司暮の箸は中々白米へと伸びていかない。

 決して不味いわけではない。不味いわけではないのだが、卵と砂糖という原材料からも分かるように、その甘さがデザートを連想させるのだ。言うまでもなくデザートは白米に合わない。

 仕方ない、と司暮。


「卵焼き、残りいるか?」


 卵焼きは青羽仕様なので司暮の口に合わないが、味噌汁はいつも通りの味である。白米を食べるには味噌汁があれば辛うじて事足りるので、残りは譲ることにした。


「え、いいの!? ありがとう!」


 貰った卵焼きをすぐさま口に運び、頬っぺたが落ちそうになるくらい幸せそうな青羽。

 青羽の笑顔はいつだって煌びやかで可愛らしく、印象に強く残る。元気の良さが魅力的で、突拍子のない行動が玉に瑕。だが、その勢い任せな青羽の性格が、今の関係性を作り上げてきたのだ。

 ――きっと、忘れようとしても忘れられないだろうな。

 司暮は再び味噌汁を啜る。

 口の中に残る卵焼きの甘ったるさを流し込むようにして。

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