第五話 鼓草[三]

 それからの日々は、慌ただしかった。

 食事は通常のものとなり、なぜか身体のすみずみまで美津和に洗われた。

 おそらく高価であろう手触りの着物を着せられ、おかっぱのカツラまで付けさせられた。やはりまぶたを開けることはできなかったが、なぜか額のあたりで白黒の映像が浮かぶようになった。

 きっと三日月が見せてくれているのだと察した、数日後。

 三つ揃えの背広を外国風に着こなした男が、美津和に伴われて姿を見せた。

 中折れ帽のつばに隠れて、顔はよくわからない。だが、鉄のような血の匂いが、やけに鼻についた。それだけで、鬼のような恐ろしい人だと直感する。

 その男が、帽子を取りながら目の前にしゃがむ。重苦しい気配に似合わず、若かった。

 少し外国の血があるかもしれない。白銀のような髪の色で、涼やかな顔立ちは息をのむほど端正で美しい。けれど、ややつり上がった瞳の奥は、闇のように暗かった。

「……これは素晴らしい。生きた呪物を見るのははじめてですよ」

 呪物? ツツミだった少女は困惑する。そんな少女に、男は嬉しそうに言った。

「呪いに自分の名を差し出して、相手に名を付けてしまうとは。そのおかげで、呪いの魔が神霊の域に達している。これを成せる者はそういない。なんと純真無垢な棲家でしょう。間違いなく高く買っていただける、これは強烈なアート作品と言ってもいい」

 興奮する男の言葉を無視し、美津和が言った。

「奥様が、とにかくここから遠ざけていただきたいと。そうしていただけるのであれば、ほかはお好きにどうぞとのことです。では、用事がありますのでわたくしはこれで」

 部屋を出た美津和が、ドアを閉める。すると、男が微笑んだ。

「私は紫藤しとう。お得意様の欲しがるものを探して選び、売る。私の扱うものに禁忌はありませんし、買い付けに外国へ行くこともよくあります。なんだって売買する外商屋です」

 そう言って、名前を忘れた呪物の手を取った。

 背筋がぞくりとする。三日月の言葉が、頭の中に響く。


 ――こいつはもう、山ほど呪われている。それなのに、生きている。

 ――人じゃない、ばけものだ。


「さ、強欲なお客様のもとへ行きましょう」

 うまく歩けない呪物の歩幅にあわせ、紫藤はゆっくりと廊下を歩き、母屋を出た。

 呪物は抵抗しなかった。もう、自分の意思などどこにもなかったから。

 ただ――ふと帯に指を差し入れたとき、もはや翼しか残っていない折り鶴に触れた瞬間、なぜだかとてもせつなくなった。

 ほんの一瞬、庭園の奥に建つ母屋を振り返る。

 和装姿の凛々しい少年が、ワンピースを着た少女と談笑しながら縁側を渡るのが見えた。すると、紫藤が言った。

「この世はね、不条理で不平等なんです。幸運な星のもとに生まれた者がいて、そうではない者がいる。前者はいつでも、後者を犠牲にして幸せになる」

 呪物の手を引いて歩き、言葉を続ける。

「だから、犠牲にされた者は願うんです。その不平等さを平等にするために。幸せ者の足を引きずり落として、運命を逆転させるために――」

 呪物を見て、微笑んだ。

「――大金をはたいて、あなたを買う」

 門を出たとき、呪物は折り鶴の翼を風に放った。

 儚い風にのった翼は、まるで季節を終えた梅の花のように、あれよという間に散っていった。



 * * *


 

 名前を忘れた呪物は、紫藤によっていくつかの屋敷を点々とした。

 誰かの願いを叶え、誰かを不幸にする。一攫千金、一家離散。一夜大尽、一家断絶。

 ただなにもせずに座っているだけで、喜ぶ者が増え、悲しむ者が増えていく。やがて、叶った願いの報いで主が不在になると、どこからともなく紫藤があらわれて別のところに買われていった。

 繰り返される出口のない日々。いつしか少女は闇にいて、三日月とともに静かに朽ちるのを願うようになる。

 けれど、それでも。


 それでも、自分の人生に意味はあったと思いたい。

 すべての記憶がおぼろげだけれど、少なくともたった一人の方だけは、幸せにできたはずだから。

 そう。たしか、そのはずだから。


 朽ち果てる覚悟を決めた少女の前に、突如、紫藤でも、自分の新たな買い手でもない人物があらわれた。その眼鏡をかけた親切な男性は、少女をどうにかできる者がいると言い、自分で自分のことを捨て置けなどと、言ってはいけないと教えてくれた。

 そして、物〟ではなく〝人〟なのだからとも言ってくれた。そんなふうに諭されたのははじめてだったから、少しだけ心が動いた気がした。

 その人が去ってしばらくすると、突然、三日月がざわめきはじめた。


 ――なにか来る。

 

 その声が、少女の頭の中にこだまする。

「紫藤さん?」


 ――いいや、あいつはきっと外国だから、まだ来られない。あいつじゃない。

 ――ああ、なにか来る。すごいのが来る。


「どうしたの、それはなに? 紫藤さんみたいなばけもの?」


 ――いいや、違う。そんなんじゃない。あんなものじゃない。

 ――怖い怖い。きっとあたし、おまえから離される。


「離される?」


 ――いやだいやだ、おまえと離れたくない。居心地のいいおまえと離れるくらいなら、一緒に朽ち果てたい。だから、そのときが来るまであたしは眠る。


「どうしたの、三日月?」


 ――おまえの底の底の底で――あたしは潜んでただ眠る。


 なにを言っているのか、少女には理解できない。

 困惑しながら、何度も三日月の名を呼んだ。それなのに返事はなく、たしかにそばにいた気配すらも消えてしまった。

 そのときだ。


 ――チリン。


 鈴の音がした。しかも間近、すぐ目の前。

 はっとして顔を上げた瞬間、暗がりの世界に光が差した。あまりの眩しさに少女は床にひれ伏し、縮こまった。

 怖いのに、暖かい。恐ろしいのに、胸が躍る――と、さやさやと肌に触れる柔らかな感触に懐かしさがこみ上げて、少女はおそるおそるまぶたを開けた。

 そうしたとて、見えるはずはない。それなのに、地面を埋め尽くす黄色い鼓草――そよ風に揺れるたんぽぽが、少女の視界に飛び込んだ。

 びっくりして、息をのむ。これはなんだろう。どういうことだろう?

 まるで、別世界へと瞬時に飛ばされたかのようだ。

 建物などなにもない。地平線のずっと遠く、どこまでも続く鼓草。見上げれば、真っ青な空をたくさんの綿毛が舞っていく。

 なにかを思い出しそうだ。なにか――。


 ――ツツミ。


 懐かしい母の声が、一瞬聞こえた気がする。それとともに、いっきに暗い現実に引き戻された。

(……いまのは、幻?)

 なにも見えない真っ暗闇の中、少女は床で縮まりながら息を殺した。

 すぐそばに、誰かの気配がする。その人はしゃがんでいて、きっとこちらを見下ろしている。そう予感した矢先、閉じられた両のまぶたに相手の手が迫っている気がした。

 思わず、とっさに口を開く。

「あっ、わたしに触れてはいけな――」

「俺は平気だ」

 手のひらが触れる。と、あんなに重かったまぶたに軽さが戻った。

 三日月が見せてくれていた世界じゃない、きちんと色のある自分の世界が、数年ぶりに瞳に映る。

 地下室の出入り口からそそがれる、淡い光。それを背にしてしゃがんでいる、相手の下駄、骨ばった足先。その、きちんと切られた爪の先。

 両袖からのぞく、左右の腕。その腕に刻まれてある、なにかの尾のような彫りの柄。

 こちらを覗き込んでいる、前髪の奥の美しい顔。鋭くてさびしくて、かなしくて恐ろしい、燃えるようなきれいな瞳。

 彼はなにも言わず、苦しげに目を細める。ツツミの肩にかけた大きな風呂敷の左右を重ね合わせて、すっぽりと包んだ。

 素朴な型の花と葉が折り重なった、藤黄とうおう色の鼓草図。どことなく千代紙を思い出させると思った刹那、彼に軽々と抱き上げられた。

 びっくりしてなにも言えずにいると、しゃがれたような低い声が耳元に落ちる。

「普通の奴なら、とっくに舌を噛み切ってる。よく堪えた。強い人だ」

 知らない人なのに、なぜだか深い安堵に包まれた。そんな気持ちを抱くのははじめてで、どうしようもなく涙があふれてくる。

 それは、誰のためでもない。生まれてはじめて、自分のためだけに流した涙だ。


 ああ、そうか。

 わたし、物じゃない。涙の流せる、人だったんだ。


 声を殺しながら涙をこぼす。すると、額に手が触れた。

「もう誰も呪わせないから、いまはおやすみ。大丈夫。俺がいる」

 その言葉とともに、呪物だったツツミはことりと眠った。

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