第3話 突破口

 土曜の朝、午前八時。

 ポツポツと屋根に落ちる雨音は、司暮の部屋の中で寂しく籠って響く。外は相も変わらず雨模様だった。

 ここ最近は考えることが多すぎるあまり、よく眠れていなかった司暮。そこで溜まっていた疲労と、青羽に連れ回されての疲労が相まって、昨晩は深々と眠りに就けていた。

 欠伸をしながら、力いっぱい伸びをする。

 休日とはいえ、それはあくまで世間一般における休日。ローマは一日にして成らず、受験生には一日たりとも休日の二文字は存在しないのだ。ましてや、教師に諫められるほど進路が危うい状況の司暮。まとまった時間の取れる休日で頑張りこそが、今後を大きく変えるための鍵となる。


「勉強するか」


 とにかく受験生は机に向かって頭を動かすに尽きる。

 朝食前に一時間ほど勉強しようと司暮が机に向かった時だ。


『ピロロン♪』


 今の司暮にとって何よりも不穏な音――スマホの通知が鳴った。

 真っ先に思い浮かぶ可能性に司暮は若干怯えつつも、無視する方がよほど恐ろしいと思い、ベットに置いたままだったスマホを手に取って確認する。


『まずはお手並み拝見!』


 送り主は言わずもがな青羽だ。相変わらず謎の上から目線で挑戦文風の文言とともに、とある画像が一枚添付されていた。

 昨日喫茶店に行く前に見せられたものと同様の地図。中央の赤いピンは、司暮も見知ったとある場所を指し示していた。

 訳の分からないメッセージだが、この付属情報があればその方向性に何となく予測がつく。凡そ、ここに来いと言うのだろう。


『午前十時、そこの前待ち合わせで!』


 司暮の予想は見事に的中。だが、その待ち合わせ日時に盛大な問題がある。

 本日、現在時刻から二時間後に集合――。


「あまりに唐突すぎる……」


 昨日、いくらでも伝える時間はあっただろう、と思いながら司暮は深く嘆息した。

 結局のところ、前触れ無しなのは変わらず。何のために連絡先を交換したのか、まるで分からない。

 ただ、今更愚痴がましく溢していても仕方のないことだ。司暮はせっかくした勉強の用意を片付けつつ、外に出る支度を始めようと動き始めた。

 しかしそこに、新たなるメッセージが届く。


『ごめん、やっぱ九時で』


 目にした瞬間、司暮は無言でスマホをベットに放り投げた。

 改めて部屋の中にある時計を見やれば、その待ち合わせ時間までは一時間を切っている。


「こんなことなら連絡先交換しなきゃよかった……!」


 司暮は大層慌てて、急ピッチで支度を進めたのであった。



 青羽が指定した場所は、家から徒歩十五分ほどの位置にある大きな市立図書館である。少し遠目から見てもそれと分かる、まるでデパートのような外見が特徴だ。

 司暮に読書趣味はない。故に、この場所は司暮にとって縁遠い場所にも思えるが、実は数度訪れていた過去がある。いずれも休日、親が家にいる際に外で勉強するためであった。


「おはよう、司暮君!」

「……おはよう」


 先に着いて待っていた司暮の所に、リュックを背負った青羽が姿を現す。言いたい文句は山積していたが、どの道言っても無駄なんだろうなと、春木の何も気にしていないような表情を見て司暮は思う。

 休日ということもあり、春木はいつもの制服姿ではなかった。

 袖を余らせた臙脂色のスウェットに黒のタイトスカート、少し踵の高めなスニーカー。女子高生らしい秋コーデだが、どちらかと言えばクール系女子のファッションだ。彼女のどちらかと言えば幼く可愛らしい見た目には不相応なはずだが、春木はそれを完璧に着こなし、いつにもなく仄かな色気すら纏わせていた。


「それじゃ、行こっか!」


 まるで遠足に向かう小学生のようなテンションで、春木は図書館の中へと入っていく。またもや嫌な予感に苛まれつつも、司暮はその背中を追いかけた。

 ここは市内では最も大きい図書館――普段は多くの人が様々な目的で訪れる場所だ。本を読む人はもちろん、調べ物をする人、司暮のように勉強するために訪れる人もいる。

 だが、今日は訪れる人が随分と疎ら。図書館全体が開館して間もない時間帯ということもあるが、外の雨模様が足を遠退かせる原因の一端になっていた。

 そんないつもより閑散とした館内を進んでいく青羽。果たしてどこへ向かうつもりなのか、と司暮が呑気に後ろを歩いていると、司暮にとって見覚えのある一室の前で足を止めた。

 図書館二階にある、教室大の空間――自習室である。


「ここでちょっと待ってて」


 入室して早々、青羽はそう言い残して一度自習室を後にする。

 黒板がホワイトボードに、机が白い長机になっている他は、学校の教室と大差ないシンプルな部屋。勉強の大敵である誘惑となり得るものは何一つ置かれていないからこそ、勉強には最適な場所と言えるだろう。

 他に誰もいない自習室に一人取り残された司暮は、入り口近くの席に腰を下ろす。

 特に指示がなく、何も持ってきていない司暮。手持無沙汰に青羽の帰りを待つこと約十分。遂に青羽は自習室に戻ってきた、が――。


「何してんの」


 司暮が扉の方から妙な物音がしたことで振り向くと、ガラス扉の先にいる青羽と目が合い、思わずジト目になる。

 その青羽は零れんばかりの本を抱えるように持っていた。

 青羽がいる側は私語厳禁の共有スペースなので、青羽は酸欠の魚のように口を必死にパクパクして「あ・け・て」と伝える。両手が塞がった影響で、入り口のドアノブが引けないのである。


「はいはい」


 世話が焼けるなぁと思いながら、司暮は入り口を開けた。


「お、重かったぁ……」


 ドスンと本が机に置かれる音が重々しい。腕が疲れたのか、青羽は両手を軽く揉み解している。


「何? これ」

「受験生ならみんなやる過去問集」

「そういう意味じゃなくて、なんで持って来たのかって話だ」


 青羽が持ってきた数冊の本は全て同じシリーズのもの。各大学入試における過去問を収録したまるで辞書のような本で、表紙一面が赤いデザインであることから、通称――赤本と呼ばれている。


「言ったでしょ? お手並み拝見って。私、君が一体どのラインにいるか知らないもん」


 一冊一冊、確かめるように手に取りながら青羽はそう説明した。

 青羽が、『大作戦』と銘打った作戦の中で何をするのかは未だ司暮は知らずにいる。つまり、この場で学力の程を測ったところでそれをどう生かすつもりなのかも分からない。

 だが、過去問を解く行為自体はどの道受験勉強になる。ここで断る理由もないな、と司暮は思った。


「それじゃあ一冊ずつ、各教科一、二問程度解いて見せてね。はい、これ答案用紙に使って」


 そう言われて、青羽からルーズリーフ数枚と筆記用具が手渡される。

 自習室内は司暮と青羽の二人だけ。普段のテストや模試とは違うシチュエーションではあるが、室内の際立った静謐さが司暮に適度な緊張感を与えた。

 司暮は大きく息を吐き出す。

 そして、与えられた指示通りに解答を開始した。



* * *



 あれから早二時間以上が経過していた。

 自習室にはペンを走らせる音と紙を捲る音だけが響き続ける、試験さながらの環境に代わっていた。


「これで一通り終わったけど」


 依然として自習室にいるのは二人だけ。特に周りを気にする心配もなく、司暮は普段通りの声量で青羽に終了を報告し、最後の答案用紙を手渡した。

 途中で休憩を入れることなく集中していたこともあり、司暮は首を巡らせながら凝りを解す。


「お疲れ様~。一応模範解答見て採点してみたから、今貰ったやつの採点終わるまで確認してて」

「分かった」


 一枚一枚、司暮が解く度に横に流していた答案が纏めて返却された。

 無作為に問題を選んだ影響で、一部司暮にとって既視感のある問題も含まれていたものの、大半は初見問題。簡単な問題もあれば難しい問題も満遍なくあったため、司暮はすぐさま復習しようと答案に目をやった。

 しかし、全くと言って重要な採点の方に目がいかない。


「…………?」


 司暮が答案用紙代わりにしていたルーズリーフ。解き終えて青羽に渡す際には、いくらか空いたスペースがあった。

 ――だが、その空白がまるで見当たらない。

 そのあったはずのスペースと置き換わっていたのは、この場においてまるで場違いな、アニメ調で描かれたキャラクターイラストの数々だ。

 表情豊かに、笑い、泣き、怒り、悲しみ。喜怒哀楽の表情を見せるキャラクターたちが、紙面上で生き生きとしていた。


「なんなんだ、この所々に描かれたイラストは……」

「……あっ、うん。あんまりにも暇だったもんで」

「暇だからってなぁ……。まぁ立場上、あんまり強くは言えないけども」


 暇だから。

 そう言う青羽だが、これはそういう次元では描けないレベルではない、と司暮は思う。

 繊細で安定したタッチ、卓越した感情表現。素人目の司暮ですら、あまりのクオリティーとその絵の数には呆気にとられていた。


「イラスト描くのが趣味なのか?」

「うーん、趣味……ではないかな。でも描くのは好きだよ」


 言われて再度、司暮はイラストに目を向ける。

 好きこそ物の上手なれ――それをまさに体現しているのがこのイラストなのだろうか。

 だが果たして、好きだからという理由で描いただけでこのレベルに達するものなのか。相当な練習量、長きに渡る鍛錬の末にようやく辿り着ける、そんなプロフェッショナルな一面すら垣間見せるこのイラストたちが、司暮の中に納得できる部分と納得できない部分を共存させていた。

 しかし、そんな思考を春木は物理的に遮った。最後に渡した答案用紙をイラストの描かれた紙の上に被せて置く。


「おっけ、これで終了。何となく掴めたかな」


 青羽は満足げに息を吐き、持って来た本を手元に手繰り寄せる。


「わざわざこんなことしなくても、模試の結果とか見せるだけでも良かったんじゃないのか?」


 全てを終えた上で、やる前から疑問に思っていたことを言及する司暮。

 実力を測るという名目で過去問を解かせたその意図は理解できる。ただそれだけならば、より詳細なデータを乗せた模試の結果を見せるだけでいい――むしろ、その方が精度の点でも効率の点でも上回るはず。

 だからこそ司暮は、これをしなければならなかった明確な理由を知りたかった。


「得意不得意と現状の位置を見るだけなら、確かにそれでいいと思うよ? でも私としては、解き方と回答の仕方とかまで含めて確認したかったから。それに何より、本当に今、現時点の状態を知りたかったからね。模試だと、案外前の結果になっちゃうし」 

「なるほど……。それで難易度もバラバラな記述式問題を解かせた、と」

「一応今回のを見る限り、得意科目は数学で苦手科目は英語と国語の古文漢文、その中でも英語に関しては相当な苦手意識持ってるように思えたけど、当たってる?」

「……ご名答」


 ぐうの音ないほど正確無比な実行結果に、司暮は改めて酷い現状を目の当たりにして視線を落とす。

 高校二年に進級する際、司暮の高校では文理選択を迫られ、それによってクラス配置や授業の内容が左右される。司暮の場合、文系科目を苦手とし、理系科目――とりわけ数学を得意としていたので、必然的に理系専攻となっていた。

 しかしながら、根付いた苦手意識はそう簡単に克服できるものではない。司暮にとって文系科目は、長らく司暮の足を大きく引っ張る存在であった。


「それで? 結局春木はこれを知ってどうすんだよ?」


 司暮は改めて、今日呼び出した大元の目的を訊ねる。

 すると青羽はニヤリと笑みを溢した。


「今日から私が、君の先生になるの」

「はい?」

「要するにね、今日から受験に向けて、私が司暮君の苦手科目を克服できるよう指導するってことだよ。あ、もしかして私、勉強できない風に見られてた?」


 司暮はこれでもかと首を数度縦に振った。

 それもそのはず。

 どれだけ思い返してみても、青羽の言動はとても聡明な人間のものとは思えないものばかりなのだから。

 だが、さすがの青羽もこの司暮の反応にはショックだったらしく、不満げに頬を膨らませた。


「心外だよ、司暮君! これでも私、勉強は得意なんだからね?」

「『これでも』って自分で言っちゃってるじゃん……。まぁ、それは一旦置いておいてだ。今から期限の月曜までに、巻野を納得させられるほど成績を上げるのはいくら何でも無理があるんじゃないのか?」


 青羽が打ち出した大作戦――『時沢司暮、無事に志望校を受験させる大作戦』の概要が、ここから約二日で巻野に頷かせるほどの成績まで押し上げるというのものなら、それは余りにも無謀すぎる。

 確かに、実に青羽らしいド直球な案ではある。

 しかしながら、こんな短期間で急激な成績の上昇は、どんな名教師でも成し得ないだろう。可能だというのならば、青羽にはとんだ才能があるに違いない。とにかくこの案には全くと言って現実味がなかった。

 青羽はそんな司暮の反応に対し、少し慌てたように訂正する。


「あ、違う違う。これと作戦とは全然別だよ?」

「別ってどういう意味だ? ってか、今までやってたのは何だったんだよ」


 さっぱり要領を得ないと、司暮は首を傾げる。

 青羽はそんな困惑顔を読み取ると、司暮から顔を背けてどこか遠くを見るような目で真っ直ぐ前の席の方を見つめた。


「君は受験できるようになれば、それでお終いなのかな?」

「!?」

「違うよね。志望校に合格するまでが君のゴール。入学からずっと君が目指してきたそのゴールテープを切るためにはさ、どの道、苦手の克服は避けて通れないんじゃないかな?」


 その言葉は不思議と、司暮の中にスッと入って来た。

 いつしか、目の前のことばかりに悩まされて、大切なことを忘れてしまっていたのだ。

 巻野の考えを改めさせ、自らの志望校を受験できるようにすることは決してゴールじゃない。それはあくまでもスタートラインだ。

 青羽の言うように合格に向けてすべきことをしない限り、仮に受験できたとしてもまるで意味なんかない。受験した先で合格することこそが司暮にとってのゴールで、ずっと掲げてきた目標なのだから。

 青羽は視線を司暮の目下、答案用紙に向ける。


「入学からずっと目指してたんだよね。口だけじゃないことは、改めて見させてもらったよ。君は決して怠惰でこの位置にいるわけじゃなくて、本当に悩みに悩み続け、その場で藻掻き続けてる。そこから脱出する手助けを、私にさせて欲しい」


 いつもの溌溂さは影を潜め、ここには少し大人な青羽がいた。笑顔がいつにも増して優しく、柔らかい。まるで女神の微笑だ。

 青羽から差し出されたのは、千載一遇の救いの手。司暮にとって、これほどまで心強い存在もないだろう。

 けれど――。


「…………」


 司暮はすぐに決断が下せなかった。

 ただ俯くばかりで、青羽の言葉に対する応答はない。


「……大丈夫。結論を焦ることはないよ?」


 無言が続く司暮の様子を見かねて、青羽が気遣いの言葉をかける。そして、先ほど持って来た赤本を抱えて席を立つ。


「一先ずこれ、返してくるね。使いたい人、他にいるかもしれないし」


 そう言って青羽は、司暮の返事を待たずに自習室を出ていった。



 再び一人になった自習室。司暮は無機質な天井を仰ぐ。

 現状司暮は、猫の手も借りたいほどの窮地に立たされている。その突破口になるかもしれない青羽を拒む理由も、選り好みをしている余裕もないはずだった。

 しかし司暮には、即決できない事情がある。

 司暮の脳内に映し出される昔懐かしい光景、聞き覚えのある声と声。全てはその記憶が司暮の判断を鈍らせていたのだ。

 ただ、合格しないと元も子もないし、背に腹は代えられない。

 一人になって冷静になれた司暮は、ようやく決断に至った。


「決めた!」


 静かすぎるほどに物音一つしない部屋の中に自分の声が反響し、自身がどこにいるのかを思い出した司暮。恥ずかしさのあまり、思わず両手で顔を覆った。


「ただいま~って、どしたの?」

「いや、別に……」


 声こそ聞こえていないものの、その仕草を見て不思議そうに表情を窺う青羽。

 司暮は一度呼吸を置くと、青羽にしっかり向き合った。


「春木」

「うん……?」

「俺に勉強、教えてくれないか?」


 一瞬、司暮の言葉に驚いた反応を見せた青羽。それでもすぐさま、表情に花を咲かせた。


「もちろん! 私に任せて!」

「……でもさ、正直まだ、春木が教える立場にいることが信じられないんだよね」

「少しくらい信用してよ~!」


 そんな青羽の不満声が自習室に響く頃。

 図書館の外では、正午を知らせる鐘が鳴っていた。



* * *



 じゃんけん。

 それは、最も簡易的な勝負方法の一つである。

 グー、チョキ、パー。そのいずれかを出して戦い、三分の一で勝ち、三分の一であいこ、三分の一で負けとなる。この時、相手が何を出すかは分からないため、実質的には運によって勝敗が決する。

 すなわち、じゃんけんが強い、弱いというのは運が強いか否かと同義である。


『最初はグー、じゃんけんポイ!』


 司暮と青羽、二人が息を合わせて掛け声を口にした刹那、勝敗が確定する。

 司暮がグーを出し、青羽がパーを出した。


「……負けた」


 少しだけ悔しそうに、司暮は項垂れた。


「狙ったなら司暮君にとっては勝ちだけど、勝負には負けたね」

「やかましい」


 司暮は青羽から鮭のおにぎりを受け取ると、腹いせと言わんばかりに、パリッとした海苔に巻かれた三角おにぎりに齧り付いた。



 遡るは数分前。

 正午を過ぎ、青羽が「一旦昼食を食べに行こう~!」と言ったことをきっかけに、二人は図書館のすぐ近くにあるコンビニエンスストアを訪れていた。


「私、何か適当に買ってくるね」


 そう言って一足先に店内に向かう青羽に任せ、司暮は彼女の帰りを店の外で待つことにする。

 相変わらず、外は雨模様のままだ。強くなったり、弱くなったりすることもなく、シトシトと降りしきる。そろそろカラっと乾いた気持ちの良い秋晴れが恋しくなってきたな、と司暮が心の中で、お天道様に迂遠な注文をしていた頃。


「お待たせ! おにぎりで良かった?」

「うん」


 青羽が片手に商品の入ったビニル袋を引っ提げて歩いてきた。


「まぁ、それならここで食べるか」

「そうだね」


 司暮の提案に、青羽は空を見上げて賛同する。

 図書館内は言わずもがな飲食禁止。晴れている日なら外のベンチで食べることができたが生憎の雨でそれも叶わない。仕方がないので、食べ終えるまではこの場所に滞在することにした。


「それじゃあ……、負けた方が鮭、買った方がシーチキンね!」


 またしても、青羽のやることは突拍子がない。青羽はそう言って両手で拳を握り、ファイティングポーズをとる。


「俺は別に鮭でいいんだけど、好きだし。第一、何だよその構えは。殴り合いでもするつもりか?」


 青羽の購入品はおにぎり二つ。どちらのおにぎりの具も不動の人気を誇るツートップではあるが、司暮の場合は基本迷わず鮭を選択する。加えて、青羽が勝ちにシーチキンを据えていることから、凡そ青羽がシーチキン派であることは推察できる。わざわざ勝負する必要なんてまるでないだろ、と司暮は胸中で呟く。


「それじゃーつまんないじゃん? だからじゃんけんでどっちを食べるか決めようよ」

「まぁ別にいいけど」


 別に司暮はシーチキンが嫌いなわけではない。むしろ、おにぎりの具としてはベストスリーに入るくらいの好物だが、鮭の方が好みだからという理由で鮭を選んでいるだけである。もしシーチキンになってもそれはそれでいいので、司暮は何となくその勝負を受けることにした。

 ――かくして、司暮はじゃんけんの末に敗れ、結局鮭おにぎりになった。

 別に司暮は狙ったわけではなく、普通にじゃんけんをしただけである。負けてもいいとは思っていたが、いざ負けてみると不思議とちょっぴり悔しいもので、なんだか複雑な気分によって鮭の味がいつもよりしょっぱく感じられる。


「運をつけることも大切だよ? 選択問題で分からない問題に出くわすこともあるだろうし」

「要するに神社で幸運を拾って来いと、先生はそう仰るのですか」

「うんうん。太宰府天満宮とかいいんじゃないかな?」

「学問の神を祀ってるからか……ってそうじゃなくてだな。そうならないために、もしくはそこで落としても合格できるようにこれからも勉強するんだよ。運は二の次だ」

「だね! お昼からも頑張ろっ!」



 二人はそうして食事を済ませると、すぐさま図書館内の自習室へと戻って来た。

 先程と変わらず自習室には誰もおらず、午後からもしっかり勉強に集中できそうな環境が整っていた。


「さてと。英語の勉強に入る前に、まずは司暮君の抱えている問題点を挙げるよ?」


 午前中は横並びだったが、今度は司暮の座る前の席に後ろ向きで座る青羽。自習室に入る前、新たに借りてきた参考書を開いて司暮の机の前に置く。


「司暮君、実はそこまで英語の能力は低くないと思うんだよね。ただ、配点の多くを占める長文問題が解けていない影響が全体の得点を下げてて、そのせいで英語そのものに苦手意識を持っているだけだと思うの。司暮君の目指す雄立大学を始めとした難関大学では特に長文問題の割合が多いし、その克服は必要不可欠になってくる。とにかく今の司暮君の最優先課題は、その長文問題で得点する力を身に着けることだよ!」


 ドヤ顔で、参考書をバンと叩いた青羽。

 きちんと筋の通った説明で、司暮も決して否定はしなかった。振り返ってみれば、確かにどの模試でも長文問題の正答率は低く、特に記述式の模試では酷い有様だった。

 しかしながら、長文問題が苦手なことは元から自覚があったことだ。問題の焦点は、むしろこの先にある。


「じゃあ、どうやってその得点力を磨くか……と言いたいところだけど、きっと司暮君の場合は意識を変えるだけで望むラインまで到達できると思うよ」

「意識? 苦手意識を持たないよう、『得意だ、得意だ』って自己暗示をかけるって意味か?」

「ううん。長文問題を解く上で何を意識するか、だよ。例えば司暮君の場合、提示された問題文全てを満遍なく、全て理解してから問題に挑むよね?」

「そりゃそうだろ。問題の答えは全て問題文の中にあるんだし」

「うん、まさに司暮君の言う通りだよ。問題の答えは全て問題文にあると言うのは、英語長文だけでなく、国語の現代文も共通だね。じゃあ、司暮君はなぜ現代文の得点は高いのに、英語の長文問題では得点できないんだと思う?」

「それは、問題が日本語か英語かの違い…………、っ!」


 司暮は青羽の誘導尋問に淡々と答えてきたが、その中でとある希望があることに気付いた。

 吃驚する司暮の表情を見て、青羽は満足そうにニコニコ微笑みを湛える。


「つまり司暮君は、現代文同様に高得点を取る可能性が眠ってるってこと。良かったね!」

「……でもそれを知っただけで、実際に得点が取れるようになるわけじゃないだろ?」

「もちろん。そこで、さっき言った『意識』の話が出て来るわけですよ~」


 そう言って青羽は、自らの鞄の中からルーズリーフを数枚持ち出して参考書の上に重ねる。そのルーズリーフとは、先ほど司暮が答案用紙として使っていたもので、司暮の字と青羽のイラストで紙面が埋め尽くされていた。


「今回は貸し出しの赤本だったから書き込みできなかったけど、おそらく司暮君は問題用紙の隙間を活用して、色々メモしながら解いていくスタイルだよね?」


 青羽は今回の答案用紙に目を落とす。

 普段の模試、本番では答案用紙にメモすることはできない。今回だけ特別に答案用紙にメモすることが許されていたため、解答の傍には英単語や文の和訳が記されている。


「別にメモすることを否定するわけじゃないよ? むしろ大切なことだよね。でも司暮君の場合は、問題文全てを完璧に理解しようとする余り、時間を大幅にロストしてる。今回もそうだけど、時間が足りなくて回答を空白になることもあったんじゃないかな。もしくは、空白を避けようとして慌てて問題を解こうとしたこととか」

「それは正直、結構あったな……。それで大問丸々落としたこともある」


 例えば、今表側になっている問題。大問一つに対して小問が四つ。しかし、そのうち四問目が空白になっていて、代わりにその部分が青羽の可愛らしい笑顔の女の子キャラクターで埋まっていた。

 青羽は借りてきた参考書内にある、英語長文問題の記されたページを開いて見せ、話を続ける。


「実はね、英語の長文問題には傾向があるんだよ。例えば、一つの段落に言いたいことは一つだけしかないとか、伝えたいことは先に書かれてるとかね」


 一般的に英語の文章においては、話題が変わるときに改行して段落を分けることがマナーとされている。また同様に、不親切に思われるという理由から、日本語のような起承転結はなく、結論が先に書かれることが多い。

 そんな、国語の現代文にはない傾向が英語の文章にはあると青羽は言った。


「――要するに、全部同じように理解しようとするんじゃなくて、重要な部分とそうではない部分に優先順位をつけて理解する。これが長文問題を解く上での鉄則だよ!」


 司暮にとっては目から鱗のような情報だった。

 もし、誰かを頼れていたのなら、このことをもっと早くに知ることができていたのだろうか。だとすれば、進路のことであれこれ障害が発生したりなんてなかったのだろうか。

 意味のない仮定だと司暮は思いつつも、そう思わざるを得なかった。それほどまでに、青羽の助言はここから先のへ進むための起爆剤になり得るものだったのである。


「因みにね、古文漢文でも同じことが言えるよ。求められる知識は満たしているから、後は解き方の問題だけだね。時間効率のいい解き方を身に着けられれば、きっと志望校に合格できる、ううん絶対にできるよ!」

「……ありがとう。まさかこんな的確なアドバイスしてくれるとは思ってなかった」

「私のことを侮って貰うと困りますなぁ~。と言っても、こんな抽象的なアドバイスくらいしかできないんだけど」

「いや、十分だ。それに、改めて合点がいったよ。わざわざ目の前で過去問を解かせた理由」

「おかげで私は、司暮君の詳細なデータを取らせてもらったよ」

「気色悪い言い回しをするな」


 てへへ、と青羽は舌を出す。

 青羽の正確な分析は、机上の答案用紙あってのことだ。得点だけに目を向けず、どのように解いているか、どのような傾向にあるかまでをそこから特定したのである。決して今日呼び出したことが、突然思いついての見切り発車でないことを裏付けていた。

 見た目にそぐわず、青羽はかなり頭が切れる。人を見た目で判断してはならないという教えは、強ち間違いではなかったのだなと、司暮は内心で少々失礼な感想を抱いた。


「さてと、それじゃあ後は反復練習あるのみだよ!」


 青羽に促されるがままに、司暮は青羽が用意した参考書の問題を解き始める。青羽はそれを常時見守り、時折アドバイスを送った。

 受験本番まで残された時間は決して長くはない。

 短期間で急激な得点アップは望めない、と現実的なことを口にしていた巻野に、司暮もこれまではただ頷くしかなかった。

 それでもようやく、可能性の入り口が見えてきた。

 司暮は今一度気持ちを引き締め、青羽とともに日が暮れるまで勉強に打ち込むのであった。



* * *



 図書館の開館と同時に来て、閉館と同時に帰宅する。司暮と青羽は翌日も土曜と同じような時間を過ごし、日曜の夕方を迎えた。

 木曜に突然降り出した雨はその後弱まりつつも、現在まで降り続けている。しかしながらようやく出口が見えたのか、司暮と青羽が図書館を出る頃には遂に、傘を差さなくても済むくらいの小雨――霧雨となっていった。


「わーい! ミストだ~」


 天然のミストを全身で受け止めるように腕を大きく広げ、図書館前の広場をはしゃぎ回る青羽。芝生を駆け抜ける度に、水飛沫が舞い上がる。


「自分の年を考えろよ……、ったく。風邪引くぞ?」

「司暮君も偶にはこうやって羽を伸ばすといいよ。いっつも難しい顔してるし」

「受験生がそんなのほほんとしてる方がよっぽどどうかしてるだろ。第一、今はそんなことする気分じゃない」

「……どうして?」


 青羽は急に足を止めると、身体を捩って問う。


「あのさ、肝心なこと忘れてないか?」

「う~ん……。何だろね?」

「おい!」


 思わず反射的に突っ込んだ司暮は、その後深く嘆息する。

 一方の青羽。必死に思い出そうとしてはいるが、未だに何のことか分からず頭の上に疑問符を浮かべていた。


「明日だよ、明日。巻野先生に進路先伝える期限」

「あ、それだ!」

「『それだ!』、じゃねぇんだよ。作戦を実行するとか言ってた張本人が忘れてどうすんだ」

「ごめんごめん。目先の英語の勉強のことばっかりで完全に忘れてた」


 そう言われてしまえば、司暮もこれ以上責められない。英語のことにしても、青羽が自分のためにやってくれていたことなのだから。

 ただ青羽にも、ここまで忘れていられただけの理由がある。


「まぁでも安心してよ。とっておきの策があるから!」

「まーたそんな大仰な……。嫌な予感しかしないんだけど?」

「その名もね、『司暮君は諦める大作戦』だよ」

「…………は?」


 理解不能、予測不能の言動というのは、いつもの青羽そのものであり、彼女のアイデンティティでもある。

 しかしながら今回ばかりは、本当に微塵も理解が及ばない無茶苦茶加減。

 司暮はその場に立ち尽くし、呆然と瞬きを繰り返すばかりだった。

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