第九話 さみしくてこわい夜[一]

 雨が本降りになった夕方、電話が鳴った。

 ツツミが出ると、相手は泉貴いずきだ。

『霧衣は忙しそうかい?』

工場こうばにいるので見てきます。少し待ってください」

『うん、頼むよ』

 焦ったような声音が気になる。きっと、早急に霧衣に頼りたいことがあるのだ。

 ツツミは霧衣を呼び、一緒に居間に戻る。受話器を耳にあてた霧衣は、だんだんと顔つきを険しくさせた。泉貴の言葉を咀嚼するように無言で聞き続けてから会う約束をとりつけ、やがてため息まじりに受話器を置いた。

「明日の午後、泉貴が来る」

「わかりました」

 ツツミは少し不安を覚えた。

(泉貴さん、霧衣さんになにを頼んだんだろう)

 知りたいけれどねほりはほり訊ねることが気まずくて、結局なにも言わずにおく。そんなもじもじとしたツツミの内心を察したかのように、霧衣は小さく笑って言った。

「いわくありげな骨董のブローチが、勝手にどこぞへ消えたらしい。店番をしていた三好くんの話を聞くかぎり、ただの〝いわく〟じゃすまなそうだ」

「そうなんですか?」

「〝いわく〟という名の〝念〟がブローチにくっついて、独り歩きしちまってる。そういうのは、もはやただの〝念〟じゃない。魔物だ」

 ツツミははっとし、息をのむ。

「魔物には意思があり、相手を選ぶ。選ばれた人間はのっとられ、やがて魔物そのものと化す。そうなれば最悪、命をとられることもあるんだ」

 ツツミの背中に、ひやりとした悪寒が走る。霧衣は笑みを消し、口を閉ざした。

 雨音が激しくなり、空がいっきに暗くなる。

「……今日はもう店じまいだな。この天気じゃ誰も来ないだろうから、ツツミさん、玄関に鍵をかけてくれ」

「は、はい」

「工場を閉めてくる」

 わかりましたと、ツツミはうなずく。霧衣は夜のように暗くなった外を見て、眉をきつくひそませた。

「いやな雨だ」

 ツツミに背中を向け、廊下に出ようとした矢先。

「――こういう日は、魔物が騒ぎやがる」

 ひとりごとのように、小さくつぶやいた。



 * * *


 

 夜になっても、雨はやまなかった。

 他人の目があると食事ができないツツミは、今夜も自室で雑炊を口に運んだ。ただでさえ食が細いのに、霧衣の言葉が気になってなおさら匙を持つ手が止まる。

(……わたしの中に隠れている三日月も、ある意味魔物みたいなものかもしれない)

 ただし、命がとられたのはツツミではなく、ツツミを飼い祀った者たちだったけれど。

 人の念の恐ろしさは、身をもって学んできた。その念が生み出す異形の存在も、ツツミはすでに目にしている。目に見えない世界のほうが、この現実よりももっとずっと恐ろしい。

 けれど――。

(それらを包む霧衣さんの千代紙だけは、とってもかわいくてきれい)

 唯一の、怖くないもの。ツツミの心もとない思いすら和ませてくれる、素敵なもの。そんな美しいものに囲まれているのに、自分はまだ雑炊の一杯すら満足に食せないでいる。

 頼って、甘えてばかりいる気がしてきた。それがどうにも情けない。

(……いつまでも、甘えてばかりいられないわ。いずれはここを離れて自活しなくてはいけないのだもの。少しでも心を強くしなくちゃ)

 ジョーの作ってくれた雑炊は、まだたっぷり残っている。今夜こそすべて食べようと決意して、ツツミは休み休み口に運ぶ。

 そうしてとっぷりと夜がふけたころ、やっとすべてを食べ終えた。

「やったわ。全部食べた」

 時間をかければ食べられることがわかっただけで満足だ。お腹が苦しいけれど、明朝はジョーに胸を張れそうでとにかく嬉しい。

「ごちそうさまでした」

 少し浮足立ちながら、食器を洗うために部屋を出る。

 ジョーも霧衣も休んでいるのか、一階の居間に灯りはなかった。

 雨音が激しい中、ツツミは台所で食器を洗った。裸電球を消すと、台所は真っ暗闇になる。手探りで階段をあがり、自室に入ろうとしたそのときだ。


 ――ピカッ。


 廊下の窓から閃光が差し込み、またたいた。あっ、と身構えた数秒後、この世の終わりかのような轟音が鳴り響く。

 ぎゅっと両手を握ったツツミは、恐怖のあまり仁王立ちで固まってしまった。すると、まばゆい光がまたもや視界に飛び込んだ。


 ――ドーンッ!


 体中が震える地鳴りに、ツツミはすっかり身動きを忘れる。そのときだ。

「大丈夫か、ツツミさん?」

 階段をのぼってきた霧衣が、ツツミに近づいた。なぜか雨合羽を羽織っており、雨粒のしたたり落ちるフードをうしろに払う。

 どうやら休んでいたわけじゃなく、外出していたらしい。

「だ……大丈夫です」

 ツツミがなんとかそう答えた直後、また雷が光る。ツツミはきつくまぶたを閉じ、身体に力を込めて爆音を覚悟する。けれど、雷音は想定外に大きかった。

 怯えきったツツミは、とうとう両耳を塞いだ格好でその場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫じゃねえな」

 霧衣がそばで膝を折り、のぞき込んでくる。

「か……雷が、怖いわけじゃないんです」

 幼かったから、戦争の記憶はない。しかし爆撃の最中、自分を抱きしめて防空壕に走る母親の息づかいと爆撃音だけは、なぜか覚えていたのだった。

「ば……爆弾みたい……なので」

 土砂降りの雨音が、瓦屋根をたたく。震えるツツミに、霧衣は言った。

「あなたはバカだな。それも含めて、怖いって言うんだ」

 ツツミははっとして顔をあげる。霧衣は窓の外を見た。

「当分、雷も雨もやまなそうだ。いまのまんまじゃ満足に眠れそうにないだろ?」

 いいえと言えず、返答に窮する。すると、

「あなたがいやでなければ、俺の作業につきあうか」

 え、とツツミは目を丸くする。

 腰をあげた霧衣は雨合羽を脱ぎ、つきあたりの部屋を指した。

「鍵はないから、勝手にどうぞ。俺はこいつを干してくる」

 それだけ言って、階段をおりていった。

(霧衣さんのお部屋……?)

 さすがに一瞬躊躇したものの、激しい雷にやはり怯えてしまう。背に腹は変えられなくて、ツツミはおそるおそるつきあたりの部屋の扉に手をかけた。

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