第六話 きれいなもので包むこと
春は、梅や桜が素敵だね。
でも、母さんはたんぽぽが好き。どんな道端にも咲いていて、景色を明るい春にしてくれる。
それに、みんなにたくさん踏みつけられてもね、すぐに枯れたりへこたれたりしない。
特別じゃないけれど、かわいくて強くて優しい花。
たんぽぽはね、昔は
いい名だなあって思ってね、それで、ツツミの名前にしたんだよ。
幼いツツミの手を引いて、母は言った。そんな母を、ツツミは見上げる。
「ツヅミグサなら、どうしてツヅミじゃなくてツツミなの?」
母が笑った。
「父さんにね、おまえが生まれたことと名前のことを書いて手紙を送ったらね、ツヅミじゃ呼びにくいからツツミがいいよって、返事がきたからだよ」
戦地から届いたハガキをふと思い出したのか、母は涙を堪えるような笑顔で答えた。
そこで、目が覚めた。
数年ぶりに、三日月以外の夢を見た。しかも、懐かしい母親の夢である。どうやら少し泣いたらしく、頬が濡れている。ぼんやりしながら、指でぬぐった。
窓から差し込む、月明かり。ほの青い光に照らされた、見覚えのない天井。
(……あ。やっぱり、色がわかる。ちゃんと見えてるみたい)
三日月の視界じゃない、自分の目。そのことにはっとして、三日月の名を心の中で何度も呼んだ。やはりうんともすんとも答えない。まだ自分を棲家にしているのか、それとも消えてしまったのか、ツツミには判断がつかなかった。
どちらにしても、やけにさびしい。たくさんの人を幸せの絶頂から不幸の底へと突き落としてきたことを思えば、そんな感情を抱くこと自体間違っているのだろうけれど、ずっと一緒だったのだ。
姉のような、友のような。そんな存在の不在は、やはりせつない。
布団から起きあがったツツミは、真っ赤な着物姿のまま、信じられない思いで四畳半ほどの部屋を見渡した。
(ここは……あの人の家かな)
自分を抱きかかえてくれた人を、ふと思い返す。
――怖いのに、嬉しい。恐ろしいのに、楽しい。
あの人のそばにいると、そんな感情がさざ波のようにやってくる。だから、逃げたいような近づきたいような、おかしな気持ちを味わうはめになる。
(なんだか、不思議な人)
三日月が恐れるのも、少しわかる。もしかすると、彼は〝人の姿をしたなにか〟かもしれない。けれど、紫藤のようなばけものとも絶対に違う。
だって、その畏怖が――神々しいものに対する感情に似ているから。
「神様、みたいな……」
口にして、すぐにつぐむ。
(わたし、助けられたってことなのかな)
ピンとこないが、たぶんそうなのだろう。もう願いを叶えて報いを与えるため、どこかに行かなくてもきっといいのだ。けれど三日月のいないこと、見える目、暗がりではない部屋、それらすべてに慣れなくて、むしろどこかバツの悪さを感じてしまう。
(……あの人に、お礼を言わないと……)
布団のそばに盆があり、小鍋と漬物がのっていた。蓋を開けると粥の優しい香りが漂って、とてもおいしそうだ。けれど、哀しい経験から食べることが苦手になったツツミは、そっと蓋を戻した。
窓に近づく。二階らしく、見下ろすと小さな中庭がある。
気ままに歩けたことなど、人生で一度もない。幼いころは母親に手を引かれていたし、使用人になってからは足を踏み入れてもいい範囲が決まっていた。
そしてそのあとは、紫藤のしめす場所にしか行けなかった。そう思ったとたん、部屋を出て階段をおりたところで足が止まった。
(勝手に歩いてよかったのかな)
経験上、やっぱり駄目な気がする。迷った末、結局部屋に戻ろうと考えた矢先、廊下の奥にほのかな灯りを見つけた。
なぜだか足が向き、息を殺す。いけないいけないと思っても、歩みは進んでいく。
開いている障子扉から、そっと顔をのぞかせる。瞬間、ツツミは驚き、扉に手をつく。
――ガタ。
縁側にいた彼が、その物音に気づき振り返る。と、ツツミを見ると小さく笑み、腰に落としていた浴衣の襟をとっさに持ち上げ、背中の双龍を隠すように袖を通した。
「風呂上がりの癖を見られたな」
向かい合った双龍は、互いの身体を絡めながら、彼の両腕、両手へと尾をのばしていた。ただの彫りには思えない。まるで、彼の肌で生きているかのように見えた。
もしかして、見てはいけないものだったのかもしれない。
とっさに謝ろうとした矢先、煙草をくわえて火をつけた彼は、ツツミに向かって手招きした。ツツミが戸惑っていると、上に向かって指をさす。
「いい満月だ。一人で見るにはもったいない」
まるで、ずっと昔からツツミがここにいたかのような声音である。余計なことを訊ねるでもなく、そばにあるスケッチブックを手にとった。
鉛筆を握った彼が、さらさらとなにやら描きはじめる。満月にも興味はあるけれど、むしろそれが気になった。
(なにを描いているんだろう)
ツツミはおずおずと居間に入った。縁側に近づき、彼の背後からそっとスケッチを盗み見る。
たんぽぽの平原を跳ねる、ウサギの親子の図であった。
(……すごく上手。それに、かわいくて素敵)
モダンな形状に簡略化されており、どことなく千代紙の図柄を連想させる。と、ツツミの視線に気づいた彼は、これはいいから月を見ろとでも言いたげにスケッチを閉じ、闇夜を見上げた。
「ほら、いい月だろう? 餅をついてるウサギがちゃんといる」
そう言われ、夜空をあおぐ。あ、ほんとだ。
きりりとした銀色の月に、餅つきウサギの柄が浮いていた。
(あれを見て思いついて、描いていたのかな)
そう思ったとたん、ふふ、と思わず口元がほころぶ。そのことに、ツツミ自身が一番びっくりした。
(……わたし、いま、ちょっと笑った?)
彼の煙草の煙が、ゆらゆらと夜に消える。風にそよぐ枝葉の音が、やけに大きく聞こえる気がする。
外の感触と、自由の香り。縁側に正座したツツミは、まるで夢のようだと思った。
隣の彼はなにも訊ねない。そういえば、この人の名もわからない。
それなのに、いっさいの不安がない。だから、やっぱりこれは現実じゃないのかもしれない。
自分はすでに正気ではなくて、きっとすべてが――三日月の不在も母親の夢すらも、あの地下室で見ている幻に違いない。いや、もしかしたらわたしはすでに朽ち果てて、この世にいないのかもしれない。けれど、それならそれでかまわない。どのみち覚悟をしていたことだもの。
――だから、どうかこの夢が、覚めませんように。
足の上できゅっと両手を握り、満月のウサギに祈った。そのとき、彼が口を開いた。
「ここは染工場の母屋で、ジョーさんって職人さんも暮らしてる」
「……染、工場?」
彼が煙草を灰皿に捨てた。
「和紙を千代紙にするところだ。それには売り物と、俺が使う物がある」
そう言うと、浴衣の袖から小さな千代紙の束を出して見せた。
「これだ」
鈴がついており、音色を耳にしたツツミは息をのんだ。
(あのときの鈴、これだったんだわ)
「こいつがなにか、説明するより見てもらったほうが早いんだが……」
そう言って腰を上げると、縁側下をのぞくようにしゃがんだ。
「さて、果たしているかな……」
唇に二本の指を添え、ヒュッと口笛を吹く。と、しばらくすると蜘蛛のような輪郭の黒い
「あっ!」
ツツミは思わず短い声をあげた。
大きさは、握りこぶし程度。それが、逃げるように庭に向かっていく。
「下っ端の邪気がまさか我が家にいたとはな。いい根性してるじゃないか」
そう言って小さく笑った彼は、異形を見すえたまま、指で千代紙の束をめくっていく。そうして一枚を親指で剥がし、人差し指と中指に挟む。
図柄は、白い蘭。指に挟んだそれを唇に添え、息を吹く。
――ふっ。
とたん、千代紙は形を変えて大きさを変え、異形めがけて翼を広げた。紙の質感が布になり、庭に隠れようとする異形に追いつく。
鳳凰のように翼を広げ、異形を包む。そうして、まるで贈り物のように翼を結んだ。
――きゅっ。
その直後、淡く光る。白くきらめく小さな蘭が宙を舞い、やがて包んだ異形とともに、夜風の中にとけて消えた。
ツツミは身動きを忘れていた。いまのは、なんだろう?
「い、いま見えたものは……?」
「下っ端の邪気だ。ほとんどのところにいて珍しくもないが、でかくなるとやっかいだ。家に棲みつき、そこに暮らす人の運を吸う。まあ、そこまででかくなるやつも稀だがね」
「だ、誰にでも見えるものなんですか」
「いや。俺が口笛で呼んだから、輪郭をあらわしただけだ。この世にはああいうのがごまんといる」
そう言って、庭からツツミに視線を移した。
「俺は、この世にいて悪さをするものを、いまみたいにして天に贈ってる。包む柄は、背中の双龍が決めてくれる」
ツツミを見つめ、言葉をつむぐ。
――哀しく醜い異形であればあるほど、よりきれいなもので包む。
――そうすれば、天はなおさら喜んで受け取ってくれるから。
「残念ながら俺はまだ、あなたに棲んでいる三日月を包めていない」
ツツミははっとし、息をのむ。
「あの蔵の地下室であなたを包んだが、三日月の隠れたあとで遅かった。三日月は、あなたの中の底の底の底にまだちゃんといる」
奇妙なことに、ホッとした。けれど――。
「――三日月は、この世にいてはいけないものだ」
きっぱりと、言われてしまった。
「俺は、三日月を天に贈りたい。いや、還したい。なぜなら、三日月はもう神霊の域。この世にいてはならない存在の頂点だからだ」
ふたたび縁側に腰をおろし、煙草をくわえて火をつけた。
「それに、あなたも三日月から離れなくちゃ駄目だ」
言葉と一緒に、闇に煙が漂う。
「三日月から離れないと、あなたはいつまでたっても自分の人生を歩めない。なにもかも、三日月を宿したときから止まったまんまだ」
はっとする。たしかに、ツツミの成長は少女で止まっていた。
身体は十四、五歳。しかし本当の年齢は、すでに二十歳目前なのだった。
(この不思議な人は、なにもかもお見通しみたい)
ああ、そうか。だから、余計なことを訊ねてこないのだ。
だから、ずっと――大人の女性に接するような言動だったのだ。
「俺の気配がする間、三日月は永遠に隠れたままだ。三日月がなりを潜めている間、あなたは自分を取り戻しはじめる。背も髪も伸びて、本来のあなたになっていくだろう。しかし、それは爆弾を隠し持っているのと一緒だ。その爆弾を表に引っ張り出せるのは俺じゃないし、ほかの誰でもない。あなただけだ」
「……わたし?」
彼がうなずく。
「さ、さっきのように、口笛で呼び出すことはできないのですか」
「残念ながら、神霊には効かない」
「で、では、わたしはどうすれば……?」
月光を浴びた彼の前髪が、夜風にそよいだ。
「人としての欲を覚える。醜い感情も伴うことだが、なによりそれは楽しいことだ。聖人のようにひたすら優しく、純粋かつ純潔に生きることはたしかに正しい。でも、俺たちはこの醜くて美しい世界を遊ぶ人間なんだ」
まっすぐツツミを見すえながら、言葉をつむぐ。
「聖人のようなあなたが喜怒哀楽、全部の思いを覚えて味わいきったそのとき、三日月は居心地を悪く感じて表に出るはず。いや、必ず出る――」
――その機会は、おそらく一度きり。
「それを、俺は逃せない。いや、逃したくない。なんとしてでも」
その声音には、強い意思があった。きっと彼には、そうしなくてはいけない使命があるのだろう。
三日月との別れはさみしい。けれど、彼の言うとおりだとも思う。
本当は、はじめからわかっていた。三日月と仲良くなってはいけなかったのだ。
でも、さびしくてそうするしかなかった。あのときは、そうすることしかできなかったから。
(三日月を棲まわせたのは、幼かったわたしだもの。三日月のふさわしいところに、ちゃんとお引越しができるようにしてあげなくては)
「……わかりました。自分なりに、なんとかやってみます」
庭を向いた彼の煙草の煙が、小さな龍のように夜空にのぼっていく。と、短くなった煙草を灰皿に捨てると、さきほど使った千代紙の束を手にした。
「三日月が表に出た一瞬、それを知らせる合図がいる。あなたには悪いが、ここから先は俺のエゴだ。あなたに嫌がられてもこうするしかない」
迷いなく紅白梅図を選び、剥ぐ。それを半分に折り指で切ると、両方に息を吹きかけた。すると、愛らしい柄の羽をはためかす蝶に変化した。
片方は、彼の左手に。もう片方は、ツツミの左手に。
ゆるゆると舞う千代紙の蝶が、それぞれの手に止まって羽を揺らす。
そのありえるはずのない幻想的な光景に、ツツミは思わす見惚れてしまう。と、音もなく羽を長く伸ばした蝶は、薬指で輪をつくる。
直後、硬く輝く銀の指輪になった。
(――え?)
見れば、彼の指にも同じものがある。
「三日月が表に出たら、これは紙に戻って破れる」
これは、必要に迫られてのこと。
深い意味がないことは、わかっている。でも、どうしても思ってしまう。
(まるで……結婚指輪みたい)
「すまないな。気まずいだろうが、こうするしかない。とはいえ、あなたは自由だ。俺のそばで暮らしてくれるなら、なにをしてもかまわない。そのために必要なものなら、俺はなんでもあなたに与えると約束する」
――すべては、三日月を表に出すために。天に贈るために必要なこと。
奇妙なことになった。
けれど、そもそも自分の人生は奇妙の連続だったではないか。
ツツミは正座したまま、彼に向き直った。
「わかりました。あの……いろいろありがとうございます。ご面倒をおかけしまして、申しわけありません。しばしの間、お世話になります」
ツツミにつられたのか、彼も居住まいを正した。
「いや。こちらこそ、どういたしまして」
この先のことは、わからない。どうなるのかも、想像がつかない。でも、ひとつだけ確かなことがある。
三日月は、この世にいてはいけない存在だ。
たくさんの人を不幸にした。その責任は、棲家となったツツミにもある。けれど、ツツミにとっては唯一の、姉のようであり友のようでもある存在だったのだ。
――だからこそ、世界で一番きれいなもので包み、天に贈ってあげたい。
その思いで、ツツミはゆっくりと頭を下げた。
「名前をツツミと申します。学校には行っておりませんが、家事はできます。呪物だったふつつかものですが、どうぞよろしくお願いいたします」
ふっ、と、彼がちょっと笑った気がする。
「楠染工の三代目、楠霧衣と申します。三代目、もしくは紙屋などとよく呼ばれています。普段は千代紙職人ですが、わけあって〝この世ならざるもの〟を天に贈る使命のような遊戯もおこなっております」
闇夜の下、縁側で向かいあい、挨拶を交わす。
そんな二人を、満月で餅をつくウサギだけが見守っていた。
* * *
「……遅かったようですね」
紫藤は無人の蔵の地下室に立ち、軽く舌打ちをする。
ここにあったはずの大事な商品が奪われてしまった。しかもそれは、無限に大金を生む品である。どんな願いでも必ず叶えてくれる商品だと断言すれば、欲深く品性に欠ける客たちはのどから手が出るほど欲してくれた。
もちろん、相応の報いを受けるはめになるなどとは、口が裂けても伝えない。そもそも報いを受けて当然の者たちである。最低な人間らの自業自得を遠くから観察することほど、面白いことはない。しかも大金を手にしたあとでのことなのだから、楽しくてしかたがなかった――のだが。
「これはまいりましたね。次のお客様が待っているというのに」
銀のシガレットケースを取り出し、外国製の煙草に火をつける。
警察か消防士が見つけたとは思えない。そのような情報が入ってこないからだ。
蔵の品はまだ残っていた。それらの査定を終えて搬出を待つ間の出来事だとすれば、呪物を見つけたのは査定をした者の確率が高い。
ここは一等地。それを管理する不動産。その不動産とつながりのある骨董店とくれば、思い当たるのは数軒だ。
さらにその数軒の中に、紫藤がもっとも忌み嫌う相手を知人としている者の店があるか、脳内でとっさに探る。残念ながら、一軒あった。
最悪である。なんてことだ。
「――泉貴骨董店の店主くれば、仲良しの〝紙屋〟の仕業か。やれやれ……しかたがない」
もしや、すでに呪物ではなくなってしまったか。いや、わからない。
まあいい。どちらにしても自分にとって面倒な紙屋は、いずれ握りつぶさなくてはいけない敵だ。だが、それはいまではない。
「出直しましょう」
蔵を出た紫藤は、吸い殻を地面に放る。
咲いている鼓草ごとそれを踏みつけ、蔵をあとにしたのだった。
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