蒼鷺ノ章

第七話 蒼鷺のブローチ

 帰りたい、帰りたい。

 あなたのところに、帰りたい。


 ああ、早くあなたに会いたい。

 早くあなたに会いたいから、どうか早くあたしを見つけて。

 

 ――異国で化け物になってしまったあたしを、早く見つけて。




 * * *



 昭和三十五年、東京、夏。

 閑静な住宅街のすみに、奇跡的に戦火をまぬがれた小さな洋館がある。

 ここが、泉貴いずきの邸宅兼骨董店である。

 主に一階を店としており、扱っている品は貴金属、雑貨、着物、美術品などが多く、家具などの大きな物は倉庫にしている離れに置いている。とはいえ、泉貴の審美眼を信用しているお得意様は多く、高級な古家具が入ったとなると競うようにすぐ売れた。なので、離れの倉庫が空であることも珍しくない。

 いまは、先日の――いわくのある火事跡の蔵にあった漆塗りの古家具だけが『売却済』の札を下げ、配送期日の到来を待っているだけである。

 真っ青な空には、入道雲。あちらこちらから蝉の声がこだまする、そんなとある日の朝。

「おはようございます! ああ……暑い……!」

 アルバイトの三好みよしが、団扇うちわをあおぎながら出勤してきた。

 窓際の商談用テーブルについていた泉貴は、珈琲を片手に新聞を広げた格好で目を丸くする。

「どうしたんだい、早いじゃないか。まだ八時だよ?」

「アパートにいたって暑いし、勉強しててもなんにも頭さ入ってこないんですよ。だったらここのほうが木陰もあるし涼しいから、店番しながら勉強したほうがいいと思って」

 なるほどと、泉貴はちょっと笑う。

「今年こそ合格しないと、ここでのバイトはクビだからね」

 冗談半分本気半分で言うと、三好が青ざめた。

「えっ! 俺、ここの仕事気に入ってんですよ。それだけは嫌だべな!」

 東北訛りがあらわになる。興奮している証だ。泉貴は笑った。

「じゃあ、暑さに負けている暇はないよ」

 カウンターについた三好は、さっそくと言わんばかりにバッグから参考書を取り出す。

 泉貴は新聞に視線を戻した。相も変わらず物騒な事件ばかりが紙面を賑わせている。なかでも気になったのは、若い男女の心中事件だ。

「また心中らしい。ここのところやけに多い気がするな」

 一月ひとつきほど前から、おそらくこれで三件目。しかもなぜか、どのケースも女性側だけが生き残っていた。

「それ、俺も読みました」

 三好が続ける。

「たぶん、最初に心中した二人に心酔していた人たちじゃないですかね?」

「最初の二人って……劇団の女優と脚本家だったかな?」

 無名な劇団の二人だったので、名前までは覚えていない。三好がうなずいた。

「有名じゃなくても熱烈なファンってのはいますからね。俺もたいして詳しいわけじゃないですけど、そういうとこから火がつくことってあるじゃないですか」

「そうだとしたら、いやな流行だよ。きみもせいぜい、女性には気をつけないと」

 三好が笑う。

「あはは! 俺にはそんなことないですって! 俺がしゃべったとたん、女性陣はみんな意外そうな顔して逃げていきますから!」

 黙っていれば銀幕スターのような容貌だが、口を開けば滑稽になる。その落差が三好のいいところなのだが、ロマンチックな恋の相手を探している女性たちからすると、平気で財布を忘れる三好はいっきにありえない相手になるのだろう。

「……きみの先が思いやられてきたな。まあ、妙な女性に好かれない分、安心ではあるけれども」

「え?」

「なんでもないよ」

 泉貴が苦笑気味に新聞をたたんだときである。

「――す、すみません!」

 若い男が息をきらせて入ってきた。

 年齢は三好と同じくらい。半袖シャツにズボンという出で立ちで、浅く日焼けしており背が高い。なにかスポーツをしていそうな体躯である。

 そんな精悍な男は、しかし店内に入るなり、青ざめた顔つきで声を震わせた。

「こ、ここ、ここだったら、ひひ、引き取ってもらえるって聞いて……こ、ここ、これを!」

 肩で大きく息をしながら、きつく握った右手を突き出しつつ、泉貴に近づいてきた。

「こ、ここ、これを引き取ってください。か、金はいりません! い、いろんな寺を回ったけれど、どこに置いてきても絶対に戻ってくるんです。だ、だから――さっさと誰かに売っちまってください!」


 ――戻ってくる?


 泉貴は三好と顔を見合わせた。三好はわけがわからないとでも言いたげに、外国風に肩をすくめて見せる。

 男はいまだ手を握りしめたまま、言葉を続けた。

「に、二週間くらい前、近所の質屋の店頭にあって、見つけた彼女が気に入ってしまって……意外に安かったんで買ってあげたんです。け、けど……もういらない。こ、これをしてると、彼女が化け物みたいな顔つきになって、い、一緒に死のうって、俺を殺そうとしてくるんです!」

 そう言って、握った右手をテーブルに置く。

「だ、だから捨てたのに、次の日には彼女の胸にある。まるで、俺が死ぬまで離れないって言ってるみたいに……!」

 バッと手を広げ、すぐに引く。

 テーブルに残されたのは、ブローチだった。

 楕円形のパールの枠に、しなやかな翼の鳥が大理石に彫られてある。

 いわゆる浮き彫り――カメオのブローチだ。

 パールは本物。控えめで上品、かつ優美な仕上がり。アンティークだが状態は最高級。詳細に調べる必要があるが、国内で製造されたものではない。おそらく、英国由来の職人による古物。しかも、上流階級を匂わせる。

 泉貴はとっさに、頭の中で値踏みする。それは、この青年が安いと判断して買えるような値段ではない。

 いや、もしかして、この青年はお金持ちのお坊ちゃんか? それならばわからなくもないのだが。

「きみ、これをいくらで買った?」

 教えられた値段は、靴下一足分程度であった。そんなバカな。

 泉貴はブローチに顔を近づける。鳥の瞳には、小さな紺碧のサファイヤが埋め込まれ、輝いていた。


 その鳥は――蒼鷺あおさぎであった。



 * * *



「戻ってくるって、なんですかね?」

 三好が言う。

 ブローチを置いていった男は「金はいらない」の一点張りで、氏名も連絡先も告げず逃げるように立ち去ってしまった。

「さあ……なんだろうね」

 泉貴はハンドルーペ越しに、あらためてブローチを鑑定した。見れば見るほど、まるで高級時計のような繊細さで感嘆する。

 ルーペから目を離し、泉貴は息をつく。

 物には念が宿ることがある。とくに古物はそうだ。そういうとき、泉貴には勘が働く。けれど、このブローチには禍々しさを感じない。とはいえ、男の言動は気になった。

霧衣きりえに見せたほうがいいかもしれないな」

「俺、電話で呼びますか?」

「いや。朝は本職で忙しいだろうし、急ぐようなものでもなさそうだから、僕が午後に持っていくよ」

 そう答えた瞬間、古時計が九時を知らせた。泉貴はブローチをカウンターの飾り棚に入れ、衣紋掛けにある帽子を取った。

「鑑定の約束があるから、店番を頼むよ」

「車で送りましょうか?」

「いや、散歩がてら行ける邸宅のお得意様だ。一時間ほどで戻るから、きみは勉学に励みなさい」

 にやりとすると、三好はうなだれた。

「……はい。がんばります」



 泉貴を見送った三好はラジオをつけ、参考書をめくった。

 アップテンポのスウィングジャズが流れたとたん、ラジオの電波が途切れはじめる。おや、と思って顔をあげたとき、ドアが開いた。

 瞬間、三好は思わず息をのんだ。

 入ってきたのは、涼し気な顔立ちの美しい女性だった。年齢は、自分よりも五、六歳ほど上だろうか。耳の下で揺れるモダンなヘアスタイルがよく似合っており、憂いを漂わせた三白眼ぎみの瞳と、赤い唇が妖艶だ。

 背が高く、すらりとした姿態。真夏にもかかわらず、上品なツイードのジャケットと揃いのスカートを身にまとい、小ぶりの帽子をかぶっていた。少し古めのスタイルだが、エレガントだ。

 三好は思わずぽかんとし、見惚れてしまった。そんな三好を見て、女性は微笑む。とたん、三好は焦った。

「あっ……と、い、いらっしゃいませ」

 慌ててノートと参考書を閉じ、カウンターの引き出しに隠す。

 われこそが主と言わんばかりに姿勢を正したとき、女性がこちらに近づいてきた。

「こんにちは。このブローチ、素敵ね」

 飾り棚を見つめ、蒼鷺のブローチを指した。

「見せてくださる?」

 儚げな笑顔と甘い香水に、三好はぼうっとする。まるで、うつつの世界をさまよっているかのようだ。

 まだ値段もついていない品なので、いつもであれば断るのだが、三好は飾り棚からブローチを出してしまった。

「ありがとう」

 女性は嬉しそうに、ブローチを受け取った。その直後、三好ははっとする。

 あれ? そういえば、泉貴先生はこういったいわくありげで値段のついていない品を、飾り棚になんて置かない。いつもなら、こういうものばかりを収めている金庫に入れるはず。それなのにどうして、こんな目立つ飾り棚に置いたのだろう?

 なんだかまるで、先生自身もなにかにかされたかのような行動じゃないか――?

「――あっ」

 三好が瞳をまたたかせた瞬間、女性は消えていた。すぐに見まわしたものの、店内のどこにもいない。

 戸惑いながら、飾り棚を見る。それから、自分の手のひらも見た。

 蒼鷺のブローチも、あとかたもなく消えていた。

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