幕間

シャツとコーラとアイスキャンディ[一]

 楠染工の母屋で暮らすことになった。

 助けられたという思い以上に、どことなく拾ってもらったという感情がわく。

 霧衣との不思議な契約が、左手の薬指におさまった翌朝。

 布団から起きたツツミは、どうしても食べられなかった盆を持って階段をおりた。すると、階段下から老齢の紳士が姿をあらわす。

 あ、とツツミは動きを止める。それにつられたかのように、紳士もぴたりと静止した。きっとこの人が、ここで暮らしている職人だろう。

「お、おはよう……ございます」

 ツツミの挨拶にびっくりしたかのように、紳士は目を丸くする。けれど、すぐに目尻を下げて微笑み、丁寧に頭を下げてくれた。

「おはようございます。こちらにお世話になっております、小柳こやなぎ丈と申します。みなさんにはジョーと呼ばれています」

 どうやらツツミのことは、すでに知っているようだ。

(あ、わたしも自己紹介をしなくては)

 とはいえ、階段上から見下ろしたままは失礼だ。ツツミは急いで階段をおりる。と、手に盆を持っていたのと重い着物の裾が邪魔になり、うっかり足を滑らせた。

「わっ」

「おおっ!」

 ジョーが慌てるも、ツツミはずずずと滑り台の途中で止まった子どものような態勢にとどまり、盆と小鍋をなんとか死守した。

「……お、落とさずにすみました」

 顔を赤くすると、ジョーは笑いながら盆を受け取る。そのとたん、ぎょっとした。

「鍋が重い。お口にあわなかったかな?」

 ジョーが作ってくれたものらしい。

「い、いえ。その……すみません。とてもおいしそうだったのですが、わたしは食べることがうまくできないんです」

 ジョーの眼差しに陰が落ちる。なんとなく察してくれたのか、それ以上はなにも問うてこなかった。階段脇に盆を置くと手を差し伸べ、ツツミを立たせてくれた。

「あ、ありがとうございます。岩木ツツミと申します。その……」

 なんと自己紹介をすべきか、少し迷う。すると、ジョーはすべてを知っているとでも言うかのようにうなずいた。

「昨日のことは存じております。いやはや……」

 照れくさそうに頭をかく。

「実は、年甲斐もなく若干緊張しておりました。なんと申しますか、その……どこぞのお姫さまのような威厳ある方だったら、どう接するべきかと考えてしまって。しかし、私の懸念だったようでお恥ずかしい。安心しました」

 よろしくお願いいたしますとツツミが頭を下げると、「いえいえこちらこそ」とジョーはふたたび頭を垂れた。

 そこに、霧衣があらわれる。

「おふたりさん、挨拶で一日が終わっちまうよ」

 からかわれ、ツツミとジョーは同時に頬を赤らめた。

「ジョーさんは事情を全部知ってる。俺とあなたの契約のことも、今朝伝えた。だから、困ったことがあれば気兼ねしないでなんでも言っていい。俺よりも長くここにいる先輩だしな」

「先輩とはまいりましたな、三代目」

 ジョーはふたたび恥ずかしそうに笑む。シャイな人らしい。

 工場を開けると告げて、ジョーが去る。すると、霧衣はまじまじとツツミを見下ろしてきた。

「取り急ぎ、あなたの着替えをなんとかしよう。泉貴いずきの姉さんにお下がりを頼んであるから、午後にはもらえるはずだ。けど……それまでその着物ってのも落ち着かないよな。あなたも早く脱ぎたいだろ、ツツミさん?」

 名前を呼ばれ、ドキリとした。

「は、はい……」

「だよな……。しゃあない、いったん俺のお下がりを持ってくるから、ちょっと待っててくれ」

 言われたとおり、ツツミは階段下に立って、じっと待つ。

 あらためて見まわすと、立派な日本家屋だ。無駄なものはいっさいなく、すみずみにまで掃除がいきとどいている。ジョーと霧衣がおこなっているのだろう。

(……でも、これからはわたしがやろう。そうしたら、霧衣さんもジョーさんももっとお仕事に専念できるもの)

 久しぶりに、人らしい生活ができる。そう思うだけで、わくわくした。いや、そう思えるだけで、心からありがたかった。だから、ふと視界に飛び込んだ壁掛けの鏡に、痩せこけた剃髪の少女が映っても落ち込んだりはしなかった。

 ツツミは鏡に近づいて、しっかりといまの自分を見た。

 年齢は、十四、五歳くらい。けれど、痩せていて背も小さいため、もっと年下に見えなくもない。

 顔立ちはいたって平凡。醜くはないけれど、美しくもない。ただ、瞳だけはきらきらしていてきれいかもしれなかった。


 これが、わたし。いまの、わたし。

 たしか、たぶん――もうすぐ二十歳になる、成長の止まったわたし。


「一番小さそうなやつを、なんとか引っ張り出してきた」

 霧衣が戻る。鏡から視線を移したツツミに、白いシャツとキャメル色のズボン、ベルトを差し出す。当然ながら、どれも男性ものだ。

「ありがとうございます。助かります」

 着替えてきますと告げて、ツツミは階段をあがった。部屋に戻り、着物を脱ぐ。脱いだとたん、身体中が羽のように軽くなった気がした。

 呪いの蛇である三日月の力のおかげか、棲家だったツツミは身体を拭かなくてもきれいで、白檀の香りすら漂わせていた。けれど、その三日月が深く隠れてしまったので、これからは身なりにも気をつけなくてはいけない。

 ズボンを履く。霧衣は〝一番小さそうなやつ〟と言ったけれど、案の定ぶかぶかだった。

 ベルトをひっかけ、裾を折り返してからシャツを着た。こちらも大きくて裾も長く、ボタンすらうまくとめられない。

(……これでいいのかしら)

 思い返せば子ども時代、そして使用人になってからも、ずっとモンペだった。こうした洋装を見たことはあっても、ツツミが着るのははじめてなのだ。

 正しいのかはわからないが、ひとまず部屋を出る。大きかろうが、着物よりもずっと楽だ。なにより、ほんのりとシャツから漂う清潔な石鹸の香りが、妙に心を和ませる。

 階段を見下ろすと、霧衣が座って待っていた。と、こちらを振り返って見上げる。そのとたん、にやっとした。

「やっぱりでかかったか。それに、ボタンがずれてる」

 霧衣は腰をあげ、昨夜のように手招きをする。ツツミが階段をおりて目の前に立つと、ボタンを指差した。

「こういうのは下からじゃなく、襟元からとめていくとずれない。あとで直してみるといい」

 そう言った霧衣は、ツツミのねじれた襟を両手で整えてくれた。

「わ、わかりました」

 まるで、小さな男の子にでもなった気分だ。いや、実際霧衣にとってはそうなのかもしれない。だって、ツツミの容姿がそうなのだ。無理もない。

 これでは夫婦というよりも兄弟だ。とはいえ、別段気にならない。もともと指輪をはめているだけの間柄なのだ。

 それよりも。そんなことよりも。

(なんだか恥ずかしい。わたし、現代のことも外の世界のことも、なんにも知らないんだもの)

 耳を赤くして視線を落とし、うつむく。すると、霧衣が気づいた。

「どうした」

「い、いえ……。シャツのボタンも満足にとめられないので、その……恥ずかしいと思ってしまって」

 霧衣がちょっと笑う。

「これから覚えればいいだけだ」

 はっとして、霧衣を見上げる。すると、彼はツツミの袖をまくり直しはじめた。

 前髪がはらりと、端正な顔を隠している。本当にきれいだ。きれいな人。

 なぜかそのとき、ツツミは思った。

(どうしてだろう。この人はどことなくあの方に――青湖様に、雰囲気が似ている気がする)

 ふたりともきれいな顔立ちだが、似てはいない。外見というよりも、もっと違うこと。それはたとえば、目に見えない気配のようなもの。

 育ちのようなもの――かもしれない。

(本当に、下町の職人さんなのかな)

 そんな疑問がふと頭に浮かび、ツツミは勝手に気まずくなってしまった。

(……不思議なことのできる人だもの。もしかしたら、霧衣さんにも秘密があるのかもしれない)

 だとしたら、たとえそうだとしても、無理に知りたいとは思わない。彼の歩んできた道のりが、幸せとはかぎらないからだ。


 この目の前にいる人が親切で優しく、信頼できるということ。

 彼については、それがすべて。それがわかるだけで、じゅうぶんだ。


「さ、袖をまくり直した。あとはボタンをかけ直せば完璧だな」

 腰を落とした霧衣が、小柄なツツミをのぞき込んで微笑む。霧衣の前髪が、ツツミの目前で揺れた。

 シャツと同じ、石鹸の香り。そう気づいて、ツツミは思わず小さく笑った。

「どうした?」

「いえ、その……なんだか安心します」

「安心?」

 ほんの一瞬、一瞬だけ。

「霧衣さんの髪が、シャツと同じ香りだなって思って。それで、なんとなく安心するなと……」

 他意のない、素直な感想だ。と、霧衣は目を丸くする。

「……素直なのも、困りもんだな」

「え?」

「そういうことは、言っちゃいけない。心の中におさめておいたほうがいい」

 ツツミは驚いた。

「そうなんですか」

「そうなんです」

 同じ口調で繰り返し、霧衣はやれやれと頭をかきながら作業場に向かった。そんな彼の背中を見つめながら、ツツミは思う。

 どうやら外の世界は、覚えることだらけらしい。

(よくわからないことだらけだけれど、ひとつずつ、一歩ずつ覚えていこう)

 そう自分に誓いながら、シャツのボタンをかけ直したのだった。

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