第2話 新たなる風

 昨日夕方、突如街を襲った大雨。その元凶たる秋雨前線が停滞し、ここから数日は雨が降る予報だと天気予報士は告げた。

 偏に雨音と言っても、耳を澄ませば様々である。テレビの音に勝るとも劣らない外の雨音は、庭に、屋根に、倉庫のトタンに打ち付けて様々な音色を奏でる。決してテンションの上がる様な楽し気な気持ちにも、名曲を聴いた時のような感動的な気持ちにもさせてはくれないけれど。

 いつだって曇天は人の心に大きな影を落とすもの。昨日からずっと、司暮の心模様は決して晴れることがない。


「はぁ~あ…………」


 誰もいないリビングで一人朝食をとる司暮は、仰々しく重たい溜息を吐く。

 一家三人暮らしの時沢家。しかし、放任主義で仕事第一の両親はあまり家には帰ってこない。特にその傾向が著しくなった近年は、実質的に司暮が一人暮らしをいているような状況であった。

 そんな暮らしを小学校の頃から経験している司暮。いつしか環境に適応して、可能な限りの家事はこなせるようになり、今日の朝食も簡易的ではあるが司暮のお手製である。

 白米、白出汁の卵焼きに付け合わせの生野菜サラダ、大根の味噌汁。湯気立ちこめる和風の朝食を順々に口に運んでいく。

 ただ、そんな司暮の目はかなり虚ろだ。テレビに流れるニュースの一割も頭に入っていない。原因は言わずもがな、昨日発生した本日放課後の懸念事項である。


「行くか……」


 時刻は八時手前。司暮の通う茜雲北あかねぐもきた高校までは徒歩十分ほどである。

 あまりに重たい腰を持ち上げると、食べ終えた食器をシンクに置き、きちんと水に浸けてリビングを後にした。



 司暮は現在、高校三年生。進学希望のため、大学受験を近くに控える受験生だ。

 十月も末を迎え、多くの生徒が志望校の方向性を固める時期。本番もかなり近づき、一分一秒も無駄できない時間が続く。

 もちろん、司暮とて例外ではない。

 難関大学志望の司暮は、夏休み期間で予備校主催の講座にも積極的に参加するほど、受験に対する意識が高い。それどころか、周りの生徒の誰よりも早く――高校入学とほぼ同時期から受験を視野に入れて勉強に励んでいた。受験に向けた勉強量で、彼の右手に出るものはいないと言っても過言ではないだろう。

 しかしながら、それだけの努力が思うように報われない。

 学年成績では常に上位に推移しつつも、定期的に行われる全国模試の結果が芳しくなく、伸び率もさほど良くなかった。

 そうして、夏休み明けに行われた面談では悲痛な宣告を受けることになる。


『辛いことを言うようだけどね。現状の学力ではこの学校に合格するのは難しい、と言わざるを得ないんだよね。一ランク、二ランク、或いは三ランク下のラインまで視野に入れておくように』


 事実上の不可能宣言だった。

 誰よりも早くから意識高く研鑽し、周りの生徒が青春を謳歌する中でも脇目を振らず勉学に励んだ司暮にとって、この言葉は鋭く、重たい一撃であった。

 初めこそ、『ぎゃふんと言わせてやる』と息巻いていた司暮。しかしながら、それから先も思うように成績が伸びない状態を見るにつれて、一家言のある教師の言っていたことが正しいのではないかと、徐々に思うようになっていく。

 そうしてしばらく経ち、再び行われた面談。

 それは昨日の早朝に行われた。


『一先ず明日の放課後まで時間をやるから、その時にきちんと現実味のある進路を教えて貰えるかなぁ……。そうでないと、お前のためにもならないだろ?』


 例え本当にそうであったとしても、もう少し言い方はあるだろう。

 生徒を希望する進路に進ませることが教師の担う仕事であるなら、いかにしてそこに向かわせるかを議論すべきではないか。教師に対して思う部分はあった。

 だが、それに対して反駁することだけはできなかった。

 自らが本気で考え、行動してきたことをまるで冗談のように扱われてしまったことは当然悔しかった。誰よりも惜しまなかった努力を軽んじられることが、酷く憎かった。それでも、結果が伴っていなければ意味がないと言われてしまえばそれまでの話。長く、多くの生徒を見てきた先生の指導を否定する資格など自分にはないのだと思う気持ちは、教師に対する憤りを上回っていた。

 結局、その日は何も言い返せずに面談は終わり、途方に暮れた司暮。そうして放課後、突如降り出した雨の中、傘も差さずに公園へと繰り出していたのである。



 迎えた今日、教師の言う『現実味のある進路』を伝えるために設けられた面談が放課後にある。

 どのような結論を下すべきか。雨に打たれていた司暮はその議論に匙を投げようとしていたが、彼女との出会いで再び思い出すことになり、あろうことか余計な懸念事項まで増やされてしまっていた。


「――という感じで、今日の授業はここまでね。来週はこの続きからやるから、それまでに予習復習をしておくように」


 七限の現代文担当の女性教師がそう告げたと同時に、授業終了を知らせる鐘がなる。刹那、三年A組の教室中に弛緩した空気が流れ出す。

 急いで帰り支度をする者、世間話に花を咲かせる者。そんな周りの様子に目もくれず、司暮は先程の授業ノートに目を通す。


「またあいつ勉強してんな」

「いつものことだろ? 一年の頃からあんな感じだし」

「よくもまぁ、あんなに勉強できるもんだよなぁ。飽きないものかね……」

「さぁ、どうだか。凡人には到底分かる気もしないけど」


 周りの男子生徒たちが、司暮の座る教室最後列窓側の席を眺めつつ話す。

 明らかに司暮の気に障りそうな会話ではあるが、当の司暮は歯牙にも掛けない。こういった出来事は日常茶飯事である上に、既に慣れ切ってしまっているのだ。

 第一、今の時期になっては、受験生なのだから勉強して当然だろう、と司暮は思う。他人の行く末に興味はないが、人の振り見て我が振り直せとは言い得て妙だ。ただ、今更受験に対する向き合い方を変えたところで手遅れではあるのだが。

 ある程度復習に見切りをつけ、ほぅと小さく息を吐く司暮。教室の黒板上に掛けられた電波時計は午後四時四十五分を指していた。

 来たる面談まで残された猶予は十五分。

 司暮にとっては、この先を左右する大切な面談だ。当然緊張はあるものの、その場で口にすることはもう決めてある。何も臆することはない。

 司暮は意を決して席を立つと、単身、職員室横にある進路相談室へと向かった。



* * *



 昨日の朝ぶりに訪れた進路相談室。その扉の前に立つ司暮は、昨日とは少し違う辺りの雰囲気を感じていた。

 昨日は生徒の少ない朝早くに行われたため、ここら一帯は至って静謐。一方今日は、吹奏楽部を始めとした楽器の音や、居残る生徒たちの話声などで少々騒がしさが残る。


「ふぅ…………。よしっ」


 大きく息を吐いて肩の緊張を緩めた司暮は、満を持して扉をノックした。


「どうぞ」


 ぶっきらぼうな野太い男性の声。その合図で司暮は静かに扉を開ける。


「失礼します」


 中に入って後ろ手で扉をきっちり閉めると、これまで聞こえていた雑音がピタッと止む。抑え込んでいた緊張が張り詰めた空気で一気に込み上げた。

 荒くなった息を必死に押し殺しながら長机の前に座る。

 正面に座るのは、司暮の担任教師である巻野まきの。年は四十代中盤で、身長は平均よりやや低め。体型はほんの少し肥満気味ではあるが、スーツ姿でも目立たないくらいだ。


「それで? 進路は決めて来たんだろうな?」


 前置きなしに問う巻野。怠そうに頬杖をついているところやその口調からも、司暮は自分自身がかなり面倒くさがられていることは理解していた。

 巻野という男の校内生徒からの評価は劣悪である。


『マジで巻野ウザくない?』

『担任とかほんと有り得ないわ……』


 廊下をすれ違う生徒から、そんな愚痴や不満を聞くことは決して珍しくない。

 愛想など微塵も感じさせない不愛想具合に、高慢な態度。日々、何かと腹を立てている表情が散見される。生徒に接する際には、時折蔑むような言葉すら口にする一方で、年上の教師に対しては腰が低く下手に出る狡猾さが、更なるヘイトを買う原因になっていた。

 教師として問われる、担当教科の教え方もお世辞にも上手いとは言えない。教科書に書かれていることを一言一句違わず黒板に写経し、それを勝手に写せと言わんばかりに自らの早いペースで淡々と授業を進めていく。教師である巻野にとっては既知であっても、生徒にとっては知らない内容ばかりなのだ。そんな生徒たちを置いてけぼりにした授業は不評の嵐であった。

 それだけではない。

 随分と生徒任せな教育方針の割に、生徒に課す課題の量は頗る多く、それでいてテストの平均得点が低ければ教壇から説教をするという始末。説教されるべきはどちらなのかと問い詰めてやりたいくらいである。

 そんな巻野だが、三学年が始まった当初の司暮の評価は悪くなかった。なぜなら巻野は、成績優秀者を贔屓目に見る傾向があるからである。

 生徒の進路に携わる三学年の担任教師は、より名声の高い大学に進学させることで自らの実績を上げることができる。特に、全国有数の難関大学への進学となれば、その実績は教師の手腕として高く評価されることになるだろう。

 すなわち、巻野にとって成績優秀者は自らの株を上げる駒と同義であるわけで、そういった生徒を丁重に扱うのは必然。故に、成績上位に名を連ねる司暮もその対象であり、当初は司暮の志望校にも大いに賛同していた。

 だが、時が流れてその可能性が薄くなった途端、この有様である。

 受験に失敗して浪人生を出すことを恐れる巻野は方針を転換し、現在も司暮の希望には真っ向から反対し続けていた。故に、それに反発する司暮のことを良く思っていない。


「いつまでも高望みしていたって意味はない。『目標は高く持つべき』というのも、ただの絵空事に過ぎない。自分に相応しいハードルを設定することにこそ意味があるんだ」


 司暮が心の準備に手間取っている様子を見た巻野は、誘導するよう、誘惑するように言葉並べていく。

 けれど、そんな誘惑に負けるほど司暮の意思は柔くない。

 司暮は巻野を真っすぐに見つめ、聞きたくない巻野の御託を断つようにはっきりと告げる。


「自分は――雄立大学を志望します」

「っ…………」


 その瞬間、巻野の堪忍袋の緒がぷつりと切れる。


「いい加減にしろ!」


 バンっと机を両手で叩き、勢いそのままに立ち上がる巻野。その反動で、座っていたパイプ椅子が大きな音を立てて後ろに倒れた。

 巻野は血相を変え、怒号のように説教を始める。


「誰のために何度も時間を割いてると思ってるんだ! どうして俺の助言に対して頑なに耳を傾けようとしない? 後悔してからじゃ遅いんだよ!」


 怒鳴り声が、耳を劈く。いくら部屋という隔たりの中にあったとしても、外に漏れだしてしまうほどの声量だ。

 こうなってしまえばもう、司暮には何もできない。これまでの結果を何よりも重視する巻野に対しては、その結果を持たない司暮が何を言っても、火に油を注ぐことにしかならないのだ。

 この場を収めるためには、時間の経過でやり過ごすか、巻野の提言を受け入れるかしかない。司暮にとって後者はないようなもので、ただ怯えるように目を伏せることしかできなかった。


「ちんけなプライドはここで捨ててしまえ、受験には邪魔なんだよ! 大体お前はな――」


 巻野が怒涛の勢いそのままに説教を続けようとしたその時だった。



『コンコンコン……』



 突如、進路相談室のドアがノックされる。

 この部屋が職員室のすぐ隣にあるということを思い出したのか、巻野は一旦冷静さを取り戻してパイプ椅子に座り直すと、何事もなかったかのように平然と「どうぞ」と口にする。

 進路相談室の中には元の静けさが戻った――が、扉が物凄い勢いで開かれたことで、その静寂も一瞬で切り裂かれた。


「失礼します!」


 司暮も巻野も、その様子には思わず目を丸めた。

 ドアを開けたのは、明らかにこの高校のものではない制服を着た少女。さらっと揺れる薄茶髪のセミロング、整った顔立ちにクリッとした丸い瞳。

 その堂々たる佇まいを見て、司暮は彼女の正体に気付く。


「もしかして昨日の!?」


 その声は確かに彼女に届いていたが、少女は何も言わずに扉をピシャリと閉める。


「一体誰だ君は! 部外者は校内立ち入り禁止だろうが」


 一瞬困惑していた巻野だったが、すぐさまこの場の問題点を挙げる。

 しかし、少女は屈しない。


「教師じゃない人には言われたくもないですけどね!」


 入室時から終始苛ついた様子の少女は、淡々と司暮の元へと歩み寄った。


「何を言ってる。いいから早く――」


 この場において、巻野の言い分は何も間違ってはいない。事実、司暮もそう思っていた。

 だが、そんな巻野を遮るようにして告げられた彼女の言葉が、巻野を完全に黙らせる。


「大事な生徒の進路を自らの都合で押し殺そうとするのは、少なくとも教師のやることじゃないでしょ。そんな似非教師と進路面談なんて時間の無駄無駄。ほら、いくよ!」


 半分呆れたように言った彼女は、司暮の腕を掴んで立ち上がらせようとする。


「お、おいっ……!?」


 成されるがままに席を立った司暮。

 彼女の言うように、この面談は時間の無駄に他ならない。生産性のない進路面談に時間を浪費するくらいなら、その分受験勉強に充てた方が余程有意義だろう。司暮も同様のことを思っていた。

 だが、自分のために時間を割いてくれたという点だけは巻野に一理ある。その巻野から、身勝手に抜け出そうとするのはいくら何でもまずい。相手が無礼だからと言って、こちらも無礼を働いていい道理はないのである。

 だから一先ず、この場を収める方便を画策する。


「ごめん、ちょっと待って」


 司暮は少女にそう言って一度手を放してもらうと、きちんと立って巻野と真っ直ぐに向き合う。


「週明け月曜日まで、もう少しだけ時間をください。その時には必ず、結論を出します」


 そして、深々と頭を下げた。

 そんな司暮の誠意に折れたのか――否、司暮の隣に立つ少女に反論されることの方を恐れたのだろう。巻野は折れたように溜息を吐く。


「……分かった。それが最終期限だ」

「ありがとうございます。――ほら、行くぞ」

「うん……」


 彼女は目の前で起こったことに理解できない様子でしばらく呆けていたが、司暮はそんな彼女を連れて進路相談室を後にした。



* * *



「どういうことか説明していただけませんかね……?」


 生徒の姿がまるでない一階、職員玄関前。ここは来賓を迎える際にも使用されている玄関だ。

 なぜ二人がこんな場所まで来ているかというと、人通りが少なく目撃される可能性が減るから。そして、彼女がなぜか来客として、この場所でスリッパに履き替えていたからである。

 司暮が眉を顰め、頭を掻きながらこの事態を引き起こした訳を問い詰めると、彼女はむしろ開き直り、司暮をビシッと指差して答える。


「それは約束の時間になっても君が来なかったからじゃん!」

「いやそもそも、俺は行くとすら言ってないんだが」


 少し冷たく言う司暮だが、本当に一切行かないつもりだったわけではない。

 進路面談か、それとも彼女との約束か。その二択を迫られた司暮が最終的に出した結論は、『進路面談後に遅れて向かう』であった。

 もちろん、何も言わずの遅刻などマナーがなっていないのは司暮も理解している。けれど、こういう選択を取らざるを得なくなったのは全て彼女のせいなので、これくらいは許してもらわないと困る。司暮にとっては、妥協の末に出した決断であった。


「だったら断りを入れるとか、普通しない!?」

「どうやって? 何か言おうにも勝手に帰るし、名前も連絡先も知れぬ人にどうやって連絡するのさ。第一、人の予定とかも聞かずに勝手に決定するような人に普通を語られたくないんだけど?」

「じゃあ問題。そのほとんど何も知らないはずの私は、どうして君の高校まで来れたと思う?」

「それは…………」


 丁度、司暮も疑問に思っていたことだった。

 そもそも、彼女がここに来ると分かっていたなら、彼女が姿を見せた時にあそこまで驚いたりなんてしない。

 昨日のほぼ同時刻。司暮と少女が出会ったのはその時が初めて。

 あの僅かな時間で、どうやって自分の通っている学校を見つけたのか。その答えを示すように、再び彼女は司暮を指差す。その指の先が指すのは胸ポケットの上――。


「これ、特徴あるから覚えてたんだよね。公園近くを歩く生徒が同じ制服着てたから、その人に訊いたんだよ」


 高校の制服というのは案外似通ったりするものだ。ましてや、全ての高校の制服を覚えている人の方が稀であるため、余程特徴的な制服でもない限りは特定するのは容易ではないだろう。

 そこで、彼女が特定の鍵としたのは司暮の通う茜雲北高校の校章だった。校庭を彩る秋桜を模したもので、字の通り今の季節に綺麗な花を咲かせる。そのため、毎年この時期を楽しみにしている生徒も多い。

 少なくとも司暮にはその発想はなかった。仮に逆の立場だったとしても、校章のデザインに着眼点を持つことはなかっただろう。


「なるほど、それはまぁ名探偵なこった。だからと言って、アポなし訪問というのはいかがなものかと……」

「案外すんなり通してくれたよ? 『この学校のとある生徒にとある用があるのですが』って言ったら、『どうぞどうぞ~』ってさ」

「そんな抽象的で曖昧な用件でよく通したよな。ってか、ここのセキュリティどうなってんだ?」

「まぁまぁ。私が善人にしか見えないからじゃない? 知らんけど」

「はぁ、そうですか……」


 息が切れてしまいそうなほど早い会話のテンポながら、司暮はどこか小気味よさを感じていた。会話が弾む、とは少しニュアンスが違うが、淡々と会話のキャッチボールが成立する相手と話すのは楽しいものだなと思う。

 司暮は一旦落ち着くために深く息を吐くと、今更ながら自分の名前を口にする。


「――時沢司暮」

「うん? 時たま時雨煮?」

「ちげーよ、どんな耳してんだ……。俺の名前、時沢司暮」

「私は春木青羽はるきあおば。よろしくね!」


 眩いほど明るい青羽の笑顔に、司暮は思わず目を逸らし玄関の外を見る。

 曇天模様下では夜の訪れが少し早く、既に薄暗くなっていた。


「一旦外出るか。話はそれからだ」

「うん、そうだね」



* * *



 外は予報通り、雨が降り続いていた。

 昨日ほど雨脚は強くないが、決して小雨というわけでもない。断続的に降り続ける雨は、アスファルトの道路の至る所に水溜りを作り出している。

 司暮と青羽はそれぞれ靴を履き替え、校門を出たところで再び合流した。そして、目的地も特に決めず歩き出す。


「今日は傘、持ってるんだな」


 司暮は青羽が手にしている、藍色の傘に目を向ける。

 良く見かける一般的な傘よりもスタイリッシュな雰囲気を醸し出す大人な傘。青羽のイメージとは対極なはずなのに、青羽がとても映えて見える。青羽自身のポテンシャルの高さを窺わせた。


「そっくりそのまま、言葉をお返ししますよ」

「いや昨日は――」


 ――鞄の中に折り畳み傘を持っていたけれど、あえて差さなかった。

 そう言いかけたが、無理に掘り起こしたくなかった司暮はそこで言葉を詰まらせた。


「うん?」


 青羽は首を傾げ、司暮の顔色を覗く。司暮は気難しそうな顔をしながら、距離感がやたら近い青羽から目を背けた。


「昨日は単に忘れただけだ。それに、どの道濡れてただろ。あんな横殴りの雨だと、傘なんてまるで役に立たない」

「まぁ確かに、そうかもね」


 それっきり、司暮と青羽の会話は途切れた。

 雨が地面に打ち付けて弾け飛ぶピチャっとした音、傘にのしかかる低い音が、二人の間の静寂を埋める。


「ごめん」


 突如、青葉がそう切り出す。司暮が横を覗き込むと、青羽らしくない申し訳なさを滲ませた横顔が映った。


「さっき私が先生にあんなこと言った時点で、司暮君は気付いたよね。私が先生との会話を聞いちゃってたって」

「……あぁ、それなら別に気にしてない。どうせ詮索の意図はなかったんだろ?」

「うん。まぁそうだけど……」


 確かに、司暮はこのことをあまり他人に知られたくはなかった。あまり知って気持ちの良いものでもないし、余計な詮索もされたくなかったためだ。とは言え、知ってしまったことを今更忘れろ、など無茶な話。故に司暮も、責めるつもりはなかった。


「だったいいよ。それより、春木はなんであんなことを?」


 司暮は、彼女があの時起こした行動に疑問を覚えていた。


「心底ムカついたの。司暮君のこと、私はほとんど何も知らないけどさ、それでもきっとすごく悔しいだろうってことくらいは分かるから。それを知りもせず、知ろうともしないあの先生が……はっきり言ってウザかったんだよ」

「そっか……」


 あの時、まるで自分の気持ちを代弁してくれたような青羽の行動が、司暮にとっては少し嬉しかった。面食ったような表情を見せた巻野には、ムカムカが晴れるくらいにスカッとした。司暮は心の中で、青羽に対する感謝の気持ちを抱く。


「司暮君もガツンと言ってやればよかったのに」

「結局、実力が満たないから、先生の言うことも一理あるんだよ。だからいくら酷い物言いでも、俺に先生を否定する権利なんてないんだ」


 そんな司暮の言葉に、青羽はニヤリと笑う。


「じゃあ、その実力で目に物を見せてやろう!」

「それが出来たなら、今こうなってないって。第一、今からじゃ手遅れだろ」

「手遅れ、ねぇ……」


 青羽は何か意味ありげな言葉を漏らすと、手を顎に当てて考えるような仕草を見せる。

 司暮は猜疑的な目を青羽に向けた。


「何のつもりだ?」

「一応確認だけど、司暮君は自分の志望校は絶対に曲げる気がない。そうだよね?」

「あぁもちろん。それだけは絶対に譲る気ないよ」

「よし、決めた!」


 司暮が答え切るとほぼ同時に、青羽はそう言って強く拳を握る。


「……何を?」


 何だか嫌な予感がする司暮。天候も相まって悪寒で鳥肌が立つ。


「『時沢司暮、無事に志望校を受験させる大作戦』の決行を、だよ」

「作戦名に捻りがなさ過ぎる……。決行前から当の本人は不安でいっぱいですが」

「大丈夫大丈夫。大船に乗ったつもりで任せてよ!」

「俺の不安の重さだけで沈没するぞ、その船」


 案の定、司暮の予感は的中であった。

 気持ちは素直に嬉しかった。おそらく彼女は、本心から手助けしようとしてくれているだろうから。

 けれど、司暮の中に期待という気持ちはまるでなかった。

 彼女の自由奔放、豪放磊落な性格が不安の一要素となっているからというのもある。ただ、そうではない別の大きな要素が、これまで自身が開けなかった突破口を抉じ開けてくれるのではないかという淡い期待さえも封じ込めてしまっていた。


「それで? 自ら『大作戦』と称するその作戦、具体的には何するわけ?」


 それでも、自分とは違って不安の影もなく自信満々に胸を張る彼女の策がどういうものなのか、司暮の好奇心を擽った。実行するかどうかは後で考えればいい話なのだ。

 司暮の問いに対し、『よくぞ聞いてくれました』と言わんばかりに悪戯気な笑みを浮かべる青羽は、ポケットからスマホを取り出して司暮に見せつける。

 スマホに表示されていたのは、二次元地図と中心に挿された赤色のピン。


「まずは私とここへ行くのです!」

「……喫茶、店?」



* * *



 司暮の通う高校の最寄り駅。夕刻の今時、いつもなら多くの人が行き交うが、やはりここでも天候の影響を受けているのか、普段よりも人の数は少ない。それでも、退勤下校時刻と重なる今は、他所と比べて賑わいを見せていた。


「この辺か?」


 信号待ちを除き、ここまで足を止めなかった青羽がピタッと立ち止まる。

 二人の目の前にあるのは堂々と構える大きな駅舎。線路が駅構内の二階部分に位置するため、列車が通過する際の音が頭上でガタンゴトンと響いてくる。


「うん。目的地はこの中だよ」


 そう言って青羽が一足先に構内へと進んでいくので、司暮も置いていかれないように後を追う。

 大きな駅故、お土産物産売り場を地下に構え、一階部分には名の知れた飲食チェーン店が立ち並ぶ。その中には青羽が目的の場所としていた、有名喫茶店の姿もある。二人はその店内に入ると、入り口から最も遠い窓際の席に向かい合わせで座った。


「春木、聞いてもいいか?」


 座って早々、店員が運んでくれたお冷を一口含むと、司暮はそう問うた。


「うん、いいよ」

「率直だが、何故ここに?」


 司暮の質問、『作戦とは具体的に何をするのか』に対して出した青羽の回答は『ここ――喫茶店に来ること』だったわけだが、当然司暮は得心が行っていない。何しろ、具体的ではなく極めて抽象的な回答が返ってきているためだ。

 実際に場所に来て何か察するものでもあるのだろうか、と一瞬期待してその場では何も言及しなかった司暮。しかし、やはり席についても何もピンとくるものはない。

 青羽は氷の入ったグラスを、まるでお酒を嗜む艶美な女性のように揺すってカラカラと音を立てながら、その問いに答えた。


「お互い、さっきようやく名前を知ったこともあるし、一先ずゆっくり話せる場を設けようかなって」

「それで喫茶店……。まぁ、ロジックは通ってるか」


 ぼそり、司暮は独り言のように呟く。


「ロジック……?」

「いや、春木のことだから無計画に『喉が渇いたから』とか、『甘いもの食べたい』とかそんな理由かと思ってたから、案外まともな回答だなぁって……」

「……………………」


 二人が見知ってから、そこまで時間が経ったわけじゃない。それでも、司暮が青羽の大まかな人間性を掴めるほどには、あまりに印象の強い出来事が多いのである。

 司暮の的を射た推察に、青羽は軋んだロボットのようにゆっくりと視線を外していく。


「あの~、春木さん? なんで顔を背けるんですかね?」

「いやぁ、まさか助手だと思ってた人がとんだ名探偵だったなんてね~、あはははは」

「ま、今回に関してはどっちでもいいんだけど。喫茶店は普通に好きだし」

「えっ!? そうなの!?」


 都合の悪い話題から転換したことをいいことに、春木は目の色を変えて執拗に身を乗り出す。先々を見通せそうなほど透明感ある綺麗な瞳が、司暮の目の前で爛々と揺れる。


「というより、コーヒーが好きだから」

「ほほぅ、大人だね~」

「大人って……、別に俺たちそんなに年離れてないだろ」

「離れてるも何も、私たち同学年だよ?」

「『だよ?』って言われても、俺は初耳なんだが」


 司暮が青羽に初めて会った時、司暮は年が近いだろうと思いつつも、結局学年を尋ねることはなかった。故に、完全なる初出の情報である。

 青羽もそのことに気付き、手を擦り合わせながら弁明する。


「あ、そっかごめん! 私はさっきの件で君が受験生だと知ったから分かってたけど、その逆のことまでは考えてなかったよ。一応、私も高三!」

「へぇ~」


 同い年と言われれば同い年、年下と言われれば年下だなと司暮は思った。どちらでも納得がいくのは年下っぽいお転婆な性格ながら、自分の思うことを真っすぐに言い放つ大人な一面を見せられたからだ。

 ようやく青羽が同い年であることを知った司暮。しかしながら、そのことに気付くとおかしなことに気が付く。


「……ん? 待てよ。それなら人の心配してる場合じゃないだろ?」


 司暮と同い年。それはすなわち、青羽は受験生もしくは就職を控えているということになる。司暮がまさにそうであるように、青羽にとっても大切な時期のはずなのだ。


「私なら大丈夫」


 青羽は余裕な笑みを浮かべてそう答えたが、当然これで納得のいく司暮ではない。


「大丈夫って――」

「司暮君、それ以上はダメだよ?」


 けれど青羽は、更なる追及をさせてはくれなかった。

 一体、何が駄目なのか。

 いつもならすぐ問い正そうとする司暮も、自明ならばその必要もない。

 きっと、彼女にとって踏み込んでほしくないラインが眼前に敷かれている。依然として湛えている青羽の笑みが、この話に触れかかって急激に冷え込んだような錯覚を司暮は覚えたのだった。

 お互いには踏み込んでほしくない領域がある。二人が出会った時、それぞれそのことには薄々気づいていて、だからこそ青羽は『互いに詮索をしない』という約束を持ち出し、司暮はそれを飲んでいる。

 したがって、これ以上は駄目だと言われれば必ず踏み留まらなければならない。自身がされて嫌ならば猶更だ。


「……ごめん」

「ううん……、って違う違う! 私はこんな事したかったわけじゃないんだよ!?」


 酷く落ち込んだ暗くて気まずい雰囲気を強引に振り払うように、青羽は手元のメニュー表をバッと広げる。


「とにかく何か頼もっか」

「だな」

「どれにしよっかな~。これもいいし、これも美味しそう!」


 喫茶店の豊富なメニューに目移りしながら楽しそうな青羽をよそに、司暮はそっと外を眺める。

 既にかなり暗くなり始めていた。駅裏のバスロータリー近くの街灯も、停車しているバスのヘッドライトも灯っている。


「パンケーキ、いや、このパフェも捨てがたい……」

「なんでもいいけど早く頼んでもらえる? コーヒー飲みたいんだけど」

「も、もう少しだけ待って! 今必死に悩んでるとこだから!」


 間もなく静かな夜がやってくる。

 けれど、自分の手元だけはもうしばらく賑やかしくなりそうだな、と司暮は思うのであった。



* * *



 駅中、二人がいる喫茶店は人通りの多い場所ということもあってかなり繁盛していた。中には電車の待ち時間に利用する客もいたようで、腕時計を確認して慌てて店を出ていく姿も見られた。

 青羽が悩みに悩んだ末にようやく注文してから約五分ほど。それぞれが注文した飲み物が先に届く。司暮はアイスコーヒー、青羽は名物のミックススムージー。

 司暮はミルクもシロップも入れることなく、カップのハンドルを持って口に含む。芳醇な全身を解すような香りが鼻を抜け、舌には嫌味のない苦みが広がる。この店のコーヒーの特徴である苦みの切れの良さ、そして長く残るリッチな香りの余韻を存分に味わっていた。


「ところで、いつになったらちゃんと教えてくれるわけ?」


 司暮がカップを置いて問うと、青羽はストローを口に含んだまま『はて?』と思い当たる節がなさそうに首を傾げる。


「大作戦とか随分大袈裟なこと言ってたけど、実はまだ考え中とかないだろうな?」

「ううん。それはばっちり考えてあるよ!」


 ウインクしてサムズアップする青羽。可愛らしい仕草ではあるけれど、今は司暮の機嫌を逆撫でするだけである。

 このタイミングで、青羽が別で注文していたパンケーキが届く。アイスクリームにベリーソースが添えられ、雪のように美しい粉糖が食欲をそそる。青羽は届いてすぐにナイフとフォークを手に取ると、一口大にカットしていく。その様は、性格から想像されるものとはかけ離れた、大人の余裕を感じさせた。


「だったらいい加減教えてくれないか? 毎度毎度サプライズされるとこっちの心臓が持たないんだよ」

「蚤の心臓?」

「なんで俺の方に問題があるみたいになってんだ……。前もって予定とか伝えて貰わないと、今日みたいなことになるだろ?」

「あぁ、それは確かにそうかも」


 そう言って青羽は音を立てないようにフォークとナイフを置くと、制服のポケットからピンク色のケースが特徴的なスマホを取り出した。タタタと慣れた手つきで操作した後、司暮に手渡す。


「……えっと、これはどういう?」


 渡された青羽のスマホの画面には、何やらQRコードのようなものが表示されていた。


「コネクトのQRだよ。私のアカウントのね」

「いや、そういう意味じゃなくてだな」


 コネクトとはメッセージアプリの名称。十年以上前に流行して以降、現在ではメールに代わる最もメジャーなSNSとして普及している。

 一対一のやり取りはもちろん、多人数でのやり取りも可能とあって、近年は学校の連絡事項を共有する際にも利用されている。したがって高校生ともなれば、このアプリの存在を知らない方が稀なくらいである。


「教えてくれって、連絡先のことじゃなかったの? 交換しておけば今日みたいなことは防げるから……」

「違うんだよなぁ……」


 どうにも、司暮と青羽の会話は絶妙に噛み合っていなかった。そのもどかしさに若干疲弊し、司暮はかくっと肩を落とす。


「ごめんごめん。でも、交換しておいてお互い損はないんじゃない?」

「まぁ確かにな」


 ただ、青羽の言っていることは一理ある。

 今日のように都合が合わないとき、急な予定が入った時には一報をいれるだけで、今日のようなすれ違いは発生しない。突拍子のない出来事に驚かされてばかりの司暮としても、決して悪い案ではないと思った。

 司暮は自らのスマホを取り出すと、アカウントを追加するための操作を始める。

 普段、あまりコネクトを利用しない司暮――対して、日常的に利用する青羽。それ故に司暮の手つきは、青羽と対照的で実にたどたどしい。青羽は暇を持て余し、店内中に視線を巡らせていた。

 それでも、何とか手探りで追加を済ませた司暮は、青羽のスマホを返却する。


「ふぅ……」


 決して手間取ることのないはずの作業で疲弊した司暮は、コーヒーを口にしてほっと一息。これでようやく話を戻せると、思っていた時だ。


「あっ、ごめん!」


 青羽はそう言って勢いよく立ち上がった。その顔色にはどこか、焦りの色が映る。


「どうしたんだよ、突然」

「そろそろ帰らないと……」


 青羽に言われ、司暮は手元のスマホで現在時刻を確認する。

 七時十分。店内に入って喫茶店を堪能している内に、かなりの時間が経過してしまっていた。

 司暮の感覚ではあまり帰宅時間を意識しないのだが、一般的に考えればもう十分遅い時間だ。それに、長時間現を抜かしていられるほど、司暮を取り巻く状況に余裕はない。帰ってすぐに、この時間を取り返すだけの勉強をしなくてはならなかった。

 司暮も青羽に合わせ、一緒に店を出る旨を伝えようとする。


「それもそうだな。じゃあ――」

「お金、ここに置いとくね! それじゃ、また!」

「えっ、ちょっと春木!?」


 しかし青羽は、司暮の意図を汲み取らない。手持ちの鞄を肩にかけ、一人でにこの場から走り去ってしまった。

 何やら身に覚えのある出来事に、司暮は思わず冷静な呟きを漏らす。


「なるほど。またなのか」


 まさに昨日の再上映を見ているかのよう。司暮は思わず、呆気に取られてしまった。

 ただ今回に限っては、青羽に何やら急いでいる様子があった。

 もしかしたら、門限でもあったりするのだろうか。その場合は自分の配慮不足のせいでもあるため、一概には青羽のせいだと言い切れない。司暮は脳内でそんなことを思いつつ、今回は寛大に見過ごすことにした。

 帰る前にもう一息吐こうと、飲みかけのコーヒーカップに再び手をかける。


「にしても、ちゃっかり完食はしてんだな……。相当甘いものはお好きなようで」


 司暮の向かい側に置かれた白い大皿の上は、つい先ほどまでふんわりと大きなパンケーキが置かれていたはずなのだ。一体いつの間に平らげていたのだろうか、と司暮は少し感心した。

 司暮は残り僅かなコーヒーを一気に口に流し込む。

 先程までとは違い、後味がやたらとほろ苦い気がした。

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