第八話 うちのカミさん
ここで暮らすようになって、すでに数日が経つ。
まだ夜明け前の早朝、四畳半の自室で目覚めたツツミは、霧衣のお下がりであるシャツとズボンに着替えると、ほんの少しだけ髪がのびた頭に三角巾を巻いた。
袖をまくりあげ、〝楠染工〟と名の入った藍染の前掛けの紐を腰で締める。
そうすると、もはやすっかり
いずれ髪や背がのびて女性らしくなれたとき、それらの衣服を身につけて気ままにお散歩をすることが、いまのツツミのささやかな夢だったりする。
「おはようございます」
母屋の台所へ行くと、住み込みの職人であるジョーがすでに
「おはようございます、ツツミさん」
本当は、家事のすべてを担いたいところである。しかしどうしても過去の記憶が邪魔をして、食事の支度だけは難しかった。
「毎朝すみません、ジョーさん」
ジョーが顔をくしゃりとさせて笑う。
「食事の支度はずっと私の役目でしたから、気にすることはありませんよ。さ、今日はツツミさんにお漬物を切ってもらいましょうか」
「は……はい」
漬物は、ツツミが一番苦手な食べ物だった。
ぬか漬けの大根を、まな板に置く。包丁を握ったとき、ジョーが言った。
「このごろは卵雑炊など、食べられるようになってきたようですね」
「はい……なんとか」
お腹が空くという感覚に耐えきれず、汁気の多いものは食べられるようになってきていた。それも、呪いの蛇である三日月が霧衣を恐れ、ツツミ自身の奥底に隠れてしまったおかげだろう。
「もしかするとツツミさんは、はじめて見聞きする食べ物のほうが、すんなり食べられるのかもしれませんな」
「え?」
「アイスキャンディやコーラは、平気だったのではないですか?」
思い返せば、たしかにそうだ。
「食べ物は、記憶とつながっておりますからね。そういった記憶のないまっさらな食べ物でしたら、いまならもっとたくさん食べられるかもしれませんよ。たとえば……マカロニチーズやピザ、フライドポテトにハンバーガーなどなど」
ツツミは驚く。どれも初耳の食べ物ばかりだ。すると、ジョーが笑う。
「戦前の若いころ、私にはアメリカ人の知人がいたんですよ。とても気前のいいお金持ちの商人でね。お抱えのコックがいて、よくごちそうしてくれたんです」
「そうなんですか?」
「ええ。懐かしいことです。そういえば、あれから一度も食べたことがないですな……。そうだ、いつか作ってみましょうか?」
「えっ、作れるんですか?」
「なにもかもがおぼろげですが、工夫すればなんとかできるかもしれません。まあ、失敗するかもしれませんが、それはそれでご愛嬌ということで」
ツツミははじめて、食べてみたいと思った。そう思えた自分に驚き、ちょっとだけ心が浮き立つ。
「そのときは、わたしにもお手伝いさせてください」
「もちろんです」
ふわふわして、気もそぞろになってきた。そのせいで、手にしていた包丁が大根を分厚く貫いてしまった。
「あっ……! もったいない切り方をしてしまいました」
「大丈夫ですよ。これをさらに細かくすれば」
そう言ってジョーが笑ったとき、土間の勝手口が開く。頭に手ぬぐいを巻いた作務衣姿の霧衣が、あくびをしながら入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます、三代目」
「おはようさん。ああ、朝飯のいい匂いだ」
そう言いながら、目頭を指でおさえる。と、まな板の大根に気づき、にやっとした。
「お? ずいぶん景気よく切られた漬物だな」
「す、すみませ――」
分厚く切られたそれを指でつまんだ霧衣は、まるでおにぎりでも頬張るかのように口に運んだ。
「あっ!」
ゴリッ、と小気味のいい音がたつ。
「食えるもんなら見た目がどうでも、なんだってうまい」
ゴリゴリと食べながら下駄を脱ぎ、母屋にあがる。
「彫りで徹夜しちまった。居間で少し眠るから、朝飯できたら呼んでくれ」
居間に向かう霧衣の背中に、ツツミは笑顔で「はい」と返事をしたのだった。
* * *
千代紙は、浮世絵の手法で仕上がる。
絵柄を描く絵師、それを色ごとの木版にしていく彫師、その木版に顔料をのせて和紙に色づける摺師の工程があり、霧衣はこれらを一人でこなす。摺師のジョーは摺りの段階になってから、霧衣とともに作業に加わる。
花鳥風月をあらわす絵柄や、江戸から伝わる粋な文様などを得意としており、戦火を逃れたかつての版にくわえて、霧衣の手による新作もある。これが好評だ。
工場で摺られた
とはいえ、瓦屋根の平屋が密集している不便な場所まで、わざわざ買いに来る者は少ない。楠の千代紙を求める客は、たいてい文具屋に通うからだ。
そういうわけで軒先の売店は、霧衣目当ての女性客かどこぞの営業マン以外、訪れることがなく暇であった。
家屋の掃除をして洗濯をこなしながら、暇な売店で売られている千代紙を眺めるのが、いつしかツツミの密かな楽しみになっていた。
蝉の声がこだまする夏。
ツツミにとって真っ青な空と入道雲は、女当主に声をかけられた季節と重なるので恐ろしい。けれど、小さな軒先に並ぶ色とりどりの夏の絵柄は、どれもかわいらしくて楽しくて、ツツミの恐怖心を優しく和らげてくれるのだった。
朝顔、金魚、団扇にうなぎ。花火にスイカ、七夕の短冊。
(……かわいいな。こんなにいろんな絵柄があるのね)
愛らしく泳ぐ金魚の様子や、とぼけた表情のうなぎを見ていると、思わず顔がほころんでくる――と、そのときだった。
「あら?」
軒先で声がし、ツツミはすぐさま顔をあげた。
「あっ! い、いらっしゃいませ」
立っていたのは、つばの大きな帽子をかぶった若い女性である。大きな襟の袖なしのワンピース姿で、肩にとどく長さの髪は洋風に巻かれていた。イヤリングが耳で揺れ、目のさめるような緑色のハイヒールを履いている。
きりりとした理知的な瞳をしており、とても美人でとてもおしゃれだ。
(……外国の女優さんみたい。きっと、お金持ちのお嬢さまだわ)
ツツミが身構えたとたん、彼女が笑った。
「あたしが軽井沢でお父様のご機嫌取りをしていた間に、霧衣さんったら新しいお弟子さんを雇ったのね。弟子なんていらないっておっしゃっていたのに」
そう言いながら、売店に足を踏み入れる。
「あなた。
そう言うやいなや、ツツミの左手薬指に目を止めた。指輪に気づいて冷笑する。
「まあ、驚いた。あなた、まだお若いでしょうに奥さんがいるの? そうでなければ、はめてはいけない指にしているわよ?」
これまでも、ツツミを少年だと信じて疑わない女性客に突っ込まれてきた。忙しく工場に詰めている霧衣の迷惑にならないよう、ツツミはそのたびにこう言うことにしていた。
「はい……その……うっかりはめて抜けなくなってしまったんです」
ほかの客同様、彩芽も笑った。
「おバカさんね。どうせそのへんの雑貨屋でいたずらしたんでしょ。石鹸で指をこすったら取れるかもしれないわよ? ためしてみることね」
無益な角が立たないよう、はい――と返事をしようとした矢先。
「
彩芽の背後から、霧衣が姿を見せた。その手には、仕上がった千代紙の束がある。振り返った彩芽は、霧衣を見るなり表情を明るくさせた。
「霧衣さん、お久しぶりね! いやだわ、名字ではなくて名前で呼んでと前から何度も言っているじゃないの」
そう言うやいなや、やはり霧衣の指輪に気づく。そのとたんに顔色が翳った。
「……驚いたわ。どういうことなの。まさか、霧衣さんもどこぞのお店でいたずらをして、指輪が抜けなくなったということ?」
そんなわけはないと、彩芽自身わかっているかのような語調である。
ツツミは恥ずかしそうにうつむいた。察しのいい霧衣は、ツツミのついたらしい嘘に瞬時に気づいた。
「これはたしかに抜けない指輪ですが、いたずらではめたものではありませんよ」
「どういうことなの」
霧衣がツツミを見た。
「彼女、うちのカミさんです」
――えっ。
ツツミはびっくりし、彩芽は目を吊り上げる。
「どういう……ことなの。その子……男の子のお弟子さんではありませんの?」
「いえ。子どもでもないし、男の子でもない。立派な女性で俺のカミさんです」
さらりと言いきった。
青ざめていく彩芽を見たツツミは、彼女が霧衣を好いていることに思いいたる。
きつく眉を寄せた彩芽は、ハンドバッグからサングラスを取り出した。
「……悪い夢を見ているようだわ。出直します」
サングラスをかけると、颯爽と背中を向けて出ていった。あっさりしていて拍子抜けしたものの、だからこそどこか不気味でもある。
「い……いいんですか」
「なにが?」
「わ、わたしのことをあんなふうに言ってしまって」
身近な泉貴や三好、ジョーは事情を知っている。しかし、そのほかの人となると説明のしようがないのも事実だった。
「あの人の祖父が二代目の知人だっただけで、あの人自身とはお客さんってこと以外、なんの縁もない。それに――」
霧衣は真剣な面持ちで続けた。
「期間限定のわけありでも、はじめからはっきりとそういうことにしておくべきだったんだ。指輪の責任は俺にあるのに、これまであなたに無用な嘘をつかせていたらしい。すまなかったな」
「い、いえ……。三日月のためですからいいんです。でも……」
「でも?」
霧衣の片眉が上がる。
「でも……」
今後、いまと似たようなことがあったとき、やはり霧衣はツツミを『カミさん』と紹介してくれるのだろう。
でも、もしも。
もしもその相手の中に、霧衣の想い人がいたとしたら?
(わたしは、邪魔をしていることになってしまう……)
そうは思えど、あまりに私的な疑問を投げかける勇気は、いまのツツミにあるわけもなかった。
「……いえ、なんでもありません。こちらこそ、なんだかすみません」
霧衣が近づいてくる。売り台に千代紙を置くと、うつむくツツミに言った。
「俺はあなたに、あなたの人生を歩んでもらいたい。
霧衣は頭の手ぬぐいを取って、深く頭を下げた。
「――ツツミさん。俺の都合につきあわせてしまって、申し訳ない」
あらためてそう言われると、なんともせつない。
「……い、いえ! こちらこそ、霧衣さんにたくさん助けられています。だからいいんです。そんなふうに謝らないでください」
「本当に?」
「本当です」
「本音か?」
「本音です」
「じゃあ、その証拠をくれ」
「えっ……と、証拠?」
「この俺の頭を撫でてくれたら、あなたに許された証拠にする」
いたずらっぽい眼差しを前髪からのぞかせて、こちらを上目遣いにする。冗談か本気かもわからないが、そんなふうにして言われたら断れない。
ツツミはのろのろと、右手を出す。つややかな霧衣の髪に触れ、さらりさらりと二度撫でた。
妙な心持ちがする。いまにも消えそうな儚い愛しさが、ちくりと胸の奥を刺す。
「……どうして」
素直な疑問が、思わず声になった。
「どうして霧衣さんは、こんなわたしに……呪物だったわたしに親切にしてくれるのですか」
わかっている。そうすることでツツミのそばにいて、そうすることでこの世にいてはならない三日月を天に贈ることができる。それが彼の使命だからだ。
百も承知であるのに訊いてしまい、恥ずかしくなったツツミは深くうつむき、いまさらな質問を白紙に戻すべく口を開きかける。しかし、それより先に霧衣が言った。
「あなたの身の上は、俺と少し似てる」
「え?」
「誰かの身代わりになったわけじゃないが、俺は一筋縄じゃいかない血筋に生まれた。ガキのころにその一族から逃亡して、この街まで流れてきた。そんな俺を拾ってくれたのが、ここの二代目だったんだ」
それだけ言って、口をつぐむ。霧衣の本当の姓は、楠ではないらしい。
ツツミはふと直感する。
彼の背中の双龍も、その一族に関係しているのかもしれない。
それに、たぶんきっと――彼の不思議な力も。
「だから、俺も二代目みたいな人助けをしたい。ま、そんなとこだ」
言葉を濁して、霧衣は笑んだ。会話の流れを変えようとするかのように息をつき、ツツミに優しい役目を与えた。
「このあたりの千代紙は新作だから、ここんとこの目立つところに飾っておいてくれ」
「わかりました」
霧衣は外に出て、空を見る。
「こりゃ、午後から雨だな」
ひとりごとのようにつぶやき、工場に戻っていった。
ツツミも軒先から空を見上げた。
入道雲はいつの間にか、雨を知らせるうろこ雲になっていた。
* * *
むしゃくしゃする。
どうにもむしゃくしゃするときは、百貨店で値札も見ずに買い物をする。
あんなちんちくりんが霧衣の妻だなんて信じられない。きっとなにか弱みを握られているのだろう。そうとしか考えられないと、彩芽は苛立ちをあらわにしながらタクシーをおりて百貨店に入った。
どれもこれも気に入らない。いっそ邸宅に外商を呼びつけて、無理難題の注文をして彼らをいじめ抜いたほうが楽しそうだ。
踵を返した彩芽は、百貨店を出るなり女性とぶつかった。
「……ちょっとあなた、どこを見て歩いているのよ?」
噛み付く彩芽に、ぶつかった女性は柔らかい笑みを浮かべる。
二十代後半くらいで、涼し気な顔立ちをしている美人だ。真夏に似つかわしくないツイードのジャケットとスカート姿で、どこか古めかしいヘアスタイルに小ぶりの帽子をかぶっていた。
「……あなた、その格好暑くない?」
彩芽の言葉に気を悪くするでもなく、女性は妖艶な笑みを残して彩芽の横を通り過ぎた。
「まったく、なんだっていうの。すみませんくらい言えないのかしら」
こんなときは、なにもかもがうまくいかない。
苛立ちが頂点に達しそうになったときだ。
地面できらりと光るものが視界に入る。近づいてみると、古くさい装飾のカメオのブローチだ。場所からして、さっきぶつかった女性が落とした物らしい。
「この真珠、本物かしら。それにこれは……蒼鷺?」
安物ではなさそうだ。このまま放置しておけば、さっきの女性が戻ってきて拾うだろう。それとも、警察に届けたほうがいいだろうか。いや、そんな面倒なことはしたくない。
なにより、けっして自分の趣味ではないそのブローチが、妙に魅力的に思えてきた。
これで胸元を飾ったら、絶世の美女になれそうな気がする。
想い人が振り向いてくれる気がする。
そしてきっと――死ぬまで一緒にいてくれる!
「……これは見つけたあたしのものよ。落としたほうが悪いんだわ」
彩芽は躊躇することなく、ブローチを拾った。
それを強く握りしめると、雨が降り出した雑踏に姿を消した。
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