雨降りし紅蓮の空
木崎 浅黄
第1話 プロローグ
スノーノイズを連想させる激しい雨音が、周囲一帯のあらゆる音を飲み込んでいる。
つい先ほどポツポツと降り出したはずの雨が、公園の砂地全体に水面を張るくらいの土砂降りと化していた。
放課後、友達と和気藹々と遊び回る小学生。茜色の空から夜の暗色に移り変わる頃合いになると、名残惜しさに後ろ髪を引かれながら手を振って帰途に就く。そんなハートフルな光景が日常的な場所だ。
けれど、誰も外を出歩きたがらないほどの豪雨に見舞われた現在は、それとはまるで真逆の様相を呈していた。当然、元気に走り回る子供の姿などどこにもない。
代わりに、公園の中心辺りでたった一人の青年が寂しく佇んでいた。
高校の制服に袖を通しているその青年は、あろうことか傘を差していない。全身がぐっしょりと濡れてしまっているというのに、それを嫌がっている様子もない。何かの罰を与えられているのかと思うほど彼は一歩も身動きを取らず、ただ俯き気味に目を瞑っているだけ。
「……っ、ははっ。あははははっ!」
――かと思いきや、突然自嘲気味に高らかな笑い声を上げ、分厚い鼠色の雨雲を見上げた。
青年――
もう、どうにでもなってしまえ。
本来なら末代までの恥になりかねない醜態を思う存分さらけ出している。
「――ははっ………っ」
けれど、いくら現実逃避に走っても、豪雨に全てを流してもらうことを望んだとしても、何も変わることはない。
時の流れによる当たり前の理を確認し、笑い声には湿り気を帯びた。
「もう、いいや……」
どうしようもないのならもう、諦めるしかない――そう、何かを諦めたかのように司暮が呟いた瞬間。
司暮にとって、思いも寄らぬ出来事が起こる。
「そんなところで傘も差さず、君は何をしているのかな?」
視界が霞むほどの雨脚。気象庁が今頃、警報を発表しているに違いない――それほどの雨だ。
この場には誰一人いるはずがないと思い込んでいた司暮は、突然かけられた声に驚いて足を滑らせ、ぬかるんだ地面に尻もちをついた。いくら水分を含んでいるとはいえ、その下の地面は固いのだから、痛いものは痛い。
「ってぇ……」
固より着衣泳でもしていたのかというほど雨水を吸っていた制服が、公園の砂――基、泥に塗れる。けれど司暮は、既に濡れてしまっているから、と気にも留めない。
何より、司暮の頭の中は声の主のことでいっぱいであった。
「ああっ、ごめん! 脅かすつもりはなかったんだよ~。大丈夫?」
司暮の隣にしゃがむ少女は、少し慌てて心配げに顔を覗き込んだ。
濡れた髪を垂らし、申し訳なさを滲ませる少女。目元は少し幼げで、透明感のある綺麗な肌を大きめな雫が伝う。薄灰色のセーターの中心にはワインレッドのリボン、チェック柄の丈が短いスカートを穿き、細めの足元は黒い薄地の二―ソックスで覆われている。司暮にとって見知らぬ彼女だが、どうやらおおよそ同世代――高校生のようである。
司暮はゆっくりと上半身を起こす。
「別に怪我とかはないから大丈夫。それより、傘差してないことを指摘すべきは自分の方じゃないのか?」
司暮の指摘は最もである。
司暮同様、彼女もまた傘を差していなかった。おかげで、薄茶色セミロングの髪も制服も、吸った水分で重たげに映る。
「いやぁ、まさかここまでの雨になるとは思ってもみなかったから」
「そう思っている人間がする行動にはとても見えないんだけど。こんなところで何してんだ?」
「それはさっきの私の台詞だよ?」
言って、彼女はニコリと微笑む。
彼女のしている行動は、まるでチグハグだ。
傘を持たず、予想外の激しい雨に見舞われた人の多くは、いち早く帰宅に向かうか、屋根付きの建物の下で雨宿りをするか、近くのコンビニで安いビニル傘を買うかすることだろう。けれど彼女は、雨を嫌がる様子などまるで見せず、今も平然と司暮の隣にしゃがんでいる。
彼女は司暮の様子を――主に目元を改めて確認する。
「私の見立てじゃ、よっぽどの事情があると見えるけど……。あえて掘り出したりするようなことはやめとく。だから君も、私の事情には触れないこと。知り合いでもないわけだしね」
「まぁそうだな。分かった」
言われずとも、詮索する意思は司暮になかった。
彼女の言う通り、お互い面識はない。各々の事情を明かし、互いに相談し合ったりするのは、互いに信頼性が築かれているからこそできることだ。少なくとも今は、そういうことができる関係値とは程遠い。
何より、彼女はどうやら触れて欲しくないからこそ、あえて先んじて言うことで予防線を張っているようにも見える。司暮としても触れて欲しくない事柄であったことから、その約束はむしろ好都合ですらあった。
「ところで君、この後時間ある? その制服、汚しちゃったお詫びをさせて欲しいんだけど」
彼女の言葉を聞いた司暮はひょいっと立ち上がり、臀部に付いた泥を手で軽く払い退ける。
「いやいいよ、気持ちだけもらっとく。好き好んで雨に濡れてた中で汚れただけだし、洗って落ちないような汚れでもないしな」
気を遣って相手の好意を拒む司暮だったが、少女は立ち上がると何故か悪戯気に微笑んだ。
「ところがどっこい。そういう訳にはいかないんだよね~」
「……あの、この状況を作ったのはあなたのせいですけど、なんでちょっと上からなんですかね……?」
「そりゃね~、君が私の素直な好意を断ったからだよ」
「今の言葉で好意が好意じゃなくなった気がするんですけど」
「いいのいいの。じゃあとりあえず明日、今日と同じ時間にこの場所に来て!」
現在、お互いにぐっしょり制服を濡らしてしまっている。何らかのお詫びをするにしてもどこにも行けない状況ということを踏まえたのか、少女は日を改める旨の要求をした。
そして――。
「それじゃまったね~!」
「……は? ちょっ、おい!」
彼女の中では用が済んだと思ったのだろう。司暮の返事を一切聞かず、天候とはまるで対極の眩しい笑顔を振りまきながら走り去ってしまった。
「何だったんだ、一体……」
一方の司暮はそんな少女の背中を深追いせず、途方に暮れる。
本来、相手の都合も返事も訊かずに一方的に約束を取り付けるなど、かなり身勝手な行為である。とりわけ『お詫び』の名目であれば、許されるものも許されなくなるようなレベルだろう。
それでも、司暮には不思議と苛立つような感情は生まれなかった。
別れ際に見せた、天候を覆さんばかりの煌びやかな笑顔。彼女の持つ溢れんばかりの魅力が、無礼で適当で勢い任せな悪い一面をどうにも許してしまいたくなるというのだから、愛嬌とは実に卑怯なものである。
司暮は状況を整理するように大きく息を吐くと、再び空を仰ぐ。
(嵐みたいな人だったな…………)
突然現れたかと思えば、突如走り去る。
そして、大きな爪痕を残した。
「待てよ、明日って言ったか?」
ずっと我を失っていたせいで、司暮は今になって初めて重要なことに気付く。
明日、今日と同じ時間、この場所で。
彼女は確かにそのように約束を取りつけた――否、一方的に指定したわけだが、司暮には明日、何を差し置いても外せない大切な用事があった。
先約で外すことの許されない重要な用事か、或いは突如として取り付けられた一方的な口約束か。二者を天秤にかけるまでもなく、彼女との約束は必然的に破棄すべきだ。
だが――。
「あっ…………」
生憎、司暮はそれを断る手段を持っていなかった。
連絡先はおろか、彼女の名前すらも知らない。今から追いかけようにも、何も手がかりがない。
もちろん、全ては相手の事情を鑑みず身勝手に約束を取り付けた上、相手の承諾も得なかった彼女の方が悪い。承諾した覚えもないそんな約束を守る義務なんて司暮にはなかった。
しかしながら、何も言わずすっぽかすというのはどうにも罪悪感に苛まれる。彼女のあの屈託のない笑顔が濁ってしまう光景は、あまり想像したくなかった。
「ははっ……。一体どうしたらいいんだよ……」
必ず何かを捨てなければならない選択肢。二者択一の選択とは常にそういうものであるが、今回はその代償があまりに大きい。
八方塞がりなこの状況に、司暮は苦笑いを浮かべるしかなかった。
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