第十話 さみしくてこわい夜[二]
ドアを引き開けると、六帖ほどの和室だった。
大きな文机が窓際にあり、紙と鉛筆、筆などの道具が整然と並んでいる。
片側の壁は一面が本棚で、古そうな書物から珍しい洋書の背表紙がきれいにおさまっていた。
その反対側が押入れで、襖もきちんと閉じてある。ゴミも塵もない。どこにでもある整った部屋なのに、なぜか空気が澄んでいるように思える。
雨はおさまらないし、雷も鳴っている。それなのに、この部屋にいるだけで恐怖心が薄れるのはなぜなのだろう。
「白湯を持ってきた」
ドアが開き、盆を持った霧衣があらわれた。
「白湯ならあなたも飲めるだろ」
雨に濡れた身体をざっと拭いたあとらしく、着替えた浴衣の上に薄手の羽織を着ていた。
髪がまだ少し濡れている。前に見かけた風呂上がりの彼を思い出し、ツツミはなんだかどきどきした。熱を帯びる頬を見られないようにうつむき、「ありがとうございます」と小さな声を絞り出す。
「どうぞ」
「は、はい」
ちんまりと畳に正座する。盆を挟んで、霧衣も座った。霧衣と一緒にいるだけで、雨音が遠い気がする。雷が光っても、もうこわくない。
(……やっぱり、不思議な人)
霧衣はすっきりとした美しい居住まいで、湯呑みの白湯を飲んだ。昼間の職人顔から、品がよく謎めいた一面をのぞかせる。
(きれいで不思議な、魔法使いみたいな千代紙職人さん……)
目の前の彼をちらりちらりと盗み見ていると、ふいに目が合った。恥ずかしくなったツツミは、とっさに会話をひねり出す。
「が、外出、していたんですね」
「ああ。こういう夜、俺はおまわりさんになる」
「おまわりさん?」
冗談だ、と霧衣は一瞬笑う。
「こういう夜は、見過ごせない異形がよく出るんだ。だからきなくさい場所を見回って、見つけたら例のごとく包んで天に贈ってる。けど、今夜はなにも出なかった」
何も出なかったのなら喜ばしいはずなのに、霧衣の眼差しにはどこか憂いがあった。
「なにか、気になることがあるんですか」
霧衣はうつむき、湯呑みを置く。
「必ず一体は出るような夜なのに、なんの気配もしなかった。異形たちが潜んで隠れている証拠だ。ごくたまに、嵐の前の静けさのようなこういうときがある。で、このあと必ずでかいのに遭遇するはめになる」
「……でかいの?」
「〝包む〟のに苦労する強い魔物を、そう呼んでる」
異形たちはその魔物の気配を怖がって、隠れているのだろうと霧衣は言った。ツツミはふいに、自分の中に隠れている三日月を思い出す。
「……三日月も、でかい魔物ですか?」
霧衣は腕を組む。
「たぶん、俺が見てきた中で一番でかい。けど、魔物じゃない。三日月はあなたに宿って、魔物から神霊になった」
だから、魔物とは別の意味で包むのが難しい。霧衣はそう言ってちょっと笑った。と、階下にある壁掛け時計の「ボーン」という音がかすかに聞こえ、深夜一時を知らせてきた。
ツツミははっとする。おしゃべりで時間を費やしてしまったが、ここへ来たのは霧衣の作業につきあうためだ。これ以上無為な長居をするのは、霧衣の迷惑になってしまう。
「あの、霧衣さん。わたしにかまわず作業をしてください。もしもわたしにできそうなことがあったら、お手伝いします」
霧衣は腕を組んだまま、にやりとした。
「あれは、怖がってたあなたをここに誘う口実だ。今夜はここで眠るといい」
「えっ」
目を丸くするツツミを見て、霧衣は笑った。
「怖い夜は、そばに誰かがいたほうが眠れる。それだけの理由で嘘をついちまったが、そのまま伝えたところであなたはきっと、意地を張って遠慮するだろ?」
図星すぎて、ぐうの音も出ない。
「……はい」
小さくなってうなずくと、霧衣はにこりと笑って腰をあげた。
「ってことで、商談成立だな。布団を敷いてやる」
「あっ! そ、そのくらいはわたしがやります」
ツツミもあわてて立ち上がる。霧衣はクスクスと笑いながら、好きに敷いて眠ってくれと告げて羽織を脱ぎ、窓際の文机を前にして座った。
そこに男女の意識はない。まるで兄妹。いや、兄弟に近い気がする。
ツツミにはそれが心地よくもあり、なんだか少しさみしい感じもする。そう思っている自分に戸惑いつつ、彼の背中を目にしながら布団に潜り込んだ。
雨はまだ降っているし、窓からは雷の閃光が差し込んでくる。それなのに、すべてが遠い。
霧衣の鉛筆の音だけが、心地よく部屋を包んでいく。どうやら新しい図柄を描いているらしい。
藍色の浴衣の背中。その背中には、双龍がいる。
不思議な人。優しい人。謎めいていて、きれいな人。
どこか――神様みたいな人……。
と、ふいに霧衣が振り返った。うっかり目が合う。
「起きてたのか」
「は、はい……」
霧衣は座ったままツツミに向き直り、
「じゃあ、安心して眠れる魔法をかけてやろう」
文机の引き出しを開け、異形を〝包む〟ための道具――小さな千代紙の束を手にした。親指で次々とめくっていくと、やがて一枚を選んだ。
絵柄は、ツツミにはよく見えない。いったいなにをするのだろうと見守っていると、霧衣は指に挟んだ千代紙に息を吹きかけた。
――ふっ。
千代紙が宙を舞い、手のひらにのるほどの小さな馬になる。
(……わっ!)
千代紙の馬が、ツツミの枕元におり立つ。その柄は、なんとも愛らしい兜、柏餅とちまき。端午の節句の柄だった。
馬は瞬時に、兜姿で刀を持った武士の
ツツミはさらにびっくりし、大きく目を見開いた。
刀をかかげた小さな武士は、まるでツツミを守るかのように布団から畳におりると、背筋をぴんとさせて歩き出す。
「朝になるまで、彼があなたを見張ってくれる。だからゆっくり眠るといい」
ツツミの足元まで歩いた人形は、くるんと踵を返し、ふたたび戻ってきた。
「む、むしろ眠れません」
霧衣は声をあげて笑った。
「たしかに、そうか」
「こ、こんなこともできるんですね」
「ああ。けど、めったにしないさ」
いま目にしている光景が信じられない。自分を護衛してくれる小さな武士を、ツツミはまばたきもせずに凝視した。そんなツツミを見つめる霧衣は、さも楽しそうに微笑んだ。
「安心しておやすみ。ツツミさん」
そう言うと、名残惜しそうに机を向く。
人形はときおり刀をかかげつつ、肩で風をきるように雄々しく動き続けている。
「とっても強そうな武士さんです」
霧衣は鉛筆を走らせながら笑った。
「そうか。そいつはよかった」
千代紙の武士に守られているのが面白くて、ツツミは思わず頬をほころばせた。
もう、雨音も雷の音も耳に入らない。
「おやすみなさい、霧衣さん」
目を閉じる。
おやすみ、と言う柔らかな声を記憶に残して、ツツミは深い安堵の眠りに誘われていった。
* * *
目覚めると、まだうっすら暗い。
雨はやんだらしく、しんと静まり返っている。
霧衣の部屋で眠っていたことをすぐに思い出し、文机を見る。霧衣は机の灯りを消しもせず、座ったまま眠っているらしかった。
そっと起き上がったツツミは、自分の足元で仁王立ちをしている小さな武士に気づく。おそるおそる指で触れると、微動だにしないままことりと畳に横たわった。どうやら魔法が解けたらしい。
(……これ、お守りにいただきたいな)
手のひらに包んで布団を出た。
霧衣は起きる様子がない。起こさないよう息を殺して近づくと、霧衣は机に頬を寄せ、薄く唇を開いて眠っていた。
額に落ちる前髪、長いまつげ。寝姿は、遊び疲れた無邪気な男の子のようだ。
描いていた図柄が、霧衣の頬の下にある。
枝葉に細やかな花が集まっている金木犀が、大胆かつ優美で大人びた風合いで描かれ、清書されてあった。これが版になり、顔料が塗られて千代紙になる。ちょうど秋ごろに仕上がるものだ。
耳を澄ますと、霧衣の寝息がかすかに聞こえた。
(ずっとこうして、霧衣さんを見ていたいな)
うっかりそう思ってしまったツツミは焦り、霧衣の肩に羽織をかけてやり、布団を押入れに戻してから部屋を出た。
手の中には、魔法のかけらの武士がいる。両手で包んで自室に入り、格子窓にそれを立て掛けた。
大事なものが、また増えた。ツツミにはそれが嬉しく、ちょっと怖い。
大事なものを失ったとき、どうしたらいいのかわからなくなってしまいそうだから。
「……わたしがここを去るときがきても、ついてきてくれる?」
当然、武士はびくともしない。
「あなたはどこにも行かないでね」
武士にそう告げてから、ツツミは壁に背中を寄せて座る。
大事なもの、知りたいことが増えていく。
もっともっと、この宝箱みたいな世界のことをたくさん知りたい。
そして――。
――霧衣さんのことも、もっと知りたい。
かすかな好奇心に、薬指の指輪が一瞬うずく。
まだ朝餉の準備に早い夜明け前、小さな武士と窓を見つめながら、ツツミはそんなことをおぼろげに思う。そして、明るい朝日を待ちわびた。
* * *
いつの間にかうとうとして、結局眠ってしまったらしい。
部屋が朝日に照らされていた。畳の上で目覚めたツツミは、顔を洗って着替えるために起き上がる。そのとき、奇妙な違和感が走った。
髪がやけに顔にかかり、こそばゆい。
(……なんだか急に伸びたみたい。きっと寝ぼけてるんだわ)
ぶかぶかで裾をまくっていた霧衣のお下がりのズボンから、足首が少し出ているように思える。身体もどこか重たくて、立ち上がってよろめいてしまった。
(深夜に起きた寝不足のせいかな)
おぼつかない足取りで部屋を出、階段をおりた。脱衣所に面した洗面所に向かっている途中、壁掛けの鏡をふいに見て固まる。
(――え)
肩に届くぼさぼさ髪の見知らぬ人が――どう見ても大人の女性が、そこにいた。
「――ど、どちらさま?」
起きてきたジョーが、目を見開く。
「わ……わたしです。ツツミ、みたいです」
やっとの思いで、ツツミは答えた。
花鳥風月めをと遊戯 羽倉せい @hanekura_s
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