第4話 大仰な作戦
ようやく雨が上がった。
四日ほど降り続けた雨の後は、まるでお天道様が人々に懺悔しているのかと言うほど雲一つない秋晴れ模様。昨日までの湿っぽい空気もなく、ようやく過ごしやすい気候が戻って来たと言えるだろう。
しかしながら、この雨を境に少し肌寒くなった。
夏と冬の狭間にある秋という季節は、照りつける様な日差しと蒸し暑さの夏から、凍てつく冷たい風と吐く息が白くなるほど寒い冬へと移行する期間だ。その移り変わりがどうやら急加速したらしく、一気に冬の香りが近づいていた。
「行ってきます」
虚空に、司暮の声がこだまする。呼応する言葉はない。
玄関の扉を押し開けて家の外に出ると、いつものように徒歩で学校へと向かった。
何事もない、いつもの月曜の朝――けれど司暮は、どうにも気分が落ち着かない。
普段であれば『休日が永遠に続けば、もっと勉強が捗るのにな』なんて思いながら、空を見上げたり鳥の羽搏きを見送ったりしているが、今日は頭を抱えながら、離れてくれない大きな憂いを振り切ろうとばかりしていた。
全ては昨日、青羽の言い出した作戦のせいである――。
「マジで大丈夫かよ…………」
* * *
「何、言ってんだよ……」
遡るは昨日、羽の口から告げられたのが理解不能な作戦、『司暮君は諦める大作戦』が告げられた後。
「春木は結局、俺に諦めろって言うのか……?」
青羽に散々振り回されてきた司暮だが、さすがに今回ばかりは彼女の正気を疑った。
志望校に強い拘りを持って来た司暮を応援する立場であるはずの青羽が、有り得ない作戦名を口にしたのだから――。
いつもにはない真剣さを滲ませた司暮の表情、そして声のトーン。
明らかな異変から不味いことを口にしていたことに気付いた青羽は、少し焦りながら無理矢理テンションを上げた。
「違う、違うよ! 私はずっと司暮君が志望校に合格することを望んでる!」
「……だったらなんだよ、その作戦名」
「正確には、諦めるフリをするだけだよ。諦めた、と思わせればいいの」
「フリ……?」
「本当の終わりはそこじゃないよね。だったら今はやり過ごして、それまでに――」
「駄目なんだよ、それじゃあ」
青羽の言葉を切るように、司暮は強い口調で言い放った。
要領を得ない青羽は小首を捻る。
「駄目ってどうして? だって、志望校を決めるのはまだ先の話でしょ?」
「悪いが春木、それはできない」
大学入試というのは、様々な形式で行われる。その内、最もメジャーで人数が多い形式が一般入試である。
その一般入試一つとっても、各大学ごとにそれぞれの形式が取られている。中でも、司暮の受ける雄立大学の場合は、大学入学共通テスト、そして二次試験の二つの総合得点で合否が決定する。
大学入学共通テストとは、一般入試の受験生の大半が行うテストであり、大学受験生の多くがここでの得点を必要とする。言うなれば一次試験の位置づけであり、このテストの得点によって二次試験でどこの大学を受験するかを決めていく。
すなわち、受験先を最終的に判断するのは、大学入学共通テストの後。現在の十一月時点でどのように決定しても、共通テストの得点によっては諦めざるを得ず、また逆に思いの外得点が高ければ、志望先をより上のランクに変更することができるのである。
故に本来、この時点での志望先の決定は進路の方向性を固めるに過ぎず、司暮のように難航している生徒の方が珍しいはずだった。
これも、元凶たる巻野のせいだ。
巻野には前々から、この進路希望で決定した志望校より上の大学を受験させないという噂があり、生徒の中では有名な話であった。司暮も周りの生徒が話しているのを耳にしていたため、今回の進路希望の重要性が高いことを十分に理解していた。
良く言えば保守的、悪く言えば非挑戦的。巻野がそのような方針を取ってきたのは、大学入学共通テストの試験方式が全てマーク式であるという点にある。
マーク式――すなわち、選択問題。それは昨日、青羽が言っていたように運さえあれば得点が可能ということを意味するのである。つまり、超豪運の人間が全て勘でマークしたとしても満点を取れる可能性がないとは断言できず、何も知識のない人が勘で答えても得点が零点にはならない可能性が高い。
巻野はこの、実力に相応な得点が出るとは限らない完全性の欠陥から、偶然高得点を取った可能性も捨てきれないと考えている。そのため、十一月時点での志望校より高い得点を取れたとしても、記述式で、より正確な実力が結果として現れる二次試験では得点を取れず、結果として不合格となるリスクを注視。それが、彼の進路指導方針に現れていた。
要するに、現時点で司暮が雄立大学志望であるという希望が通らなければ、司暮はこの時点で受験資格を失ってしまうことと同義なのだ。
だからこそ、司暮はここでの決断を決して軽んじず、意思を頑なに曲げてこなかったのだ。
「――だから、ここで諦めるわけにはいかないんだよ」
話が長くなるから、と二人は図書館前広場に設置されたベンチに座っていた。
「なるほど、それで…………」
司暮から語られた巻野が持っているであろう教育方針を聞き、青羽は得心したように嘆く。
「例え噂でも、あまりに事実と断定できる要素が多いから本当のことなんだろうね。あの時私が偶然聞いた先生の言葉も、そう考えれば辻褄が合うし」
「春木の策の中で、この先何をするつもりなのかは知らない。けど、少なくとも俺には、それで覆せるとは思えないんだ」
先日の青羽には、度肝を抜かれた司暮。おかげで、合格に向けては光明が差したようにも思う。
ただ、今回に至っては失敗が許されない。
どれだけ勉強しても、志望校を受験できなければ合格できない――故に司暮は、いつも以上に慎重になっていた。
「司暮君、前に言ってたよね。『実力が満たないから、先生の言うことも一理ある』、『だから、真っ向から先生を否定する権利なんてない』ってさ。でも司暮君は、それで納得していないから、今も必死に足掻いてる」
ベンチをひょいっと降りた青羽は、背中越しにそう言った。
「望むなら実力でそれを否定したい。そうだよね?」
振り向きざまに言い放った青羽の問い。
司暮が頷きを返すと、「そうこなくっちゃ」と笑みを浮かべる青羽。
「どこの馬の骨かも知らない私に、重要な局面を委ねるのに勇気がいることは分かってる。一度の失敗で取り返しがつかないから、その判断に慎重になってることも分かるよ。でもね、司暮君には信じて欲しいの。絶対に、司暮君の目標は叶えて見せるから!」
これまで司暮は、青羽に散々振り回されてきた。
一方的な約束を取り付けられ、学校に突撃され、図書館に突然呼び出され……。小さなことを含めれば、もっとあったかもしれない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
青羽は一度たりとも、司暮の合格が不可能だと言わなかった。
だから司暮は、絶対に無理だとする教師よりも、目の前で絶対に叶えて見せると言った青羽を信じる。
「――そ、それで? 春木はどうするつもりなんだよ」
話を強引に本題へと引き戻した司暮。
どことなく照れくさそうな司暮の様子を見て、春木は微笑みながら問いに答えた。
「最終期限日に司暮君の志望が通るのが目標。だから今は、そこで通すための餌蒔きをするよ」
「餌、蒔き……?」
元より抽象的に話して話の軸を濁す青羽だが、独特な言い回しを混ぜられると余計に解読が難しくなる。
司暮が首を捻っていると、ようやく具体的な作戦の概要が青羽から伝えられた。
「
「…………いや、待て。なんで春木の口から五月女先生の名前が出てくんだよ。第一、立ってるだけってどういうことだ」
過去のことから、司暮も素直に理解できる回答が来るとは思ってはいなかったが、予想以上に疑問が浮かぶような内容であった。ほぼ反射的に疑問を呈している。
「それは追々、ね?」
青羽はウインクして微笑んだ。
この期に及んでなぜ隠し事をしようとするのか。司暮の中に率直に浮かぶ疑念は、その笑顔を見た途端に消えてしまう。
司暮は、まるで「あまり触れて欲しくない」と言われているような気がした。
確固たる証左はない。いつも通りの青羽だと言われれば、否定できない。
けれど司暮には一度超えてはならないラインを踏みかけた過去があり、それによって及び腰になっている部分もある。あまりにも大きすぎるリスク――それがないと断言できない時は素直に引いておくのが無難だろう。
だから司暮が、それ以上問うようなことはなかった。
* * *
いつもより少しだけ早い時間の登校。生徒たちの姿もやや疎らである。
司暮が訪れたのは、校舎二階にある職員室だ。
生徒たち同様、職員室内の教師の姿も比較的少ない。
「失礼します……」
そう言いながら職員室に足を踏み入れ、視線を巡らせる。すると思いの外早く、司暮は目的の人物を視認した。
――なぜなら彼女は、周りの教師陣とは明らかに一線を画した容姿をしているからである。
五月女澪。司暮のクラス――A組の隣であるB組の担任を務める、昨年から赴任してきた女性教師。ただでさえ若い年齢がさらに若く見える小さな顔に、きめ細やかな肌質、細身の体躯。艶やかな黒髪ロングヘアの彼女は、その容姿の良さだけに留まらない。
何よりも彼女は、教師としての評価が頗る高い。一人一人に寄り添うスタイルを持ち、悩む生徒には自ら歩み寄り、生徒たちとの距離感も近い。そういった教育方針の功績あってか、受け持っている現代文の成績が軒並み上昇しているらしく、テストの度に感謝を伝えに行く生徒が後を絶たない。
そんな澪だが、司暮との接点はほとんどない。司暮にとっては現代文の担当であるが、別段質問しに行くこともなく、担任というわけでもなかったためだ。むしろ、澪に担当の生徒であるということを覚えられていないのではないかとすら司暮は思ったが、それは杞憂に終わる。
「あら、珍しいわね。A組の時沢司暮君、よね?」
司暮が彼女の元を訪れると、声をかける前に澪の方が気づく。
「はい、そうです……。どうして分かったんですか?」
「どうしてって、担当の生徒だもの。少なくとも一人一人の顔と名前くらいは覚えてるつもりよ? まぁでも、偶に間違えて生徒に怒られちゃうことはあったりするけどね」
柔らかな苦笑いを浮かべる澪。
噂に違わぬ人間性である。接点の少ない人でも覚えて貰えているというのは、生徒にとっては嬉しいものだ。
いつだって分からない所があれば、緊張することなく気軽に彼女の元を訪ねられる。生徒と教師の溝が限りなく小さいという面も、成績向上に一躍買っている部分があるのだろうと司暮は思う。
「それでどうしたのかしら? あ、巻野先生に用事なら、おそらくまだいらっしゃらないと思うけど……。いつも遅めに出勤されるから」
「いえ、そうじゃないです」
首を巡らせて巻野先生の所在を確認する澪だが、巻野への用事があるのは放課後であって今ではない。
司暮が否定すると、澪はすぐさま回転椅子を回して再び司暮の方を向いた。
「用事、と言いますか……。五月女先生に一つ、お願いがあります」
「私に……お願い?」
澪は首を傾げる。ただでさえ珍しい来客だというのに、いきなりお願いがあると言われれば誰だって困惑するだろう。
しかしながら、お願いする立場である司暮自身も未だにそのお願いのことが良く分かっていなかった。本当にこんなことをお願いして何の意味があるのだと思うような、そんな内容故に、司暮は心配な気持ちでいっぱいである。
それでも、おそらく青羽には何かしらの意図があってのことだ。
一見、見切り発車で突拍子のない行動ばかりと思われていた行動も、先日の図書館の出来事できちんと考えられているものだと知った。――だから、きっと大丈夫。
暗示をかけるようにして自らの心配を払い除け、司暮は言った。
「今日の放課後、五時すぎになったら、進路相談室の前に立っていていただきたいんです」
「……えっと、立ってるだけでいいの?」
まさに司暮が青羽から作戦を伝えられた時と同じ疑問を抱く澪は目を丸め、お願いの内容が確かなのかを聞き返す。
「はい。それで大丈夫です」
「そのお願い、私でないといけない理由とかあったりする?」
司暮が正気で言っているのかを確かめた澪は、この行為に何らかの意味があることを理解していた。その上で、誰にでもできるこの行為を敢えて自らに依頼する理由は何なのか、という別の疑問を司暮に投げかけた。
だが司暮は生憎、それに対する答えを持ち合わせていない。問われて自分の中で考えてみるも、必ずしも五月女澪でなければならない訳がまるで分からない。
返答に困った司暮は、遂に、青羽から授けられた切り札を行使した。
「このお願いは、春木青羽という少女から伝えられたものです」
司暮がそう言うと、澪は再び驚いて目を見開く。
「――そう。分かった。そのお願い、ちゃんと引き受けるわ」
きっと青羽と澪が知り合いであろうことは、司暮の中でも予想はついていた。
けれど、それだけでなぜ澪があっさり受け入れることになるのか。司暮にはてんで分からなかった。
「ありがとうございます。では、失礼します」
青羽からの言伝を果たし、作戦の前段階は整った。司暮はきちんとお辞儀して、澪の元を、そして職員室を後にした。
司暮が教室に戻る廊下を歩いていると、一限開始五分前を知らせる予鈴が鳴る。
今日最後のこの音色が届いたその頃、司暮は重要な決戦に挑む。
けれど司暮の中には、やはり『不安』の二文字以外がまるで見当たらなかった。
* * *
放課後――進路指導室の中は、いつもいつも同じような張り詰めた空気。自分の場所だけ、酸素が薄くなっているのではないかと思うほど、不安で、緊張で呼吸が早まっていく。司暮はそれを抑え込もうとするに必死だった。
「……それで、結論は?」
焦げ茶色の長机に肘をつきながら、一層低い声で巻野は問う。
ただでさえ引き延ばしていたというのに、先週金曜のこともある。上手く事が運ばないことに対する苛立ちと怠さが、巻野の表情と声に現れている。
これが終われば、しばらくはこんな風に対面で巻野と話すことはなくなる。お互い、清々するのではないだろうかと思いながら、司暮は問いに答えた。
「自分は
司暮が口にしたのは、巻野が時折口にしていた大学である。
巻野曰く、司暮の志望校より二回りランクは低いながらも、かなり専門的なことが学習できる大学。嘘か誠か。自身を丸め込むために必死に捏ねたようにも思え、司暮はあまり信用はしていなかった。
だが巻野は、自分の意見を真摯に受け止めてくれたのだと思い、大層喜んでいた。
「そうか。ふむ……、いい選択じゃないか。今の成績ならきっと大丈夫だ。期待しているぞ」
初めは何とか感情を隠そうとしていた巻野だが、次第に内から漏れだす喜びに抗えなくなっていた。無自覚的に、硬直していたはずの頬が緩み、眉間の皴も消えている。
司暮が志望校を変更しただけでこの態度の変わりようだ。これでもかと手のひらを返す巻野に、当然司暮はいい思いはしない。心底憎たらしく、腹立たしく、気持ちが悪い。いくらフリとはいえ、彼の意見に乗っかったことを後悔しそうになる。
「悪かったな、今まで。君が頑なに雄立大学を受験したいと折れないものだから、つい口が悪い部分もあっただろう。ただね、奇跡なんてものはこの世には存在しないんだよ。全てなるべくしてなった結果でしかない。高望みをすることなく、今の現実から確実に受かるだろう所を選択するのは大切なことだ。今の時点でちゃんと諦めがついたというのは、きっとこの後にも大きく影響してくるだろうな」
巻野は滔々と自らの正しさを噛み締め、司暮に共感させようと話を続けていく。
司暮はこれら一切の言葉の言葉を聞き入れようとせず、聞いているフリに徹した。
「よし、それじゃあこれで終わりにしよう」
機嫌が頗るいいのだろう。長い話は終わりにしようと言わんばかりに席を立つが、その長話をしたのは何を隠そう巻野自身である。
司暮は心中悟られることのないよう、深々と溜息を吐く。
「それじゃ、気を付けて帰れよ」
「はい」
ストレスの蓄積する面談を終えた司暮は席を立つと、巻野に軽く会釈。すぐに背を向けて、進路相談室を後にする。
そうして、進路相談室から廊下に出た時のこと。
「うわっ!? 忘れてた…………」
扉の近くに、澪が壁に背を向けて立っていた。
小さな気配からそのことに気付いた司暮は、思わず驚いて距離を取る。
「自分からお願いしておいてそれはないでしょ~、時沢君」
「すいません……」
ちょっぴり不満げに頬を膨らませた澪だったが、すぐにその頬が萎んでいく――小さく吐かれた溜息のせいである。
「少し場所を変えてもいいかしら。少し話したいことがあるの」
職員室前の窓から差し込む夕日が急に陰ると、澪の表情に不穏な影が落ちた。
* * *
吹き抜ける風は、少しだけ冷たさを纏う。肌に触れるとヒヤッとするが、ここ最近の雨模様下の湿った風と比べれば雲泥の差。清々しく、心地がよい。
普段から解錠されている屋上には、いくつかベンチが置かれている。昼食時間にはここを訪れる生徒も多いが、本日最後の授業が終わってかなり経っている今は、誰一人として姿はなかった。
澪はベンチにはあえて座らず、グラウンドを見下ろすようにしてフェンスの前に立つ。司暮もそれに倣って隣に立った。
「話って、何ですか?」
単刀直入に司暮は問う。
今朝、澪にとって司暮が珍しい来客だと感じたように、司暮にとっても接点の少ない澪からの呼び出しには心当たりがない。会話の履歴も、その大半が今日一日に集約されている。
司暮から見る澪の横顔には、どこか懐かしんでいるかのような寂寥感があった。静かな夜の訪れを知らせる、茜色の夕日のせいかもしれない。
「彼女から、私とどういう接点があったのかは聞いたかしら?」
視線は遠くに向けたまま、いつもの声のトーンで澪は問い返す。
彼女――澪にお願い事をした張本人で、この場にはいない青羽のことだ。
「いえ」
「そっか、青羽だものね…………」
――相変わらずだ。
言外にそう含める澪の言葉が、ただの知り合いという関係性に留まらないことを改めて教えてくれる。
そしてその関係性の正体は、澪の口からようやく語られた。
「青羽は去年まで、私の教え子だったの」
澪は今年からこの高校に赴任している。そのことは知っていた司暮だが、その前任が青羽の通っている高校だというのは寝耳に水だ。
「現代文の担当生徒でもあったけど、美術部の顧問もやってたからその分接点多くてね。学校離れてからそんなに経ってないことももちろんあるけど、凄く印象に残る生徒だったわ」
澪は直截に言っていないが、司暮は青羽が元美術部員であったことを知った。
土曜の図書館で過去問を解いた際、答案用紙の余白に描かれていた沢山のイラスト――司暮がそれらを見た際に抱いた疑問が、一つ解消された。
だが、今度は別の疑問が生じる。
「美術部の顧問……? 五月女先生、今は茶道部の顧問ですよね?」
「私、幼い頃から色々やってたの。美術、茶道、書道、日本舞踊も少し習ってたかな。本当はこの学校でも美術部の顧問やれたら良かったんだけど、茶道部の顧問をお願いされて引き受けることにしたの」
「なるほど」
なんでも器用にこなせる人間は重宝される一方で、希望が通りづらく盥回しにされるという側面も持つ。皮肉なもので、決してどれも中途半端でないとしても、いつだって器用さは貧乏なものなのだ。
「本当なら、せめてもう一年は残りたかった…………なんて、この学校の生徒である君にこれを言うのは間違いね。ごめん、忘れて」
澪は、教師の中では十二分に若手である。高校ではあまり異動が多くない現状も踏まえ、少なくとももう一年は同じ場所に居られるだろう。澪はずっとそう思っていたし、それを望んでいた。
だからといって、異動を蹴るわけにもいかない。仮に自分一人の我儘が通ってしまうのなら、異動の仕組み自体が成り立たなくなってしまうから。澪は後ろ髪を引かれる思いながら、赴任を受け入れて今に至る。
「あ、ごめん。そろそろ私、戻らないと」
澪は左の手首に光る腕時計を確認し、そう言った。
日は先程よりもさらに傾き、茜色の空が薄っすら灰色を帯びている。間もなく静寂な夜が訪れることを、空色が告げていた。
「最後に一つだけ」
澪はそう言って、人差し指を立てる。
その奥に覗かせるのは、彼女らしい魅惑的な笑み。
「青羽のことは信じていいと思うよ」
澪は別れの挨拶代わりにその言葉を残すと、踵のやや高い靴を鳴らして屋上を去っていった。
司暮はそっと空を仰ぐ。
決して、青羽のことを疑っていたわけではない。第一、そんな素振りを澪の前で見せたわけでもなかった。
『信じていい』なんて、わざわざ言い残すまでのことだろうか。
違和感という居心地の悪い気持ちが、まるで空に浮かぶ雲のように居座った。
司暮にとって、重要な分岐点と位置付けた大一番の一日が終わりに近づいている。こうしてまた、本番への時間も刻一刻と短くなっていく。
果たして、大きなハードルを一つ乗り越えられたのだろうか。
『君は受験できるようになれば、それでお終いなのかな? 違うよね。志望校に合格するまでが君のゴール』
どちらにせよ、勉強を怠ってこんな場所に居る場合ではない。先日の青羽が教えてくれたことだ。
司暮は気合を入れて大きく息を吐くと、段々と冷え込み始める屋上を後にした。
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