シャツとコーラとアイスキャンディ[二]
霧衣のお下がりを身にまとったツツミが、ちょうど掃除を終えた午後。
「ごめんください」
声が聞こえ、千代紙の売り場兼玄関にツツミが向かうと、風呂敷包みをたずさえた泉貴と三好が立っていた。
あ、と二人は同時に息をのむ。と、ツツミを見た泉貴が柔らかく微笑んだ。
「霧衣に頼まれて、姉のお下がりをいくつか持ってきました。きみの好きそうな服があるといいんだけれど」
「あ、ありがとうございます。あの、霧衣さんを呼んできますからあがってください」
「いや、これを渡すだけの用事だったから、今日はひとまず――」
泉貴がそう言いかけたときだ。
「――えっ。先生、俺、喉が乾いてなんか飲みたいです」
えええ……と泉貴は眉を寄せ、隣の三好を見た。
「……ここに来る前、喫茶店でコーヒーをごちそうしただろう?」
「あれはあれです。いまは冷たいものを飲みたいです」
「きみと話していると、どちらが雇われの身かわからなくなってくるな」
泉貴が苦笑した、その直後。
――アイスだよ。アイスキャンデーはいらんかね。
「あっ! アイス売りですよ、先生!」
まるで子どものように、三好が目を輝かせる。
「俺、食べたいです!」
ふう、と泉貴は肩を落とす。ズボンのポケットを探って小銭を取り出すと、三好に渡した。すると、三好がツツミを見る。
「きみも食べる?」
「えっ?」
「アイスだよ。食べる?」
ツツミは戸惑う。青湖の代わりに食事をしていたときも、アイスなる食べ物は出なかった。それ以後も暗がりにいたから、どういう食べ物なのかよく知らないのだ。
「わ、わたし、食べたことがないので……」
泉貴と三好が顔を見合わせた。と、三好がにっこりする。
「じゃあ、すぐそこにいるみたいだから、一緒に行ってみる?」
すぐそこ、という言葉に、ツツミはふわりと浮き立った。食べられなくても見てみたい。そう思った瞬間、
「三好くん、いいよ。ツツミさんを連れて、俺が行く」
奥から声がして振り返ると、霧衣がいた。
「ついでにみんなの分も買ってこよう。どうせ泉貴のおごりだろ」
泉貴を見てにやりと笑う。ため息をついた泉貴は、上着の内ポケットから財布を出し、五百円札を霧衣に渡す。受け取った霧衣は苦笑した。
「ありがたいが、札じゃアイス売りに釣りで迷惑かけちまう。泉貴先生、小銭をください」
冗談めかして言った霧衣の手に、泉貴はありったけの小銭を手にのせた。
「……おまえのほうが裕福なんだから、ごちそうしてくれよ。まったく!」
霧衣が笑った。
「あがって縁側で待っててくれ。行こう、ツツミさん」
「は、はい!」
* * *
平屋のひしめく狭い通りに、子どもたちの群れができている。『アイス』と書かれた看板を掲げた自転車があり、その荷台に大きな木箱がのっていた。
「おっちゃん、イチゴ味ちょうだい」
「僕は黄色いやつ」
「順番、順番。はいよ」
カンカン帽をかぶった壮年の男が、木箱からアイスキャンディを取り出し、小銭を受け取っていた。
ツツミたちの順番がきて、木箱をのぞく。青や黄、赤いアイスの色に、ツツミは目を丸くする。いったいどんな味なんだろう。
「ツツミさん、どれがいい?」
霧衣にそう問われ、迷う。これまでの人生で、自分でなにかを選んだことなどなかったからだ。
でも。
「……あ、青。この、青いのにしてもいいですか」
なんとなく、青湖の名を思い出して指をさす。ソーダ味なるものらしい。
青い湖みたいに澄んだ色。そのアイスキャンディを手にする。
「おっちゃん、どうもな」
「おう。まいどー」
霧衣は小銭をアイス売りに渡し、泉貴たちのアイスを受け取った。
「溶けないうちに帰ろう」
「はい」
アイス売りに背中を向けて、歩きはじめたときだった。ふと、霧衣の視線が路地に移る。
「どうしたんですか」
「……なにかいる気がする」
そうつぶやくと、突然そちらをめがけて駆け出した。
「あっ……あの、霧衣さん!?」
ツツミも霧衣を追いかける。と、霧衣が「ヒュッ」と口笛を吹く。すると路地の暗がりに、小さな男の子の姿が煙のごとくあらわれた。ツツミは驚き、思わず立ち止まる。
男の子の足が消えている。この世ならざる存在だ。
男の子は哀しげな眼差しで指をくわえ、じいっとアイス売りを見ている。
「き、霧衣さん。あれは……?」
「とっくにこの世にない子だが、アイスが食いたいって念だけが残ってるらしい」
霧衣は男の子に近づき、目前でしゃがんだ。すると、男の子が目を丸くする。
――お兄さん、僕が見えるの?
「ああ、見える。このアイス、食うか?」
――本当? いいの?
「いいよ」
――父さんも母さんもおばあちゃんも妹も、みんな戦争で死んじゃった。僕だけしばらく生きてたけど、やっぱりうまくいかなかったみたい。
「そうか」
――最後にさ、どうしてもさ、アイスが食べたかったんだ。みんなが元気だったころ、夏になるとよく食べたんだ。お祭りとかでも金魚釣りしてさ、そんでみんなでアイス食べたんだ。
一番楽しかったこと。男の子はそう言った。
「そうか。じゃあ、みんなにも分けてやらなきゃな」
霧衣が立ち上がる。アイスの棒を左手に持ち、腰に下げた千代紙の束を右手で探る。そうして一枚、親指で器用にめくり取り、指に挟んで息を吹いた。
――ふっ。
はらりと地面に落ちたのは、川を泳ぐ金魚柄。その風呂敷に、霧衣はアイスを置く。瞬間、風呂敷はきゅっと結び目をつくり、ふわりとほのかに輝いた。
風呂敷と、そこに入れたアイスが消える。柄の金魚だけが空中にうっすらと残り、まるで踊るように泳いで見せたのち、空気に溶けて消えていった。
同時に、男の子の両腕の中に、たったいま消えたはずのアイスがあった。
男の子が満面に笑む。
――お兄さん、ありがとう。
「みんなにも分けてやれよ」
――うん。ありがとう!
そう言いながら影を薄くし、姿を消した。
まばたきも忘れてその光景を見ていたツツミのそばに、霧衣が戻る。アイス売りを振り返ると『売り切れ御免』の札が下がっていた。残念ながら、買いなおせない。
「アイス、全部やっちまった」
その言葉に、ツツミははっとする。自分のアイスだけ、ちゃっかり手元にあるからだ。
「あっ……と、これもあの子にあげたらよかった」
気まずくなって頬を赤らめると、霧衣がひょいとツツミのアイスを奪い取った。
「これはあなたのだ。もう溶けそうだからここで食べてしまおう」
透明な袋をはずし、アイスの棒をツツミに渡す。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
とは言ったものの、食べ物を口にするのは億劫だ。しかも、誰かの目の前となるとなおさらうまくできそうもない。
そんなツツミを察してか、霧衣が言った。
「ひとくちだけでいいから、食べてごらん。俺は向こうを見てるから」
腕を組みつつ、顔をそむけてくれた。つばをのんだツツミは意を決して、アイスを口に運んでみた。
――シャリ。
甘酸っぱい冷たさが広がった。じんわりと初夏を噛みしめて、喉に流す。
「……こんな味、はじめてです。おいしいです」
霧衣が横目でこちらを見、微笑んだ。
「それはよかった」
――シャリ、シャリ。
もうふたくちだけ、ツツミは頬張った。けれど、数年ぶりの甘味に身体中がびっくりしている。
「……すみません、もうお腹がいっぱいみたいです。こんなにおいしいものを残してしまうなんて……どうしましょう」
「いいさ」
にっこりした霧衣は口を開け、ツツミの持っているアイスにかぶりついた。
(えっ!)
ツツミが思わず手を離すと、霧衣は棒ごと奪ってしまった。
「俺がもらう」
シャリシャリと気持ちのいい速さで食べ進め、あれよという間に棒だけになった。
「うん、うまかった。ごちそうさまでした」
霧衣の笑顔につられて、ツツミも頬をゆるませた。
「はい。ごちそうさまでした」
* * *
「……で、アイスは?」
縁側で待っていた泉貴と三好に、霧衣は肩をすくめてみせる。
「ちょいわけありで、なくなっちまった」
「わけありって……カラスにでもくれたのか?」
泉貴が肩を落とす。そこに、赤いボトルクレートをたずさえたジョーがやって来た。
「三代目、さっき大久保商店のお使いの方がいらして、ちょっと早いけれどお中元だと申しまして、これを」
縁側に寝転がっていた三好が飛び起きる。
「うわ、コーラじゃないですか!」
「アイスの代わりと言っちゃなんだが、飲んでくか?」
霧衣の言葉に、三好は大きくうなずいた。それを見ていた泉貴がうなだれる。
「じゃあ、それをごちそうになったら帰るよ、三好くん」
「はい、先生!」
冷蔵庫を冷やすための板氷を、ジョーが器用に細かくする。グラスに氷を入れると、コーラの瓶を霧衣が開けた。
グラスにそそがれる黒い液体と泡を目にしたツツミは、それが飲み物だなんて信じられなかった。
「こ、これ……飲むんですか」
三好が答える。
「そうだよ。けど、たしかに悪魔の飲み物みたいだよね」
注ぎ終わったグラスを持って軽く乾杯し、みんなが飲む。ツツミもおそるおそる口に含んでみた。
この世界には、不思議なものがたくさんあるらしい。
食べ物、飲み物、そして、人。きっと、ほかにもたくさんあるのだ。
「……おいしいです」
ツツミが言うと、霧衣が笑った。
「それはよかった」
路地でのことを、ふいに思い出す。
この人は、霧衣はとても優しい。それに、普通の人であれば腰を抜かすようなことも、やすやすとやってのける。たぶん、怖いものなどないのだろう。
それはきっと彼自身が、本当の哀しみをすでに知っているからかもしれない。
(……霧衣さんは、どんな人生を歩んできたんだろう。いつか、もっと知れたらいいな)
はじめての味を覚えたこの日、ツツミは密かにそう思ったのだった。
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