第四話 鼓草[二]

 夏が過ぎて秋になり、湯たんぽと火鉢で冬を越えた。

 十三歳になったツツミはすっかりやせ細り、髪もほとんど抜け落ちた。なんだか視界も薄暗くて、箸を持っても食事をこぼすことが増えてきた。

 そんな、ある朝のこと。

 ツツミがなんとか最後まで食事をし、茶碗を置いた――そのときだ。

「……ああ」

 青湖が目を開けた。息をのんだ美津和を無視し、青湖はツツミを見る。そのとたんに瞠目し、声を震わせた。

「……まさか。なんてこと」

 そうささやくとふたたび目を閉じ、あらがえない眠りにことりと落ちた。



 壁つたいでなくては歩けないようになっても、ツツミは青湖の代わりの食事を続けた。それに比例するかのように、青湖の目を覚ます時間は少しずつ増えていった。

 話すことはなかった。ツツミは食べるだけで精一杯だったし、青湖はそんなツツミを見守るだけで、精一杯だったからだ。

 そんな、ある夜のことである。

「美津和、少し二人にしてください」

 とうとう青湖は我慢できないとでも言うかのように、布団に横たわったまま言った。

「あなたが席を立ったこと、おばあさまには内緒にします。わたしなら大丈夫ですから……お願いします」

 美津和はしばし思案してからうなずき、部屋を出た。

「ツツミ」

 呼ばれたツツミは箸を置き、横を見る。もはや視界は霧の中で、うっすらとした青湖らしき輪郭しかわからない。すると、

「ツツミ、こっちに」

 ツツミは必死に目を凝らし、正座したままするりと近づく。と、青湖がツツミの手を取った。

「逃げて」

「……え?」

「あなたが食べているものは、わたしの一族に……わたしに憑こうとしている蛇の呪い。だから、いますぐにここから逃げて」

 なにを言っているのか、わからない。困惑するツツミにかまわず、青湖は話しはじめた。

「昔、桐嶋の先祖は領主だった。その領主が、屋敷の屋根裏を棲家にしていた蛇を殺した。その蛇の呪いによって、桐嶋家には男の子が生まれなくなったのだって、おばあさまに聞いたことがある」

 生まれたとしても赤子のうちか、生きながらえても思春期を前にして亡くなり、女ばかりが残ってしまう。そうであればと婿を迎えても、その婿も数年後に必ず死ぬ。

「一族はいろんなお坊様や山伏、祈祷師を頼ったけれど、みんな口を揃えて、殺された蛇は魔の王者であるから、その呪いを祓うことなどできない――そう、断言したのだって」

 そういうわけで、いつからか女系一族になってしまったのだそうだ。

「このあたりの人間はみんな知っていることだから、奉公を希望する男がいても桐嶋は避けられてきた。御用聞きや庭師すらもそう。男はみんな、桐嶋に関わりたくないのだと思う。桐嶋にいるのも出入りするのも女性ばかりで、おかしいと思ったことはない?」

 ……ある。ツツミはこくりとうなずいた。

「でも……十四年前、奇跡が起きた」

 青湖が言う。

「桐嶋の遠縁に、男児が生まれてしまった」

 はっとしたツツミの手を握り、青湖はどこか苦しげに言葉を続ける。

「呪いをはじくために女の子として育てられたけれど、身体も、声も変わりはじめた。呪いの蛇に見つかった彼は、意識を取られて目覚めない。それで、跡取りを欲しているおばあさまは、桐嶋に代々伝わる方法に頼ることにしたんだ」

 世にも恐ろしい、その方法。


 ――祓えない。そうであれば、蛇を騙すよりほかはない。


 血筋の男児の髪と爪を焼き、それを粉末にして男児の血を数滴含む。これを香辛料のように食事に混ぜ、男児に近い年ごろの身代わりに必ず食させよ。

 やがて蛇はそちらに執着し、棲家とする。棲家には、男児ではなく女児が好ましい。蛇に気に入られ、生きながらえる確率が高いからである。

 その身代わりが〝己の名を忘れたとき〟こそが、蛇が棲家とした証、成功である。

 以後、身代わりを遠ざけよ。

 不名誉な呪いは、それを宿した身代わりとともに、桐嶋一族のもとを去るであろう――。


「過去、一度もうまくいった試しはない。けれど、おばあさまはそんな迷信に頼ってしまった。そうする以外の方法が、ないから……」

 ツツミは、いまやよく見えない視界に青湖を映す。なにもかもが腑に落ちた。

「……わたしは頭がよくないけれど、あなたの話している男の子が誰のことかは、わかりました」

「うん」

「わたしがどういうお役目なのかも、やっとわかりました」

 青湖が、ツツミの手をぎゅっとする。

「ごめんよ……。本当にごめん」

 大きく声を震わせた。ツツミは素直に不思議に思う。

 どうして謝るのだろう。青湖様は――この男の子は、なにも悪くないのに。

「わたしには帰る場所がないし、家族もないから、もう行くところもありません。学校にも行っていないから、大人になったってたいしたことは成せないでしょう。でも、青湖様は違います。奥様がこのようなことをするのも、青湖様がこの世界に必要な方だから、生きてほしいと願っておられるからだって、わたしは思います」

 ツツミの目にするすべての世界に、どんどんと暗いとばりがおりていく。

「わたしも、青湖様に生きていてほしいです」

 ああ、もうなにも見えない。近いはずの青湖の顔も、わからない。……でも。

「わたしはなんにも取り柄がないけれど、この世界に必要な方の代わりになれたのなら、嬉しいです。きっとそのために生まれたんだって、思えるから」

 青湖が息をのみ、こちらを向いた気配がした。と、ゆっくりと起き上がるような衣擦れがする。

「……ツツミ。なにかお願いごとはない? わたしに……僕にできることがあるなら、なんでもするよ」

 とうとうなにも見えなくなってまぶたを閉じたツツミは、か細い指先を静かに伸ばした。

 自分の姿を、きちんと見た最後はいつだっただろう。髪もなくやせ細ったいまの自分は、たぶん醜い。それでも、きっとこれが最後だと思い、断られるのを覚悟して告げた。

「……お顔。青湖様のお顔が見えなくなってしまったので、その……一度だけ、触ってみてもいいですか?」

 青湖は、握っていたツツミの手を寄せた。

「いいよ」

 そう言って、自分の頬に触れさせる。

「何度でも、触っていい」

 うつむいたツツミは、指先から伝わる彼の顔を刻むように、指先をそっと這わせた。

 すっきりとしたおでこ、眉、産毛の残る生え際。すらりとした鼻筋、なめらかな頬。大きかったはずの瞳は、いつしか少年らしい涼し気な輪郭になっている。と、ツツミはひやりとした滴を、指に感じた。

 青湖が、泣いていた。

「泣いてるんですか?」

「……女の子に生まれたらよかった。そうしたら、ほかの誰も……きみを、こんな目にあわせずにすんだのに」

 ごめんよと、何度も口にする。

 優しい人だと、ツツミは思う。指先に触れたこの滴だけで、己の生きた価値はある。

 心から、そう思った。



 * * *



 毎晩のように穴の夢を見る。けれど、ツツミはもう怖くない。


 ――呪ってやる。


 いつものように蛇は言う。

 夢の中では目が見えるから、これは夢だと察したツツミは、暗がりに光るふたつの眼を見返した。闇夜の三日月が、その顔を照らす。

 そこまではいつものこと。けれど、青湖の顔に触れた夜、ツツミははじめて蛇をじっくりと見つめた。

 土気色の鱗、よどんだ眼。その孤独で醜い姿のすべてが、なぜだか自分と重なってしまう。

「……あなたの名前は?」

 蛇は首をのばし、ツツミを見下ろした。


 ――名などない。


「じゃあ、わたしが付けてあげる」

 そこで起きてしまう。それからいつも、名付け前に起きてしまった。

 もはや、抜ける髪はない。

 まぶたは鉛のように重く閉じられて、自分の意思ではびくともしなくなった。そのせいで、昼なのか夜なのかもわからない。でも、その代わりに耳がよく聴こえた。香りや気配、まぶたの裏に映る日差しもわかるようになってきた。

 寝込むようになったツツミは、屋根裏部屋から鍵付きの部屋に移った。窓のない狭い部屋を訪れるのは、食事を運ぶ美津和だけである。

 ツツミが食事を終えると、美津和は必ず訊ねてきた。

「おまえの名は?」

「……ツツミです」

 まだ、呪いの棲家は完成していない。美津和は落胆の吐息とともに去る。

 ツツミは、もうすっかりぼろぼろになった紅白梅柄の折り鶴を、手のひらに包みながら眠った。

 蛇の夢を見て、名付ける前に起きる。真っ暗闇の虚空で食事をし、また横になる。

 そんな日々を繰り返していたころのこと。

 戸の向こうの世界の音や気配、空気の流れのようなものに喧騒を感じるようになった。

 ほどなくして、ツツミは知る。青湖の婚姻が、進められていた。



 * * *



 いつからか、出口のない暗がりで生きることに慣れる。

 期待もせず、希望ももたず。ただ息をして食事をすることにも慣れた。

 思い返せば、心から笑ったことなど一度もない。ツツミの世界で美しいものは、青湖のくれた折り鶴と、青湖自身だけであった。


 ――おまえが身代わりのことくらい、もう知っている。


 ある夜の夢で、蛇が言った。


 ――お人好しのバカな娘。だからこそ、あたしは居心地がいい。


 蛇が、醜い顔を近づける。


 ――けど、もう一度あいつに戻ってやろうか。


 あいつって、誰のこと? ツツミが訊く。


 ――おまえにあたしを押し付けて、自分だけ幸せになろうとしている男だよ。


 考えてみろと、蛇は言う。

 青湖は一度も、ここへ来ていないではないか。

 ごめんと謝ることなど、誰にでもできる。本当にひどいことをしている自覚があって、ツツミのことを思っているのなら、ここへ来て一緒に逃げようと告げることくらいできるはず。


 ――バカな娘だ。あいつだっておまえを利用してるんだよ。


 ツツミは驚かなかった。そうかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。けれど、それでも。

「青湖様がお幸せなら、わたしはそれでいい」

 なぜ、と蛇は訊く。ツツミは蛇に微笑んだ。

「わたしにきれいな言葉をくれて、きれいなものを見せてくれたから」


 ――そんなもの、嘘に決まっている。涙だって、嘘に決まっている。


「うん。でも、嘘だったとしても、わたしが信じたら本当になる。あなた、そう思わない?」

 蛇が黙る。ほのかな月光に照らされた蛇の頭が、ひるんだようにあとずさった。

「逃げないで。わたしとおしゃべりしてくれるの、もうあなただけだもの。はじめは怖かったけれど、いまはもう平気」

 蛇の困惑が伝わってくる。ツツミは、そんな蛇の首に両腕をまわした。

「この夢もあなたも、もう怖くない」

 鱗に頬を寄せ、目を閉じる。すると、はじめて蛇がツツミに訊ねた。


 ――おまえの名は?


「ツツミ」


 ――じゃあ、あたしの名は?


 ツツミは蛇を抱きしめる。そして、ずっと決めていた名を口にした。


「――三日月」


 その瞬間、蛇が淡く発光した。あっ、としりぞいたツツミがまばたきをした直後、土気色の大蛇は、真っ白な着物姿の若者になっていた。

 長い髪も肌も、透けるように白い。双眸だけが紅玉のように光る。この世ならざる美貌のせいで、女性のようにも男性のようにも見えた。


 ――穴蔵でいろんなものを喰ったけれど、一番身体になじんだのは赤子を宿した女だった。だから、あたしはそいつでもある。


 ツツミがまばたきをした次の瞬間、そう言った三日月は立派な白蛇と化していた。

 そこで、目が覚めた。


 その朝もいつものように朝食が運ばれ、食べる。箸を置くなり、美津和が言った。

「おまえの名は?」

 口を開くも、ツツミが思い出せたのは〝三日月〟だけだ。

「どうしたんだい。おまえの名は?」

 ツツミは答えた。

「……わかりません。思い出せません」

 美津和が盆を落とす音がした。もう一度名を訊かれたけれど思い出せなくて、首を振る。

「お、奥様に――お伝えしなくては!」

 呪いの蛇の棲家の誕生に、美津和は歓喜の声をあげたのだった。

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